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ミまとめ2

1 :名無しさん@また挑戦:2011/01/05(水) 16:19:47 ID:???


2 :名無しさん@また挑戦:2011/01/05(水) 16:24:10 ID:???
川端やお堀端やどれもこれも同じ顔立をしてゐるところがふるさとのかなしい人々を思はせるゆがんだ軒並や、
築泥や舟板塀だのに沿うて走つてゐる電車は、ハンドルをまはしつゞけると何度も同じ汽車が鉄橋のうへに
出てくるあの玩具にも似て、かうした退屈な町ではどの電車も一台だと信じてうたがはぬだらうと思はれるほど、
みな同じにいたましくペンキが褪せ、いつしんにはしつてゐた。お客の影は、ものゝ二三人しかみえない。
凸凹なみどりのシイトが、まのびした長さでひろがつてゐる。わたしはかうした町へきてふるい空々(ガラガラ)な
電車にのるたびに、もう何年もあはぬなつかしい人にあへるやうな気がしてならない。稚ないころすでに
としとつてゐたそれらの人たちは、あるひはもうこの世にゐないのかもしれないけれど、昔よりもつと若い、
さうして古風な皃立(かほだち)に地味な小紋の着物をきた束髪の姿で、おせんかなにかの土産包を片手にしながら
よろよろと急な乗降口を、のぼつてくるやうな気がしてならない。

平岡公威(三島由紀夫)15歳「でんしや」より

3 :名無しさん@また挑戦:2011/01/05(水) 16:27:59 ID:???
髪を高い「行方不明」に結ひあげたあの上品な吃りのお婆さんは、祖父時代の芸者あがりの富士見町の秋江さんは、
それからいつも植木をみやげにもつてくる昔道楽ものでならしたといふへうきんな小父さんは、いつたいどこへ
行つてしまつたのだらう。聞かぬ名前のひつそりとした停留所を、わき目もふらず電車がすぎてしまふと、
その停留所ちかくの町の一廓にあゝいふ人々の表札がのきごとにかけつらねてあるやうな気がする。生垣や
ひくい板塀ごしに、さういふひとたちのひいてゐるもう拙なくなつた三味線の音が、なにかおどけたものゝやうに
きこえてきはしないか。……だがその停留所をすーつとすぎてしまつたことに、悔いやのこり惜しさを感じつゝも、
何だかそれをみきはめずにおいたことが、ひどく安心なやうな気持がうまれてくる。と、それにしたがつて益々
つよい色彩でさうした空想がにじみ出てくるのであつた。

平岡公威(三島由紀夫)15歳「でんしや」より

4 :名無しさん@また挑戦:2011/01/05(水) 16:32:56 ID:???
ひとむかしまへ西片町時代の奉公人であつたのが、すこしへんになつて暇をやつてからといふもの、ちかごろは
大分よくなつたと毎年々々たづねてくるその男に、幼な心にも「まだヘンだ」といふ気持をすぐかんじた。
勝手口から女中連を大声でからかひながら、それでも小綺麗な唐草の棉風呂敷片手にはひつてきて、奥へ挨拶に
ゆくまではよいのだが。……
「けふらは大奥様のお好きな枝豆をうんともつてめえりやした」といふ。この寒さに枝豆もないものだと祖母が
おもつてゐると、すばやく兼さんは包をあけひろげてゐた。中味といふのが汚ない菜つ葉と小如露と、子供の
バイである。みるなり「そらいつもの兼さんがはじまつた」と祖母と女中が笑ひくづれるのへ「ほうれ女房め
いれまちがひしよつたわい」と頭をかきながら一旦調子をあはせるものゝ、またすぐけろりとして十五、六分
話しこんだすゑ、ふいにかへつてゆくのであつた。

平岡公威(三島由紀夫)15歳「でんしや」より

5 :名無しさん@また挑戦:2011/01/05(水) 16:36:49 ID:???
落語の「堀之内」を地でゆくやうだと、奉公人たちは笑ひあつたが、その兼さんも、「死んだ」といふあやふやな
風聞(うはさ)ばかりのこして、祖母の死後つひぞ姿をみせなくなつてしまつた。

どこの河畔の何町だかすつかりわすれたあひかはらずガラ空きの電車に足をふみいれてぎくりとした。
古半纏(ふるはんてん)の兼さんがこつちむきにすわつてゐるのだ。妙なことにひとのかほさへみれば
「坊ッさ、大きなられましたなあ」と大声でいふ筈のが、目の前にみてゐながら声ひとつかけようとしない。
大体目のピントがすつかりはづれてゐるのだ。少々頬のあたりなど狂暴でうすきみわるかつた。前歯が一本
戸まどひして、唇の間からたれてゐた。胃癌になつた鷄といふ感じがした。車掌が前をとほると首にぶらさげた
合財袋から無意識的に小銭をとりだす。なれつこになつてゐるとみえて車掌はつりを袋のなかへおしこんだ。

平岡公威(三島由紀夫)15歳「でんしや」より

6 :名無しさん@また挑戦:2011/01/05(水) 16:39:59 ID:???
終点で下車してわたしはしばらく尾(つ)けてやらうとおもつて、ちやうど同じ方向であるのをさいはひに川端を
あるいていつた。川に映つた空のなかには燻製のやうな太陽がいぶつて流れてゐた。空にうつつたその川のやうに、
曇天のなかにひときは濃い、ひとすぢの雲が澱んでゐた。半纏を柳と平行になびかせてうつむきながら狂人は
あるいた。それがふいに立ち止つたのでわたしはびつくりした。
川のなかをそはそはのぞきこんでゐる。
ときふに膝をたゝいて廻れ右をして、おどろくわたしを尻目にもかけず、すたすた目のまへをすどほりし、
折から今来た方向へ走つてゆくかへりの電車にとびのつて了つたのである。この一幅のカリカチュアのなかの自分に
苦笑してふりかへつたわたしの視界を、電車はいつもの暗い音をひゞかせながら、不器用にとほのいて行つた。……

平岡公威(三島由紀夫)15歳「でんしや」より

7 :名無しさん@また挑戦:2011/01/05(水) 16:56:24 ID:???
焼けた河原から河原へ大きな橋がかゝつてゐて、その下を清い多摩川の流れが、昨日の雨に水量を増して大速力で
走つて居ました。
私も河の中を海へ海へと走つてゐました。ところが“流れ”は私達“水”を海へ運んで行きはしませんでした。
陽はかんかんと照りつけて、私達の冷たい体も、ぽかぽかとあたゝかくなりました。両側の河岸では、麦藁帽子を
被つた人々が、呑気さうに、けれども如何にも暑さうに釣をして居ました。白いペンキで塗つた新らしいボートが
するすると水面をすべつて行くのも気持のよいものでしたが、古い昔からの渡船がのんびりと、ろを動かし動かし、
眠さうに走つて行くのも何となくいゝ気持になりました。
やがて、私達はごうごうといふ音を立てゝ、何やら暗い所へ入つて了ひました。
これは、かねがね噂に聞いた“海”といふものではなささうでした。第一、しほつからくもありませんし、
《常に頭の上にある》と云ふ太陽さへ、今はどこにも見出だせません。

平岡公威(三島由紀夫)10〜11歳「“水”の身の上話」より

8 :名無しさん@また挑戦:2011/01/05(水) 16:57:12 ID:???
体が何度か上へ押し上げられ、激しく落とされました。随分長い時間でしたが、やつと日の目を見ることが出来ました。
そこは、浄水池といふところでした。けれども、暫くの間でまた暗い暗い道に入らねばなりませんでした。
道は私達の前居た多摩川とは比べものにならない程窄(せま)くて、ひどく曲りくねつてゐるものですから、
体のもまれやうが大変でした。
やがて妙な音がして私達の体がぐぐつと押し上げられました。
そして、せまい器の中へ納まりました。
さて私達が浄水池へ行つて体を見た時にはあんなにすきとほつて美しかつたのが、今、水道の口金から出て、
器へ入つた拍子に、真白で、すきとほらなくなつて了ひました。
それは、お米をといでゐる女中さんが、お釜の中へ私達を入れたのでした。その為、ぬかにそまつてこんなに
なつて了つたのです。
私は絶えず掻きまはしてゐる女中さんの手の間から、台所の中を見まはしました。向側に瓦斯があつて、薬鑵が
のつかり、白い湯気を一杯出してゐました。私が湯気と云ふものを見たのは、これが始めてでした。

平岡公威(三島由紀夫)10〜11歳「“水”の身の上話」より

9 :名無しさん@また挑戦:2011/01/05(水) 16:57:46 ID:???
面白くなつて一生懸命覗いてゐますと、すぐ私達を、じやあつと捨てゝ了ひました。
捨てられた私達(水)は、白い体のまゝいやな臭ひのする下水へと急がねばなりませんでした。下水には、
黒い大きな泥溝鼠が、我物顔に走つてゐました。
泥溝鼠は新入の私達を迎へて、私達の流れる速さと同じにかけながら、白い私に話しかけました。
「君は多摩川で、鼠の死んだのを見かけなかつたかね」
私は多摩川をそんな汚ない所に思はれるのがいやでしたので、返事をしないで居ましたが、彼は更に云ひました。
「実は僕の弟が、三人とも居なくなつて了つたのでね」私達はそれを聞いて、少し可哀さうになつたとは云ふものゝ、
この下水と多摩川とがつながつてゐるやうに考へてゐる泥溝鼠を可笑しくもなりましたので「そのうちに、
さがし出して上げませう」と云つて別れました。

やがて下水は、大きな深い穴で終りました。そしてまた、暗い鉄管の中を通つて行きました。

平岡公威(三島由紀夫)10〜11歳「“水”の身の上話」より

10 :名無しさん@また挑戦:2011/01/05(水) 16:58:14 ID:???
闇の中にぽつんと明るい点が見えたと思つたのは、嬉しいこと、河へ注いでゐる出口でした。私達の流れは急に
早くなりました。そしてボシャンといふ音を立てゝ川に落ちこみました。

川は広かつた。そして水はきれいでした。ゆるやかにゆるやかに私達は動き、そして、ふつと自分の体を見たら、
多くの水が混り合つて、すつかり元のやうに美しく透通つてゐたではありませんか。
それからの毎日毎日は楽しい時がつゞきました。
ある時はかはいゝ鵞鳥の子が大勢で泳ぎました。
又、小さな子供が笹舟を、そのやはらかい紅葉(もみぢ)のやうな手で作つて、そつと水に浮ばせたときも
ありました。私はさゝぶねを乗せて、ごくゆつくりと歩いてあげました。
小さな子供は、赤いほゝをしてゐて、それはそれは可愛く、さゝぶねが流れるのを追つて面白さうにかけました。

平岡公威(三島由紀夫)10〜11歳「“水”の身の上話」より

11 :名無しさん@また挑戦:2011/01/05(水) 16:58:50 ID:???
それは春のことでした。いつの間にか河底で生れた鮎の子は、元気にかろやかに泳ぎました。河辺には荻が茂つて、
私達はするすると、荻の間を進みました。

やがて朝の霧がうすくうすくわからないやうにはつてゐる向うに、土も、それから樹も、丘も山も何も見えないのに
気付いたのです。
そして、なんとなくしほつからくなつて来たやうに思へます。

海へ出たのでした。私は、あんなに多摩川からすぐ海へ行つた友達をうらやましがりましたが、海へ出るのに
こんな方法もあつたのでした。
春の日は、水面、もう海面である私達の頭に、金色のこてをあてました。こてにかゝつた髪のうねりは次第に
高まつて、始めて知つた波となつて、白砂の浜にうちつけました。
私は、気持よく、ゆりかごにのつたやうに、波打つてゐたのです。

平岡公威(三島由紀夫)10〜11歳「“水”の身の上話」より

12 :名無しさん@また挑戦:2011/01/07(金) 15:09:56 ID:???
私はあらゆる国家は固有の自衛権を持つてゐるといふ考へから自衛隊を合憲と見る人々の主張に反対してゐない。
しかし、本来民主国家の国民的権利に属する国防の問題を義務化することには反対といふ観点から徴兵制度には
賛成でない。若者にとつて団体生活が必要だといふ私の考へは、徴兵反対となんら矛盾しないのである。いまの
青年に自制心とか規律とかが欠けてゐるのは事実だから。
終りに、私は考へやうによつては現在ただいまが危機だと信じてをり、国民が危機感を持つてゐないことに
焦燥してゐる。自衛隊員の危機感を孤立させないことが、むしろ危機感を最新的に解消させる方法だと信じる。
私が望んでゐるのは国軍を国軍たる正しい地位におくこと、国軍と国民の間の正しいバランスを設定すること
なのである。そして日本人であること、愛国心、国土防衛、自衛隊の必要性――この四者の関係はイモズル式で
一つ引つぱると全部出て来るものと考へる。

三島由紀夫「青年と国防」より

13 :名無しさん@また挑戦:2011/01/07(金) 16:06:48 ID:???
たしかに、自衛隊には明るすぎるほど明るい一面がある。しかし、すべてがさうではなくて、たとへば若い幹部の
あひだにも三種類の傾向があるのがわかりました。
一つは理知的かタイプの行動家。もう一つは、いまの都会のインテリよりも、もつと懐疑的な懐疑派。それから、
すべてを振りきらうといふ行動派です。第二のタイプはもつとも少ないけれど、なかには十九世紀的な懐疑派もゐて、
さういふ連中が私に向つて「日本の防衛は私におまかせください」などといふと、私はかへつて不安になりました。
生死観ですが、自衛隊の精神教育については、私はだいたいに不満足です。といふのは、隊員の反撥を恐れてか
世間の反撥を恐れてか、生死観につながるやうな教育をやつてゐないのです。私の意見では、隊員には幸福追求を、
幹部には死の覚悟を、それぞれ別途にはつきりわけて教育すべきであると思ひます。しかし、その裏付けには
退役後の生活保障などを充実してやる必要があるので、いま、それがないことが、彼らの生死観をコン濁させる
一因になつてゐます。

三島由紀夫「三島帰郷兵に26の質問」より

14 :名無しさん@また挑戦:2011/01/07(金) 16:09:18 ID:???
ある若い候補生が私にかう聞いたことがあります。「私たちに“戦争待望心理”といふものがあるといふ人が
あるがどうでせうか」と。私は答へました。「消防隊員が火事を待望するのはあたりまへぢやないか。火事が
なければ、どうして火消しがウデを見せることができるんだ。“備へる”といふことと“待つ”といふことは、
人間の心理のウラ表である。“待つ”といふ気持がなければ“備へる”気持もないだらう。だから世間の思惑など
忘れて、自分たちの危機に備へる意識に毎日毎日、生きる覚悟をしなくちやならない」とね。
(中略)
私は、私の考へが軍国主義でもなければファシズムでもないと信じてゐます。私が望んでゐるのは国軍を
国軍たる正しい地位に置くことだけです。国軍と国民の間の正しいバランスを設定することなんですよ。

三島由紀夫「三島帰郷兵に26の質問」より

15 :名無しさん@また挑戦:2011/01/07(金) 16:12:31 ID:???
自衛隊は、必ずしもアメリカの中古兵器を使つてゐるわけではありません。少なくとも、いま使つてゐる国産の
「新小銃」は優秀な兵器です。むしろ私が一番疑問に思ふのは、万一いま大戦争が起つたら自衛隊全部がアメリカの
指揮下にはひるのではないかといふ危惧です。この問題については、隊内のいろんな人たちとも話合ひました。
私の考へはかうです。政府がなすべきもつとも重要なことは、単なる安保体制の堅持、安保条約の自然延長など
ではない。集団保障体制下におけるアメリカの防衛力と、日本の自衛権の独立的な価値を、はつきりわけて
PRすることである。たとへば安保条約下においても、どういふときには集団保障体制のなかにはひる、
どういふときには自衛隊が日本を民族と国民の自力で守りぬくかといふ“限界”をはつきりさせることです。

三島由紀夫「三島帰郷兵に26の質問」より

16 :名無しさん@また挑戦:2011/01/08(土) 15:56:40 ID:???
「葉隠」の恋愛は忍恋(しのぶこひ)の一語に尽き、打ちあけた恋はすでに恋のたけが低く、
もしほんたうの恋であるならば、一生打ちあけない恋が、もつともたけの高い恋であると
断言してゐる。
アメリカふうな恋愛技術では、恋は打ちあけ、要求し、獲得するものである。恋愛の
エネルギーはけつして内にたわめられることがなく、外へ外へと向かつて発散する。
しかし、恋愛のボルテージは、発散したとたんに滅殺されるといふ逆説的な構造をもつてゐる。
現代の若い人たちは、恋愛の機会も、性愛の機会も、かつての時代とは比べものにならぬほど
豊富に恵まれてゐる。しかし、同時に現代の若い人たちの心の中にひそむのは恋愛といふものの
死である。もし、心の中に生まれた恋愛が一直線に進み、獲得され、その瞬間に死ぬといふ
経過を何度もくり返してゐると、現代独特の恋愛不感症と情熱の死が起こることは
目にみえてゐる。若い人たちがいちばん恋愛の問題について矛盾に苦しんでゐるのは、
この点であるといつていい。

三島由紀夫「葉隠入門」より

17 :名無しさん@また挑戦:2011/01/08(土) 15:57:15 ID:???
かつて、戦前の青年たちは器用に恋愛と肉欲を分けて暮らしてゐた。大学にはいると先輩が
女郎屋へ連れて行つて肉欲の満足を教へ、一方では自分の愛する女性には、手さへ
ふれることをはばかつた。
そのやうな形で近代日本の恋愛は、一方では売淫行為の犠牲のうへに成り立ちながら、
一方では古いピューリタニカルな恋愛伝統を保持してゐたのである。しかし、いつたん
恋愛の見地に立つと、男性にとつては別の場所に肉欲の満足の犠牲の対象がなければならない。
それなしには真の恋愛はつくり出せないといふのが、男の悲劇的な生理構造である。
「葉隠」が考へてゐる恋愛は、そのやうななかば近代化された、使ひ分けのきく、要領のいい、
融通のきく恋愛の保全策ではなかつた。そこにはいつも死が裏づけとなつてゐた。
恋のためには死ななければならず、死が恋の緊張と純粋度を高めるといふ考へが「葉隠」の
説いてゐる理想的な恋愛である。

三島由紀夫「葉隠入門」より

18 :名無しさん@また挑戦:2011/01/08(土) 16:03:04 ID:???
おそるべき人生知にあふれたこの著者は、人間が生だけによつて生きるものではないことを
知つてゐた。彼は、人間にとつて自由といふものが、いかに逆説的なものであるかも
知つてゐた。そして人間が自由を与へられるとたんに自由に飽き、生を与へられるとたんに
生に耐へがたくなることも知つてゐた。
現代は、生き延びることにすべての前提がかかつてゐる時代である。平均寿命は史上
かつてないほどに延び、われわれの前には単調な人生のプランが描かれてゐる。青年が
いはゆるマイホーム主義によつて、自分の小さな巣を見つけることに努力してゐるうちは
まだしも、いつたん巣が見つかると、その先には何もない。あるのはそろばんではじかれた
退職金の金額と、労働ができなくなつたときの、静かな退職後の、老後の生活だけである。
(中略)戦後一定の理想的水準に達したイギリスでは、労働意欲が失はれ、それがさらには
産業の荒廃にまで結びついてゐる。

三島由紀夫「葉隠入門」より

19 :名無しさん@また挑戦:2011/01/08(土) 21:03:42 ID:???
しかし、現代社会の方向には、社会主義国家の理想か、福祉国家の理想か、二つに一つしかないのである。
自由のはてには福祉国家の倦怠があり、社会主義国家のはてには自由の抑圧があることはいふまでもない。
人間は大きな社会的なヴィジョンを一方の心で持ちながら、そして、その理想へ向かつて歩一歩を進めながら、
同時に理想が達せられさうになると、とたんに退屈してしまふ。他方では、一人一人が潜在意識の中に、深い
盲目的な衝動をかくしてゐる。それは未来にかかはる社会的理想とは本質的にかかはりのない、現在の一瞬一瞬の
生の矛盾にみちたダイナミックな発現である。青年においては、とくにこれが端的な、先鋭な形であらはれる。
また、その盲目的な衝動が劇的に対立し、相争ふ形であらはれる。青年期は反抗の衝動と服従の衝動とを同じやうに
持つてゐる。これは自由への衝動と死への衝動といひかへてもよい。その衝動のあらはれが、いかに政治的な形を
とつても、その実それは、人間存在の基本的な矛盾の電位差によつて起こる電流のごときものと考へてよい。

三島由紀夫「葉隠入門」より

20 :名無しさん@また挑戦:2011/01/08(土) 21:08:25 ID:???
戦時中には、死への衝動は100パーセント解放されるが、反抗の衝動と自由の衝動と生の衝動は、完全に
抑圧されてゐる。それとちやうど反対の現象が起きてゐるのが戦後で、反抗の衝動と自由の衝動と生の衝動は、
100パーセント満足されながら、服従の衝動と死の衝動は、何ら満たされることがない。十年ほど前に、
わたしはある保守系の政治家と話したときに、日本の戦後政治は経済的繁栄によつて、すくなくとも青年の
生の衝動を満足させたかもしれないが、死の衝動についてはつひにふれることなく終はつた。しかし、青年の中に
抑圧された死の衝動は、何かの形で暴発する危険にいつもさらされてゐると語つたことがある。
(中略)
トインビーが言つてゐることであるが、キリスト教がローマで急に勢ひを得たについては、ある目標のために
死ぬといふ衝動が、渇望されてゐたからであつた。パックス・ロマーナの時代に、全ヨーロッパ、アジアにまで
及んだローマの版図は、永遠の太平を享楽してゐた。

三島由紀夫「葉隠入門」より

21 :名無しさん@また挑戦:2011/01/08(土) 21:12:04 ID:???
現代社会では、死はどういふ意味を持つてゐるかは、いつも忘れられてゐる。いや、忘れられてゐるのではなく、
直面することを避けられてゐる。ライナ・マリア・リルケは、人間の死が小さくなつたといふことを言つた。
人間の死は、たかだか病室の堅いベッドの上の個々の、すぐ処分されるべき小さな死にすぎなくなつてしまつた。
そしてわれわれの周辺には、日清戦争の死者をうはまはるといはれる交通戦争がたえず起こつてをり、人間の
生命のはかないことは、いまも昔も少しも変はりはない。ただ、われわれは死を考へることがいやなのである。
死から何か有効な成分を引き出して、それを自分に役立てようとすることがいやなのである。われわれは、
明るい目標、前向きの目標、生の目標に対して、いつも目を向けてゐようとする。そして、死がわれわれの生活を
じよじよにむしばんでいく力に対しては、なるたけふれないでゐたいと思つてゐる。

三島由紀夫「葉隠入門」より

22 :名無しさん@また挑戦:2011/01/08(土) 21:15:31 ID:???
このことは、合理主義的人文主義的思想が、ひたすら明るい自由と進歩へ人間の目を向けさせるといふ機能を
営みながら、かへつて人間の死の問題を意識の表面から拭ひ去り、ますます深く潜在意識の闇へ押し込めて、
それによる抑圧から、死の衝動をいよいよ危険な、いよいよ爆発力を内攻させたものに化してゆく過程を示してゐる。
死を意識の表へ連れ出すといふことこそ、精神衛生の大切な要素だといふことが閑却されてゐるのである。
しかし、死だけは、「葉隠」の時代も現代も少しも変はりなく存在し、われわれを規制してゐるのである。
その観点に立つてみれば、「葉隠」の言つてゐる死は、何も特別なものではない。毎日死を心に当てることは、
毎日生を心に当てることと、いはば同じことだといふことを「葉隠」は主張してゐる。われわれはけふ死ぬと思つて
仕事をするときに、その仕事が急にいきいきとした光を放ち出すのを認めざるをえない。

三島由紀夫「葉隠入門」より

23 :名無しさん@また挑戦:2011/01/08(土) 21:20:47 ID:???
西欧ではギリシャ時代にすでにエロース(愛)とアガペー(神の愛)が分けられ、エロースは肉欲的観念から発して、
じよじよに肉欲を脱してイデアの世界に参入するところの、プラトンの哲学に完成を見いだした。一方アガペーは、
まつたく肉欲と断絶したところの精神的な愛であつて、これは後にキリスト教の愛として採用されたものである。
(中略)
日本人本来の精神構造の中においては、エロースとアガペーは一直線につながつてゐる。もし女あるひは若衆に
対する愛が、純一無垢なものになるときは、それは主君に対する忠と何ら変はりない。このやうなエロースと
アガペーを峻別しないところの恋愛観念は、幕末には「恋闕の情」といふ名で呼ばれて、
天皇崇拝の感情的基盤をなした。いまや、戦前的天皇制は崩壊したが、日本人の精神構造の中にある恋愛観念は、
かならずしも崩壊してゐるとはいへない。それは、もつとも官能的な誠実さから発したものが、自分の命を捨てても
つくすべき理想に一直線につながるといふ確信である。

三島由紀夫「葉隠入門」より

24 :名無しさん@また挑戦:2011/01/09(日) 12:01:31 ID:???
時は人間を変へ、人間を変節させ、堕落させ、あるひは向上させる。しかし、この人生がいつも死に直面し、
一瞬一瞬にしか真実がないとすれば、時の経過といふものは、重んずるに足りないのである。重んずるに
足りないからこそ、その夢のやうな十五年間を毎日毎日これが最後と思つて生きていくうちには、何ものかが
蓄積されて、一瞬一瞬、一日一日の過去の蓄積が、もののご用に立つときがくるのである。これが「葉隠」の
説いてゐる生の哲学の根本理念である。


男の世界は思ひやりの世界である。男の社会的な能力とは思ひやりの能力である。武士道の世界は、一見
荒々しい世界のやうに見えながら、現代よりももつと緻密な人間同士の思ひやりのうへに、精密に運営されてゐた。


忠告は無料である。われわれは人に百円の金を貸すのも惜しむかはりに、無料の忠告なら湯水のごとくそそいで
惜しまない。しかも忠告が社会生活の潤滑油となることはめつたになく、人の面目をつぶし、人の気力を阻喪させ、
恨みをかふことに終はるのが十中八、九である。

三島由紀夫「葉隠入門」より

25 :名無しさん@また挑戦:2011/01/09(日) 12:53:57 ID:???
思想は覚悟である。覚悟は長年にわたつて日々確かめられなければならない。


長い準備があればこそ決断は早い。そして決断の行為そのものは自分で選べるが、時期はかならずしも選ぶことが
できない。それは向かうからふりかかり、おそつてくるのである。そして生きるといふことは向かうから、
あるひは運命から、自分が選ばれてある瞬間のために準備することではあるまいか。


戦士は敵の目から恥づかしく思はれないか、敵の目から卑しく思はれないかといふところに、自分の対面と
モラルのすべてをかけるほかはない。自己の良心は敵の中にこそあるのである。


いつたん行動原理としてエネルギーの正当性を認めれば、エネルギーの原理に従ふほかはない。獅子は荒野の
かたなにまで突つ走つていくほかはない。それのみが獅子が獅子であることを証明するのである。

三島由紀夫「葉隠入門」より

26 :名無しさん@また挑戦:2011/01/09(日) 19:53:27 ID:???
合理的に考へれば死は損であり、生は得であるから、だれも喜んで死へおもむくものはゐない。合理主義的な
観念の上に打ち立てられたヒューマニズムは、それが一つの思想の鎧となることによつて、あたかも普遍性を
獲得したやうな錯覚におちいり、その内面の主体の弱みと主観の脆弱さを隠してしまふ。常朝がたえず非難して
ゐるのは、主体と思想との間の乖離である。

「強み」とは何か。知恵に流されぬことである。分別に溺れないことである。


いまの恋愛はピグミーの恋になつてしまつた。恋はみな背が低くなり、忍ぶことが少なければ少ないほど恋愛は
イメージの広がりを失ひ、障害を乗り越える勇気を失ひ、社会の道徳を変革する革命的情熱を失ひ、その内包する
象徴的意味を失ひ、また同時に獲得の喜びを失ひ、獲得できぬことの悲しみを失ひ、人間の感情の広い振幅を失ひ、
対象の美化を失ひ、対象をも無限に低めてしまつた。恋は相対的なものであるから、相手の背丈が低まれば、
こちらの背丈も低まる。かくて東京の町の隅々には、ピグミーたちの恋愛が氾濫してゐる。

三島由紀夫「葉隠入門」より

27 :名無しさん@また挑戦:2011/01/09(日) 19:58:58 ID:???
エゴティズムはエゴイズムとは違ふ。自尊の心が内にあつて、もしみづから持すること高ければ、人の言行などは
もはや問題ではない。人の悪口をいふにも及ばず、またとりたてて人をほめて歩くこともない。そんな始末に
おへぬ人間の姿は、同時に「葉隠」の理想とする姿であつた。


人間は死を完全に選ぶこともできなければ、また死を完全に強ひられることもできない。たとへ、強ひられた死として
極端な死刑の場合でも、精神をもつてそれに抵抗しようとするときには、それは単なる強ひられた死ではなくなる
のである。また、原子爆弾の死でさへも、あのやうな圧倒的な強ひられた死も、一個人一個人にとつては
運命としての死であつた。われわれは、運命と自分の選択との間に、ぎりぎりに追ひつめられた形でしか、
死に直面することができないのである。そして死の形態には、その人間的選択と超人間的運命との暗々裏の相剋が、
永久にまつはりついてゐる。ある場合には完全に自分の選んだ死とも見えるであらう。自殺がさうである。
ある場合には完全に強ひられた死とも見えるであらう。たとへば空襲の爆死がさうである。

三島由紀夫「葉隠入門」より

28 :名無しさん@また挑戦:2011/01/09(日) 20:04:00 ID:???
しかし、自由意思の極致のあらはれと見られる自殺にも、その死へいたる不可避性には、つひに自分で選んで
選び得なかつた宿命の因子が働いてゐる。また、たんなる自然死のやうに見える病死ですら、そこの病死に
運んでいく経過には、自殺に似た、みづから選んだ死であるかのやうに思はれる場合が、けつして少なくない。
「葉隠」の暗示する死の決断は、いつもわれわれに明快な形で与へられてゐるわけではない。


「葉隠」にしろ、特攻隊にしろ、一方が選んだ死であり、一方が強ひられた死だと、厳密にいふ権利はだれにも
ないわけなのである。問題は一個人が死に直面するといふときの冷厳な事実であり、死にいかに対処するかといふ
人間の精神の最高の緊張の姿は、どうあるべきかといふ問題である。
そこで、われわれは死についての、もつともむづかしい問題にぶつからざるをえない。われわれにとつて、
もつとも正しい死、われわれにとつてみづから選びうる、正しい目的にそうた死といふものは、はたしてあるので
あらうか。

三島由紀夫「葉隠入門」より

29 :名無しさん@また挑戦:2011/01/09(日) 20:08:24 ID:???
人間が国家の中で生を営む以上、そのやうな正しい目的だけに向かつて自分を限定することができるであらうか。
またよし国家を前提にしなくても、まつたく国家を超越した個人として生きるときに、自分一人の力で人類の
完全に正しい目的のための死といふものが、選び取れる機会があるであらうか。そこでは死といふ絶対の観念と、
正義といふ地上の現実の観念との齟齬が、いつも生ぜざるをえない。そして死を規定するその目的の正しさは、
また歴史によつて十年後、数十年後、あるひは百年後、二百年後には、逆転し訂正されるかもしれないのである。
「葉隠」は、このやうな煩瑣な、そしてさかしらな人間の判断を、死とは別々に置いていくといふことを考へてゐる。
なぜなら、われわれは死を最終的に選ぶことはできないからである。だからこそ「葉隠」は、生きるか死ぬかと
いふときに、死ぬことをすすめてゐるのである。それはけつして死を選ぶことだとは言つてゐない。なぜならば、
われわれにはその死を選ぶ基準がないからである。

三島由紀夫「葉隠入門」より

30 :名無しさん@また挑戦:2011/01/09(日) 20:13:32 ID:???
われわれが生きてゐるといふことは、すでに何ものかに選ばれてゐたことかもしれないし、生がみづから
選んだものでない以上、死もみづから最終的に選ぶことができないのかもしれない。
では、生きてゐるものが死と直面するとは何であらうか。「葉隠」はこの場合に、ただ行動の純粋性を提示して、
情熱の高さとその力を肯定して、それによつて生じた死はすべて肯定している。それを「犬死などといふ事は、
上方風の打ち上りたる武道」だと呼んでゐる。死について「葉隠」のもつとも重要な一節である。「武士道といふは、
死ぬ事と見付けたり」といふ文句は、このやうな生と死のふしぎな敵対関係、永久に解けない矛盾の結び目を、
一刀をもつて切断したものである。「図に当らぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上りたる武道なるべし。
二つ二つの場にて、図に当ることのわかることは、及ばざることなり」
図に当たるとは、現代のことばでいへば、正しい目的のために正しく死ぬといふことである。その正しい
目的といふことは、死ぬ場合にはけつしてわからないといふことを「葉隠」は言つてゐる。

三島由紀夫「葉隠入門」より

31 :名無しさん@また挑戦:2011/01/09(日) 20:17:19 ID:???
「我人、生くる方がすきなり。多分すきの方に理が付くべし」、生きてゐる人間にいつも理屈がつくのである。
そして生きてゐる人間は、自分が生きてゐるといふことのために、何らかの理論を発明しなければならないのである。
したがつて「葉隠」は、図にはづれて生きて腰ぬけになるよりも、図にはづれて死んだはうがまだいいといふ、
相対的な考へ方をしか示してゐない。「葉隠」は、けつして死ぬことがかならず図にはづれないとは言つてゐない
のである。ここに「葉隠」のニヒリズムがあり、また、そのニヒリズムから生まれたぎりぎりの理想主義がある。
われわれは、一つの思想や理論のために死ねるといふ錯覚に、いつも陥りたがる。しかし「葉隠」が示してゐるのは、
もつと容赦ない死であり、花も実もないむだな犬死さへも、人間の死としての尊厳を持つてゐるといふことを
主張してゐるのである。もし、われわれが生の尊厳をそれほど重んじるならば、どうして死の尊厳をも重んじない
わけにいくだらうか。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのである。

三島由紀夫「葉隠入門」より

32 :名無しさん@また挑戦:2011/01/12(水) 12:08:54 ID:???
「葉隠」は、一面謙譲の美徳をほめそやしながら、一面人間のエネルギーが、エネルギー自体の原理に従つて、
大きな行動を成就するところに着目した。(中略)
もし、謙譲の美徳のみをもつて日常をしばれば、その日々の修行のうちから、その修行をのり越えるやうな
激しい行動の理念は出てこない。それが大高慢にてなければならぬといひ、わが身一身で家を背負はねば
ならぬといふことの裏づけである。彼はギリシャ人のやうにヒュブリス(傲慢)といふものの、魅惑と光輝と
そのおそろしさをよく知つてゐた。

三島由紀夫「葉隠入門」より

33 :名無しさん@また挑戦:2011/01/12(水) 16:59:31 ID:???
いまの時代は“男はあいけう、女はどきよう”といふ時代である。われわれの周辺にはあいけうのいい男に
こと欠かない。そして時代は、ものやはらかな、だれにでも愛される、けつして角だたない、協調精神の旺盛な、
そして心の底は冷たい利己主義に満たされた、さういふ人間のステレオタイプを輩出してゐる。「葉隠」は
これを女風といふのである。「葉隠」のいふ美は愛されるための美ではない。体面のための、恥づかしめられぬ
ための強い美である。愛される美を求めるときに、そこに女風が始まる。それは精神の化粧である。「葉隠」は、
このやうな精神の化粧をはなはだにくんだ。

三島由紀夫「葉隠入門」より

34 :名無しさん@また挑戦:2011/01/12(水) 17:03:39 ID:???
常朝は、この人生を夢の間の人生と観じながら、同時に人間がいやおうなしに成熟していくことも知つてゐた。
時間は自然に人々に浸み入つて、そこに何ものかを培つていく。もし人がけふ死ぬ時に際会しなければ、そして
けふ死の結果を得なければ、容赦なくあしたへ生き延びていくのである。
(中略)一面から見れば、二十歳で死ぬも、六十歳で死ぬも同じかげろふの世であるが、また一面から見れば
二十歳で死んだ人間の知らない冷徹な人生知を、人々に与へずにはおかぬ時間の恵みであつた。それを彼は
「御用」と呼んでゐる。(中略)
彼にとつて身養生とは、いつでも死ねる覚悟を心に秘めながら、いつでも最上の状態で戦へるやうに健康を大切にし、
生きる力をみなぎり、100パーセントのエネルギーを保有することであつた。
ここにいたつて彼の死の哲学は、生の哲学に転化しながら、同時になほ深いニヒリズムを露呈していくのである。

三島由紀夫「葉隠入門」より

35 :名無しさん@また挑戦:2011/01/12(水) 17:07:03 ID:???
「葉隠」の死は、何か雲間の青空のやうなふしぎな、すみやかな明るさを持つてゐる。それは現代化された形では、
戦争中のもつとも悲惨な攻撃方法と呼ばれた、あの神風特攻隊のイメージと、ふしぎにも結合するものである。
神風特攻隊は、もつとも非人間的な攻撃方法といはれ、戦後、それによつて死んだ青年たちは、長らく犬死の汚名を
かうむつてゐた。しかし、国のために確実な死へ向かつて身を投げかけたその青年たちの精神は、それぞれの
心の中に分け入れば、いろいろな悩みや苦しみがあつたに相違ないが、日本の一つながりの伝統の中に置くときに、
「葉隠」の明快な行動と死の理想に、もつとも完全に近づいてゐる。人はあへていふだらう。特攻隊は、いかなる
美名におほはれてゐるとはいへ、強ひられた死であつた。(中略)志願とはいひながら、ほとんど強制と同様な
方法で、確実な死のきまつてゐる攻撃へかりたてられて行つたのだと……。それはたしかにさうである。
では、「葉隠」が暗示してゐるやうな死は、それとはまつたく違つた、選ばれた死であらうか。わたしには
さうは思はれない。

三島由紀夫「葉隠入門」より

36 :名無しさん@また挑戦:2011/01/13(木) 17:25:37 ID:???
前景の兵隊はことごとく、軍帽から垂れた白い覆布と、肩から掛けた斜めの革紐を見せて
背を向け、きちんとした列を作らずに、乱れて、群がつて、うなだれてゐる。わづかに左隅の
前景の数人の兵士が、ルネサンス画中の人のやうに、こちらへ半ば暗い顔を向けてゐる。
そして、左奥には、野の果てまで巨大な半円をゑがく無数の兵士たち、もちろん一人一人と
識別もできぬほどの夥しい人数が、木の間に遠く群がつてつづいてゐる。
前景の兵士たちも、後景の兵士たちも、ふしぎな沈んだ微光に犯され、脚絆や長靴の輪郭を
しらじらと光らせ、うつむいた項や肩の線を光らせてゐる。画面いつぱいに、何とも云へない
沈痛の気が漲つてゐるのはそのためである。
すべては中央の、小さな白い祭壇と、花と、墓標へ向つて、波のやうに押し寄せる心を
捧げてゐるのだ。野の果てまでひろがるその巨きな集団から、一つの、口につくせぬ思ひが、
中央へ向つて、その重い鉄のやうな巨大な環を徐々にしめつけてゐる。……
古びた、セピアいろの写真であるだけに、これのかもし出す悲哀は、限りがないやうに思はれた。

三島由紀夫「春の雪」より

37 :名無しさん@また挑戦:2011/01/13(木) 17:30:45 ID:???
女がとんだあばずれと知つたのちに、そこで自分の純潔の心象が世界を好き勝手に描いて
ゐただけだと知つたのちに、もう一度同じ女に、清らかな恋心を味はふことができるだらうか? 
できたら、すばらしいと思はんかね? 自分の心の本質と世界の本質を、そこまで鞏固に
結び合せることができたら、すばらしいと思はないか? それは世界の秘密の鍵を、
この手に握つたといふことぢやないだらうか?


歌留多(カルタ)の札の一枚がなくなつてさへ、この世界の秩序には、何かとりかへしの
つかない罅(ひび)が入る。とりわけ清顕は、或る秩序の一部の小さな喪失が、丁度時計の
小さな歯車が欠けたやうに、秩序全体を動かない靄のうちに閉じ込めてしまふのが怖ろしかつた。
なくなつた一枚の歌留多の探索が、どれほどわれわれの精力を費させ、つひには、
失はれた札ばかりか、歌留多そのものを、あたかも王冠の争奪のやうな世界の一大緊急事に
してしまふことだらう。彼の感情はどうしてもさういふ風に動き、彼にはそれに抵抗する術が
なかつたのである。

三島由紀夫「春の雪」より

38 :名無しさん@また挑戦:2011/01/13(木) 17:35:18 ID:???
夢のふしぎで、そんなに遠く、しかも夜だといふのに、金と朱のこまかい浮彫の一つ一つまでが、
つぶさに目に泛ぶのです。
僕はクリにその話をして、お寺が日本まで追ひかけてくるのは別の思ひ出でせう、と笑ふのです。
そのたびに僕は怒りましたが、今では少しクリに同感する気になつてゐます。
なぜなら、すべて神聖なものは夢や思ひ出と同じ要素から成立ち、時間や空間によつて
われわれと隔てられてゐるものが、現前してゐることの奇蹟だからです。しかもそれら三つは、
いづれも手で触れることのできない点で共通してゐます。手で触れることのできたものから、
一歩遠ざかると、もうそれは神聖なものになり、奇蹟になり、ありえないやうな美しい
ものになる。事物にはすべて神聖さが具はつてゐるのに、われわれの指が触れるから、
それは汚濁になつてしまふ。われわれ人間はふしぎな存在ですね。指で触れるかぎりのものを
涜(けが)し、しかも自分のなかには、神聖なものになりうる素質を持つてゐるんですから。

三島由紀夫「春の雪」より

39 :名無しさん@また挑戦:2011/01/13(木) 17:42:33 ID:???
夢とちがつて、現実は何といふ可塑性を欠いた素材であらう。おぼろげに漂ふ感覚ではなくて、
一顆の黒い丸薬のやうな、小気味よく凝縮され、ただちに効力を発揮する、さういふ思考を
わがものにしなくてはならないのだ。


法律学とは、まことにふしぎな学問だつた! それは日常些末の行動まで、洩れなく
すくひ上げる細かい網目であると同時に、果ては星空や太陽の運行にまでむかしから
その大まかな網目をひろげてきた、考へられるかぎり貪欲な漁夫の仕事であつた。


何故時代は下つて今のやうになつたのでせう。何故力と若さと野心と素朴が衰へ、
このやうな情ない世になつたのでせう。


一瞬の躊躇が、人のその後の生き方をすつかり変へてしまふことがあるものだ。その一瞬は
多分白紙の鋭い折れ目のやうになつてゐて、躊躇が人を永久に包み込んで、今までの紙の表へ
出られぬやうになつてしまふのにちがひない。

三島由紀夫「春の雪」より

40 :名無しさん@また挑戦:2011/01/13(木) 17:46:49 ID:???
あたかも俥は、邸の多い霞町の坂の上の、一つの崖ぞひの空地から、麻布三聨隊の営庭を
見渡すところへかかつてゐた。いちめんの白い営庭には兵隊の姿もなかつたが、突然、
清顕はそこに、例の日露戦没写真集の、得利寺附近の戦死者の弔辞の幻を見た。
数千の兵士がそこに群がり、白木の墓標と白布をひるがへした祭壇を遠巻きにして
うなだれてゐる。あの写真とはちがつて、兵士の肩にはことごとく雪が積み、軍帽の庇は
ことごとく白く染められてゐる。それは実は、みんな死んだ兵士たちなのだ、と幻を見た瞬間に
清顕は思つた。あそこに群がつた数千の兵士は、ただ戦友の弔辞のために集つたのではなくて、
自分たち自身を弔ふためにうなだれてゐるのだ。……
幻はたちまち消え、移る景色は、高い塀のうちに、大松の雪吊りの新しい縄の鮮やかな麦色に
雪が危ふく懸つてゐるさま、ひたと締めた総二階の磨硝子の窓がほのかに昼の灯火を
にじませてゐるさま、などを次々と雪ごしに示した。

三島由紀夫「春の雪」より

41 :名無しさん@また挑戦:2011/01/14(金) 13:52:13 ID:???
百年たつたらどうなんだ。われわれは否応なしに、一つの時代思潮の中へ組み込まれて、
眺められる他はないだらう。美術史の各時代の様式のちがひが、それを容赦なく証明してゐる。
一つの時代の様式の中に住んでゐるとき、誰もその様式をとほしてでなくては物を見ることが
できないんだ。


様式のなかに住んでゐる人間には、その様式が決して目に見えないんだ。だから俺たちも
何かの様式に包み込まれてゐるにちがひないんだよ。金魚が金魚鉢の中に住んでゐることを
自分でも知らないやうに。


貴様は感情の世界だけに生きてゐる。人から見れば変つてゐるし、貴様自身も自分の個性に
忠実に生きてゐると思つてゐるだらう。しかし貴様の個性を証明するものは何もない。
同時代人の証言はひとつもあてにならない。もしかすると貴様の感情の世界そのものが、
時代の様式の一番純粋な形をあらはしてゐるのかもしれないんだ。……でも、それを
証明するものも亦一つもない。

三島由紀夫「春の雪」より

42 :名無しさん@また挑戦:2011/01/14(金) 14:10:12 ID:???
ナポレオンの意志が歴史を動かしたといふ風に、すぐに西洋人は考へたがる。貴様の
おぢいさんたちの意志が、明治維新をつくり出したといふ風に。
しかし果してさうだらうか? 歴史は一度でも人間の意志どほりに動いたらうか?


たとへば俺が意志を持つてゐるとする……それも歴史を変へようとする意志を持つてゐるとする。
俺の一生をかけて、全精力全財産を費して、自分の意志どほりに歴史をねぢ曲げようと努力する。
又、さうできるだけの地位や権力を得ようとし、それを手に入れたとする。それでも歴史は
思ふままの枝ぶりになつてくれるとは限らないんだ。
百年、二百年、あるひは三百年後に、急に歴史は、俺とは全く関係なく、正に俺の夢、理想、
意志どほりの姿をとるかもしれない。正に百年前、二百年前、俺が夢みたとほりの形を
とるかもしれない。俺の目が美しいと思ふかぎりの美しさで、微笑んで、冷然と俺を見下ろし、
俺の意志を嘲るかのやうに。
それが歴史といふものだ、と人は言ふだらう。

三島由紀夫「春の雪」より

43 :名無しさん@また挑戦:2011/01/14(金) 14:14:44 ID:???
俺が思ふには、歴史には意志がなく、俺の意志とは又全く関係がない。だから何の意志からも
生れ出たわけではないさういふ結果は、決して『成就』とは言へないんだ。それが証拠に、
歴史のみせかけの成就は、次の瞬間からもう崩壊しはじめる。
歴史はいつも崩壊する。又次の徒(あだ)な結晶を準備するために。歴史の形成と崩壊とは
同じ意味をしか持たないかのやうだ。
俺にはそんなことはよくわかつてゐる。わかつてゐるけれど、俺は貴様とちがつて、
意志の人間であることをやめられないんだ。意志と云つたつて、それはあるひは俺の
強ひられた性格の一部かもしれない。確としたことは誰にも言へない。しかし人間の意志が、
本質的に『歴史に関はらうとする意志』だといふことは云へさうだ。俺はそれが『歴史に
関はる意志』だと云つてゐるのではない。意志が歴史に関はるといふことは、ほとんど
不可能だし、ただ『関はらうとする』だけなんだ。それが又、あらゆる意志にそなはる
宿命なのだ。意志はもちろん、一切の宿命をみとめようとはしないけれども。

三島由紀夫「春の雪」より

44 :名無しさん@また挑戦:2011/01/14(金) 14:19:59 ID:???
聡子と自分が、これ以上何もねがはないやうな一瞬の至福の裡にあることを確かめたかつた。
少しでも聡子が気乗りのしない様子を見せれば、それは叶はなかつた。彼は妻が自分と同じ夢を
見なかつたと云つて咎め立てする、嫉妬深い良人のやうだつた。
拒みながら彼の腕のなかで目を閉ぢる聡子の美しさは喩へん方なかつた。微妙な線ばかりで
形づくられたその顔は、端正でゐながら何かしら放恣なものに充ちてゐた。その唇の片端が、
こころもち持ち上つたのが、歔欷(きよき)のためか微笑のためか、彼は夕明りの中に
たしかめようと焦つたが、今は彼女の鼻翼のかげりまでが、夕闇のすばやい兆のやうに
思はれた。清顕は髪に半ば隠れてゐる聡子の耳を見た。耳朶にはほのかな紅があつたが、
耳は実に精緻な形をしてゐて、一つの夢のなかの、ごく小さな仏像を奥に納めた小さな珊瑚の
龕のやうだつた。すでに夕闇が深く領してゐるその耳の奥底には、何か神秘なものがあつた。
その奥にあるのは聡子の心だらうか? 心はそれとも、彼女のうすくあいた唇の、潤んで
きらめく歯の奥にあるのだらうか?

三島由紀夫「春の雪」より

45 :名無しさん@また挑戦:2011/01/14(金) 14:24:37 ID:???
清顕はどうやつて聡子の内部へ到達できるかと思ひ悩んだ。聡子はそれ以上自分の顔が
見られることを避けるやうに、顔を自分のはうから急激に寄せてきて接吻した。清顕は
片手をまはしてゐる彼女の腰のあたりの、温かさを指尖に感じ、あたかも花々が腐つてゐる
室のやうなその温かさの中に、鼻を埋めてその匂ひをかぎ、窒息してしまつたらどんなに
よからうと想像した。聡子は一語も発しなかつたが、清顕は自分の幻が、もう一寸のところで、
完全な美の均整へ達しようとしてゐるのをつぶさに見てゐた。
唇を離した聡子の大きな髪が、じつと清顕の制服の胸に埋められたので、彼はその髪油の香りの
立ち迷ふなかに、幕の彼方にみえる遠い桜が、銀を帯びてゐるのを眺め、憂はしい髪油の匂ひと
夕桜の匂ひとを同じもののやうに感じた。夕あかりの前に、こまかく重なり、けば立つた
羊毛のやうに密集してゐる遠い桜は、その銀灰色にちかい粉つぽい白の下に、底深く
ほのかな不吉な紅、あたかも死化粧のやうな紅を蔵(かく)してゐた。

三島由紀夫「春の雪」より

46 :名無しさん@また挑戦:2011/01/14(金) 14:31:23 ID:???
貧しい想像力の持主は、現実の事象から素直に自分の判断の糧を引出すものであるが、
却つて想像力のゆたかな人ほど、そこにたちまち想像の城を築いて立てこもり、窓といふ窓を
閉めてしまふやうになる傾きを、清顕も亦持つてゐた。


聡子はそのころふさふさと長い黒いお河童頭にしてゐた。かがみ込んで巻物を書いてゐるとき、
熱心のあまり、肩から前へ雪崩れ落ちる夥しい黒髪にもかまはず、その小さな細い指を
しつかりと筆にからませてゐたが、その髪の割れ目からのぞかれる、愛らしい一心不乱の横顔、
下唇をむざんに噛みしめた小さく光る怜悧な前歯、幼女ながらにすでにくつきりと遠つた
鼻筋などを、清顕は飽かず眺めてゐたものだ。それから憂はしい暗い墨の匂ひ、紙を走る筆が
かすれるときの笹の葉裏を通ふ風のやうなその音、硯(すずり)の海と岡といふふしぎな名称、
波一つ立たないその汀から急速に深まる海底は見えず、黒く澱んで、墨の金箔が剥がれて
散らばつたのが、月影の散光のやうに見える永遠の夜の海……。

三島由紀夫「春の雪」より

47 :名無しさん@また挑戦:2011/01/14(金) 14:37:45 ID:???
われわれは恋しい人を目の前にしてさへ、その姿形と心とをばらばらに考へるほど愚かなのだから、
今僕は彼女の実在と離れてゐても、逢つてゐるときよりも却つて一つの結晶を成した月光姫を
見てゐるのかもしれないのだ。別れてゐることが苦痛なら、逢つてゐることも苦痛でありうるし、
逢つてゐることが歓びならば、別れてゐることも歓びであつてならぬといふ道理はない。
さうでせう? 松枝君。僕は、恋するといふことが時間と空間を魔術のやうにくぐり抜ける秘密が
どこにあるか探つてみたいんです。その人を前にしてさへ、その人の実在を恋してゐるとは
限らないのですから、しかも、その人の美しい姿形は、実在の不可欠の形式のやうに
思はれるのですから、時間と空間を隔てれば、二重に惑はされることにもなりうる代りに、
二倍も実在に近づくことにもなりうる。……


優雅といふものは禁を犯すものだ、それも至高の禁を。

三島由紀夫「春の雪」より

48 :名無しさん@また挑戦:2011/01/14(金) 20:39:23 ID:???
彼はまぎれもなく恋してゐた。だから膝を進めて聡子の肩へ手をかけた。その肩は頑なに拒んだ。
この拒絶の手ごたへを、彼はどんなに愛したらう。大がかりな、式典風な、われわれの
住んでゐる世界と大きさを等しくするやうなその壮大な拒絶。このやさしい肉慾にみちた肩に
のしかかる、勅許の重みをかけて抗(はむか)つてくる拒絶。これこそ彼の手に熱を与へ、
彼の心を焼き滅ぼすあらたかな拒絶だつた。聡子の庇髪の正しい櫛目のなかには、香気に
みちた漆黒の照りが、髪の根にまで届いてゐて、彼はちらとそれをのぞいたとき、月夜の森へ
迷ひ込むやうな心地がした。
清顕は手巾から洩れてゐる濡れた頬に顔を近づけた。無言で拒む頬は左右に揺れたが、
その揺れ方はあまりに無心で、拒みは彼女の心よりもずつと遠いところから来るのが知れた。
清顕は手巾を押しのけて接吻しようとしたが、かつて雪の朝あのやうに求めてゐた唇は、
今は一途に拒み、拒んだ末に、首をそむけて、小鳥が眠る姿のやうに、自分の着物の襟に
しつかりと唇を押しつけて動かなくなつた。

三島由紀夫「春の雪」より

49 :名無しさん@また挑戦:2011/01/14(金) 20:44:22 ID:???
雨の音がきびしくなつた。清顕は女の体を抱きながら、その堅固を目で測つた。夏薊の
縫取のある半襟の、きちんとした襟の合せ目は、肌のわづかな逆山形をのこして、神殿の
扉のやうに正しく閉ざされ、胸高に〆めた冷たく固い丸帯の中央に、金の帯留を釘隠しの
鋲のやうに光らせてゐた。しかし彼女の八つ口や袖口からは、肉の熱い微風がさまよひ出て
ゐるのが感じられた。その微風は清顕の頬にかかつた。
彼は片手を聡子の背から外し、彼女の顎をしつかりとつかんだ。顎は清顕の指のなかに
小さな象牙の駒のやうに納まつた。涙に濡れたまま、美しい鼻翼は羽搏いてゐた。そして
清顕は、したたかに唇を重ねることができた。
急に聡子の中で、炉の戸がひらかれたやうに火勢が増して、ふしぎな焔が立上つて、双の手が
自由になつて、清顕の頬を押へた。その手は清顕の頬を押し戻さうとし、その唇は押し
戻される清顕の唇から離れなかつた。濡れた唇が彼女の拒みの余波で左右に動き、清顕の唇は
その絶妙のなめらかさに酔うた。それによつて、堅固な世界は、紅茶に涵された一顆の
角砂糖のやうに融けてしまつた。そこから果てしれぬ甘美と融解がはじまつた。

三島由紀夫「春の雪」より

50 :名無しさん@また挑戦:2011/01/15(土) 14:44:53 ID:???
あの花々しい戦争の時代は終つてしまつた。戦争の昔話は、監武課の生き残りの功名話や、
田舎の炉端の自慢話に墜してしまつた。もう若い者が戦場へ行つて戦死することは
たんとはあるまい。
しかし行為の戦争がをはつてから、その代りに、今、感情の戦争の時代がはじまつたんだ。
この見えない戦争は、鈍感な奴にはまるで感じられないし、そんなものがあることさへ
信じられないだらうと思ふ。だが、たしかに、この戦争がはじまつてをり、この戦争のために
特に選ばれた若者たちが、戦ひはじめてゐるにちがひない。貴様はたしかにその一人だ。
行為の戦場と同じやうに、やはり若い者が、その感情の戦場で戦死してゆくのだと思ふ。
それがおそらく、貴様をその代表とする、われわれの時代の運命なんだ。……それで貴様は、
その新らしい戦争で戦死する覚悟を固めたわけだ。さうだらう?

三島由紀夫「春の雪」より

51 :名無しさん@また挑戦:2011/01/15(土) 14:48:43 ID:???
繁邦は思つてゐた。人間の情熱は、一旦その法則に従つて動きだしたら、誰もそれを
止めることはできない、と。それは人間の理性と良心を自明の前提としてゐる近代法では、
決して受け入れられぬ理論だつた。
一方、繁邦はかうも思つてゐた。はじめ自分に無縁なものと考へて傍聴しはじめた裁判が、
今はたしかに無縁なものではなくなつた代りに、増田とみが目の前で吹き上げた赤い
熔岩のやうな情念とは、つひに触れ合はない自分を、発見するよすがにもなつた、と。
雨のまま明るくなつた空は、雲が一部分だけ切れて、なほふりつづく雨を、つかのまの
孤雨に変へてゐた。窓硝子の雨滴を一せいにかがやかす光りが、幻のやうにさした。
本多は自分の理性がいつもそのやうな光りであることを望んだが、熱い闇にいつも
惹かれがちな心性をも、捨てることはできなかつた。しかしその熱い闇はただ魅惑だつた。
他の何ものでもない、魅惑だつた。清顕も魅惑だつた。そしてこの生を奥底のはうから
ゆるがす魅惑は、実は必ず、生ではなく、運命につながつてゐた。

三島由紀夫「春の雪」より

52 :名無しさん@また挑戦:2011/01/15(土) 14:56:06 ID:???
海はすぐそこで終る。これほど遍満した海、これほど力にあふれた海が、すぐ目の前で
をはるのだ。時間にとつても、空間にとつても、境界に立つてゐることほど、神秘な感じの
するものはない。海と陸とのこれほど壮大な境界に身を置く思ひは、あたかも一つの時代から
一つの時代へ移る、巨きな歴史的瞬間に立会つてゐるやうな気がするではないか。そして本多と
清顕が生きてゐる現代も、一つの潮の退き際、一つの波打際、一つの境界に他ならなかつた。
……海はすぐその目の前で終る。
波の果てを見てゐれば、それがいかに長いはてしない努力の末に、今そこであへなく
終つたかがわかる。そこで世界をめぐる全海洋的規模の、一つの雄大きはまる企図が徒労に
終るのだ。
……しかし、それにしても、何となごやかな、心やさしい挫折だらう。波の最後の
余波(なごり)の小さな笹縁は、たちまちその感情の乱れを失つて、濡れた平らな砂の鏡面と
一体化して、淡い泡沫ばかりになるころには、身はあらかた海の裡へ退いてゐる。

三島由紀夫「春の雪」より

53 :名無しさん@また挑戦:2011/01/15(土) 15:00:20 ID:???
あの橄欖(オリーブ)いろのなめらかな腹を見せて砕ける波は、擾乱であり、怒号で
あつたものが、次第に怒号は、ただの叫びに、叫びはいづれ囁きに変つてしまふ。大きな
白い奔馬は、小さな白い奔馬になり、やがてその逞しい横隊の馬身は消え去つて、最後に
蹴立てる白い蹄だけが渚に残る。


退いてゆく波の彼方、幾重にもこちらへこちらへと折り重つてくる波の一つとして、白い
なめらかな背(せびら)を向けてゐるものはない。みんなが一せいにこちらを目ざし、
一せいに歯噛みをしてゐる。しかし沖へ沖へと目を馳せると、今まで力づよく見えてゐた渚の
波も、実は稀薄な衰へた拡がりの末としか思はれなくなる。次第次第に、沖へ向つて、
海は濃厚になり、波打際の海の稀薄な成分は濃縮され、だんだんに圧搾され、濃緑色の
水平線にいたつて、無限に煮つめられた青が、ひとつの硬い結晶に達してゐる。距離と
ひろがりを装ひながら、その結晶こそは海の本質なのだ。この稀いあわただしい波の重複の
はてに、かの青く凝結したもの、それこそは海なのだ。……

三島由紀夫「春の雪」より

54 :名無しさん@また挑戦:2011/01/15(土) 15:03:56 ID:???
本多は、頭のよい青年の逸り気から、やや軽んずるやうな口調で断定した。
「それは生れ変りの問題とはちがひます」
「なぜちがふ」とジャオ・ピーは穏やかに言つた。「一つの思想が、ちがふ個体の中へ、
時を隔てて受け継がれてゆくのは、君も認めるでせう。それなら又、同じ個体が、別々の
思想の中へ時を隔てて受け継がれてゆくとしても、ふしぎではないでせう」
「猫と人間が同じ個体ですか? さつきのお話の、人間と白鳥と鶉と鹿が」
「生れ変りの考へは、それを同じ個体と呼ぶんです。肉体が連続しなくても、妄念が
連続するなら、同じ個体と考へて差支へがありません。個体と云はずに、『一つの生の流れ』と
呼んだらいいかもしれない。
僕はあの思ひ出深いエメラルドの指環を失つた。指環は生き物ではないから、生れ変りはすまい。
でも、喪失といふことは何かですよ。それが僕には、出現のそもそもの根拠のやうに思へるのだ。
指環はいつか又、緑いろの星のやうに、夜空のどこかに現はれるだらう」

三島由紀夫「春の雪」より

55 :名無しさん@また挑戦:2011/01/15(土) 15:09:46 ID:???
本多はその言葉を聴き流しながら、さつきジャオ・ピーが言つたふしぎな逆説について思ひに
耽つてゐた。たしかに人間を個体と考へず、一つの生の流れととらへる考へ方はありうる。
静的な存在として考へず、流動する存在としてつかまへる考へ方はありうる。そのとき
王子が言つたやうに、一つの思想が別々の「生の流れ」の中に受けつがれるのと、一つの「生の流れ」が別々の
思想の中に受けつがれるのとは、同じことになつてしまふ。生と思想とは同一化されてしまふ
からだ。そしてそのやうな、生と思想が同一のものであるやうな哲学をおしひろげれば、
無数の生の流れを統括する生の大きな潮の連鎖、人が「輪廻」と呼ぶものも、一つの思想で
ありうるかもしれないのだ。……


それは正しく琴だつた! かれらは槽の中へまぎれ込んだ四粒の砂であり、そこは
果てしのない闇の世界であつたが、槽の外には光りかがやく世界があつて、竜角から雲角まで
十三弦の弦が張られ、たとしへもなく白い指が来てこれに触れると、星の悠々たる運行の音楽が、
琴をとどろかして、底の四粒の砂をゆすぶるのだつた。

三島由紀夫「春の雪」より

56 :名無しさん@また挑戦:2011/01/15(土) 15:19:17 ID:???
……いつか時期がまゐります。それもそんなに遠くはないいつか。そのとき、お約束しても
よろしいけれど、私は未練を見せないつもりでをります。こんなに生きることの有難さを
知つた以上、それをいつまでも貪るつもりはございません。どんな夢にもをはりがあり、
永遠なものは何もないのに、それを自分の権利と思ふのは愚かではございませんか。
私はあの『新しき女』などとはちがひます。……でも、もし永遠があるとすれば、それは
今だけなのでございますわ。


清顕は皆に背を向けて、夕空にゆらめき出す煙のあとを追ひながら、沖の雲の形が崩れて
おぼろげなのが、なほ一面ほのかな黄薔薇の色に染つてゐるのを見た。そこにも彼は聡子の影を
感じた。聡子の影と匂ひはあらゆるものにしみ入り、自然のどんな微妙な変様も聡子と
無縁ではなかつた。ふと風が止んで、なまあたたかい夏の夕方の大気が肌に触れると、
そのとき裸の聡子の肌がそこに立ち迷つて、ぢかに清顕の肌に触れるやうな気がした。
少しづつ暮れてゆく合歓(ねむ)の樹の、緑の羽毛を重ねたやうな木蔭にさへ、聡子の断片が
漂つてゐた。

三島由紀夫「春の雪」より

57 :名無しさん@また挑戦:2011/01/15(土) 20:01:28 ID:???
「君はのちのちすべてを忘れる決心がついてゐるんだね」
「ええ。どういふ形でか、それはまだわかりませんけれど。私たちの歩いてゐる道は、
道ではなくて桟橋ですから、どこかでそれが終つて、海がはじめるのは仕方がございませんわ」


自分の手引で、若い美しい二人を逢はせてやることが、そして彼らの望みのない恋の
燃え募るさまを眺めてゐることが、蓼科にはしらずしらず、どんな危険と引きかへにしてもよい
痛烈な快さになつてゐた。
この快さの中では、美しい若い肉の融和そのものが、何か神聖で、何か途方もない正義に
叶つてゐるやうに感じられた。
二人が相会ふときの目のかがやき、二人が近づくときの胸のときめき、それらは蓼科の
冷え切つた心を温めるための煖炉であるから、彼女は自分のために火種を絶やさぬやうになつた。
相見る寸前までの憂ひにやつれた頬が、相手の姿をみとめるやいなや、六月の麦の穂よりも
輝やかしくなる。……その瞬間は、足萎えも立ち、盲らも目をひらくやうな奇蹟に充ちてゐた。

三島由紀夫「春の雪」より

58 :名無しさん@また挑戦:2011/01/15(土) 20:04:53 ID:???
実際蓼科の役目は聡子を悪から護ることにあつた筈だが、燃えてゐるものは悪ではない、
歌になるものは悪ではない、といふ訓(をし)へは綾倉家の伝承する遠い優雅のなかに
ほのめかされてゐたのではなかつたか?
それでゐて蓼科は、何事かをじつと待つてゐた。放し飼の小鳥を捕へて籠へ戻す機会を
待つてゐたとも云へようが、この期待には何か不吉で血みどろなものがあつた。蓼科は毎朝
念入りに京風の厚化粧をし、目の下の波立つ皺を白粉に隠し、唇の皺を玉虫色の京紅の照りで
隠した。さうしてゐながら、鏡の中のわが顔を避け、中空へ問ふやうなどす黒い視線を放つた。
秋の遠い空の光りは、その目に澄んだ点滴を落した。しかも未来はその奥から何ものかに
渇いてゐる顔をのぞかせてゐた。……蓼科は出来上つた自分の化粧をしらべ直すために、
ふだんは使はない老眼鏡をとりだして、そのかぼそい金の蔓を耳にかけた。すると老いた
真白な耳朶が、たちまち蔓の突端に刺されて火照つた。……

三島由紀夫「春の雪」より

59 :名無しさん@また挑戦:2011/01/15(土) 20:09:10 ID:???
「ぢやあ、気をつけて」
と言つた。言葉にも軽い弾みを持たせ、その弾みを動作にも移して、聡子の肩に手を置かうと
思へば置くこともできさうだつた。しかし、彼の手は痺れたやうになつて動かなかつた。
そのとき正(まさ)しく清顕を見つめてゐる聡子の目に出会つたからである。
その美しい大きい目はたしかに潤んでゐたが、清顕がそれまで怖れてゐた涙はその潤みから
遠かつた。涙は、生きたまま寸断されてゐた。溺れる人が救ひを求めるやうに、まつしぐらに
襲ひかかつて来るその目である。清顕は思はずひるんだ。聡子の長い美しい睫は、植物が
苞をひらくやうに、みな外側へ弾け出て見えた。
「清様もお元気で。……ごきげんよう」
と聡子は端正な口調で一気に言つた。
清顕は追はれるやうに汽車を降りた。折しも腰に短剣を吊り五つ釦の黒い制服を着た駅長が、
手をあげるのを合図にして、ふたたび車掌の吹き鳴らす呼笛がきこえた。
かたはらに立つ山田を憚りながら、清顕は心に聡子の名を呼びつづけた。汽車が軽い
身じろぎをして、目の前の糸巻の糸が解(ほど)けたやうに動きだした。

三島由紀夫「春の雪」より

60 :名無しさん@また挑戦:2011/01/16(日) 15:03:37 ID:???
「お髪を下ろしたのね」
と夫人は、娘の体を掻き抱くやうにして言つた。
「お母さん、他に仕様はございませんでした」
とはじめて母へ目を向けて聡子は言つたが、その瞳には小さく蝋燭の焔が揺れてゐるのに、
その目の白いところには、暁の白光がすでに映つてゐた。夫人は娘の目の中から射し出た
このやうな怖ろしい曙を見たことはない。聡子が指にからませてゐる水晶の数珠の一顆一顆も、
聡子の目の裡と同じ白みゆく光りを宿し、これらの、意志の極みに意志を喪つたやうな幾多の
すずしい顆粒の一つ一つから、一せいに曙がにじみ出してゐた。


聡子は目を閉ぢつづけてゐる。朝の御堂の冷たさは氷室のやうである。自分は漂つてゆくが、
自分の身のまはりには清らかな氷が張りつめてゐる。たちまち庭の百舌がけたたましく啼き、
この氷には稲妻のやうな亀裂が走つたが、次には又その亀裂は合して、無瑕になつた。
剃刀は聡子の頭を綿密に動いてゐる。ある時は、小動物の鋭い小さな白い門歯が齧るやうに、
ある時はのどかな草食獣のおとなしい臼歯の咀嚼のやうに。

三島由紀夫「春の雪」より

61 :名無しさん@また挑戦:2011/01/16(日) 15:09:10 ID:???
髪の一束一束が落ちるにつれ、頭部には聡子が生れてこのかた一度も知らない澄みやかな
冷たさがしみ入つた。自分と宇宙との間を隔ててゐたあの熱い、煩悩の鬱気に充ちた黒髪が
剃り取られるにつれて、頭蓋のまはりには、誰も指一つ触れたことのない、新鮮で冷たい
清浄の世界がひらけた。剃られた肌がひろがり、あたかも薄荷を塗つたやうな鋭い寒さの
部分がひろがるほどに。
頭の冷気は、たとへば月のやうな死んだ天体の肌が、ぢかに宇宙のかう気に接してゐる感じは
かうもあらうかと思はれた。髪は現世そのもののやうに、次々と頽落した。頽落して無限に
遠くなつた。
髪は何ものかにとつての収穫(とりいれ)だつた。むせるやうな夏の光りを、いつぱい
その中に含んでゐた黒髪は、刈り取られて聡子の外側へ落ちた。しかしそれは無駄な収穫だつた。
あれほど艶やかだつた黒髪も、身から離れた刹那に、醜い髪の骸(むくろ)になつたからだ。
かつて彼女の肉に属し、彼女の内部と美的な関はりがあつたものが残らず外側へ捨て去られ、
人間の体から手が落ち足が落ちてゆくやうに、聡子の現世は剥離してゆく。……

三島由紀夫「春の雪」より

62 :名無しさん@また挑戦:2011/01/16(日) 15:13:53 ID:???
ああ……「僕の年」が過ぎてゆく! 過ぎてゆく! 一つの雲のうつろひと共に。


すべてが辛く当る。僕はもう陶酔の道具を失くしてしまつた。物凄い明晰さ、爪先で弾けば
全天空が繊細な玻璃質の共鳴で応じるやうな、物凄い明晰さが、今世界を支配してゐる。
……しかも、寂寥は熱い。何度も吹かなければ口へ入れられない熱い澱んだスープのやうに熱く、
いつも僕の目の前に置かれてゐる。その厚手の白いスープ皿の、蒲団のやうな汚れた鈍感な
厚味と来たら! 誰が僕のためにこんなスープを注文したのか?
僕は一人取り残されてゐる。愛慾の渇き。運命への呪ひ。はてしれない心の彷徨。あてどない
心の願望。……小さな自己陶酔。小さな自己弁護。小さな自己偽瞞。……失はれた時と、
失はれた物への、炎のやうに身を灼く未練。年齢の空しい推移。青春の情ない閑日月。
人生から何の結実も得ないこの憤ろしさ。……一人の部屋。一人の夜々。……世界と
人間とからのこの絶望的な隔たり。……叫び。きかれない叫び。……外面の花やかさ。
……空つぽの高貴。……
……それが僕だ!

三島由紀夫「春の雪」より

63 :名無しさん@また挑戦:2011/01/16(日) 15:18:18 ID:???
――さうして、寝苦しい夜をすごして、二十六日の朝になつた。
この日、大和平野には、黄ばんだ芒野に風花が舞つてゐた。春の雪といふにはあまりに淡くて、
羽虫が飛ぶやうな降りざまであつたが、空が曇つてゐるあひだは空の色に紛れ、かすかに
弱日が射すと、却つてそれがちらつく粉雪であることがわかつた。寒気は、まともに雪の
降る日よりもはるかに厳しかつた。
清顕は枕に頭を委ねたまま、聡子に示すことのできる自分の至上の誠について考へてゐた。


本多は、決して襖一重といふほどの近さではないが、遠からぬところ、廊下の片隅から一間を
隔てた部屋かと思はれるあたりで、幽かに紅梅の花のひらくやうな忍び笑ひをきいたと思つた。
しかしすぐそれは思ひ返されて、若い女の忍び笑ひときかれたものは、もし本多の耳の迷ひで
なければ、たしかにこの春寒の空気を伝はる忍び泣きにちがひないと思はれた。強ひて抑へた
嗚咽の伝はるより早く、弦が断たれたやうに、嗚咽の絶たれた余韻がほの暗く伝はつた。

今、夢を見てゐた。又、会ふぜ。きつと会ふ。滝の下で。

三島由紀夫「春の雪」より

64 :名無しさん@また挑戦:2011/01/17(月) 11:34:03 ID:???
「君はのちのちすべてを忘れる決心がついてゐるんだね」
「ええ。どういふ形でか、それはまだわかりませんけれど。私たちの歩いてゐる道は、
道ではなくて桟橋ですから、どこかでそれが終つて、海がはじめるのは仕方がございませんわ」


彼はかねて学んだ優雅が、血みどろの実質を秘めてゐるのを知りつつあつた。いちばんたやすい
解決は二人の相対の死にちがひないが、それにはもつと苦悩が要る筈で、かういふ忍び逢ひの、
すぎ去つてゆく一瞬一瞬にすら、清顕は、犯せば犯すほど無限に深まつてゆく禁忌の、
決して到達することのない遠い金鈴の音のやうなものに聞き惚れてゐた。罪を犯せば犯すほど、
罪から遠ざかつてゆくやうな心地がする。……最後にはすべてが、大がかりな欺瞞で終る。
それを思ふと彼は慄然とした。
「かうして御一緒に歩いてゐても、お仕合せさうには見えないのね。私は今の刹那刹那の
仕合せを大事に味はつてをりますのに。……もうお飽きになつたのではなくて?」
と聡子はいつものさはやかな声で、平静に怨じた。
「あんまり好きだから、仕合せを通り過ぎてしまつたのだ」
と清顕は重々しく言つた。

三島由紀夫「春の雪」より

65 :名無しさん@また挑戦:2011/01/17(月) 11:36:58 ID:???
落着き払つたこの老女の、この世に安全なものなどはないといふ哲学は、そもそも保身の
自戒であつた筈が、それがそのまま自分の身の安全をも捨てさせ、その哲学自体を、冒険の
口実にしてしまつたのは、何に拠るのだらう。蓼科はいつのまにか、一つの説明しがたい快さの
虜になつてゐた。自分の手引で、若い美しい二人を逢はせてやることが、そして彼らの
望みのない恋の燃え募るさまを眺めてゐることが、蓼科にはしらずしらず、どんな危険と
引きかへにしてもよい痛烈な快さになつてゐた。
この快さの中では、美しい若い肉の融和そのものが、何か神聖で、何か途方もない正義に
叶つてゐるやうに感じられた。
二人が相会ふときの目のかがやき、二人が近づくときの胸のときめき、それらは蓼科の
冷え切つた心を温めるための煖炉であるから、彼女は自分のために火種を絶やさぬやうになつた。
相見る寸前までの憂ひにやつれた頬が、相手の姿をみとめるやいなや、六月の麦の穂よりも
輝やかしくなる。……その瞬間は、足萎えも立ち、盲らも目をひらくやうな奇蹟に充ちてゐた。

三島由紀夫「春の雪」より

66 :名無しさん@また挑戦:2011/01/17(月) 12:08:31 ID:???
聡子は意外なことを言つた。
「私は牢に入りたいのです」
蓼科は緊張が解けて、笑ひだした。
「お子達のやうなことを仰言つて! それは又何故でございます」
「女の囚人はどんな着物を着るのでせうか。さうなつても清様が好いて下さるかどうかを
知りたいの」
――聡子がこんな理不尽なことを言ひ出したとき、涙どころか、その目を激しい喜びが
横切るのを見て、蓼科は戦慄した。
この二人の女が、身分のちがひもものかは、心に強く念じてゐたのは、同じ力の、同じたぐひの
勇気だつたにちがひない。欺瞞のためにも、真実のためにも、これほど等量等質の勇気が
求められてゐる時はなかつた。
蓼科は自分と聡子が、流れを遡らうとする舟と流れとの力が丁度拮抗して、舟がしばらく
一つところにとどまつてゐるやうに、現在の瞬間瞬間、もどかしいほど親密に結びつけられて
ゐるのを感じた。又、二人は同じ歓びをお互ひに理解してゐた。近づく嵐をのがれて頭上に
迫つてくる群鳥の羽搏きにも似た歓びの羽音を。

三島由紀夫「春の雪」より

67 :名無しさん@また挑戦:2011/01/17(月) 15:53:13 ID:???
本多にとつて青春とは、松枝清顕の死と共に終つてしまつたやうに思はれた。あそこで
凝結して、結晶して、燃え上つたものが尽きてしまつた。


もろもろの記憶のなかでは、時を経るにつれて、夢と現実とは等価のものになつてゆく。
かつてあつた、といふことと、かくもありえた、といふことの境界は薄れてゆく。夢が現実を
迅速に蝕んでゆく点では、過去はまた未来と酷似してゐた。
ずつと若いときには、現実は一つしかなく、未来はさまざまな変容を孕んで見えるが、
年をとるにつれて、現実は多様になり、しかも過去は無数の変容に歪んでみえる。そして
過去の変容はひとつひとつ多様な現実と結びついてゐるやうに思はれるので、夢との堺目は
一そうおぼろげになつてしまふ。それほどうつろひやすい現実の記憶とは、もはや夢と
次元の異ならぬものになつたからだ。
きのふ逢つた人の名さへ定かに憶えてゐない一方では、清顕の記憶がいつも鮮明に呼び
起されるさまは、今朝通つた見馴れた町角の眺めよりも、ゆうべ見た怖ろしい夢の記憶のはうが
あざやかなことにも似てゐた。

三島由紀夫「奔馬」より

68 :名無しさん@また挑戦:2011/01/17(月) 15:57:15 ID:???
そこでは、本多の耳朶を搏つ「裂帛の」気合は、わづかな裂け目から迸つた少年の魂の
火のやうにきこえてきた。(中略)
それは時といふものが人の心に演じさせるふしぎな真剣な演技だつた。過去の銀にかけた
記憶の微妙な嘘の銹を強ひて剥がさずに、夢や願望の入りまじつた全体の姿を演じ直して、
その演技をたよりに、むかしの自分も意識してゐなかつたもつと深い本質的な自分の姿へ
到達しようとする試みだつた。かつて住んでゐた村を、遠い峠から望み見るやうに、そこに
住んだ経験の細部は犠牲にされても、そこに住んだことの意味は明らかになり、住んでゐた間は
重要なことに思はれた広場の甃の凹みも、遠目にはそこの水たまりの一点の煌きだけに
よつて美しい、何らこだはりのない美になるのであつた。
飯沼少年が最初の雄叫びをあげた瞬間に、かうして三十八歳の裁判官は、その叫び自体が
矢尻のやうに少年の胸深く刺つて残つてゐる、鋭いささくれた痛みにまですぐに思ひ至つた。

三島由紀夫「奔馬」より

69 :名無しさん@また挑戦:2011/01/17(月) 16:00:34 ID:???
乙女たちは、鼈甲色の蕊をさし出した、直立し、ひらけ、はじける百合の花々のかげから
立ち現はれ、手に手に百合の花束を握つてゐる。
奏楽につれて、乙女たちは四角に相対して踊りはじめたが、高く掲げた百合の花は危険に
揺れはじめ、踊りが進むにつれて、百合は気高く立てられ、又、横ざまにあしらはれ、会ひ、
又、離れて、空をよぎるその白いなよやかな線は鋭くなつて、一種の刃のやうに見えるのだつた。
そして鋭く風を切るうちに百合は徐々にしなだれて、楽も舞も実になごやかに優雅であるのに、
あたかも手の百合だけが残酷に弄ばれてゐるやうに見えた。
……見てゐるうちに、本多は次第に酔つたやうになつた。これほど美しい神事は見たことが
なかつた。
そして寝不足の頭が物事をあいまいにして、目前の百合の祭ときのふの剣道の試合とが混淆し、
竹刀が百合の花束になつたり、百合が又白刃に変つたり、ゆるやかな舞を舞ふ乙女たちの、
濃い白粉の頬の上に、日ざしを受けて落ちる長い睫の影が、剣道の面金の慄へるきらめきと
一緒になつたりした。……

三島由紀夫「奔馬」より

70 :名無しさん@また挑戦:2011/01/17(月) 20:32:13 ID:???
水平線上で海と空とが融け合ふやうに、たしかに夢と現実とは、はるか彼方では融け合つて
ゐることもあらうが、ここでは、少なくとも本多その人の身のまはりでは、人々はみんな
法の下にをり、又、法に護られてゐるにすぎなかつた。本多はこの世の実定法的秩序の
護り手であり、実定法はあたかも重い鉄の鍋蓋のやうに、現世のごつた煮の上に押しかぶさつて
ゐたのである。
『喰べる人間……消化する人間……排泄する人間……生殖する人間……愛したり憎んだり
する人間』
と本多は考へてゐた。それこそ裁判所の支配下にある人間だつた。まかりまちがへばいつでも
被告になりうる人間、それこそは唯一種類の現実性のある人間だつた。嚏をし、笑ひ、
生殖器をぶらぶらさせてゐる人間、……これらが一つの例外もなしにさういふ人間であるならば、
彼が畏れる神秘はどこにもない筈だつた。よしんばその中に一人ぐらゐ、清顕の生れ変りが
隠れてゐても。

三島由紀夫「奔馬」より

71 :名無しさん@また挑戦:2011/01/17(月) 20:36:45 ID:???
それにしても、本多は何と巧みに、歴史から時間を抜き取つてそれを静止させ、すべてを
一枚の地図に変へてしまつたことだらう。それが裁判官といふものであらうか。彼が
「全体像」といふときの一時代の歴史は、すでに一枚の地図、一巻の絵巻物、一個の死物に
すぎぬではないか。『この人は、日本人の血といふことも、道統といふことも、志といふことも、
何もわかりはしないんだ』と少年は思つた。


『全体像だつて』勲は先程の手紙の文句を思ひ出して、ちよつと微笑した。『あの人は
火箸が熱くて触れないといふので、火鉢だけに触らうとしてゐるんだ。しかし火箸と火鉢とは
どこまでもちがふんだがなあ。火箸は金、火鉢は瀬戸物。あの人は純粋だけど、瀬戸物派なんだ』
純粋といふ観念は勲から出て、ほかの二人の少年の頭にも心にもしみ込んでゐた。勲は
スローガンを拵へた。「神風連の純粋に学べ」といふ仲間うちのスローガンを。

三島由紀夫「奔馬」より

72 :名無しさん@また挑戦:2011/01/17(月) 20:40:05 ID:???
純粋とは、花のやうな観念、薄荷をよく利かした含嗽薬の味のやうな観念、やさしい母の胸に
すがりつくやうな観念を、ただちに、血の観念、不正を薙ぎ倒す刀の観念、袈裟がけに
斬り下げると同時に飛び散る血しぶきの観念、あるひは切腹の観念に結びつけるものだつた。
「花と散る」といふときに、血みどろの屍体はたちまち匂ひやかな桜の花に化した。純粋とは、
正反対の観念のほしいままな転換だつた。だから、純粋は詩なのである。


すべての屈折した物言ひ、註釈、「しかしながら」といふ考へ、……さういふものは勲の
理解の外にあつた。思想はまつ白な紙に鮮やかに落された墨痕であり、謎のやうな原典であつて、
飜訳はおろか、批評も註釈もつきやうのないものだつた。


爆弾は一つの譬(たと)へさ。神風連の上野堅吾が、主張して容れられなかつた小銃と
同じことだ。最後は剣だけだよ。それを忘れてはいけない。肉弾と剣だけだよ。

三島由紀夫「奔馬」より

73 :名無しさん@また挑戦:2011/01/18(火) 11:31:49 ID:???
勲のはうへ向けた目は、やさしく、母性的な慈愛に潤んで、夜の庭の濡れた草木のどこかに
潜んでゐる血の夕映えの残滓を探るやうに、彼を見るとも、彼の背後の庭を見るともない
遠い視線になつた。
「悪い血は瀉血(しやけつ)したらいいんだわ。それでお国の病気が治るかもしれない。
勇気のない人たちは、重い病気にかかつたお国のまはりを、ただうろうろしてゐるだけなのね。
このままではお国が死んでしまふわ」
槙子がそれを歌のやうな軽やかな調子で言つたのが、勲の硬ばつてゐた心を救つた。


神風連が戦つたのは、ただ軍隊を相手といふわけではありません。鎮台兵の背後にあつたものは、
軍閥の芽だつたんです。かれらは軍閥を敵として戦つたんです。軍閥は神の軍隊ではなく、
神風連こそ陛下の軍隊だといふ自信を持つてゐたからです。


勲は自分の言葉が未熟なことをよく承知してゐたが、志がその未熟を補つて、焔のやうに
相手の焔と感応することをも信じてゐた。とりわけ今は夏だつた。毛織物のやうな厚い重い
息苦しい熱気の裡に対坐してゐて、何かが爆(はじ)ければ忽ち火が移り、何もはじまら
なければそのまま熔けた金属のやうに、あへなく融け消えてしまひさうに思はれた。

三島由紀夫「奔馬」より

74 :名無しさん@また挑戦:2011/01/18(火) 11:34:46 ID:???
勲のはうへ向けた目は、やさしく、母性的な慈愛に潤んで、夜の庭の濡れた草木のどこかに
潜んでゐる血の夕映えの残滓を探るやうに、彼を見るとも、彼の背後の庭を見るともない
遠い視線になつた。
「悪い血は瀉血(しやけつ)したらいいんだわ。それでお国の病気が治るかもしれない。
勇気のない人たちは、重い病気にかかつたお国のまはりを、ただうろうろしてゐるだけなのね。
このままではお国が死んでしまふわ」


神風連が戦つたのは、ただ軍隊を相手といふわけではありません。鎮台兵の背後にあつたものは、
軍閥の芽だつたんです。かれらは軍閥を敵として戦つたんです。軍閥は神の軍隊ではなく、
神風連こそ陛下の軍隊だといふ自信を持つてゐたからです。


勲は自分の言葉が未熟なことをよく承知してゐたが、志がその未熟を補つて、焔のやうに
相手の焔と感応することをも信じてゐた。とりわけ今は夏だつた。毛織物のやうな厚い重い
息苦しい熱気の裡に対坐してゐて、何かが爆ければ忽ち火が移り、何もはじまらなければ
そのまま熔けた金属のように、あへなく融け消えてしまひさうに思はれた。

三島由紀夫「奔馬」より

75 :名無しさん@また挑戦:2011/01/18(火) 11:41:20 ID:???
涙は危険な素質である。もしそれが必ずしも理智の衰へと結びついてゐないとしたら。


壁には西洋の戦場をあらはした巨大なゴブラン織がかかつてゐた。馬上の騎士のさし出した
槍の穂が、のけぞつた徒士の胸を貫いてゐる。その胸に咲いてゐる血潮は、古びて、
褪色して、小豆いろがかつてゐる。古い風呂敷なんぞによく見る色である。血も花も、
枯れやすく変質しやすい点でよく似てゐる、と勲は思つた。だからこそ、血と花は名誉へ
転身することによつて生き延び、あらゆる名誉は金属なのである。


その御目と勲の目が、一瞬、ごく古い鉄の鈴が永らく鳴らずに錆びついてゐたものが、
何かの震動によつて舌がほぐれて、正に鳴らんとして鈴の内側に触れるやうに、触れ合つた。
そのとき宮の御目が何を語つたか勲にもわからなかつたし、宮御自身も御存知ではなかつたで
あらう。しかしその一瞬に交はされたものは、並の愛情を超えたふしぎな結びつきの感情で、
宮の動かぬおん瞳には、何か遠来の悲しみが刹那に迸つて、勲の火のやうな注視を、宮は
その悲しみの水で忽ち消されたやうに思はれた。

三島由紀夫「奔馬」より

76 :名無しさん@また挑戦:2011/01/18(火) 11:47:31 ID:???
「はい。忠義とは、私には、自分の手が火傷をするほど熱い飯を握つて、ただ陛下に
差し上げたい一心で握り飯を作つて、御前に捧げることだと思ひます。その結果、もし陛下が
御空腹でなく、すげなくお返しになつたり、あるひは、『こんな不味いものを喰へるか』と
仰言つて、こちらの顔へ握り飯をぶつけられるやうなことがあつた場合も、顔に飯粒を
つけたまま退下して、ありがたくただちに腹を切らねばなりません。又もし、陛下が
御空腹であつて、よろこんでその握り飯を召し上つても、直ちに退つて、ありがたく腹を
切らねばなりません。何故なら、草莽の手を以て直に握つた飯を、大御食として奉つた罪は
万死に値ひするからです。では、握り飯を作つて献上せずに、そのまま自分の手もとに
置いたらどうなりませうか。飯はやがて腐るに決まつてゐます。これも忠義ではありませうが、
私はこれを勇なき忠義と呼びます。勇気ある忠義とは、死をかへりみず、その一心に
作つた握り飯を献上することであります」

三島由紀夫「奔馬」より

77 :名無しさん@また挑戦:2011/01/18(火) 11:50:23 ID:???
「罪と知りつつ、さうするのか」
「はい。殿下はじめ、軍人の方々はお仕合せです。陛下の御命令に従つて命を捨てるのが、
すなはち軍人の忠義だからであります。しかし一般の民草の場合、御命令なき忠義はいつでも
罪となることを覚悟せねばなりません」
「法に従へ、といふことは陛下の御命令ではないのか。裁判所といへども、陛下の裁判所である」
「私の申し上げる罪とは、法律上の罪ではありません。聖明が蔽はれてゐるこのやうな世に
生きてゐながら、何もせずに生き永らへてゐることがまづ第一の罪であります。その大罪を
祓ふには、涜神の罪を犯してまでも、何とか熱い握り飯を拵へて献上して、自らの忠心を
行為にあらはして、即刻腹を切ることです。死ねばすべては清められますが、生きてゐるかぎり、
右すれば罪、左すれば罪、どのみち罪を犯してゐることに変りはありません」

三島由紀夫「奔馬」より

78 :名無しさん@また挑戦:2011/01/18(火) 19:20:09 ID:???
同志は、言葉によつてではなく、深く、ひそやかに、目を見交はすことによつて得られるのに
ちがひない。思想などではなく、もつと遠いところから来る或るもの、又、もつと明確な
外面的な表徴であつて、しかもこちらにその志がなければ決して見分けられぬ或るもの、
それこそが同志を作る因に相違ない。


寡黙と素朴と明快な笑顔は、多くの場合、信頼のおける性格と、敢為の気性と、それから
死を軽んずる意気とのあらはれであり、弁舌、大言壮語、皮肉な微笑などはしばしば怯惰を
あらはしてゐた。蒼白や病身は、或る場合には、人を凌ぐ狂ほしい精力の源泉だつた。
概して肥つた男は臆病でゐながら慎重を欠き、痩せて論理的な男は直観を欠いてゐた。
顔や外見が実に多くのことを語るのに勲は気づいた。


勲は綱領を作らなかつた。あらゆる悪がわれわれの無力と無為を是認するやうに働らいて
ゐる世なのであるから、どんな行為であれ、行為の決意が、われわれの綱領となるであらう。

三島由紀夫「奔馬」より

79 :名無しさん@また挑戦:2011/01/18(火) 19:26:01 ID:???
「どうしてみんな帰らんのだ。これだけ言はれても、まだわからんのか」
と勲は叫んだが、これに応ずる声は一つもなく、しかも今度の沈黙はさつきのとは明らかに
ちがつて、何かの闇の中から温かい大きな獣が身を起したやうな感じのする沈黙だつた。
勲はその沈黙に、はじめてはつきりした手応へを感じた。それは熱く、獣臭く、血に充ち、
脈打つてゐた。
「よし。それぢや、のこつた君らは、何の期待も希望も持たずに、何もないかもしれない
ところへ命を賭けようにいふんだな」
「さうです」
と一人の凛々しい声がひびいた。
芦川は立上つて、勲へ一歩歩み寄つた。ずつと顔を寄せなくては見えないほどの闇の中で、
芦川の涙に濡れた目が迫つて来て、涙が咽喉に詰つた、ひどく低い野太い声でかう言つた。
「僕も残ります。どこへでも黙つてついて行きます」
「よし、では神前に誓ひ合はう。二拝二拍手。それから俺が誓ひの言葉をのべる。一つづつ
みんなで唱和してくれ」
勲、井筒、相良とのこる十七人の柏手が、闇の海に白木の船端を叩くやうにあざやかに
整然と響いた。

三島由紀夫「奔馬」より

80 :名無しさん@また挑戦:2011/01/18(火) 19:30:52 ID:???
勲がかう唱へた。
「ひとつ、われらは神風連の純粋に学び、身を挺して邪神姦鬼を攘(はら)はん」
一同の若々しい声が唱和した。
「ひとつ、われらは神風連の純粋に学び、身を挺して邪神姦鬼を攘はん」
勲の声は、おぼろげな白い社の御扉にぶつかつて反響し、強い深い、悲壮な胸腔から、
若さの夢幻的な霧が噴き上げられるやうに聴かれた。空にはすでに星があつた。市電の響きが
遠く揺れた。彼は重ねて唱へた。
「ひとつ、われらは莫逆の交はりをなし、同志相扶(あひたす)けて国難に赴かん」
「ひとつ、われらは権力をねがはず立身をかへりみず、万死以て維新の礎とならん」
――誓がすむとすぐ、一人が勲の手を握つた。双の手を重ねて握つたのである。それから
二十人がこもごもに手を握り合ひ、又、争つて勲の手を握つた。
目が馴れて、ものの文目が明らかになりかけた星空の下で、手は次々とまだ握らぬ手を求めて、
あちこちでひらめいた。誰も口をきかない。何か言へば軽薄になるからである。

三島由紀夫「奔馬」より

81 :名無しさん@また挑戦:2011/01/18(火) 19:37:56 ID:???
心の一部はすでにそれが誰であるかを認めてゐる。しかし心の大部分が、今しばしそれが
誰であるかを認めぬままに、保つておきたいと望んでゐる。幽暗に泛ぶ女の顔にはまだ名が
つけられず、名に先立つ匂ひやかな現前がある。それは夜の小径をゆくときに、花を見るより
前(さき)に聞く木犀の香りのやうなものである。勲はさういふものをこそ、一瞬でも永く
とどめておきたい心地がしてゐる。そのときこそ、女は女であり、名づけられた或る人では
ないからだ。
そればかりではない。それは、秘し匿された名によつて、その名を言はぬといふ約束によつて、
あたかも隠された支柱で闇に高く泛んだ夕顔の花のやうに、一そうみごとな精髄に化してゐる。
存在よりもさきに精髄が、現実よりもさきに夢幻が、現前よりもさきに予兆が、はつきりと、
より強い本質を匂はせて、現はれ漂つてゐるやうな状態、それこそは女だつた。
勲はまだ女を抱いたことがなかつたけれども、かうして、いはば、「女に先立つ女」を
ありありと感じるときほど、自分も亦、陶酔の何たるかを確かに知つてゐると強く感じる
ことはなかつた。

三島由紀夫「奔馬」より

82 :名無しさん@また挑戦:2011/01/18(火) 19:43:01 ID:???
大正初年の、思ふがままに感情の惑溺が許された短い薄命な時代の魁であつた清顕の一種の
「英姿」は、今ではすでに時代の隔たりによつて色褪せてゐる。その当時の真剣な情熱は、
今では、個人的な記憶の愛着を除けば、何かしら笑ふべきものになつたのである。
時の流れは、崇高なものを、なしくづしに、滑稽なものに変へてゆく。何が蝕まれるのだらう。
もしそれが外側から蝕まれてゆくのだとすれば、もともと崇高は外側をおほひ、滑稽が
内奥の核をなしてゐたのだらうか。あるひは、崇高がすべてであつて、ただ外側に滑稽の塵が
降り積つたにすぎぬのだらうか。


清顕において、本当に一回的(アインマーリヒ)なものは、美だけだつたのだ。その余のものは、
たしかに蘇りを必要とし、転生を冀求(ききう)したのだ。清顕において叶へられなかつたもの、
彼にすべて負数の形でしか賦与されてゐなかつたもの……
もう一人の若者の顔は、夏の日にきらめく剣道の面金を脱ぎ去つて、汗に濡れ、烈しく息づく
鼻翼を怒らせ、刃を横に含んだやうな唇の一線を示して現はれた。

三島由紀夫「奔馬」より

83 :名無しさん@また挑戦:2011/01/20(木) 11:02:59 ID:???
蔵原は何かこの国の土や血と関はりのない理智によつて悪なのであつた。それかあらぬか、
勲は蔵原についてほとんど知らないのに、その悪だけははつきりと感じることができた。
ひたすらイギリスとアメリカに気を兼ねて、一挙手一投足に色気をにじませて、柳腰で歩く
ほかに能のない外務官僚。私利私慾の悪臭を立て、地べたを嗅ぎ廻つて餌物をあさる巨大な
蟻喰ひのやうな財界人。それ自ら腐肉のかたまりになつた政治家たち。出世主義の鎧で
兜虫のやうに身動きならなくなつた軍閥。眼鏡をかけたふやけた白い蛆虫のやうな学者たち。
満州国を妾の子同然に眺めながら、早くも利権あさりに手をのばしかけてゐる人々。……
そして広大な貧窮は地平の朝焼けのやうに空に反映してゐた。
蔵原はかういふ惨澹たる風景画の只中に、冷然と置かれた一個の黒い絹帽(シルク・ハット)
だつた。彼は無言で人々の死を望み、これを嘉(よみ)してゐた。
悲しめる日、白く冷え冷えとした日輪は、いささかの光りの恵みも与へることができず、
それでも、朝毎に憂はしげに昇つて空をめぐつた。それこそは陛下の御姿だつた。誰が再び、
太陽の喜色を仰がうと望まぬ筈があらうか?

三島由紀夫「奔馬」より

84 :名無しさん@また挑戦:2011/01/20(木) 11:07:32 ID:???
勲の百合は?
留守中に捨てられたりせぬやうに、彼はそれを一輪差に活けて、硝子の戸のついた本棚の中に
納めてゐた。はじめは毎日水を換へてゐたのが、このごろは忘れて、水換へを怠つてゐることを
勲は愧(は)ぢた。観音開きの硝子戸をあけ、数冊の本を引き出して覗き込んだ。百合は
闇のなかにうなだれてゐる。
灯火に引き出された百合の一輪は、すでに百合の木乃伊(ミイラ)になつてゐる。そつと指を
触れなければ、茶褐色になつた花弁はたちまち粉になつて、まだほのかに青みを残してゐる茎を
離れるにちがひない。それはもはや百合とは云へず、百合の残した記憶、百合の影、不朽の
つややかな百合がそこから巣立つて行つたあとの百合の繭のやうなものになつてゐる。
しかし依然として、そこには、百合がこの世で百合であつたことの意味が馥郁と匂つてゐる。
かつてここに注いでゐた夏の光りの余燼をまつはらせてゐる。
勲はそつとその花弁に唇を触れた。もし触れたことがはつきり唇に感じられたら、
そのときは遅い。百合は崩れ去るだらう。唇と百合とが、まるで黎明と尾根とが触れるやうに
触れ合はねばならない。

三島由紀夫「奔馬」より

85 :名無しさん@また挑戦:2011/01/20(木) 11:12:50 ID:???
勲の若い、まだ誰の唇にもかつて触れたことのない唇は、唇のもつもつとも微妙な感覚の
すべてを行使して、枯れた笹百合の花びらにほのかに触れた。そして彼は思つた。
『俺の純粋の根拠、純粋の保証はここにある。まぎれもなくここにある。俺が自刃するときには、
昇る朝日のなかに、朝霧から身を起して百合が花をひらき、俺の血の匂ひを百合の薫で
浄めてくれるにちがひない。それでいいんだ。何を思ひ煩らふことがあらうか』


神が辞(いな)んでをられるのではない。拒否も亦、明瞭ではないのである。
それは何を意味するのだらうと勲は考へた。今ここに、いづれも廿歳に充たない若さに
溢れた者どもが、熱烈にきらめく注視を勲の一身に鍾(あつ)め、その勲は高い絶壁の上の
神聖な光りを見上げてゐる。事態はここまで迫り、機はここまで熟してゐる。何かが
現はれねばならぬ。しかも、神は肯ふとも辞むともなく、この地上の不決断と不如意を
そのまま模したやうに、高空の光りのなかで、神の御御足(おみあし)からなほざりに
脱げた沓のやうに、決定は放棄されてゐるのである。

三島由紀夫「奔馬」より

86 :名無しさん@また挑戦:2011/01/20(木) 11:17:27 ID:???
勲の心には暗い滝が落ちた。自尊心がゆつくりと切り刻まれてゐた。彼が今差当つて大切にして
ゐるのは自尊心ではなかつたから、それだけに見捨てられてゐる自尊心が、紛らしやうのない
痛みで報いた。その痛みの彼方に、雲間の清澄な夕空のやうな「純粋」が泛んでゐた。
彼は祈るやうに、暗殺されるべき国賊どもの顔を夢みた。彼が孤立無援に陥れば陥るほど、
あいつらの脂肪に富んだ現実性は増してゐた。その悪の臭ひもいよいよ募つてゐた。こちらは
いよいよ不安で不確定な世界へ投げ込まれ、あたかも夜の水月(くらげ)のやうになつた。
それこそ奴らの罪過だつた、こちらの世界をこんなにあいまいなほとんど信じがたいものに
してしまつたのは。この世の不信の根は、みんな向う側のグロテスクな現実性に源してゐた。
奴らを殺すとき、奴らの高血圧と皮下脂肪へ清らかな刃がしつかりと刺るとき、そのとき
はじめて世界の修理固成が可能になるだらう。それまでは……。

三島由紀夫「奔馬」より

87 :名無しさん@また挑戦:2011/01/20(木) 11:26:03 ID:???
明るい軽信の井筒、小柄で眼鏡をかけた機敏な相良、東北の神官の息子でいかにも少年らしい芦川、
寡黙でしかも剽軽なところのある長谷川、律儀で絶壁頭の三宅、昆虫のやうな暗い固い乾いた
顔つきの宮原、文学好きで天皇崇敬家の木村、いつも激してゐながら黙りこくつてゐる藤田、
肺疾ながら岩乗な肩幅を持つた高瀬、柔道二段で柔和に見える大男の井上、……これが
選り抜かれた本当の同志だつた。死を賭するといふことが何を意味するか知つてゐる若者たち
だけが残つたのだ。
勲はそこに、この薄暗い電灯の下、黴くさい畳の上に、自分の焔の確証を見た。頽(くづ)れ
かけた花の、花弁は悉く腐れ落ちて、したたかな蕊だけが束になつて光りを放つてゐる。
この鋭い蕊だけでも、青空の眼を突き刺すことができるのだ。夢が痩せるほど頑なに身を
倚せ合つて、理智がつけ込む隙もないほどの固い殺戮の玉髄になつたのだ。

三島由紀夫「奔馬」より

88 :名無しさん@また挑戦:2011/01/20(木) 11:30:43 ID:???
「…肉体といふ邪魔物を破壊して、奴らの内部に巣喰つてゐる悪を撃つのだ。ほら、いいかね。
見てゐろ」
佐和は壁に向つて、猫のやうに背を丸めて身構へた。
見てゐる勲は、さうして体ごとぶつかる前には、いくつもの川を飛び越えて行く必要があらうと
察した。人間主義の滓が、川上の工場から排泄される鉱毒のやうに流れてやまぬ暗い小川を。
ああ、川上には昼夜兼行で動いてゐる西欧精神の工場の灯が燦然としてゐる。あの工場の廃液が、
崇高な殺意をおとしめ、榊葉の緑を枯らしたのである。
さうだ。跳込み面だ。竹刀をかざした体が、見えない壁をしらぬ間につきぬけて、向う側へ
出てゐるあれだ。感情のすばらしい迅速な磨滅が火花を放つ。敵は当然のやうに、刃の先に、
重たく、自分から喰ひついて来る筈だ。藪を抜けておのづから袂についたゐのこづちのやうに、
暗殺者の着物にはいつのまにか血が点々とついてゐる筈だ。……

三島由紀夫「奔馬」より

89 :名無しさん@また挑戦:2011/01/20(木) 11:38:50 ID:???
佐和は壁に向つて、猫のやうに背を丸めて身構へた。
見てゐる勲は、さうして体ごとぶつかる前には、いくつもの川を飛び越えて行く必要があらうと
察した。人間主義の滓が、川上の工場から排泄される鉱毒のやうに流れてやまぬ暗い小川を。
ああ、川上には昼夜兼行で動いてゐる西欧精神の工場の灯が燦然としてゐる。あの工場の廃液が、
崇高な殺意をおとしめ、榊葉の緑を枯らしたのである。
さうだ。跳込み面だ。竹刀をかざした体が、見えない壁をしらぬ間につきぬけて、向う側へ
出てゐるあれだ。感情のすばらしい迅速な磨滅が火花を放つ。敵は当然のやうに、刃の先に、
重たく、自分から喰ひついて来る筈だ。藪を抜けておのづから袂についたゐのこづちのやうに、
暗殺者の着物にはいつのまにか血が点々とついてゐる筈だ。……


左翼の奴らは、弾圧すればするほど勢ひを増して来てゐます。日本はやつらの黴菌に蝕まれ、
また蝕まれるほど弱い体質に日本をしてしまつたのは、政治家や実業家です。


恋も忠も源は同じであつた。

三島由紀夫「奔馬」より

90 :名無しさん@また挑戦:2011/01/20(木) 11:42:42 ID:???
勲たちの、熱血によつてしかと結ばれ、その熱血の迸りによつて天へ還らうとする太陽の結社は、
もともと禁じられてゐた。しかし私腹を肥やすための政治結社や、利のためにする営利法人なら、
いくら作つてもよいのだつた。権力はどんな腐敗よりも純粋を怖れる性質があつた。野蛮人が
病気よりも医薬を怖れるやうに。


『何故なんだ、何故なんだ』と勲は歯噛みをして思つた。『人間にはどうしてもつとも
美しい行為が許されてゐないんだ。醜い行為や、薄汚れた行為や、利のためにする行為なら、
いくらでも許されてゐるといふのに。
殺意の中にしか最高の道徳的なものがひそんでゐないことが明らかな時、その殺意を
罪とする法律が、あの無染の太陽、あの天皇の御名によつて施行されてゐるといふことは、
(最高の道徳的なもの自体が最高の道徳的存在によつて罰せられるといふことは、)一体
誰がことさら仕組んだ矛盾だらうか。陛下は果してこんな怖ろしい仕組を御存知だらうか。
これこそは精巧な《不忠》が手間暇かけて作り上げた涜神の機構ではないだらうか。

三島由紀夫「奔馬」より

91 :名無しさん@また挑戦:2011/01/20(木) 11:45:45 ID:???
俺にはわからない。俺にはわからない。どうしてもわからない。しかも殺戮のあと、直ちに
自刃する誓にそむく者は、誰一人ゐなかつた筈だ。さうなつてゐれば、われらは裾の端、
袖の片端でも、あの煩瑣な法律の藪の、下枝の一葉にさへ触れることなく、みごとに藪を
すり抜けて、まつしぐらにかがやく天空へ馳せのぼることができた筈だ。神風連の人々は
さうだつた。もつとも明治六年の法律の藪はまだ疎らだつたにちがひないが……。
法律とは、人生を一瞬の詩に変へてしまはうとする欲求を、不断に妨げてゐる何ものかの集積だ。
血しぶきを以て描く一行の詩と、人生とを引き換へにすることを、万人にゆるすのはたしかに
穏当ではない。しかし内に雄心を持たぬ大多数の人は、そんな欲求を少しも知らないで人生を
送るのだ。だとすれば、法律とは、本来ごく少数者のためのものなのだ。ごく少数の異常な純粋、
この世の規矩を外れた熱誠、……それを泥棒や痴情の犯罪と全く同じ同等の《悪》へ
おとしめようとする機構なのだ。その巧妙な罠へ俺は落ちた。他ならぬ誰かの裏切りによつて!』

三島由紀夫「奔馬」より

92 :名無しさん@また挑戦:2011/01/20(木) 13:23:08 ID:???
香煙が流れてきた。鉦や笛のひびきがして、窓外を葬列が通るらしかつた。人々の忍び泣きの
声が洩れた。しかし、夏の午睡の女の喜びは曇らなかつた。肌の上にあまねく細かい汗を
にじませ、さまざな官能の記憶を蓄へ、寝息につれてかすかにふくらむ腹は、肉のみごとな
盈溢を孕んだ帆のやうである。その帆を内から引きしめる臍には、山桜の蕾のやうなやや
鄙びた赤らみが射して、汗の露の溜つた底に小さくひそかに籠り居をしてゐる。美しく
はりつめた双の乳房は、その威丈高な姿に、却つて肉のメランコリーが漂つてみえるのだが、
はりつめて薄くなつた肌が、内側の灯を透かしてゐるかのやうに、照り映えてゐる。
肌理のこまやかさが絶頂に達すると、環礁のまはりに寄せる波のやうに、けば立つて来るのは
乳暈のすぐかたはらだった。乳暈は、静かな行き届いた悪意に充ちた蘭科植物の色、人々の口に
含ませるための毒素の色で彩られてゐた。その暗い紫から、乳頭はめづらかに、栗鼠のやうに
小賢しく頭をもたげてゐた。それ自体が何か小さな悪戯のやうに。

三島由紀夫「奔馬」より

93 :名無しさん@また挑戦:2011/01/20(木) 13:27:37 ID:???
一寸やはらげれば別物になつてしまひます。その『一寸』が問題なんです。純粋性には、
一寸ゆるめるといふことはありえません。ほんの一寸やはらげれば、それは全然別の思想になり、
もはや私たちの思想ではなくなるのです。


居並ぶ若い被告たちの中でも、とりわけ美しく凛々しく澄んだ勲の目へ、本多は心で呼びかけた。
事件を知つたとき、こよなくふさはしく思はれたその眥(まなじり)を決した目は、ふたたび
この場に不釣合な、ふさはしからぬものに思はれた。
『美しい目よ』と本多は呼んだ。『澄んで光つて、いつも人をたぢろがせ、丁度あの
三光の滝の水をいきなり浴びせられるやうに、この世のものならぬ咎めを感じさせる若者の
無双の目よ。何もかも言ふがよい。何もかも正直に言つて、そして思ふさま傷つくがいい。
お前もそろそろ身を守る術を知るべき年齢だ。何もかも言ふことによつて、最後にお前は、
《真実が誰によつても信じてもらへない》といふ、人生にとつてもつとも大切な教訓を
知るだらう。そんな美しい目に対して、それが私の施すことのできる唯一の教育だ』

三島由紀夫「奔馬」より

94 :名無しさん@また挑戦:2011/01/20(木) 13:30:48 ID:???
現在の日本をここまでおとしめたのは、政治家の罪ばかりでなく、その政治家を私利私慾のために
操つてゐる財閥の首脳に責任があると、深く考へるやうになりました。
しかし、私は決して左翼運動に加はらうとは思ひませんでした。左翼は畏れ多くも陛下に
敵対し奉らうとする思想であります。古来日本は、すめらみことをあがめ奉り、陛下を
日本人といふ一大家族の家長に戴いて相和してきた国柄であり、ここにこそ皇国の真姿があり、
天壌無窮の国体があることは申すまでもありません。
では、このやうに荒廃し、民は飢ゑに泣く日本とは、いかなる日本でありませいか。
天皇陛下がおいでになるのに、かくまで澆季末世になつたのは何故でありませうか。君側に
侍する高位高官も、東北の寒村で飢ゑに泣く農民も、天皇の赤子たることには何ら渝(かは)りが
ないといふのが、すめらみくにの世界に誇るべき特色ではないでせうか。陛下の大御心によつて、
必ず窮乏の民も救はれる日が来るといふのが、私のかつての確信でありました。

三島由紀夫「奔馬」より

95 :名無しさん@また挑戦:2011/01/20(木) 13:33:19 ID:???
日本および日本人は、今やや道に外れてゐるだけだ。時いたれば、大和心にめざめて、
忠良なる臣民として、挙国一致、皇国を本来の姿に戻すことができる、といふのが、私の
かつての希望でありました。天日をおほふ暗雲も、いつか吹き払はれて、晴れやかな
明るい日本が来る筈だ、と信じてをりました。
が、それはいつまで待つても来ません。待てば待つほど、暗雲は濃くなるばかりです。
そのころのことです、私が或る本を読んで啓示に打たれたやうに感じたのは。
それこそ山尾綱紀先生の「神風連史話」であります。これを読んでのちの私は、以前の私と
別人のやうになりました。今までのやうな、ただ座して待つだけの態度は、誠忠の士の
とるべき態度ではないと知つたのです。私はそれまで、「必死の忠」といふことがわかつて
ゐなかつたのです。忠義の焔が心に点火された以上、必ず死なねばならぬといふ消息が
わからなかつたのです。

三島由紀夫「奔馬」より

96 :名無しさん@また挑戦:2011/01/20(木) 13:37:09 ID:???
あそこに太陽が輝いてゐます。ここからは見えませんが、身のまはりの澱んだ灰色の光りも、
太陽に源してゐることは明らかですから、たしかに天空の一角に太陽は輝いてゐる筈です。
その太陽こそ、陛下のまことのお姿であり、その光りを直に身に浴びれば、民草は歓喜の
声をあげ、荒蕪の地は忽ち潤うて、豊葦原瑞穂国の昔にかへることは必定なのです。
けれど、低い暗い雲が地をおほうて、その光りを遮つてゐます。天と地はむざんに分け
隔てられ、会へば忽ち笑み交はして相擁する筈の天と地とは、お互ひの悲しみの顔をさへ
相見ることができません。地をおほふ民草の嗟嘆の声も、天の耳に届くことがありません。
叫んでも無駄、泣いても無駄、訴へても無駄なのです。もしその声が耳に届けば、天は
小指一つ動かすだけでその暗雲を払ひ、荒れた沼地をかがやく田園に変へることができるのです。

三島由紀夫「奔馬」より

97 :名無しさん@また挑戦:2011/01/20(木) 13:40:10 ID:???
誰が天へ告げに行くのか? 誰が使者の大役を身に引受けて、死を以て天へ昇るのか? 
それが神風連の志士たちの信じた宇気比(うけひ)であると私は解しました。
天と地は、ただ座視してゐては、決して結ばれることがない。天と地を結ぶには、何か
決然たる純粋の行為が要るのです。その果断な行為のためには、一身の利害を超え、
身命を賭さなくてはなりません。身を竜と化して、竜巻を呼ばなければなりません。
それによつて低迷する暗雲をつんざき、瑠璃色にかがやく天空へ昇らなければなりません。
もちろん大ぜいの人手と武力を借りて、暗雲の大掃除をしてから天へ昇るといふことも
考へました。が、さうしなくてもよいといふことが次第にわかりました。神風連の志士たちは、
日本刀だけで近代的な歩兵営に斬り込んだのです。雲のもつとも暗いところ、汚れた色の
もつとも色濃く群がり集まつた一点を狙へばよいのです。力をつくして、そこに穴をうがち、
身一つで天に昇ればよいのです。

三島由紀夫「奔馬」より

98 :名無しさん@また挑戦:2011/01/20(木) 15:13:17 ID:???
私は人を殺すといふことは考へませんでした。ただ、日本を毒してゐる凶々しい精神を
討ち滅ぼすには、それらの精神が身にまとうてゐる肉体の衣を引き裂いてやらねばなりません。
さうしてやることによつて、かれらの魂も亦浄化され、明く直き大和心に還つて、私共と
一緒に天へ昇るでせう。その代り、私共も、かれらの肉体を破壊したあとで、ただちに
いさぎよく腹を切つて、死ななければ間に合はない。なぜなら、一刻も早く肉体を捨てなければ、
魂の、天への火急のお使ひの任務が果せぬからです。
大御心を揣摩することはすでに不忠です。忠とはただ、命を捨てて、大御心に添はんと
することだと思ひます。暗雲をつんざいて、昇天して、太陽の只中へ、大御心の只中へ
入るのです。
……以上が、私や同志の心に誓つてゐたことのすべてであります。

三島由紀夫「奔馬」より

99 :名無しさん@また挑戦:2011/01/20(木) 15:17:31 ID:???
「僕は幻のために生き、幻をめがけて行動し、幻によつて罰せられたわけですね。……どうか
幻でないものがほしいと思ひます」
「大人になればそれが手に入るのだよ」
「大人になるより、……さうだ、女に生れ変つたらいいかもしれません。女なら、幻など
追はんで生きられるでせう、母さん」
勲は亀裂が生じたやうに笑つた。
「何を言ふんです。女なんかつまりませんよ。莫迦だね。酔つたんだね、そんなこと言つて」
みねは怒つたやうにさう答へた。


酔ひに赤らんだ勲の寝顔は苦しげに荒々しく息づいてゐたが、眠つてゐるあひだも、眉は
凛々しく引締めてゐた。突然、寝返りを打ちながら、勲が大声で、しかし不明瞭に言ふ寝言を
本多は聴いた。
「ずつと南だ。ずつと暑い。……南の国の薔薇の光りの中で。……」

三島由紀夫「奔馬」より

100 :名無しさん@また挑戦:2011/01/20(木) 15:20:22 ID:???
勲は湿つた土の上に正座して、学生服の上着を脱いだ。内かくしから白鞘の小刀をとり出した。
それが確かに在つたといふことに、全身がずり落ちるやうな安堵を感じた。
学生服の下には毛のシャツとアンダー・シャツを着てゐたが、海風の寒さが、上着を
脱ぐやいなや、身を慄はせた。
『日の出には遠い。それまで待つことはできない。昇る日輪はなく、けだかい松の樹蔭もなく、
かがやく海もない』
と勲は思つた。
シャツを悉く脱いで半裸になると、却つて身がひきしまつて、寒さは去つた。ズボンを寛げて、
腹を出した。小刀を抜いたとき、蜜柑畑のはうで、乱れた足音と叫び声がした。
「海だ。舟で逃げたにちがひない」
といふ甲走る声がきこえた。
勲は深く呼吸して、左手で腹を撫でると、瞑目して、右手の小刀の刃先をそこへ押しあて、
左手の指さきで位置を定め、右腕に力をこめて突つ込んだ。
正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕(かくやく)と昇つた。

三島由紀夫「奔馬」より

101 :名無しさん@また挑戦:2011/01/20(木) 19:43:14 ID:???
芸術といふのは巨大な夕焼です。一時代のすべての佳いものの燔祭(はんさい)です。
さしも永いあひだつづいた白昼の理性も、夕焼のあの無意味な色彩の濫費によつて台無しにされ、
永久につづくと思はれた歴史も、突然自分の終末に気づかせられる。美がみんなの目の前に
立ちふさがつて、あらゆる人間的営為を徒爾(あだごと)にしてしまふのです。あの夕焼の
花やかさ、夕焼雲のきちがひじみた奔逸を見ては、『よりよい未来』などといふたはごとも
忽ち色褪せてしまひます。現前するものがすべてであり、空気は色彩の毒に充ちてゐます。
何がはじまつたのか? 何もはじまりはしない。ただ、終るだけです。
そこには本質的なものは何一つありません。なるほど夜には本質がある。それは宇宙的な本質で、
死と無機的な存在そのものだ。昼にも本質がある。人間的なものすべては昼に属してゐるのです。
夕焼の本質などといふものはありはしません。ただそれは戯れだ。あらゆる形態と光りと色との、
無目的な、しかし厳粛な戯れだ。ごらんなさい、あの紫の雲を。自然は紫などといふ色の
椀飯振舞をすることはめつたにないのです。

三島由紀夫「暁の寺」より

102 :名無しさん@また挑戦:2011/01/20(木) 19:55:27 ID:???
社会正義を自ら代表してゐるやうな顔をしながら、それ自体が売名であるところの、
貧しい弁護士などといふのは滑稽な代物だつた。本多は法の救済の限度をよく心得てゐた。
本当のことをいへば、弁護士に報酬も払へないやうな人間に法を犯す資格はない筈なのに、
多くの人々はあやまつて必要から或ひは愚かしさから法を犯すのであつた。
時として、広大な人間性に、法といふ規矩を与へることほど、人間の思ひついたもつとも
不遜な戯れはない、と思はれることもあつた。犯罪が必要や愚かしさから生れがちなら、
法の基礎をなす習俗(ジッテ)もさうだとは云へないだらうか?


時代が驟雨のやうにざわめき立つて、数ならぬ一人一人をも雨滴で打ち、個々の運命の小石を
万遍なく濡らしてゆくのを、本多はどこにも押しとどめる力のないことを知つてゐた。が、
どんな運命も終局的に悲惨であるかどうかは定かではなかつた。歴史は、つねに、ある人々の
願望にこたへつつ、別のある人々の願望にそむきつつ、進行する。いかなる悲惨な未来と
いへども、万人の願ひを裏切るわけではない。

三島由紀夫「暁の寺」より

103 :名無しさん@また挑戦:2011/01/20(木) 19:59:55 ID:???
本多は自分が決して美しい青年ではなかつたことを知つてゐたから、こんな不透明な年齢の
外被が満更ではなかつた。
それに現在の彼は、青年に比べれば、はるかに確実に未来を所有してゐた。何かにつけて
青年が未来を喋々するのは、ただ単に彼らがまだ未来をわがものにしてゐないからにすぎない。
何事かの放棄による所有、それこそは青年の知らぬ所有の秘訣だ。


天変地異は別として、歴史的生起といふものは、どんなに不意打ちに見える事柄であつても、
実はその前に永い逡巡、いはば愛を受け容れる前の娘のやうな、気の進まぬ気配を伴ふのである。
こちらの望みにすぐさま応へ、こちらの好みの速度で近づいてくる事柄には、必ず作り物の
匂ひがあつたから、自分の行動を歴史的法則に委ねようとするなら、よろづに気の進まぬ態度を
持するのが一番だつた。欲するものが何一つ手に入らず、意志が悉く無効にをはる例を、
本多はたくさん見すぎてゐた。ほしがらなければ手に入るものが、欲するが為に手に入らなく
なつてしまふのだ。

三島由紀夫「暁の寺」より

104 :名無しさん@また挑戦:2011/01/21(金) 12:06:29 ID:???
日独伊三国同盟は、一部の日本主義の人たちと、フランスかぶれやアングロ・マニヤを
怒らせはしたけれども、西洋好き、ヨーロッパ好きの大多数の人たちはもちろん、古風な
アジア主義たちからも喜ばれてゐた。ヒットラーとではなくゲルマンの森と、ムッソリーニと
ではなくローマのパンテオンと結婚するのだ。それはゲルマン神話とローマ神話と古事記との
同盟であり、男らしく美しい東西の異教の神々の親交だつたのである。
本多はもちろんさういふロマンティックな偏見には服しなかつたが、時代が身も慄へるほど
何かに熱して、何かを夢見てゐることは明らかだつた。


十九歳の少年が自分の性格に対して抱く本能的な危惧は、場合によつてはおそろしく正確な
予見になる。


狷介な日本、緋縅(ひをどし)の若武者そのままに矜り高く、しかも少年のやうに
傷つきやすい日本は、人に嘲笑されるより先に自ら進んで挑み、人に蔑されるより先に自ら
進んで死んだ。勲は、清顕とはちがつて、正にこのやうな世界の核心に生き、かつ、霊魂を
信じてゐた。

三島由紀夫「暁の寺」より

105 :名無しさん@また挑戦:2011/01/21(金) 12:09:45 ID:???
もし生きようと思へば、勲のやうに純粋を固執してはならなかつた。あらゆる退路を自ら絶ち、
すべてを拒否してはならなかつた。
勲の死ほど、純粋な日本とは何だらうといふ省察を、本多に強ひたものはなかつた。すべてを
拒否すること、現実の日本や日本人をすらすべて拒絶し否定することのほかに、このもつとも
生きにくい生き方のほかに、とどのつまりは誰かを殺して自刃することのほかに、真に
「日本」と共に生きる道はないのではなからうか? 誰もが怖れてそれを言はないが、
勲が身を以て、これを証明したのではなからうか?
思へば民族のもつとも純粋な要素には必ず血の匂ひがし、野蛮の影が射してゐる筈だつた。
世界中の動物愛護家の非難をものともせず、国技の闘牛を保存したスペインとちがつて、
日本は明治の文明開化で、あらゆる「蛮風」を払拭しようと望んだのである。その結果、
民族のもつとも生々しい純粋な魂は地下に隠れ、折々の噴火にその兇暴な力を揮つて、
ますます人の忌み怖れるところとなつた。
いかに怖ろしい面貌であらはれようと、それはもともと純白な魂であつた。

三島由紀夫「暁の寺」より

106 :名無しさん@また挑戦:2011/01/21(金) 12:14:28 ID:???
しかし霊魂を信じた勲が一旦昇天して、それが又、善因善果にはちがひないが、人間に
生れかはつて輪廻に入つたとすると、それは一体何事だらう。
さう思へばさう思ひなされる兆もあるが、死を決したころの勲は、ひそかに「別の人生」の
暗示に目ざめてゐたのではないだらうか。一つの生をあまりにも純粋に究極的に生きようと
すると、人はおのづから、別の生の存在の予感に到達するのではなからうか。


死にぎはの勲の心が、いかに仏教から遠からうと、このやうな関はり方こそ、日本人の
仏教との関はり方を暗示してゐると本多には思はれた。それはいはばメナムの濁水を、
白絹の漉袋(こしぶくろ)で漉したのである。


清顕や勲の生涯が示した未成熟の美しさに比べれば、芸術や芸術家の露呈する未成熟、それを
以てかれらの仕事の本質としてゐる未成熟ほど、醜いものはないといふのが本多の考へだつた。
かれらは八十歳までそれを引きずつて歩くのだ。いはば引きずつてゐる襁褓(むつき)を
売物にして。
さらに厄介なのは贋物の芸術家で、えもいはれぬ昂然としたところが、独特の卑屈さと
入りまじつて、怠け者特有の臭気があつた。

三島由紀夫「暁の寺」より

107 :名無しさん@また挑戦:2011/01/21(金) 12:18:23 ID:???
酒がすこしづつ酢に、牛乳がすこしづつヨーグルトに変つてゆくやうに、或る放置されすぎた
ものが飽和に達して、自然の諸力によつて変質してゆく。人々は永いこと自由と肉慾の過剰を
怖れて暮してゐた。はじめて酒を抜いた翌朝のさはやかさ、自分にはもう水だけしか要らないと
感じることの誇らしさ。……さういふ新らしい快楽が人々を犯しはじめてゐた。さういふものが
人々をどこへ連れて行くかは、本多にはおよそのところがつかめてゐた。それはあの勲の
死によつて生れた確信であつた。純粋なものはしばしば邪悪なものを誘発するのだ。


インドでは無情と見えるものの原因は、みな、秘し隠された、巨大な、怖ろしい喜悦に
つながつてゐた! 本多はこのやうな喜悦を理解することを怖れた。しかし自分の目が、
究極のものを見てしまつた以上、それから二度と癒やされないだらうと感じられた。
あたかもベナレス全体が神聖な癩にかかつてゐて、本多の視覚それ自体も、この不治の病に
犯されたかのやうに。

三島由紀夫「暁の寺」より

108 :名無しさん@また挑戦:2011/01/21(金) 16:21:29 ID:???
成功にあれ失敗にあれ、遅かれ早かれ、時がいづれは与へずにはおかぬ幻滅に対する先見は、
ただそのままでは何ら先見ではない。それはありふれたペシミズムの見地にすぎぬからだ。
重要なのは、ただ一つ、行動を以てする、死を以てする先見なのだ。勲はみごとにこれを果した。
そのやうな行為によつてのみ、時のそこかしこに立てられた硝子の障壁、人の力では決して
のりこえられぬその障壁の、向う側からはこちら側を、こちら側からは向う側を、等分に
透かし見ることが可能になるのだ。渇望において、憧憬において、夢において、理想において、
過去と未来とが等価になり同質になり、要するに平等になるのである。


歴史は決して人間意志によつては動かされぬが、しかも人間意志の本質は、歴史に敢て
関はらうとする意志だ、といふ考へこそ、少年時代以来一貫して渝らぬ本多の持説であつた。

三島由紀夫「暁の寺」より

109 :名無しさん@また挑戦:2011/01/21(金) 16:25:33 ID:???
本多は、輪廻転生を、一つの灯明の譬を以て説き、その夕べの焔、夜ふけの焔、夜の
ひきあけに近い時刻の焔は、いづれもまつたく同じ焔でもなければ、さうかと云つて別の
焔でもなく、同じ灯明に依存して、夜もすがら燃えつづけるのだ、といふナーガセーナの説明に
えもいはれぬ美しさを感じた。緑生としての個人の存在は、実体的存在ではなく、この
焔のやうな「事象の連続」に他ならない。
そして又、ナーガセーナは、はるかはるか後世になつてイタリアの哲学者が説いたのと
ほとんど等しく、
「時間とは輪廻の生存そのものである」
と教へるのであつた。


生は活動してゐる。阿頼耶識が動いてゐる。この識は総報の果体であり、一切の活動の
結果である種子(しゆうじ)を蔵(をさ)めてゐるから、われわれが生きてゐるといふことは、
畢竟、阿頼耶識が活動してゐることに他ならぬのであつた。
その識は滝のやうに絶えることなく白い飛沫を散らして流れてゐる。つねに滝は目前に見えるが、
一瞬一瞬の水は同じではない。水はたえず相続転起して、流動し、繁吹を上げてゐるのである。

三島由紀夫「暁の寺」より

110 :名無しさん@また挑戦:2011/01/21(金) 21:23:09 ID:???
阿頼耶識はかくて有情総報の果体であり、存在の根本原因なのであつた。たとへば人間としての
阿頼耶識が現行するといふことは、人間が現に存在するといふことにほかならない。
阿頼耶識は、かくてこの世界、われわれの住む迷界を顕現させてゐる。すべての認識の根が、
すべての認識対象を包括し、かつ顕現させてゐるのだ。その世界は、肉体(五根)と
自然界(器世界)と種子(物質・精神あらゆるものを現行させるべき潜勢力)とから
成立つてゐる。われわれが我執にとらはれて考へる実体としての自我も、われわれが死後に
つづくと考へる霊魂も、一切諸法を生ずる阿頼耶識から生じたものであれば、一切は
阿頼耶識に帰し、一切は識に帰するのだ。
しかるに、唯識の語から、何かわれわれが、こちら側に一つの実体としての主観を考へ、
そこに映ずる世界をすべてその所産と見なす唯心論を考へるならば、それはわれわれが、
我と阿頼耶識を混同したのだと言はねばならない。なぜなら、常数としての我は一つの不変の
実在であらうが、阿頼耶識は一瞬もとどまらない「無我の流れ」だからである。

三島由紀夫「暁の寺」より

111 :名無しさん@また挑戦:2011/01/21(金) 21:26:48 ID:???
第七識までがすべて世界を無であると云ひ、あるひは五蘊悉く滅して死が訪れても、
阿頼耶識があるかぎり、これによつて世界は存在する。一切のものは阿頼耶識によつて存し、
阿頼耶識があるから一切のものはあるのだ。しかし、もし、阿頼耶識を滅すれば?
しかし世界は存在しなければならないのだ!
従つて、阿頼耶識は滅びることがない。滝のやうに、一瞬一瞬の水はことなる水ながら、
不断に奔逸し激動してゐるのである。
世界を存在せしめるために、かくて阿頼耶識は永遠に流れてゐる。
世界はどうあつても存在しなければならないからだ!
しかし、なぜ?
なぜなら、迷界としての世界が存在することによつて、はじめて悟りへの機縁が齎らされる
からである。
世界が存在しなければならぬ、といふことは、かくて、究極の道徳的要請であつたのだ。
それが、なぜ世界は存在する必要があるのだ、といふ問に対する、阿頼耶識の側からの
最終の答である。

三島由紀夫「暁の寺」より

112 :名無しさん@また挑戦:2011/01/21(金) 21:31:09 ID:???
もし迷界としての世界の実有が、究極の道徳的要請であるならば、一切諸法を生ずる
阿頼耶識こそ、その道徳的要請の源なのであるが、そのとき、阿頼耶識と世界は、すなはち、
阿頼耶識と、染汚法の形づくる迷界は、相互に依拠してゐると云はなければならない。
なぜなら、阿頼耶識がなければ世界は存在しないが、世界が存在しなければ阿頼耶識は自ら
主体となつて輪廻転生をするべき場を持たず、従つて悟達への道は永久に閉ざされることに
なるからである。
最高の道徳的要請によつて、阿頼耶識と世界は相互に依為し、世界の存在の必要性に、
阿頼耶識も亦、依拠してゐるのであつた。
しかも現在の一刹那だけが実有であり、一刹那の実有を保証する最終の根拠が阿頼耶識で
あるならば、同時に、世界の一切を顕現させてゐる阿頼耶識は、時間の軸と空間の軸の
交はる一点に存在するのである。
ここに、唯識論独特の同時更互因果の理が生ずる、と本多は辛うじて理解した。

三島由紀夫「暁の寺」より

113 :名無しさん@また挑戦:2011/01/21(金) 21:34:33 ID:???
われわれの世界構造は、いはば阿頼耶識の種子を串にして、そこに無限の数の刹那の横断面を、
すなはち輪切りにされた胡瓜の薄片を、たえずいそがしく貫ぬいては捨て、貫ぬいては
捨てるやうな形になつてゐるのである。
輪廻転生は人の生涯の永きにわたつて準備されて、死によつて動きだすものではなくて、
世界を一瞬一瞬新たにし、かつ一瞬一瞬廃棄してゆくのであつた。
かくて種子は一瞬一瞬、この世界といふ、巨大な迷ひの華を咲かせ、かつ華を捨てつつ
相続されるのであるが、種子が種子を生ずるといふ相続には、前にも述べたやうに、業種子の
助縁が要る。この助縁をどこから得るかといふのに、一瞬間の現行の熏に依るのである。
唯識の本当の意味は、われわれ現在の一刹那において、この世界なるものがすべてそこに
現はれてゐる、といふことに他ならない。しかも、一刹那の世界は、次の刹那には一旦滅して、
又新たな世界が立ち現はれる。現在ここに現はれた世界が、次の瞬間には変化しつつ、
そのままつづいてゆく。かくてこの世界すべては阿頼耶識なのであつた。……

三島由紀夫「暁の寺」より

114 :名無しさん@また挑戦:2011/01/22(土) 19:22:24 ID:???
生きてゐる人間が純粋な感情を持続したり代表したりするなんて冒涜的なことです。


彼女は本多の物語を聴くときと同様、自分の肉体がたえず語りかける言葉を、いい加減に
聞き流してゐるやうに見えた。あまり大きくてあまり黒い瞳が、知的なものを通りすぎ、
何だか盲目のやうに見える。形態のふしぎ。ジン・ジャンが本多の前で、さうした、いくらか
強すぎる芳香を放つやうな感じのする肉を保つてゐるのは、ここ日本までたえず影響を
及ぼしてくる遠い密林の暈気のおかげであり、人が血筋と呼んでゐるものは、どこまでも
追ひかけてくる深い無形の声のやうな気がする。ある場合は熱い囁きになり、ある場合は
嗄れた叫びになるその声こそは、あらゆる美しい肉の形態の原因であり、又、その形が
惹き起す魅惑の源泉なのだ。


この世には道徳よりもきびしい掟がある、と本多が感じるのはその時だつた。ふさはしく
ないものは、決して人の夢を誘はず、人の嫌悪をそそるといふだけで、すでに罰せられてゐた。

三島由紀夫「暁の寺」より

115 :名無しさん@また挑戦:2011/01/22(土) 19:29:48 ID:???
ただ自足してゐなくて、不安に充ち、さりとてすでに無知ではない。知りうることと
知りえないこととの境界を垣間見たといふだけで、すでに無知ではない。そして不安こそ、
われわれが若さからぬすみうるこよない宝だ。本多はすでに清顕と勲の人生に立会ひ、
手をさしのべることの全く無意味な、運命の形姿をこの目で見たのだつた。それは全く、
欺されてゐるやうなものだつた。生きるといふことは、運命の見地に立てば、まるきり詐欺に
かけられてゐるやうなものだつた。そして人間存在とは? 人間存在とは不如意だ、
といふことを、本多は印度でしたたかに学んだのである。
さるにても、生の絶対の受身の姿、尋常では見られない生のごく存在論的な姿、さういふものに
本多は魅せられすぎ、又さういふものでなくては生ではないといふ、贅沢な認識に染まり
すぎてゐた。彼は誘惑者の資格を徹底的に欠いてゐた。なぜなら、誘惑し欺すといふことは、
運命の見地からは徒爾だつたし、誘惑するといふ意志そのものが徒爾だつたからである。

三島由紀夫「暁の寺」より

116 :名無しさん@また挑戦:2011/01/22(土) 19:33:38 ID:???
純粋に運命自体によつてだけ欺されてゐる生の姿以外に、生はない、と考へるとき、どうして
われわれの介入が可能であらう。そのやうな存在の純粋なすがたを、見ることさへどうして
できよう。さしあたつては、その不在においてだけ、想像力で相渉るほかはない。一つの
宇宙の中に自足してゐるジン・ジャン、それ自体が一つの宇宙であるジン・ジャンは、
あくまでも本多と隔絶してゐなければならない。彼女はともすると一種の光学的存在であり、
肉体の虹なのであつた。顔は赤、首筋は橙いろ、胸は黄、腹は緑、太腿は青、脛は藍、
足の指は菫いろ、そして顔の上部には見えない赤外線の心と、足の蹈まへる下には見えない
紫外線の記憶の足跡と。……そしてその虹の端は、死の天空へ融け入つてゐる。死の空へ
架ける虹。知らないといふことが、そもそもエロティシズムの第一条件であるならば、
エロティシズムの極致は、永遠の不可知にしかない筈だ。すなはち「死」に。

三島由紀夫「暁の寺」より

117 :名無しさん@また挑戦:2011/01/22(土) 19:38:56 ID:???
自分の中ですでに公然と理性を汚辱してゐた彼が、危険をかへりみない、といふことは
ありえない。なぜなら、真の危険を犯すものは理性であり、その勇気も理性からだけ
生れるからだ。


慶子は急に何か思ひついたやうに、手提から固形香水をとりだして、翡翠の耳飾りを
垂らした耳朶にこすりつけた。
これが何かの合図になつたみたいに、ロビーの灯火がのこらず消えた。
「ちえつ、停電だ」
と克己の声が言つた。停電のときに、停電だと言つて、一体それが何になるのだらう、
と本多は思つた。怠惰の言訳としてしか言葉を使はぬ人間がゐるものだ。


あの目なしには、今西と椿原夫人の結びつきには、贋物の匂ひが拭はれず、野合の負け目が
除かれぬ。あれこそはもつとも威ある媒酌人の目だつたからだ。寝室の薄闇の一隅に
光つてゐたあの女神のやうな犀利な瞳こそ、結びつけながら拒絶し、ゆるしながら蔑む
証人の目、この世のどこかに安置されてゐる或る神秘な正義の、いやいやながらの承認を
司る目なのであつた。

三島由紀夫「暁の寺」より

118 :名無しさん@また挑戦:2011/01/22(土) 19:50:31 ID:???
必要から生れたものには、必要の苦さが伴ふ。この想像力には甘美なところがみぢんもなかつた。
もし事実の上に立つて羽搏く想像力なら、心をのびやかにひろげることもあらうに、事実へ
無限に迫らうとする想像力は、心を卑しくさせ、涸渇させる。ましてその「事実」が
なかつたとしたら、その瞬間にすべては徒労になるのだ。
しかし、事実はたしかにどこかにある、といふ刑事の想像力ならば、わが身を蝕むことは
あるまい。梨枝の想像力は二つのものを兼ねてゐた、すなはち、事実がたしかにどこかにある、
といふ気持と、その事実がなくてくれればいい、といふ気持と。かうして嫉妬の想像力は
自己否定に陥るのだ。想像力が一方では、決して想像力を容認しないのである。丁度過剰な
胃酸が徐々に自らの胃を蝕むやうに、想像力がその想像力の根源を蝕んでゆくうちに、
悲鳴に似た救済の願望があらはれる。事実があれば、事実さへあれば、自分は助かるのだ! 
攻めの一手の探究の果てに、かうしてあらはれる救済の願望は、自己処罰の欲望に似て来てしまふ。
なぜならその事実は、(もしあるとすれば)、自分を打ちのめす事実に他ならないからだ。

三島由紀夫「暁の寺」より

119 :名無しさん@また挑戦:2011/01/23(日) 15:22:23 ID:???
無知によつて歴史に与り、意志によつて歴史から辷り落ちる人間の不如意を、隈なく
眺めてきた本多は、ほしいものが手に入らないといふ最大の理由は、それを手に入れたいと
望んだからだ、といふ風に考へる。一度も望まなかつたので、三億六千万円は彼のものに
なつたのである。
それが彼の考へ方だつた。ほしいものが手に入らない、といふことを、自分の至らぬためとか、
生れつきの欠点のためとか、乃至は、自分が身に負うてゐる悲運のためとか決して考へる
ことがなく、それをすぐ法則化し普遍化するのが本多の持ち前だつたから、彼がやがて
その法則の裏を掻かうと試みはじめたのにふしぎはない。何でも一人でやる人間だつたから、
立法者と脱法者を兼ねることなぞ楽にできた。すなはち、自分が望むものは決して手に
入らぬものに限局すること、もし手に入つたら瓦礫と化するに決つてゐるから、望む対象に
できうるかぎり不可能性を賦与し、少しでも自分との間の距離を遠くに保つやうに努力すること、
……いはば熱烈なアパシーとでも謂ふべきものを心に持すること。

三島由紀夫「暁の寺」より

120 :名無しさん@また挑戦:2011/01/23(日) 15:25:52 ID:???
身の毛もよだつほどの自己嫌悪が、もつとも甘い誘惑と一つになり、自分の存在の否定自体が、
決して癒されぬといふことの不死の観念と一緒になるのだ。存在の不治こそは不死の感覚の
唯一の実質だつた。


自分の人生は暗黒だつた、と宣言することは、人生に対する何か痛切な友情のやうにすら
思はれる。お前との交遊には、何一つ実りはなく、何一つ歓喜はなかつた。お前は俺が
たのみもしないのに、その執拗な交友を押しつけて来て、生きるといふことの途方もない
綱渡りを強ひたのだ。陶酔を節約させ、所有を過剰にし、正義を紙屑に変へ、理智を家財道具に
換価させ、美を世にも恥かしい様相に押しこめてしまつた。人生は正統性を流刑に処し、
異端を病院へ入れ、人間性を愚昧に陥れるために大いに働らいた。それは、膿盆の上の、
血や膿のついた汚れた繃帯の堆積だつた。すなはち、不治の病人の、そのたびごとに、
老いも若きも同じ苦痛の叫びをあげさせる、日々の心の繃帯交換。

三島由紀夫「暁の寺」より

121 :名無しさん@また挑戦:2011/01/23(日) 15:30:29 ID:???
彼はこの山地の空のかがやく青さのどこかに、かうして日々の空しい治癒のための、
荒つぽい義務にたづさはる、白い壮麗な看護婦の巨大なしなやかな手が隠れてゐるのを感じた。
その手は彼にやさしく触れて、又しても彼に、生きることを促すのであつた。乙女峠の
空にかかる白い雲は、偽善的なほど衛生的な、白い新らしいまばゆい繃帯の散乱であつた。


甚だゆつくりした物腰、やや尊大な物の言ひつぷり、日常生活にまで安全運転のしみ込んだ
この男の、決して動じない態度には苛立たされる。人生が車の運転と同様に、慎重一点張りで
成功するなどと思はれてたまるものか。


或る感情の量を極度まで増してゆくとおのづから質が変つて、わが身を滅ぼすかと思はれた
悩みの蓄積が、ふいに生きる力に変るのだ。はなはだ苦い、はなはだ苛烈な、しかし俄かに
展望のひらける青い力、すなはち海に。
本多は妻がそのとき、曾て見も知らぬ苦いしたたかな女に変りつつあるのに気づいてゐなかつた。
不機嫌や黙りがちの探索で彼を苦しめてゐた間の梨枝は、実はまだその蛹にすぎなかつた。

三島由紀夫「暁の寺」より

122 :名無しさん@また挑戦:2011/01/23(日) 15:34:29 ID:???
飛翔するジン・ジャンをこそ見たいのに、本多の見るかぎりジン・ジャンは飛翔しない。
本多の認識世界の被造物にとどまる限り、ジン・ジャンはこの世の物理法則に背くことは
叶はぬからだ。多分、(夢の裡を除いて)、ジン・ジャンが裸で孔雀に乗つて飛翔する世界は、
もう一歩のところで、本多の認識自体がその曇りになり瑕瑾になり、一つの極微の歯車の
故障になつて、正にそれが原因で作動しないのかもしれぬ。ではその故障を修理し、歯車を
取り換へたらどうだらうか? それは本多をジン・ジャンと共有する世界から除去すること、
すなはち本多の死に他ならない。
今にして明らかなことは、本多の欲望がのぞむ最終のもの、彼の本当に本当に本当に
見たいものは、彼のゐない世界にしか存在しえない、といふことだつた。真に見たいものを
見るためには、死なねばならないのである。
覗く者が、いつか、覗くといふ行為の根源の抹殺によつてしか、光明に触れえぬことを
認識したとき、それは、覗く者が死ぬことである。
認識者の自殺といふものの意味が、本多の心の中で重みを持つたのは、生れてはじめてだと
云つてよかつた。

三島由紀夫「暁の寺」より

123 :名無しさん@また挑戦:2011/01/23(日) 15:40:50 ID:???
「今夜が最後と思へば、話なんていくらだつてあります。この世のありとあらゆることを
話し合ふんですね。自分のやつたこと、人のやつたこと、世界が体験したこと、人類が今まで
やつてきたこと、あるひは置きざりにされた一つの大陸が何千年ものあひだじつと夢み
つづけてきたこと、何でもいいのです。話の種子はいつぱいあります。今夜限りで世界は
終るのですからね」


「信心をお持ちになつたらどうなんです」
「信心なんて。裏切る心配のない見えない神様などを信じてもつまりませんわ。私一人を
いつもじつと見つづけて、あれはいけない、これはいけない、とたえず手取り足取り指図して
下さる神様でなければ。その前では何一つ隠し立てのできない、その前ではこちらも浄化されて、
何一つ羞恥心を持つことさへ要らない、さういふ神様でなければ、何になるでせう」


「おたのしさうね、皆さん。こんな時代が来るなんて、戦争中に誰が想像したでせう。
一度でもいいから、暁雄にこんな思ひをさせてやりたかつた」

三島由紀夫「暁の寺」より

124 :名無しさん@また挑戦:2011/01/23(日) 15:48:26 ID:???
かういふ動悸には馴染がある。夜の公園に身をひそめてゐる折、目の前に待ちかねてゐたものが
いよいよはじまるといふ時に、赤い蟻が一せいに心臓にたかつて、同じ動悸を惹き起す。
それは一種の雪崩だ。この暗い蜜の雪崩が、世界を目のくらむやうな甘さで押し包み、
理智の柱をへし折り、あらゆる感情を機械的な早い鼓動だけで刻んでしまふ。何もかも
融けてしまふ。これに抗はうとしても無駄なことだ。
それはどこから襲つて来るのだらう。どこかに官能の深い棲家があつて、それが遠くから指令を
及ぼすと、どんな貧しい触角も敏感にそよぎ、何もかも打ち捨てて、走り出さなければならない。
快楽の呼ぶ声と死の呼ぶ声は何と似てゐることか。ひとたび呼ばれれば、どんな目前の仕事も
重要でなくなり、つけかけの航海日誌や、喰べかけの食事や、片方だけ磨いた靴や、鏡の前に
今置いたばかりの櫛や、繋ぎかけたロープもそのままに、全乗組員が消え去つたあとを
とどめてゐる幽霊船のやうに、すべてをやりかけのまま見捨てて出て行かねばならない。

三島由紀夫「暁の寺」より

125 :名無しさん@また挑戦:2011/01/23(日) 15:52:02 ID:???
動悸はこのことの起る予兆なのだ。そこからはじまることはみつともなさと醜悪だけと
知れてゐるのに、この動悸には必ず虹のやうな豊麗さが含まれ、崇高と見分けのつかないものが
ひらめいてゐた。
崇高と見分けのつかないもの。それこそは曲者だつた。どんな高尚な事業どんな義烈の行為へ
人を促す力も、どんな卑猥な快楽どんな醜怪な夢へそそのかす力も、全く同じ源から出、
同じ予兆の動悸を伴ふといふことほど、見たくない真実はなかつた。もし下劣な欲望は
下劣な影をちらつかせるにすぎず、そもそもこの最初の動悸に崇高さの誘惑がひらめかなければ、
人はまだしも平静な矜りを持して生きることができるのだ。ともすると誘惑の根源は
肉慾ではなくて、この思はせぶりな、このおぼろげな、この雲間に隠見する峯のやうな銀の
崇高さの幻影なのだつた。それは一先づ人をとりこにし、次いで耐へきれぬ焦燥から広大な
光りへあこがれさせる、「崇高」の鳥黐だつた。

三島由紀夫「暁の寺」より

126 :名無しさん@また挑戦:2011/01/23(日) 15:56:13 ID:???
うすくにじみ出す煙のなかから、火が兇暴な拳をつき出して、焔の吹き出す口をあける
移りゆきの、ほとんど滑らかな速度には、夢よりも巧妙なものがあつた。
本多は肩や袖にふりかかる火の粉を払ひ、プールの水面は、燃え尽きた木片や、藻のやうに
蝟集した灰におほはれてゐた。しかし火の輝やきはすべてを射貫いて、マニカルニカ・ガートの
焔の浄化は、この小さな限られた水域、ジン・ジャンが水を浴びるために造られた神聖な
プールに逆しまに映つてゐた。ガンジスに映つてゐたあの葬りの火とどこが違つたらう。
ここでも亦、火は薪と、それから焼くのに難儀な、おそらく火中に何度か身を反らし、
腕をもたげたりした、もはや苦痛はないのに肉がただ苦しみの形をなぞり反復して滅びに抗ふ、
二つの屍から作られたのである。それは夕闇に浮んだガートのあの鮮明な火と、正確に同質の
火であつた。すべては迅速に四大へ還りつつあつた。煙は高く天空を充たしてゐた。
ただ一つここにないものは、焔のかなたからこちらを振り向いて、本多の顔をひたと見据ゑた
あの白い聖牛の顔だけである。……

三島由紀夫「暁の寺」より

127 :名無しさん@また挑戦:2011/01/24(月) 16:18:10 ID:???
乳海攪拌のインド神話を、毎日毎日、ごく日常的にくりかへしてゐる海の攪拌作用。たぶん
世界はじつとさせておいてはいけないのだらう。じつとしてゐることには、自然の悪を
よびさます何かがあるのだらう。
五月の海のふくらみは、しかしたえずいらいらと光りの点描を移してをり、繊細な突起に
充たされてゐる。
三羽の鳥が空の高みを、ずつと近づき合つたかと思ふと、また不規則に隔たつて飛んでゆく。
その接近と離隔には、なにがしかの神秘がある。相手の羽風を感じるほどに近づきながら、又、
その一羽だけついと遠ざかるときの青い距離は、何を意味するのか。三羽の鳥がさうするやうに、
われわれの心の中に時たま現はれる似たような三つの思念も?


海、名のないもの、地中海であれ、日本海であれ、目前の駿河湾であれ、海としか名付けようの
ないもので辛うじて統括されながら、決してその名に服しない、この無名の、この豊かな、
絶対の無政府主義(アナーキー)。

三島由紀夫「天人五衰」より

128 :名無しさん@また挑戦:2011/01/24(月) 16:21:59 ID:???
刹那刹那の海の色の、あれほどまでに多様な移りゆき。雲の変化。そして船の出現。
……そのたびに一体何が起るのだらう。生起とは何だらう。
刹那刹那、そこで起つてゐることは、クラカトアの噴火にもまさる大変事かもしれないのに、
人は気づかぬだけだ。存在の他愛なさにわれわれは馴れすぎてゐる。世界が存在してゐるなどと
いふことは、まじめにとるにも及ばぬことだ。
生起とは、とめどない再構成、再組織の合図なのだ。遠くから波及する一つの鐘の合図。
船があらはれることは、その存在の鐘を打ち鳴らすことだ。たちまち鐘の音はひびきわたり、
すべてを領する。海の上には、生起の絶え間がない。存在の鐘がいつもいつも鳴りひびいてゐる。
一つの存在。
船でなくともよい。いつ現はれたとも知れぬ一顆の夏蜜柑。それでさへ存在の鐘を打ち鳴らすに
足りる。
午後三時半、駿河湾で存在を代表したのは、その一顆の夏蜜柑だつた。
波に隠れすぐ現はれ、浮いつ沈みつして、またたきやめぬ目のやうに、その鮮明な
オレンヂいろは、波打際から程遠からぬあたりを、みるみる東のはうへ遠ざかる。

三島由紀夫「天人五衰」より

129 :名無しさん@また挑戦:2011/01/24(月) 20:53:47 ID:???
堤防の上の砂地には夥しい芥が海風に晒されてゐた。コカ・コーラの欠けた空瓶、缶詰、
家庭用の塗装ペイントの空缶、永遠不朽のビニール袋、洗剤の箱、沢山の瓦、弁当の殻……
地上の生活の滓がここまで雪崩れて来て、はじめて「永遠」に直面するのだ。今まで一度も
出会はなかつた永遠、すなはち海に。もつとも汚穢な、もつとも醜い姿でしか、つひに人が
死に直面することができないやうに。


見ることは存在を乗り超え、鳥のやうに、見ることが翼になつて、誰も見たことのない領域へ
まで透を連れてゆく筈だ。そこでは美でさへも、引きずり朽され使ひ古された裳裾のやうに、
ぼろぼろになつてしまふ筈だ。永久に船の出現しない海、決して存在に犯されぬ海といふものが
ある筈だ。見て見て見抜く明晰さの極限に、何も現はれないことの確実な領域、そこは又
確実に濃藍で、物象も認識もともどもに、酢酸に涵された酸化鉛のやうに溶解して、もはや
見ることが認識の足枷を脱して、それ自体で透明になる領域がきつとある筈だ。

三島由紀夫「天人五衰」より

130 :名無しさん@また挑戦:2011/01/24(月) 20:57:59 ID:???
微笑は同情とは無縁だつた。微笑とは、決して人間を容認しないといふ最後のしるし、
弓なりの唇が放つ見えない吹矢だ。


どんな男だつて、私を見たとたんに、獣になつてしまふんだもの、尊敬しやうがないぢや
ありませんか。女の美しさが、男の一番醜い欲望とぢかにつながつてゐる、といふことほど、
女にとつて侮辱はないわ。


おそらく絹江の発狂のきつかけは、失恋させた男が彼女の醜い顔を露骨に嘲つたことにあるので
あらう。その刹那に、絹江は自分の生きる道を、その唯一の隘路の光明を認めたのであつた。
自分の顔が変らなければ、世界のはうを変貌させればそれですむ。誰もその秘密を知らぬ
美容整形の自己手術を施し、魂を裏返しにしさへすれば、かくも醜い灰色の牡蠣殻の内側から、
燦然たる真珠母があらはれるのだつた。
追ひつめられた兵士が活路をひらくやうに、絹江はこの世界の根本的な不如意の結び目を
発見して、それを要に、世界を裏返しにしてしまつた。何といふ革命だつたらう。
内心もつとも望んでゐたものを、悲運の形で受け入れたその狡智。……

三島由紀夫「天人五衰」より

131 :名無しさん@また挑戦:2011/01/24(月) 21:01:43 ID:???
自分はいつも見てゐる。もつとも神聖なものも、もつとも汚穢なものも、同じやうに。
見ることがすべてを同じにしてしまふ。同じことだ。……はじめからをはりまで同じことだ。
……いひしれぬ暗い心持に沈んで、本多は、あたかも海を泳いで来た人が、身にまとひつく
海藻を引きちぎつて陸に上るやうに、夢を剥ぎ落して、目をさました。


日はまだ現はれないが、現はれるべきところのすぐ上方に、肌理のこまかい雲が、あたかも
低い山脈の連なりのやうな、山襞の褶曲そつくりの形を高肉浮彫にしてゐる。この山脈の上には
ところどころに仄青い間隙のある薔薇いろの横雲が一面に流れ、この山脈の下には薄鼠いろの
雲が海のやうに堆積してゐる。そして山脈の浮彫は、薔薇いろの雲の反映を山裾にまで受けて、
匂うてゐる。その山裾には人家の点在まで想ひ見られ、そこに薔薇いろに花ひらいた幻の国土の
出現を透は見た。
あそこからこそ自分は来たのだ、と透は思つた。幻の国土から。夜明けの空がたまたま
垣間見せるあの国から。

三島由紀夫「天人五衰」より

132 :名無しさん@また挑戦:2011/01/25(火) 11:59:00 ID:???
だんだん幼時の夢や少年時代の夢を見ることが多くなつた。若かつたころの母が、或る雪の日に、
作つてくれたホット・ケーキの味をも、夢が思ひ出させた。
あんなつまらない挿話がどうしてこんなに執拗に思ひ出されるのだらう。思へばこの記憶は、
半世紀もの間、何百回となく折に触れて思ひ出され、何の意味もない挿話であるだけに、
その想起の深い力が本多自身にもつかめないのである。
(中略)
本多が夢にたびたび想起するのは、そのときのホット・ケーキの忘れられぬ旨さである。
雪の中をかへつてきて、炬燵にあたたまりながら喰べたその蜜とバターが融け込んだ美味である。
生涯本多はあんな美味しいものを喰べた記憶がない。
しかし何故そんな詰らぬことが、一生を貫ぬく夢の酵母になつたのであらう。(中略)
それにしてもその日から六十年が経つた。何といふ須臾の間であらう。或る感覚が胸中に
湧き起つて、自分が老爺であることも忘れて、母の温かい胸に顔を埋めて訴へたいやうな
気持が切にする。

三島由紀夫「天人五衰」より

133 :名無しさん@また挑戦:2011/01/25(火) 12:03:10 ID:???
六十年を貫ぬいてきた何かが、雪の日のホット・ケーキの味といふ形で、本多に思ひ知らせる
ものは、人生が認識からは何ものをも得させず、遠いつかのまの感覚の喜びによつて、
あたかも夜の広野の一点の焚火の火明りが、万斛の闇を打ち砕くやうに、少くとも火の
あるあひだ、生きることの闇を崩壊させるといふことなのだ。
何といふ須臾だらう。十六歳の本多と、七十六歳の本多との間には、何事も起らなかつたと
しか感じられない。それはほんの一またぎで、石蹴り遊びをしてゐる子供が小さな溝を
跳び越すほどのつかのまだつた。
そして、清顕があれほど詳(つぶ)さにしたためた夢日記が、その後効験をあらはすのを見て、
たしかに本多は夢の生に対する優位を認識したけれども、自分の人生がかうまで夢に
犯されるとは想像もしてゐなかつた。タイの出水に涵される田園のやうに、夢の氾濫が
自分にも起つたといふふしぎな喜びはあつたが、清顕の夢の芳醇に比べると、本多の夢は
ただ返らぬ昔のなつかしい喚起にすぎなかつた。

三島由紀夫「天人五衰」より

134 :名無しさん@また挑戦:2011/01/25(火) 17:49:53 ID:???
なるほど空襲下の渋谷の焼址で蓼科が語つたところによれば、聡子は泉が澄むやうにますます
美しくなつたといふが、さういふ無漏の老尼の美もわからぬでもなく、事実、大阪の人から
輓近の聡子の美しさを感嘆を以て語る声をもきいた。それでもなほ本多は怖い。美の廃址を
見るのも怖いが、廃址にありありと残る美を見るのも怖いのである。


それはあたかも彼の認識の闇の世界の極みの破れ目から、そそいで来る一縷の月光のやうな寺に
他ならなかつた。
そこに聡子のゐることが確実であるなら、聡子は不死で永久にそこにゐることも確実のやうに
思はれる。本多が認識によつて不死であるなら、この地獄から仰ぎ見る聡子は、無限大の
距離にゐた。会ふなり聡子が本多の地獄を看破ることは確実なのである。又、本多の不如意と
恐怖に充ちた認識の地獄の不死と、聡子の天上の不死とは、いつも見合つてをり、均衡を
保つやうに仕組まれてゐると感じられる。それなら今いそいで会はなくても、三百年後でも、
よしんば千年後でも、会ひたいときには随時に会へるではないか。

三島由紀夫「天人五衰」より

135 :名無しさん@また挑戦:2011/01/25(火) 17:53:29 ID:???
いつ降るともしれぬ梅雨空の下を、車は金融関係の新らしいビルが櫛比する迂路を
八〇キロほどの速度で走つた。ビルといふビルは頑なで、正確で、威嚇的で、鉄とガラスの
長大な翼をひろげて、次々と襲ひかかつた。本多はいづれ自分が死ぬときには、これらのビルは
全部なくなるのだ、といふ想ひに、一種の復讐の喜びを味はつた、その瞬間の感覚を思ひ出した。
この世界を根こそぎ破壊して、無に帰せしめることは造作もなかつた。自分が死ねば確実に
さうなるのだ。世間から忘れられた老人でも、死といふ無上の破壊力をなほ持ち合せて
ゐることが、少し得意だつたのである。本多はいささかも五衰を怖れてゐなかつた。


ベナレスでは神聖が汚穢だつた。又汚穢が神聖だつた。それこそは印度だつた。
しかし日本では、神聖、美、伝統、詩、それらのものは、汚れた敬虔な手で汚されるのでは
なかつた。これらを思ふ存分汚し、果ては絞め殺してしまふ人々は、全然敬虔さを欠いた、
しかし石鹸でよく洗つた、小ぎれいな手をしてゐたのである。

三島由紀夫「天人五衰」より

136 :名無しさん@また挑戦:2011/01/25(火) 20:12:16 ID:???
祈りの手ほど謙虚ではなく、見えないものを愛撫しようと志してゐる手。宇宙を愛撫するために
だけ使はれる手があるとすれば、それは自涜者の手だ。『俺は見抜いたぞ』と本多は思つた。
(中略)
見るがいい。この少年こそ純粋な悪だつた! その理由は簡単だつた。この少年の内面は
能ふかぎり本多に似てゐたからである。


これはすべて本多の幻想だつたかもしれない。が、一目で見抜く認識能力にかけては、
幾多の失敗や蹉跌のあとに、本多の中で自得したものがあつた。欲望を抱かない限り、
この目の透徹と澄明は、あやまつことがなかつた。まして自分にとつて不本意なことを
見抜くことにかけては。
悪は時として、静かな植物的な姿をしてゐるものだ。結晶した悪は、白い錠剤のやうに美しい。
この少年は美しかつた。そのとき本多は、ともすると我人共に認めようとしてゐなかつた自分の
自意識の美しさに、目ざめ、魅せられてゐたのかもしれない。……

三島由紀夫「天人五衰」より

137 :名無しさん@また挑戦:2011/01/25(火) 20:16:47 ID:???
あなたのお話は、私も癒(なほ)したわ。私はこれでもせい一杯戦つてきたつもりだけれど、
戦ふ必要もないことだつた。私たちは一人のこらず、同じ投網の中に捕へられた魚なのですね。


それを知つた人の顔には、一種の見えない癩病の兆候があらはれるのだ。神経癩や結節癩が
『見える癩病』なら、それは透明癩とでもいふのだらうか。それを知つたが最後、誰でも
ただちに癩者になる。印度へ行つたときから、(それまでにも病気は何十年も潜伏して
ゐたのだが)、私はまぎれもない『精神の癩者』になつたのだ。


人間の美しさ、肉体的にも精神的にも、およそ美に属するものは、無知と迷蒙からしか
生れないね。知つてゐてなほ美しいなどといふことは許されない。同じ無知と迷蒙なら、
それを隠すのに何ものも持たない精神と、それを隠すのに輝やかしい肉を以てする肉体とでは、
勝負にならない。人間にとつて本筋の美しさは、肉体美にしかないわけさ。

三島由紀夫「天人五衰」より

138 :名無しさん@また挑戦:2011/01/26(水) 11:40:24 ID:???
しかし何者が本多にこんな夢を見せたのであらう。
慶子との会話を知つてゐるのは、慶子と本多の二人しかゐないのであるから、その「何者」は、
慶子でなければ本多にちがひない。が、本多は自分でそんな夢を見たいと決して望んだ
わけではない。本多に何のことわりもなく、その希望を一向参酌せずに、勝手な夢を見させたものが、本多自身であつてよい筈はない。
もちろん本多はウィーンの精神分析学者の夢の本は色々読んでゐたが、自分を裏切るやうな
ものが実は自分の願望だ、といふ説には、首肯しかねるものがあつた。それより自分以外の
何者かが、いつも自分を見張つてゐて、何事かを強ひてゐる、と考へるはうが自然である。
目ざめてゐるときは自分の意志を保ち、否応なしに歴史の中に生きてゐる。しかし自分の
意志にかかはりなく、夢の中で自分を強ひるもの、超歴史的な、あるひは無歴史的なものが、
この闇の奥のどこかにゐるのだ。

三島由紀夫「天人五衰」より

139 :名無しさん@また挑戦:2011/01/26(水) 11:48:42 ID:???
「…僕は君のやうな美しい人のために殺されるなら、ちつとも後悔しないよ。この世の中には、
どこかにすごい金持の醜い強力な存在がゐて、純粋な美しいものを滅ぼさうと、虎視眈々と
狙つてゐるんだ。たうとう僕らが奴らの目にとまつた、といふわけなんだらう。
さういふ奴相手に闘ふには、並大抵な覚悟ではできない。奴らは世界中に網を張つてゐるからだ。
はじめは奴らに無抵抗に服従するふりをして、何でも言ひなりになつてやるんだ。さうして
ゆつくり時間をかけて、奴らの弱点を探るんだ。ここぞと思つたところで反撃に出るためには、
こちらも十分力を蓄へ、敵の弱点もすつかり握つた上でなくてはだめなんだよ。
純粋で美しい者は、そもそも人間の敵なのだといふことを忘れてはいけない。奴らの戦ひが
有利なのは、人間は全部奴らの味方に立つことは知れてゐるからだ。

三島由紀夫「天人五衰」より

140 :名無しさん@また挑戦:2011/01/26(水) 11:51:03 ID:???
奴らは僕らが本当に膝を屈して人間の一員であることを自ら認めるまでは、決して手を
ゆるめないだらう。だから僕らは、いざとなつたら、喜んで踏絵を踏む覚悟がなければ
ならない。むやみに突張つて、踏絵を踏まなければ、殺されてしまふんだからね。さうして
一旦踏絵を踏んでやれば、奴らも安心して弱点をさらけ出すのだ。それまでの辛抱だよ。
でもそれまでは、自分の心の中に、よほど強い自尊心をしつかり保つてゆかなければね」「わかつたわ、透さん。私、何でもあなたの言ふなりになる。その代りしつかり私を支へてね。
美しさの毒でいつも私の足はふらふらしてゐるんだから。あなたと私が手をつなげば、
人間のあらゆる醜い欲望を根絶し、うまく行けば全人類をすつかり晒して漂白してしまへる
かもしれなくつてよ。さうなつたときは、この地上が天国になり、私も何ものにも脅えないで、
生きてゆくことができるんだわね」

三島由紀夫「天人五衰」より

141 :名無しさん@また挑戦:2011/01/26(水) 11:53:41 ID:???
――絹江が去つたあとでは、透はいつもその不在をたのしんだ。
あれだけの醜さも、ひとたび不在になれば、美しさとどこに変りがあるだらう。すべて
絹江の美しさを前提にして交はされたあの会話は、その美しさ自体が非在のものだつたから、
絹江がこの場を去つた今も、少しも変らずに馥郁と薫つてゐた。

……遠いところで美は哭いてゐる、と透は思ふことがあつた。多分水平線の少し向うで。
美は鶴のやうに甲高く啼く。その声が天地に谺してたちまち消える。人間の肉体にそれが
宿ることがあつても、ほんのつかのまだ。絹江だけが醜さの罠で、その鶴をつかまへることに
成功したのだつた。そして又、たえまない自意識の餌で、末永く飼育することにも。

三島由紀夫「天人五衰」より

142 :名無しさん@また挑戦:2011/01/26(水) 11:57:10 ID:???
競技を終つた競技者の背中から急速に退いてゆく汗のやうに、黒い砂利のあひだを退いてゆく
白い飛沫。
無量の一枚の青い石板のやうな海水が、波打際へ来て砕けるときには、何といふ繊細な変身を
見せることだらう。千々にみだれる細かい波頭と、こまごまと別れる白い飛沫は、苦しまぎれに
かくも夥しい糸を吐く、海の蚕のやうな性質をあらはしてゐる。白い繊細な性質を内に
ひそめながら、力で圧伏するといふことは、何といふ微妙な悪だらう。


一瞬レンズの中に現はれた、天にも届かんばかりの一滴の白い波の飛沫があつた。
これほどまでに一滴だけ高く離れた波しぶきは、何を目ざしたのか。この至高の断片は、
何のためにさうして選ばれたのか。彼一滴だけ?
自然は全体から断片へと、又、断片から全体へと、たえずくりかへし循環してゐた。
断片の形をとつたときのはかない清洌さに比べれば、全体としての自然は、つねに不機嫌で
暗鬱だつた。
悪は全体としての自然に属するのだらうか?
それとも断片のはうに?

三島由紀夫「天人五衰」より

143 :名無しさん@また挑戦:2011/01/26(水) 12:02:57 ID:???
波は少しづつ夕影を帯びると共に、険のある硬質のものになつた。光りはますます悪意に
染まり、波の腹の色は陰惨味を増した。
さうだ。砕けるときの波は、死のそのままのあらはな具現だ、と透は思つた。さう思ふと、
どうしてもさう見えて来る。それは断末魔の、大きくあいた口だつた。
白いむきだしの歯列から、無数の白い涎の糸を引き、あんぐりあいた苦しみの口が、
下顎呼吸をはじめてゐる。夕光に染つた紫いろの土は、チアノーゼの唇だ。
臨終の海が大きくあけた口の中へ、死が急速に飛び込んでくる。かう無数の死を露骨に
見せることをくりかへしながら、そのたびに海は警察のやうに大いそぎで死体を収容して、
人目から隠してしまふのだつた。
そのとき透の望遠鏡からは、見るべからざるものを見た。
顎をひらいて苦しむ波の大きな口腔の裡に、ふと別な世界が揺曳したやうな気がしたのである。
透の目が幻影を見る筈はないから、見たものは実在でなければならない。しかしそれが
何であるかはわからない。

三島由紀夫「天人五衰」より

144 :名無しさん@また挑戦:2011/01/26(水) 12:06:24 ID:???
海中の微生物がたまたま描いた模様のやうなものかもしれない。暗い奧処にひらめいた光彩が、
別の世界を開顕したのだが、たしかに一度見た場所だといふおぼえがあるのは、測り知られぬ
ほど遠い記憶と関はりがあるのかもしれない。過去世といふものがあれば、それかもしれない。
ともあれそれが、明快な水平線の一歩先に、たえず透が見通さうと思つて来たものと、
どういふつながりがあるのかわからない。砕けようとする波の腹に、幾多の海藻が纏綿して、
巻き込まれながら躍つてゐたとすれば、つかのまに描かれた世界は、嘔気を催ほすやうな
いやらしい海底の、粘着質の紫や桃いろの襞と凹凸の微細画であつたかもしれない。が、
そこに光明があり、閃光が走つたのは、稲妻に貫かれた海中の光景だつたのだらうか。
そんなものが、このおだやかな西日の汀に見られよう筈はない。第一、その世界がこの世界と
同時に共在してゐなければならぬといふ法はない。そこに仄見えたのは、別の時間なので
あらうか。今透の腕時計が刻んでゐるものとは、別の時間の下にある何かなのであらうか。

三島由紀夫「天人五衰」より

145 :名無しさん@また挑戦:2011/01/26(水) 12:21:13 ID:???
自分に向けられる他人の善意や悪意が、悉く誤解に基づくと考へる考へ方には、懐疑主義の
行き着く果ての自己否定があり、自尊心の盲目があつた。
透は必然を軽蔑し、意志を蔑してゐた。


時折鏡を見て、自分の微笑の漂ひをよく調べると、鏡にさしかかる光りの加減で、少女の微笑に
似てゐると感じられることがあつた。どこか遠い国の、言葉の通じない少女は、こんな微笑を、
他人との唯一の通ひ路にしてゐることがあるかもしれない。自分の微笑が女らしいといふ
のではない。しかし媚態でもなければ羞らひでもない、夜と朝との間の薄明に、白みかかる道と
川との見分けのつかない、一つへ足を踏み出せば溺れるかもしれない、さういふ危難を
相手のためにしつらへて、ためらひと決断の間のもつとも微妙な巣の中で待つてゐる鳥のやうな
微笑は、ちやんとした男の微笑とは云へない。透は、ふとして、この微笑を父親からでも
母親からでもない、幼時にどこかで会つた見知らぬ女から受け継いだのではないかと
思ふことがある。

三島由紀夫「天人五衰」より

146 :名無しさん@また挑戦:2011/01/26(水) 15:55:08 ID:???
それにしても相手の動機は、一体それほど不可解だつたらうか? これにも何ら不可解な
ものはない。透は知つてゐた、退屈な人間は地球を屑屋に売り払ふことだつて平気でするのだと。


自由主義の経済学から美しい予定調和の夢が崩れたのはずいぶん昔だつたが、マルクス主義
経済学の弁証法的必然性もとつくに怪しげなものになつてゐた。滅亡を予言されたものが
生きのび、発展を予言されたものが、(たしかに発展はしたけれども)、別のものに
変質してゐた。純粋な理念の生きる余地はどこにもなかつた。


世界が崩壊に向つてゆくと信ずることは簡単であり、本多が二十歳ならそれを信じもしたらうが、
世界がなかなか崩壊しないといふことこそ、その表面をスケーターのやうに滑走して生きては
死んでゆく人間にとつては、ゆるがせにできない問題だつた。氷が割れるとわかつてゐたら、
誰が滑るだらう。また絶対に割れないとわかつてゐたら、他人が失墜することのたのしみは
失はれるだらう。問題は自分が滑つてゐるあひだ、割れるか割れないかといふだけのことであり、
本多の滑走時間はすでに限られてゐた。

三島由紀夫「天人五衰」より

147 :名無しさん@また挑戦:2011/01/26(水) 15:58:35 ID:???
人々はさうやつて財産が少しづつふえてゆくと思つてゐる。物価の上昇率を追ひ越すことが
できれば、事実それはふえてゐるにちがひない。しかしもともと生命と反対の原理に立つものの
そのやうな増加は、生命の側に立つものへの少しづつの浸蝕によつてしかありえない。
利子の増殖は、時の白蟻の浸蝕と同じことだつた。どこかで少しづつ利得がふえてゆくことは、
時の白蟻が少しづつ着実に噛んでゆく歯音を伴ふのだ。
そのとき人は、利子を生んでゆく時間と、自分の生きてゆく時間との、性質のちがひに
気づく。……


自意識が、自我だけに関はつてゐる、と考へてゐたあひだの本多はまだ若かつたのだ。
自分といふ透明な水槽の中に黒い棘だらけの雲丹のやうな実質が泛んでゐて、それのみに
関はる意識を、自意識と呼んでゐた本多は若かつた。「恒に転ずること暴流のごとし」。
印度でそれを知得しながら、日々のくらしに体得するまでには三十年もかかつた。

三島由紀夫「天人五衰」より

148 :名無しさん@また挑戦:2011/01/26(水) 16:04:27 ID:???
老いてつひに自意識は、時の意識に帰着したのだつた。本多の耳は骨を蝕む白蟻の歯音を
聞き分けるやうになつた。一分一分、一秒一秒、二度とかへらぬ時を、人々は何といふ
稀薄な生の意識ですりぬけるのだらう。老いてはじめてその一滴々々には濃度があり、酩酊さへ
具はつてゐることを学ぶのだ。稀覯の葡萄酒の濃密な一滴々々のやうな、美しい時の滴たり。
……さうして血が失はれるやうに時が失はれてゆく。あらゆる老人は、からからに枯渇して死ぬ。
ゆたかな血が、ゆたかな酩酊を、本人には全く無意識のうちに、湧き立たせてゐた
すばらしい時期に、時を止めることを怠つたその報いに。
さうだ。老人は時が酩酊を含むことを学ぶ。学んだときはすでに、酩酊に足るほどの酒は
失はれてゐる。


絶頂を見究める目が認識の目だといふなら、俺には少し異論がある。俺ほど認識の目を休みなく
働らかせ、俺ほど意識の寸刻の眠りをも妨げて生きてきた男は、他にゐる筈もないからだ。
絶頂を見究める目は認識の目だけでは足りない。それには宿命の援けが要る。

三島由紀夫「天人五衰」より

149 :名無しさん@また挑戦:2011/01/26(水) 16:08:35 ID:???
意志とは、宿命の残り滓ではないだらうか。自由意志と決定論のあひだには、印度の
カーストのやうな、生れついた貴賤の別があるのではなからうか。もちろん賤しいのは
意志のはうだ。


……それにしても、或る種の人間は、生の絶頂で時を止めるといふ天賦に恵まれてゐる。
俺はこの目でさういふ人間を見てきたのだから、信ずるほかはない。
何といふ能力、何といふ詩、何といふ至福だらう。登りつめた山巓の白雪の輝きが目に
触れたとたんに、そこで時を止めてしまふことができるとは! そのとき、山の微妙な心を
そそり立てるやうな傾斜や、高山植物の分布が、すでに彼に予感を与へてをり、時間の
分水嶺ははつきりと予覚されてゐた。


……詩もなく、至福もなしに! これがもつとも大切だ。生きることの秘訣はそこにしか
ないことを俺は知つてゐる。
時間を止めても輪廻が待つてゐる。それをも俺はすでに知つてゐる。
透には、俺と同様に、決してあんな空怖ろしい詩も至福もゆるしてはいけない。これが
あの少年に対する俺の教育方針だ。

三島由紀夫「天人五衰」より

150 :名無しさん@また挑戦:2011/01/26(水) 16:16:22 ID:???
「洋食の作法は下らないことのやうだが」と本多は教へながら言つた。「きちんとした作法で
自然にのびのびと洋食を喰べれば、それを見ただけで人は安心するのだ。一寸ばかり育ちが
いいといふ印象を与へるだけで、社会的信用は格段に増すし、日本で『育ちがいい』と
いふことは、つまり西洋風な生活を体で知つてゐるといふだけのことなんだからね。
純然たる日本人といふのは、下層階級か危険人物かどちらかなのだ。これからの日本では、
そのどちらも少なくなるだらう。日本といふ純粋な毒は薄まつて、世界中のどこの国の人の
口にも合ふ嗜好品になつたのだ」
さう言ひながら、本多が勲を思ひうかべてゐたことは疑ふべくもない。勲はおそらく
洋食の作法などは知らなかつた。勲の高貴はそんなこととは関はりがなかつた。だからこそ、
透は十六歳から洋食の作法に習熟すべきだつた。

三島由紀夫「天人五衰」より

151 :名無しさん@また挑戦:2011/01/26(水) 20:35:28 ID:???
世間が若い者に求める役割は、欺され易い誠実な聴き手といふことで、それ以上の
何ものでもない。相手に思ひきり喋らせることができればお前の勝ちなのだ。それを片時も
忘れてはいけない。
世間は決して若者に才智を求めはしないが、同時に、あんまり均衡のとれた若さといふものに
出会ふと、頭から疑つてかかる傾きがある。お前は先輩を興がらせるやうな或る無害な偏執を
持つべきだ。機械いぢりとか。野球とか、トランペットとか、なるたけ平均的抽象的で、
精神とは何ら縁のない、いはんや政治とは縁のない、それもあんまり金のかからない道楽をね。
それを発見すると、先輩たちは、お前の余剰エネルギーのはけ口が確認できて、安心するのだ。
それについては多少大袈裟に自負心を示してもいい。
高校に入つたら、勉強の邪魔にならぬ程度のスポーツもやるべきで、それも健康が表面に浮いて
見えるやうなスポーツがいい。スポーツマンだといふと、莫迦だと人に思はれる利得がある。
政治には盲目で、先輩には忠実だといふことぐらゐ、今の日本で求められてゐる美徳は
ないのだからね。

三島由紀夫「天人五衰」より

152 :名無しさん@また挑戦:2011/01/26(水) 20:39:17 ID:???
――大人しい透に向つて、かうして執拗に説き進めながら、いつしか本多は、目の前に
清顕と勲と月光姫を置いて、返らぬ繰り言を並べてゐるような心地にもなつた。
彼らもさうすればよかつたのだ。自分の宿命をまつしぐらに完成しようなどとはせず、
世間の人と足並を合せ、飛翔の能力を人目から隠すだけの知恵に恵まれてゐればよかつたのだ。
飛ぶ人間を世間はゆるすことができない。翼は危険な器官だつた。飛翔する前に自滅へ誘ふ。
あの莫迦どもとうまく折合つておきさへすれば、翼なんかには見て見ぬふりをして貰へるのだ。
のみならず、
『あの人の翼はあれはただのアクセサリーですよ。気にすることはありません。附合つてみれば、
ごくふつうの、常識的な、信頼できる人ですからね』
とあちこちへ宣伝してくれるのだ。かういふ口伝ての保証はなかなか莫迦にならない。
清顕も勲も月光姫も、一切この労をとらなかつた。それは人間どもの社会に対する侮蔑でもあり
傲慢でもあつて、早晩罰せられなければならない。かれらは、苦悩に於てさへ特権的に
振舞ひすぎたのだつた。

三島由紀夫「天人五衰」より

153 :名無しさん@また挑戦:2011/01/27(木) 11:03:18 ID:???
しかし自殺によつて別段、自分を猫に猫と認識させることに成功したわけぢやなかつたし、
自殺するときの鼠にも、それくらゐのことはわかつてゐたにちがひない。が、鼠は勇敢で
自尊心に充ちてゐた。彼は鼠に二つの属性があることを見抜いた。一次的にはあらゆる点で
肉体的に鼠であること、二次的には従つて猫にとつて喰ふに値ひするものであること、
この二つだ。この一次的な属性については彼はすぐ諦めた。思想が肉体を軽視した報いが
来たのだ。しかし二次的な属性については希望があつた。第一に、自分が猫の前で猫に
喰はれないで死んだといふこと、第二に、自分を『とても喰へたものぢやない』存在に
仕立て上げたこと、この二点で、少くとも彼は、自分を『鼠ではなかつた』と証明することが
できる。『鼠ではなかつた』以上、『猫だつた』と証明することはずつと容易になる。
なぜなら鼠の形をしてゐるものがもし鼠でなかつたとなつたら、もう他の何者でもありうる
からだ。かうしてこの鼠の自殺は成功し、彼は自己正当化を成し遂げたんだ。……どう思ふ?

三島由紀夫「天人五衰」より

154 :名無しさん@また挑戦:2011/01/27(木) 11:08:53 ID:???
「ところで鼠の死は世界を震撼させたらうか?」と、彼はもう透といふ聴手の所在も問はず、
のめり込むやうな口調で言つた。独り言と思つて聴けばいいのだと透は思つた。声はものうい
苔だらけの苦悩を覗かせ、こんな古沢の声ははじめて聴く。「そのために鼠に対する世間の
認識は少しでも革まつたらうか? この世には鼠の形をしてゐながら実は鼠でない者が
ゐるといふ正しい噂は流布されたらうか? 猫たちの確信には多少とも罅が入つたらうか? 
それとも噂の流布を意識的に妨げるほど、猫は神経質になつたらうか?
ところが愕く勿れ、猫は何もしなかつたのだ。すぐ忘れてしまつて、顔を洗ひはじめ、それから
寝ころんで、眠りに落ちた。彼は猫であることに充ち足り、しかも猫であることを意識さへして
ゐなかつた。そしてこの完全にだらけた昼寝の怠惰のなかで、猫は、鼠があれほどまでに熱烈に
夢みた他者にらくらくとなつた。猫は何でもありえた、すなはち偸安により自己満足により
無意識によつて、眠つてゐる猫の上には、青空がひらけ、美しい雲が流れた。風が猫の香気を
世界に伝へ、なまぐさい寝息が音楽のやうに瀰漫した……」

三島由紀夫「天人五衰」より

155 :名無しさん@また挑戦:2011/01/27(木) 11:12:30 ID:???
老人はいやでも政治的であることを強ひられる。七十八歳はたとへ体のふしぶしが痛くても、
愛嬌を見せ、上機嫌であることによつてしか、無関心を隠すことができない。本当の大前提は
無関心だつた。この世界の莫迦らしさに打ち克つて生きのびるには、それしかなかつた。
それは終日波と雑多な漂流物とを受け入れる汀の無関心だつた。
お追従とおちよぼ口に囲まれて生きるには、まだ自分にすりへつた圭角が残つてゐて、些かの
邪魔をする、と本多に感じられることもあつたが、それも徐々になくなつた。あるのは圧倒的な
莫迦らしさだけで、卑俗が放つ匂ひは混和されて、すべて一ト色になつてゐた。この世には実に
千差万別な卑俗があつた。気品の高い卑俗、白象の卑俗、崇高な卑俗、鶴の卑俗、知識に
あふれた卑俗、学者犬の卑俗、媚びに充ちた卑俗、ペルシア猫の卑俗、帝王の卑俗、乞食の卑俗、
狂人の卑俗、蝶の卑俗、斑猫の卑俗……、おそらく輪廻とは卑俗の劫罰だつた。そして卑俗の
最大唯一の原因は、生きたいといふ欲望だつたのである。本多もその一人にはちがひなかつたが、
人とちがつてゐるのは自他に対する異様に鋭い嗅覚だけだつたらう。

三島由紀夫「天人五衰」より

156 :名無しさん@また挑戦:2011/01/27(木) 16:13:09 ID:???
何かを拒絶することは又、その拒絶のはうへ向つて自分がいくらか譲歩することでもある。
譲歩が自尊心にほんのりとした淋しさを齎(もた)らすのは当然だらう。僕は愕かない。


ところでこの世は不完全な人間の陽画(ポジティブ)に充ちてゐる。


百子は、急に食欲を失くした飼禽を見るやうに、心配さうに僕を見つめてゐた。彼女は幸福は
大きなフランス・パンのやうにみんなで頒つことができるといふ、低俗な思想に染つてゐたので、
この世に一つ幸福があれば必ずそれに対応する不幸が一つある筈だといふ数学的法則を
理解しなかつた。


僕は人の行かぬ一角を求めて、寝覚め滝のそばへ下りた。小滝は涸れ、滝の落ちる池は澱んで
ゐるのに、水面がたえずちり毛立つてゐるのは、無数のあめんばうが水面を縫つて、あたかも
糸の引きつれのやうな紋様を描いてゐるからだつた。


感情さへ持たなければ、人間はどんな風にでも繋り合ふことができるのだ。

三島由紀夫「天人五衰」より

157 :名無しさん@また挑戦:2011/01/27(木) 16:17:31 ID:???
僕は雪崩る。
雪が僕の危険な断面を、あまりに穏和なふりをして覆つてゐるのに、いや気がさすから。
しかし僕は自己破壊とも破滅とも縁がない。僕がこの身から振ひ落し、家を壊し、人を傷つけ、
人々に地獄の叫喚を上げさせるその雪崩は、ただ冬空がかるがると僕の上へ齎らしたもの、
僕の本質とは何の関はりもないものだからだ。しかし雪崩の瞬間に、雪のやさしさと、僕の
断崖の苛烈さとが入れかはる。災ひを与へるのは、雪であつて、僕ではない。やさしさであつて、
苛烈さではない。
ずつと昔から、自然の歴史のもつとも古い時点から、僕のやうな無答責の苛酷な心が
用意されてゐたのにちがひない。多くの場合は、岩石といふ形で、その至純なものが
すなはちダイアモンドだ。
しかし冬の明るすぎる日は、僕の透明な心にさへしみ入る。何ものも遮るもののない翼を
わが身に夢みながら、僕の人生では何事も成就するまいといふ予感にとらはれるのは
かういふ時だ。
僕は自由を得るだらう。が、それは死とよく似た自由にすぎない。この世で僕が夢みたものは
何一つ手に入るまい。

三島由紀夫「天人五衰」より

158 :名無しさん@また挑戦:2011/01/27(木) 16:25:25 ID:???
僕の明晰を見ると、すべての人間が裏切りの欲望を感じるだらう。僕ほどの明晰を
裏切ることぐらゐ、裏切りの勝利はないからだ。僕に愛されてゐないすべての人間が、
僕に愛されてゐると信じ切つてゐるだらう。僕に愛された者は、美しい沈黙を守るだらう。
世界のすべてが僕の死を望むだらう。同時にわれがちに、僕の死を妨げようと手をさしのべる
だらう。
僕の純粋はやがて水平線をこえ、不可視の領域へさまよひ込むだらう。僕は人の耐へえぬ苦痛の
果てに、自ら神となることを望むだらう。何といふ苦痛! この世に何もないといふことの
絶対の静けさの苦痛を僕は味はいつくすだらう。病気の犬のやうに、ひとりで、体を慄はせて、
片隅にうづくまつて、僕は耐へるだらう。陽気な人間たちは、僕の苦痛のまはりで、
たのしげに歌ふだらう。
僕を癒す薬はこの世にはなく、僕を収容する病院は地上にはないだらう。僕が邪悪であつたと
いふことは、結局人間の歴史の一個所に、小さな金色の文字で誌されるだらう。

三島由紀夫「天人五衰」より

159 :名無しさん@また挑戦:2011/01/27(木) 16:28:52 ID:???
そのまま老人は同じ歩度で遠ざかつた。老人自身は気がつかなかつたのではないかと思ふが、
家の門をすぎて五米ほど行つてから、大きな墨滴を落したやうに、外套の裾から何かが
雪の上に落ちた。
黒い、鴉らしい鳥の屍骸が落ちてゐた。九官鳥だつたかもしれない。僕の耳にさへ、瞬間、
ばさつと、落ちた翼が雪を搏つやうな音がきこえる錯覚さへあつたのに、老人はそのまま去つた。
そこで永いこと、まつ黒な鳥の屍が僕の難問になつた。その位置はかなり遠く、前庭の梢に
遮られ、しかもふりしきる雪がものの影を歪めてゐるので、いくら瞳を凝らしても、目が
確かめる力には限りがあつた。双眼鏡でも持つて来ようか、それとも外へ出て行つて
確かめようか、といふ考へにとらはれながら、何か圧倒的な億劫さに制せられてゐて、それが
できなかつた。
何の鳥だつたらう。あまり永く見詰めてゐるうちに、その黒い羽根の固まりは、鳥ではなくて、
女の鬘のやうにも思はれだした。

三島由紀夫「天人五衰」より

160 :名無しさん@また挑戦:2011/01/27(木) 16:56:10 ID:???
美女だと信じてゐる絹江も、愛されてゐると信じてゐる百子も、現実を否定してゐる点では
同じだつたが、他人の助力が要る百子に引きかへて、絹江にはもう他人の言葉さへ要らなかつた。
百子をあそこまで高めてやることができたら! それが僕の教育的情熱、いはば愛だつたから、
「愛してゐる」といふことはまんざら嘘でもなかつた。しかし百子のやうに、現実肯定の魂が
現実を否定したがるのは方法的矛盾ではないだらうか。彼女を絹江のやうな、全世界を相手に
闘ふ女にしてやるには、並大抵のことでは行くまい。
しかし「愛してゐる」といふ経文の読誦は、無限の繰り返しのうちに、読み手自身の心に
何かの変質をもたらすものだ。僕はほとんど愛してゐるかのやうに感じ、愛といふ禁句の
この突然の放埒な解放に、心の中の何ものかが酔つてゐるやうにも感じた。下手な初心者の
操縦に同乗して、万一の場合を覚悟せねばならぬ飛行機訓練士に、誘惑者といふものは
いかに似てゐることか。

三島由紀夫「天人五衰」より

161 :名無しさん@また挑戦:2011/01/27(木) 16:59:26 ID:???
九月のはじめ家へかへつたとき、百日紅の満開の花が、そのあたかも白癩の肌のやうに円滑に
磨き上げた幹に映じたのを見るのを、たのしみにしてゐたのに、いざかへつてみると、
百日紅のない庭があつた。前の庭とはまるでちがつてしまつたその新らしい庭を作つたのは、
他ならぬ阿頼耶識にちがひない。庭も変転する、と感じた瞬間に、別のところからどうしても
制御できない怒りが生じて、本多を叫ばせたのだが、叫んだときから本多は怖れてゐた。
(中略)
「あの木はもう年寄になつたから、要らないんだ」
透は美しい微笑をうかべた。
かういふとき、透は厚い硝子の壁をするすると目の前に下ろすのである。天から下りてくる硝子。
朝の澄み切つた天空と全く同じ材質でできた硝子。本多はもうその瞬間に、どんな叫びも、
どんな言葉も、透の耳には届かないことを確信する。むかうからは開け閉てする本多の
総入歯の歯列が見えるだけだらう。すでに本多の口は、有機体とは何の関はりもない無機質の
入歯を受け入れてゐた。とつくに部分的な死ははじまつてゐた。

三島由紀夫「天人五衰」より

162 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 16:23:58 ID:???
何もかも知つてゐる者の、甘い毒のにじんだ静かな愛で、透の死を予見しつつその横暴に
耐へることには、或る種の快楽がなかつたとはいへない。その時間の見通しの先では、
蜉蝣の羽根のやうに愛らしく透いて見える透の暴虐。人間は自分より永生きする家畜は
愛さないものだ。愛されることの条件は、生命の短かさだつた。


「…でも本当のところ何と思つて?……己惚れていらしたんでせう? 人間つて、自分にも
何かの取柄があるといふことは、すぐ信じたがるものですからね。それまであなたが心に
抱いてゐた子供らしい夢と、私たちの申し出とが、うまい具合に符合したやうな気が
したんでせう? あなたが子供のときから守つてゐたふしぎな確信が、いよいよ証拠を
見せたやうな気がしたんでせう? さうでせう?」
透ははじめて慶子といふ女に恐怖を抱いた。階級的圧迫などはみぢんもなかつたが、多分
世の中には、何か或る神秘的な価値といふものに鼻の利く俗物がをり、さういふ人間こそ
正真正銘の「天使殺し」なのだ。

三島由紀夫「天人五衰」より

163 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 16:30:40 ID:???
でも自分の願望が他人の願望と一致し、誰かの思つてゐたことが、他人のおかげでするすると
叶へられるなんてことがあると思つて? 人はそれぞれ目的を持つて生きてゐて、自分の
ことしか考へないのですよ。尤も、一番自分のことしか考へないあなたが、ついその点で
行きすぎて、盲らになつてゐたのでせうが。
あなたは歴史に例外があると思つた。例外なんてありませんよ。人間に例外があると思つた。
例外なんてありませんよ。
この世には幸福の特権がないやうに、不幸の特権もないの。悲劇もなければ、天才もゐません。
あなたの確信と夢の根拠は全部不合理なんです。もしこの世に生れつき別格で、特別に
美しかつたり、特別に悪だつたり、さういふことがあれば、自然が見のがしにしておきません。
そんな存在は根絶やしにして、人間にとつての手きびしい教訓にし、誰一人人間は
『選ばれて』なんかこの世に生れて来はしない、といふことを人間の頭に叩き込んでくれる
筈ですわ。
あなたはそんな償ひの要らない天才だと、自分を思つて来たんでせうね。何か人間世界の上に
泛んでゐる一片の、悪意を含んだ美しい雲のやうに、自分を想像して来たんでせうね。

三島由紀夫「天人五衰」より

164 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 16:33:26 ID:???
人はそれぞれ目的を持つて生きてゐて、自分のことしか考へないのですよ。尤も、一番自分の
ことしか考へないあなたが、ついその点で行きすぎて、盲らになつてゐたのでせうが。
あなたは歴史に例外があると思つた。例外なんてありませんよ。人間に例外があると思つた。
例外なんてありませんよ。
この世には幸福の特権がないやうに、不幸の特権もないの。悲劇もなければ、天才もゐません。
あなたの確信と夢の根拠は全部不合理なんです。もしこの世に生れつき別格で、特別に
美しかつたり、特別に悪だつたり、さういふことがあれば、自然が見のがしにしておきません。
そんな存在は根絶やしにして、人間にとつての手きびしい教訓にし、誰一人人間は
『選ばれて』なんかこの世に生れて来はしない、といふことを人間の頭に叩き込んで
くれる筈ですわ。
あなたはそんな償ひの要らない天才だと、自分を思つて来たんでせうね。何か人間世界の上に
泛んでゐる一片の、悪意を含んだ美しい雲のやうに、自分を想像して来たんでせうね。

三島由紀夫「天人五衰」より

165 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 16:38:30 ID:???
精神的屈辱と摂護腺肥大との間に何のちがひがあらう。或る鋭い悲しみと肺炎の胸痛との間に
何のちがひがあらう。老いは正しく精神と肉体の双方の病気だつたが、老い自体が不治の病だと
いふことは、人間存在自体が不治の病だといふに等しく、しかもそれは何ら存在論的な病では
なくて、われわれの肉体そのものが病であり、潜在的な死なのであつた。
衰へることが病であれば、衰へることの根本原因である肉体こそ病だつた。肉髄の本質は
滅びに在り、肉体が時間の中に置かれてゐることは、衰亡の証明、滅びの証明に使はれて
ゐることに他ならなかつた。
人はどうして老い衰へてからはじめてそのことを覚るのであらう。肉体の短い真昼に、耳もとを
すぎる蜂の唸りのやうに、そのことをよしほのかながら心に聴いても、なぜ忽ち忘れて
しまふのであらう。たとへば、若い健やかな運動選手が、運動のあとのシャワーの爽やかさに
恍惚として、自分のかがやく皮膚の上を、霰のやうにたばしる水滴を眺めてゐるとき、その
生命の汪溢自体が、烈しい苛酷な病であり、琥珀いろの闇の塊りだとなぜ感じないのであらう。

三島由紀夫「天人五衰」より

166 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 21:11:46 ID:???
今にして本多は、生きることは老いることであり、老いることこそ生きることだつた、と
思ひ当つた。この同義語がお互ひにたえず相手を謗つて来たのはまちがひだつた。老いて
はじめて、本多はこの世に生れ落ちてから八十年の間といふもの、どんな歓びのさなかにも
たえず感じてきた不如意の本質を知るにいたつた。
この不如意が人間意志のこちら側またあちら側にあらはれて、不透明な霧を漂はせてゐたのは、
生きることと老いることが同義語だといふ苛酷な命題を、意志がいつも自ら怖れて、
人間意志自体が放つてゐた護身の霧だつたのだ。歴史はこのことを知つてゐた。歴史は
人間の創造物のうちでもつとも非人間的な所産だつた。それはあらゆる人間意志を統括して、
自分の手もとへ引き寄せながら、あのカルカッタのカリー女神のやうに、片つぱしから、
口辺に血を滴らせて喰べてしまふのであつた。

三島由紀夫「天人五衰」より

167 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 21:16:27 ID:???
われわれは何ものかの腹を肥やすための餌であつた。火中に死んだ今西は、いかにも彼らしい
軽薄な流儀を以て、このことに皮相ながら気づいてゐた。そして神にとつても、運命にとつても、
人間の営為のうちでこの二つを模した唯一のものである歴史にとつても、人間が本当に
老いるまで、このことに気づかせずにおくのは、賢明なやり方だつた。
しかし本多は何たる餌だつたらう! 何たる滋養のない、何たる味のない、何たるかさかさの
餌だつたらう。本能的に美味な餌であることを避けて周到に生きてきた男は、人生の最後の
ねがひとして、自分の不味な認識の小骨で、喰ひついてきた者の口腔を刺してやらうと
狙ふのだが、この企図も亦、必ず全的に失敗するのだ。


ベナレスで本多が見たものは、いはば宇宙の元素としての人間の不滅であつた。来世は、
時間の彼方に揺曳するものでもなく、空間の彼方に燦然と存在するものでもなかつた。
死んで四大に還つて、集合的な存在に一旦融解するとすれば、輪廻転生をくりかへす場所も、
この世のここでなければならぬといふ法はなかつた。

三島由紀夫「天人五衰」より

168 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 21:20:55 ID:???
清顕や勲やジン・ジャンが相次いで本多の身辺にあらはれたのは、偶然といふもおろかな
偶然だつたのであらう。もし本多の中の一個の元素が、宇宙の果ての一個の元素と等質の
ものであつたとしたら、一旦個性を失つたのちは、わざわざ空間と時間をくぐつて交換の手続を
踏むにも及ばない。それはここにあるのと、かしこにあるのと、全く同じことを意味する
からである。来世の本多は、宇宙の別の極にある本多であつても、何ら妨げがない。糸を切つて
一旦卓上に散らばつた夥しい多彩なビーズを、又別の順序で糸につなぐときに、もし卓の下へ
落ちたビーズがない限り、卓上のビーズの数は不変であり、それこそは不変の唯一の定義だつた。
我が在ると思ふから不滅が生じない、といふ仏教の論理は、数学的に正確だと本多には今や
思はれた。我とは、そもそも自分で決めた、従つて何ら根拠のない、この南京玉(ビーズ)の
糸つなぎの配列の順序だつたのである。

三島由紀夫「天人五衰」より

169 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 21:30:45 ID:???
狐はすべて狐の道を歩いてゐた。漁師はその道の薮かげに身をひそめてゐれば、難なく
つかまえることができた。
狐でありながら漁師の目を得、しかも捕まることがわかつてゐながら狐の道を歩いてゐるのが、
今の自分だと本多は思つた。


『自分は今日はもう決して、人の肉の裏に骸骨を見るやうなことはすまい。それはただ
観念の想である。あるがままを見、あるがままを心に刻まう。これが自分のこの世で最後の
たのしみでもあり、つとめでもある。今日で心ゆくばかり見ることもおしまひだから、
ただ見よう。目に映るものはすべて虚心に見よう』


『劫初から、今日このとき、私はこの一樹の蔭に憩ふことに決まつてゐたのだ』
本多は極度の現実感を以てさう考へた。


自分はすでに罠に落ちた。人間に生れてきたといふことの罠に一旦落ちながら、ゆくてに
それ以上の罠が待ち設けてよい筈はない。すべて愚かしく受け容れようと本多は思ひ返した。
希望を抱くふりをして。印度の犠牲の仔山羊でさへ、首を落されたあとも、あのやうに
永いことあがいたのだ。

三島由紀夫「天人五衰」より

170 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 21:35:02 ID:???
「記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それを近いもののやうに
見せもすれば、幻の眼鏡のやうなものやさかいに」
「しかしもし、清顕君がはじめからゐなかつたとすれば」と本多は雲霧の中をさまよふ
心地がして、今ここで門跡と会つてゐることも半ば夢のやうに思はれてきて、あたかも
漆の盆の上に吐きかけた息の曇りがみるみる消え去つてゆくやうに失はれてゆく自分を
呼びさまさうと思はず叫んだ。「それなら、勲もゐなかつたことになる。ジン・ジャンも
ゐなかつたことになる。……その上、ひよつとしたら、この私ですらも……」
門跡の目ははじめてやや強く本多を見据ゑた。
「それも心々ですさかい」


これと云つて奇巧のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠を繰るやうな蝉の声が
ここを領してゐる。
そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めてゐる。この庭には何もない。記憶もなければ
何もないところへ、自分は来てしまつたと本多は思つた。
庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。……

三島由紀夫「天人五衰」より

171 :名無しさん@また挑戦:2011/01/29(土) 16:33:55 ID:???
鉄の性質はまことにふしぎで、少しづつその重量を増すごとに、あたかも秤のやうに、その一方の秤皿の上に
置かれた私の筋肉の量を少しづつ増してくれるのだつた。まるで鉄には、私の筋肉との間に、厳密な平衡を保つ
義務があるかのやうだつた。そして少しづつ私の筋肉の諸性質は、鉄との類似を強めて行つた。この徐々たる経過は、
次第に難しくなる知的生産物を脳髄に与へることによつて、脳を知的に改造してゆくあの「教養」の過程に
すこぶる似てゐた。そして外的な、範例的な、肉体の古典的理想形がいつも夢みられてをり、教養の終局の目的が
そこに存する点で、それは古典主義的な教養形成によく似てゐたのである。
しかし、本当は、どちらがどちらに似てゐたのであらうか? 私はすでに言葉を以て、肉体の古典的形姿を模さうと
試みてゐたではないか。私にとつては、美はいつも後退りをする。かつて在つた、あるひはかつて在るべきで
あつた姿しか、私にとつては重要でない。鉄塊は、その微妙な変化に富んだ操作によつて、肉体のうちに失はれ
かかつてゐた古典的均衡を蘇らせ、肉体をあるべきであつた姿に押し戻す働らきをした。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

172 :名無しさん@また挑戦:2011/01/29(土) 16:39:00 ID:???
私は鉄を介して、筋肉に関するさまざまなことを学んだ。それはもつとも新鮮な知識であり、書物も世故も決して
与へてくれることのない知識であつた。筋肉は、一つの形態であると共に力であり、筋肉組織のおのおのは、
その力の方向性を微妙に分担し、あたかも肉で造り成された光りのやうだつた。
力を内包した形態といふ観念ほど、かねて私が心に描いてゐた芸術作品の定義として、ふさはしいものはなかつた。
そしてそれが光り輝やいた「有機的な」作品でなければならぬ、といふこと。
さうして作られた筋肉は、存在であることと作品であることを兼ね、逆説的にも、一種の抽象性をすら帯びてゐた。


言語芸術の栄光ほど異様なものはない。それは一見普遍化を目ざしながら、実は、言葉の持つもつとも本源的な機能を、
すなはちその普遍妥当性を、いかに精妙に裏切るか、といふところにかかつてゐる。文学における文体の勝利とは、
そのやうなものを意味してゐるのである。古代の叙事詩の如き綜合的な作品は別として、かりにも作者の名の
冠せられた文学作品は、一つの美しい「言語の変質」なのであつた。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

173 :名無しさん@また挑戦:2011/01/29(土) 16:44:04 ID:???
みんなの見る青空、神輿の担ぎ手たちが一様に見るあの神秘な青空については、そもそも言語表現が可能なので
あらうか?
私のもつとも深い疑問がそこにあつたことは前にも述べたとほりであり、鉄を介して、私が筋肉の上に見出したものは、
このやうな一般性の栄光、「私は皆と同じだ」といふ栄光の萌芽である。鉄の苛酷な圧力によつて、筋肉は徐々に、
その特殊性や個性(それはいづれも衰退から生じたものだ)を失つてゆき、発達すればするほど、一般性と普遍性の
相貌を帯びはじめ、つひには同一の雛型に到達し、お互ひに見分けのつかない相似形に達する筈なのである。
その普遍性はひそかに蝕まれてもゐず、裏切られてもゐない。これこそ私にとつてもつとも喜ばしい特性と言へる
ものだつた。
そこに、これほど目にも見え、手にも触れられる筋肉といふものの、独自の抽象性がはじまるのである。(中略)
筋肉はわれわれが通例好加減に信じてゐる存在の感覚を噛み砕き、それを一つの透明な力の感覚に変へてしまつてゐた。
これこそ私が、その抽象性と呼ぶところのものである。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

174 :名無しさん@また挑戦:2011/01/29(土) 16:49:00 ID:???
私の筋肉が徐々に鉄との相似を増すやうに、われわれは世界によつて造られてゆくのであるが、鉄も世界も
それ自身存在感覚を持つてゐる筈もないのに、愚かな類推から、しらずしらず鉄や世界も存在感覚を持つてゐるやうに
われわれは錯覚してしまふ。(中略)かくてわれわれの存在感覚は対象を追ひ求め、いつはりの相対的世界にしか
住むことができないのである。


筋肉は鉄を離れたとき絶対の孤独に陥り、その隆々たる形態は、ただ鉄の歯車と噛み合ふやうに作られた歯車の形に
すぎぬと感じられた。涼風の一過、汗の蒸発、……それと共に消える筋肉の存在。……しかし、筋肉はこのとき
もつとも本質的な働らきをし、人々の信じてゐるあいまいな相対的な存在感覚の世界を、その見えない逞しい歯列で
噛み砕き、何ら対象の要らない、一つの透明無比な力の純粋感覚に変へるのである。もはやそこには筋肉すら
存在せず、私は透明な光りのやうな、力の感覚の只中にゐた。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

175 :名無しさん@また挑戦:2011/01/29(土) 20:50:30 ID:???
想像力といふ言葉によつて、いかに多くの怠け者の真実が容認されてきたことであらうか。肉体をそのままにして、
魂が無限に真実に近づかうと逸脱する不健全な傾向を、想像力といふ言葉が、いかに美化してきたことであらうか。
他人の肉体の痛みをわが痛みの如く感ずるといふ、想像力の感傷的側面のおかげで、人はいかに自分の肉体の痛みを
避けてきたことであらうか。又、精神的な苦悩などといふ、価値の高低のはなはだ測りにくいものを、想像力が
いかに等しなみに崇高化してきたことであらうか。そして、このやうな想像力の越権が、芸術家の表現行為と
共犯関係を結ぶときに、そこに作品といふ一つの「物」の擬制が存在せしめられ、かうした多数の「物」の介在が、
今度は逆に現実を歪め修正してきたのである。その結果は、人々はただ影にしか接触しないやうになり、自分の
肉体の痛みと敢て親しまないやうになるであらう。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

176 :名無しさん@また挑戦:2011/01/29(土) 20:54:19 ID:???
拳の一閃、竹刀の一打の彼方にひそんでゐるものが、言語表現と対極にあることは、それこそは何かきはめて
具体的なもののエッセンス、実在の精髄と感じられることからもわかつた。それはいかなる意味でも影ではなかつた。
拳の彼方、竹刀の剣尖の彼方には、絶対に抽象化を拒否するところの、(ましてや抽象化による具象表現を全的に
拒否するところの)、あらたかな実在がぬつと頭をもたげてゐた。
そこにこそ行動の精髄、力の精髄がひそんでゐると思はれたが、それといふのも、その実在はごく簡単に「敵」と
呼ばれてゐたからである。


拳の一閃、竹刀の一打のさきの、何もない空間にひそんで、じつとこちらを見返すところの、敵こそは「物」の
本質なのであつた。イデアは決して見返すことがなく、物は見返す。言語表現の彼方には、獲得された擬制の
物(作品)を透かしてイデアが揺曳し、行動の彼方には、獲得された擬制の空間(敵)を透かして物が揺曳する筈だ。
そしてその物とは、行動家にとつて、想像力の媒介なしに接近を迫られるところの死の姿であり、いはば闘牛士に
とつての黒い牡牛なのだ。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

177 :名無しさん@また挑戦:2011/01/29(土) 20:59:43 ID:???
あらゆる英雄主義を滑稽なものとみなすシニシズムには、必ず肉体的劣等感の影がある。英雄に対する嘲笑は、
肉体的に自分が英雄たるにふさはしくないと考へる男の口から出るに決まつてゐる。(中略)私はかつて、彼自身も
英雄と呼ばれてをかしくない肉体的資格を持つた男の口から、英雄主義に対する嘲笑がひびくのをきいたことがない。
シニシズムは必ず、薄弱な筋肉か過剰な脂肪に関係があり、英雄主義と強大なニヒリズムは、鍛へられた筋肉と
関係があるのだ。なぜなら英雄主義とは、畢竟するに、肉体の原理であり、又、肉体の強壮と死の破壊との
コントラストに帰するからであつた。


肉体を用ひて究極感覚を追求しようとするときに勝利の瞬間はつねに感覚的に浅薄なものでしかなかつた。
敵とは、「見返す実在」とは、究極的には死に他ならない。誰も死に打ち克つことができないとすれば、勝利の
栄光とは、純現世的な栄光の極致にすぎない。そのやうな純現世的な栄光ならば、われわれは言語芸術の力を
以てしても、多少類似のものを獲得できないわけではない。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

178 :名無しさん@また挑戦:2011/01/30(日) 14:36:21 ID:???
私は言葉とどのやうにして附合つてきたであらうか。
すでに私は私の文体を私の筋肉にふさはしいものにしてゐたが、それによつて文体は撓(しな)やかに自在になり、
脂肪に類する装飾は剥ぎ取られ、筋肉的な装飾、すなはち現代文明の裡では無用であつても、威信と美観のためには
依然として必要な、さういふ装飾は丹念に維持されてゐた。私は単に機能的な文体といふものを、単に感覚的な
文体と同様に愛さなかつた。(中略)
もちろんそれは日に日に時代の好尚から背いて行つた。私の文体は対句に富み、古風な堂々たる重味を備へ、
気品にも欠けてゐなかつたが、どこまで行つても式典風な壮重な歩行を保ち、他人の寝室をもその同じ歩調で
通り抜けた。私の文体はつねに軍人のやうに胸を張つてゐた。そして、背をかがめたり、身を斜めにしたり、
膝を曲げたり、甚だしいのは腰を振つたりしてゐる他人の文体を軽蔑した。
姿勢を崩さなければ見えない真実がこの世にはあることを、私とて知らぬではない。しかしそれは他人に委せて
おけばすむことだつた。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

179 :名無しさん@また挑戦:2011/01/30(日) 14:40:32 ID:???
私は何より敗北を嫌つた。自分が侵蝕され、感受性の胃液によつて内側から焼けただれ、つひには輪郭を失ひ、融け、
液化してしまふこと、又自分をめぐる時代と社会とがさうなつてしまふこと、それに文体を合せてゆくほどの敗北が
あるだらうか。
芸術作品といふものは、皮肉なことに、そのやうな敗北と、精神の死の只中から、傑作を成就することがあるのは
よく知られてゐる。一歩しりぞいて、この種の傑作を芸術の勝利とみとめるにしても、それは戦ひなき勝利であり、
芸術独特の不戦勝なのであつた。私が求めるのは、勝つにせよ、負けるにせよ、戦ひそのものであり、戦はずして
敗れることも、ましてや、戦はずして勝つことも、私の意中にはなかつた。一方では、私は、あらゆる戦ひと
いふものの、芸術における虚偽の性質を知悉してゐた。もしどうしても私が戦ひを欲するなら、芸術においては
砦を防衛し、芸術外において攻撃に出なければならぬ。芸術においてはよき守備兵であり、芸術外においては
よき戦士でなければならぬ。私の生活の目標は、戦士としてのくさぐさの資格を取得することに向けられた。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

180 :名無しさん@また挑戦:2011/01/30(日) 14:46:03 ID:???
死に対する燃えるやうな希求が、決して厭世や無気力と結びつかずに、却つて充溢した力や生の絶頂の花々しさや
戦ひの意志と結びつくところに「武」の原理があるとすれば、これほど文学の原理に反するものは又とあるまい。
「文」の原理とは、死は抑圧されつつ私(ひそ)かに動力として利用され、力はひたすら虚妄の構築に捧げられ、
生はつねに保留され、ストックされ、死と適度にまぜ合はされ、防腐剤を施され、不気味な永生を保つ芸術作品の
制作に費やされることであつた。むしろかう言つたらよからう。「武」とは花と散ることであり、「文」とは
不朽の花を育てることだ、と。そして不朽の花とはすなはち造花である。
かくて「文武両道」とは、散る花と散らぬ花とを兼ねることであり、人間性の最も相反する二つの欲求、および
その欲求の実現の二つの夢を、一身に兼ねることであつた。そこで何が起るか? 一方が実体であれば他方は
虚妄であらざるをえぬこの二つのもの、その双方の本質に通暁し、その源泉を知悉し、その秘密に与るとは、
一方の他方に対する究極的な夢をひそかに破壊することなのだ。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

181 :名無しさん@また挑戦:2011/01/30(日) 14:57:25 ID:???
生きてゐるあひだは、しかしわれわれは、どのやうな認識とも戯れることができる。それはスポーツにおける
刻々の死と、それからのよみがへりの爽やかさが証明してゐる。たえず破滅に瀕しつつ得られる均衡こそが、
認識上の勝利なのだ。
私の認識はいつも欠伸をしてゐたから、よほど困難な、ほとんど不可能な命題に対してしか、興味を示さぬやうに
なつてゐた。といふよりもむしろ、認識が認識自体を危ふくするやうな危険なゲームにしか惹かれなくなつたのである。
そしてそのあとの爽快なシャワーにしか。
かつて私は、胸囲一メートル以上の男は、彼を取り巻く外界について、どういふ感じ方をするものかといふことに、
一つの認識の標的を宛ててゐた。それは認識にとつて明らかに手にあまる課題であつた。(中略)
――しかし、突然、あらゆる幻想は消えた。退屈してゐる認識は不可解なもののみを追ひ求め、のちに、突然、
その不可解は瓦解し、……胸囲一メートル以上の男は私だつたのである。
かつて向う岸にゐたと思はれた人々は、もはや私と同じ岸にゐるやうになつた。すでに謎はなく、謎は死だけになつた。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

182 :名無しさん@また挑戦:2011/01/30(日) 14:59:38 ID:???
生きてゐるあひだは、しかしわれわれは、どのやうな認識とも戯れることができる。それはスポーツにおける
刻々の死と、それからのよみがへりの爽やかさが証明してゐる。たえず破滅に瀕しつつ得られる均衡こそが、
認識上の勝利なのだ。
私の認識はいつも欠伸をしてゐたから、よほど困難な、ほとんど不可能な命題に対してしか、興味を示さぬやうに
なつてゐた。といふよりもむしろ、認識が認識自体を危ふくするやうな危険なゲームにしか惹かれなくなつたのである。
そしてそのあとの爽快なシャワーにしか。
かつて私は、胸囲一メートル以上の男は、彼を取り巻く外界について、どういふ感じ方をするものかといふことに、
一つの認識の標的を宛ててゐた。それは認識にとつて明らかに手にあまる課題であつた。(中略)
――しかし、突然、あらゆる幻想は消えた。退屈してゐる認識は不可解なもののみを追ひ求め、のちに、突然、
その不可解は瓦解し、……胸囲一メートル以上の男は私だつたのである。
かつて向う岸にゐたと思はれた人々は、もはや私と同じ岸にゐるやうになつた。すでに謎はなく、謎は死だけにあつた。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

183 :名無しさん@また挑戦:2011/01/30(日) 22:05:57 ID:???
永遠に想像力に属する唯一のものこそ、すなはち死であつた。
しかし、どうちがふのか? 夜襲を仕掛けてくる病的な想像力、あの官能的な、放恣な感覚的惑溺をもたらす想像力の
淵源が、すべて死にあるとすれば、栄光ある死とその死とはどうちがふのか? 浪漫的な死と、頽廃的な死とは
どうちがふのか? 文武両道の苛酷な無救済は、それらが畢竟同じものだと教へるであらう。そして、文学上の倫理も、
行動の倫理も、死と忘却に抗ふためのはかない努力にすぎぬと教へるであらう。


男とは、ふだんは自己の客体化を絶対に容認しないものであつて、最高の行動を通してのみ客体化され得るが、
それはおそらく死の瞬間であり、実際に見られなくても「見られる」擬制が許され、客体としての美が許されるのは、
この瞬間だけなのである。特攻隊の美とはかくの如きものであり、それは精神的にのみならず、男性一般から、
超エロティックに美と認められる。しかもこの場合の媒体をなすものは、常人の企て及ばぬ壮烈な英雄的行動なので
あり、従つてそこには無媒介の客体化は成り立たない。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

184 :名無しさん@また挑戦:2011/01/31(月) 12:20:15 ID:???
私にとつて、時が回収可能だといふことは、直ちに、かつて遂げられなかつた美しい死が可能になつたといふことを
意味してゐた。あまつさへ私はこの十年間に、力を学び、受苦を学び、戦ひを学び、克己を学び、それらすべてを
喜びを以て受け入れる勇気を学んでゐた。
私は戦士としての能力を夢みはじめてゐたのである。


……私が幸福と呼ぶところのものは、もしかしたら、人が危機と呼ぶところのものと同じ地点にあるのかもしれない。
言葉を介さずに私が融合し、そのことによつて私が幸福を感じる世界とは、とりもなほさず、悲劇的世界であつた
からである。もちろんその瞬間にはまだ悲劇は成就されず、あらゆる悲劇的因子を孕み、破滅を内包し、確実に
「未来」を欠いた世界。そこに住む資格を完全に取得したといふ喜びが、明らかに私の幸福の根拠だつた。
そのパスポートを言葉によつてではなく、ただひたすら肉体的教養によつて得たと感じることが、私の矜りの
根拠だつた。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

185 :名無しさん@また挑戦:2011/01/31(月) 12:24:07 ID:???
そこでだけ私がのびやかに呼吸をすることのできる世界、完全に日常性を欠き、完全に未来を欠いた世界、
それこそあの戦争がをはつた時以来、たえず私が灼きつくやうな焦燥を以て追ひ求めてゐたものであつたが、
言葉は決して私にこれを与へなかつたのみか、むしろそこから遠ざかるやうに遠ざかるやうにと私を鞭打つた。
なぜなら、どんな破滅的な言語表現も、芸術家の「日々の仕事(ターゲヴェルク)」に属してゐたからである。
何といふ皮肉であらう。そもそもそのやうな、明日といふもののない、大破局の熱い牛乳の皮がなみなみと
湛へられた茶碗の縁を覆うてゐたあの時代には、私はその牛乳を呑み干す資格を与へられてゐず、その後の永い
練磨によつて、私が完全に資格を取得して還つて来たときには、すでに牛乳は誰かに呑み干されたあとであり、
冷えた茶碗は底をあらはし、私はすでに四十歳を超えてゐたのだつた。そして困つたことに、私の渇を癒やすことの
できるものは、誰かがすでに呑んでしまつたその熱い牛乳だけなのだ。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

186 :名無しさん@また挑戦:2011/01/31(月) 12:32:58 ID:???
「来(きた)るべき戦争」といふ厖大な仮構へすべてが捧げられ、訓練計画は周到に編まれ、兵士たちは精励し、
そして何事も起らぬ空無は日々進行し、きのふ最上の状態にあつた肉体は、今日かすかに衰退し、老いはつぎつぎと
整理され、若さは小止みなく補給されてゐた。
私は今さらながら、言葉の真の効用を会得した。言葉が相手にするものこそ、この現在進行形の虚無なのである。
いつ訪れるとも知れぬ「絶対」を待つ間の、いつ終るともしれぬ進行形の虚無こそ、言葉の真の画布なのである。(中略)
言葉は言はれたときが終りであり、書かれたときが終りである。その終りの集積によつて、生の連続性の一刻一刻の
断絶によつて、言葉は何ほどかの力を獲得する。(中略)
終らせる、といふ力が、よしそれも亦仮構にもせよ、言葉には明らかに備はつてゐた。死刑囚の書く長たらしい手記は、
およそ人間の耐へることの限界を越えた永い待機の期間を、刻々、言葉の力で終らせようとする咒術なのだ。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

187 :名無しさん@また挑戦:2011/01/31(月) 12:37:16 ID:???
われわれは「絶対」を待つ間の、つねに現在進行の虚無に直面するときに、何を試みるかの選択の自由だけが
残されてゐる。いづれにせよ、われわれは準備せねばならぬ。この準備が向上と呼ばれるのは、多かれ少なかれ、
人間の中には、やがて来るべき未見の「絶対」の絵姿に、少しでも自分が似つかはしくなりたいといふ哀切な望みが
ひそんでゐるからであらう。もつとも自然で公明な欲望は、自分の肉体も精神も、ひさしくその絶対の似姿に
近づきたいとのぞむことであらう。
しかし、この企図は、必ず、全的に失敗するのだ。なぜなら、どんな劇烈な訓練を重ねても、肉体は必ず徐々に
衰退へ向ひ、どんなに言葉による営為を積み重ねても、精神は「終り」を認識しないからである。言葉がなしくづしに
終わらせるので、すでに言葉によつて生の連続感を失つてゐる精神には、真の終りの見分けがつかないのである。
この企図の挫折と失敗を司るものこそ「時」であるが、ごく稀に「時」は恩寵を垂れて、この企図を、挫折と失敗から
救出することがある。それが夭折といふものの神秘的な意味であり、ギリシア人はそれを神々に愛された者と呼んで
羨んだのであつた。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

188 :名無しさん@また挑戦:2011/01/31(月) 12:43:06 ID:???
あのころの、十七歳の私を無知と呼ばうか? いや、決してそんなことはない。私はすべてを知つてゐたのだ。
十七歳の私が知つてゐたことに、その後四半世紀の人生経験は何一つ加へはしなかつた。ただ一つのちがひは、
十七歳の私がリアリズムを所有しなかつたといふことだけだ。
もしもう一度あの夏の水浴のやうに私を快く涵してゐた全知へ還ることができたらどんなによからう。


七生報国や必敵撃滅や死生一如や悠久の大義のやうに、言葉すくなに誌された簡潔な遺書は、明らかに幾多の
既成概念のうちからもつとも壮大もつとも高貴なものを選び取り、心理に類するものはすべて抹殺して、ひたすら
自分をその壮麗な言葉に同一化させようとする矜りと決心をあらはしてゐた。
もちろんかうして書かれた四字の成句は、あらゆる意味で「言葉」であつた。しかし既成の言葉とはいへ、それは
並大抵の行為では達しえない高みに、日頃から飾られてゐる格別の言葉だつた。今は失つたけれども、かつて
われわれはそのやうな言葉を持つてゐたのである。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

189 :名無しさん@また挑戦:2011/01/31(月) 12:49:45 ID:???
肉体が未来の衰退へ向つて歩むとき、そのはうへついて行かずに、肉体に比べればはるかに盲目で頑固な精神に
黙つてついて行き、果てはそれにたぶらかされる人々と同じ道を、私は歩きたいとは思はなかつた。
何とか私の精神に再び「終り」を認識させねばならぬ。そこからすべてがはじまるのだ。そこにしか私の真の
自由の根拠がありえぬことは明らかだつた。言葉の誤用によつてことさら全知を避けてゐた少年時代の、あの夏の
さはやかな水浴を思ひ出させる全知の水にふたたび涵つて、今度は水ごと表現してみせなくてはならぬ。
復帰が不可能だといふことは、人に言はれるまでもなく、わかりきつてゐる。しかしその不可能は私の認識の退屈を
刺戟し、もはや不可能にしかよびさまされぬ認識の活力は、自由に向つて夢みてゐたのである。
文学による自由、言葉による自由といふものの究極の形態を、すでに私は肉体の演ずる逆説の中に見てゐたのだつた。
とまれ、私の逸したのは死ではなかつた。私のかつて逸したのは悲劇だつた。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

190 :名無しさん@また挑戦:2011/01/31(月) 16:52:21 ID:???
さて、私の幼時の直感、集団といふものは肉体の原理にちがひないといふ直感は正しかつた。今にいたるまで、
この直感を革める必要を私は感じたことがない。後年、私が「肉体のあけぼの」と呼んでゐるところの、肉体の
激しい行使と死なんばかりの疲労の果てに訪れるあの淡紅色の眩暈を知るにいたつてから、はじめて私は集団の意味を
覚るやうになつたからである。(中略)
力の行使、その疲労、その汗、その涙、その血が、神輿担ぎの等しく仰ぐ、動揺常なき神聖な青空を私の目に見せ、
「私は皆と同じだ」といふ栄光の源をなすことに気づいたとき、すでに私は、言葉があのやうに私を押し込めて
ゐた個性の閾を踏み越えて、集団の意味に目ざめる日の来ることを、はるかに予見してゐたのかもしれない。
(中略)紙に書かれようと、叫ばれようと、集団の言葉は終局的に肉体的表現にその帰結を見出す。それは密室の
孤独から、遠い別の密室の孤独への、秘められた伝播のための言葉ではなかつた。集団こそは、言葉といふ媒体を
終局的に拒否するところの、いふにいはれぬ「同苦」の概念にちがひなかつた。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

191 :名無しさん@また挑戦:2011/01/31(月) 16:57:47 ID:???
肉体は集団により、その同苦によつて、はじめて個人によつては達しえない或る肉の高い水位に達する筈であつた。
そこで神聖が垣間見られる水位にまで溢れるためには、個性の液化が必要だつた。のみならず、たえず安逸と放埒と
怠惰へ沈みがちな集団を引き上げて、ますます募る同苦と、苦痛の極限の死へみちびくところの、集団の悲劇性が
必要だつた。集団は死へ向つて拓かれてゐなければならなかつた。私がここで戦士共同体を意味してゐることは
云ふまでもあるまい。
早春の朝まだき、集団の一人になつて、額には日の丸を染めなした鉢巻を締め、身も凍る半裸の姿で、駈けつづけて
ゐた私は、その同苦、その同じ懸声、その同じ歩調、その合唱を貫ぬいて、自分の肌に次第ににじんで来る汗のやうに、
同一性の確認に他ならぬあの「悲劇的なもの」が君臨してくるのをひしひしと感じた。それは凛烈な朝風の底から
かすかに芽生えてくる肉の炎であり、さう云つてよければ、崇高さのかすかな萌芽だつた。「身を挺してゐる」と
いふ感覚は、筋肉を躍らせてゐた。われわれは等しく栄光と死を望んでゐた。望んでゐるのは私一人ではなかつた。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

192 :名無しさん@また挑戦:2011/02/01(火) 11:20:13 ID:???
私には地球を取り巻く巨きな巨きな蛇の環が見えはじめた。すべての対極性を、われとわが尾を嚥(の)みつづける
ことによつて鎮める蛇。すべての相反性に対する嘲笑をひびかせてゐる最終の巨大な蛇。私にはその姿が見えはじめた。
相反するものはその極致において似通ひ、お互ひにもつとも遠く隔たつたものは、ますます遠ざかることによつて
相近づく。蛇の環はこの秘義を説いてゐた。肉体と精神、感覚的なものと知的なもの、外側と内側とは、どこかで、
この地球からやや離れ、白い雲の蛇の環が地球をめぐつてつながる、それよりもさらに高方においてつながるだらう。
私は肉体の縁(へり)と精神の縁、肉体の辺境と精神の辺境だけに、いつも興味を寄せてきた人間だ。深淵には
興味がなかつた。深淵は他人に委せよう。なぜなら深淵は浅薄だからだ。深淵は凡庸だからだ。
縁の縁、そこには何があるのか。虚無へ向つて垂れた縁飾りがあるだけなのか。

三島由紀夫「太陽と鉄 エピロオグ―F104」より

193 :名無しさん@また挑戦:2011/02/01(火) 11:24:42 ID:???
人は地上で重い重力に押しひしがれ、重い筋肉に身を鎧つて、汗を流し、走り、撃ち、辛うじて跳ぶ。それでも
時として、目もくらむ疲労の暗黒のなかから、果然、私が「肉体のあけぼの」と呼んでゐるものが色めいて
くるのを見た。
人は地上で、あたかも無限に飛翔するかのやうな知的冒険に憂身をやつし、じつと机に向つて、精神の縁へ、
もつと縁へ、もつと縁へと、虚無への落下の危険を冒しながら、にじり寄らうとする。その時、(ごく稀にだが)、
精神も亦、それ自身の黎明を垣間見るのだ。
しかしこの二つが、決して相和することはない。お互ひに似通つてしまふことはなかつた。
(中略)
どこかでそれらはつながる筈だ。どこで?
運動の極みが静止であり、静止の極みが運動であるやうな領域が、どこかに必ずなくてはならぬ。
もし私が大ぶりに腕を動かす。そのとたんに私は知的な血液の幾分かを失ふのだ。もし私が打撃の寸前に少しでも
考へる。そのとたんに私の一打は失敗に終るのだ。
どこかでより高い原理があつて、この統括と調整を企ててゐなければならぬ筈だつた。
私はその原理を死だと考へた。

三島由紀夫「太陽と鉄 エピロオグ―F104」より

194 :名無しさん@また挑戦:2011/02/01(火) 11:28:19 ID:???
しかし私は死を神秘的に考へすぎてゐた。死の簡明な物理的な側面を忘れてゐた。
地球は死に包まれてゐる。空気のない上空には、はるか地上に、物理的条件に縛められて歩き回る人間を眺め
下ろしながら、他ならぬその物理的条件によつてここまでは気楽に昇れず、したがつて物理的に人を死なすこと
きはめて稀な、純潔な死がひしめいてゐる。人が素面で宇宙に接すればそれは死だ。宇宙に接してなほ生きるためには、
仮面をかぶらねばならない。酸素マスクといふあの仮面を。
精神や知性がすでに通ひ馴れてゐるあの息苦しい高空へ、肉体を率いて行けば、そこで会ふのは死かもしれない。
精神や知性だけが昇つて行つても、死ははつきりした顔をあらはさない。そこで精神はいつも満ち足りぬ思ひで、
しぶしぶと、地上の肉体の棲家へ舞ひ戻つて来る。彼だけが昇つて行つたのでは、つひに統一原理は顔をあらはさない。
二人揃つて来なくては受け容れられぬ。
私はまだあの巨大な蛇に会つてゐなかつた。

三島由紀夫「太陽と鉄 エピロオグ―F104」より

195 :名無しさん@また挑戦:2011/02/01(火) 11:31:39 ID:???
或る日、私は自分の肉体を引き連れて、気密室(プレシャー・チェンバー)の中へ入つた。(中略)
酸素マスクは呼吸につれて、鼻翼に貼りついたり離れたりしてゐた。精神は言ひきかせた。
「肉体よ。お前は今日は私と一緒に、少しも動かずに、精神のもつとも高い縁まで行くのだよ」
肉体は、しかし、傲岸にかう答へた。
「いいえ、私も一緒に行く以上、どんなに高からうが、それも亦、肉体の縁に他なりません。書斎のあなたは一度も
肉体を伴つてゐなかつたから、さういふことを言ふのです」
(中略)
四万一千フィート。四万二千フィート。四万三千フィート。私は自分の口にぴたりと貼りついた死を感じた。
柔らかな、温かい、蛸のやうな死。それは私の精神が夢みたいかなる死ともちがふ、暗い軟体動物のやうな死の
影だつたが、私の頭脳は、訓練が決して私が殺しはしないことを忘れてゐなかつた。しかしこの無機的な戯れは、
地球の外側にひしめいてゐる死が、どんな姿をしてゐるかをちらと見せてくれたのだ。

三島由紀夫「太陽と鉄 エピロオグ―F104」より

196 :名無しさん@また挑戦:2011/02/01(火) 11:35:42 ID:???
F104の離陸は徹底的な離陸だつた。零戦が十五分をかけて昇つた一万メートルの上空へ、それはたつた二分で
昇るのだ。+Gが私の肉体にかかり、私の内蔵はやがて鉄の手で押し下げられ、血は砂金のやうに重くなる筈だ。
私の肉体の錬金術がはじまる筈だ。
F104、この銀いろの鋭利な男根は、勃起の角度で大空をつきやぶる。その中に一疋の精虫のやうに私は
仕込まれてゐる。私は射精の瞬間に精虫がどう感じるかを知るだらう。
われわれの生きてゐる時代の一等縁の、一等端の、一等外れの感覚が、宇宙旅行に必須なGにつながつてゐることは、
多分疑ひがない。われわれの時代の日常感覚の末端が、Gに融け込んでゐることは、多分まちがひがない。
われわれがかつて心理と呼んでゐたものの究極が、Gに帰着するやうな時代にわれわれは生きてゐる。Gを彼方に
予想してゐないやうな愛憎は無効なのだ。
Gは神的なものの物理的な強制力であり、しかも陶酔の正反対に位する陶酔、知的極限の反対側に位置する
知的極限なのにちがひない。

三島由紀夫「太陽と鉄 エピロオグ―F104」より

197 :名無しさん@また挑戦:2011/02/01(火) 11:41:42 ID:???
つい数分前までは私もその一人であつた地上の人間にとつて、私は一瞬にして「遠ざかりゆく者」になり、かれらの
刹那の記憶に他ならない一点に、今正に存在してゐた。
風防ガラスをつらぬいて容赦なくそそぐ太陽光線、この思ふさま裸かになつた光りの中に、栄光の観念がひそんで
ゐると考へるのは、いかにも自然である。栄光とはこのやうな無機的な光り、超人間的な光り、危険な宇宙線に
充ちたこの裸かの光線に、与へられた呼名にちがひない。
(中略)
音速を超え、マッハ1.15、マッハ1.2、マッハ1.3に至つて、四万五千フィートの高度へ昇つた。沈みゆく
太陽は下にあつた。
何も起らない。
あらはな光りの中に、ただ銀いろの機体が浮び、機はみごとな平衡を保つてゐる。それは再び、閉ざされた
不動の部屋になつた。機は全く動いてゐないかのやうだ。それはただ、高空に浮んでゐる静止した奇妙な金属製の
小部屋になつた。
あの地上の気密室は、かくて宇宙船の正確なモデルになる筈だ。動かないものが、もつとも迅速に動くものの、
精密な原型になるのだ。

三島由紀夫「太陽と鉄 エピロオグ―F104」より

198 :名無しさん@また挑戦:2011/02/01(火) 11:45:11 ID:???
窒息感(チョーク)も来ない。私の心はのびやかで、いきいきと思考してゐた。閉ざされた部屋と、ひらかれた
部屋との、かくも対極的な室内が、同じ人間の、同じ精神の棲み家になるのだ。行動の果てにあるもの、運動の
果てにあるものがこのやうな静止だとすると、まはりの大空も、はるか下方の雲も、その雲間にかがやく海も、
沈む太陽でさへ、私の内的な出来事であり、私の内的な事物であつてふしぎはない。私の知的冒険と肉体的冒険とは、
ここまで地球を遠ざかれば、やすやすと手を握ることができるのだ。この地点こそ私の求めてやまぬものであつた。
天空に浮んでゐる銀いろのこの筒は、いはば私の脳髄であり、その不動は私の精神の態様だつた。脳髄は頑なな骨で
守られてはゐず、水に浮んだ海綿のやうに、浸透可能なものになつてゐた。内的世界と外的世界とは相互に浸透し合ひ、
完全に交換可能になつた。雲と海と落日だけの簡素な世界は、私の内的世界の、いまだかつて見たこともない壮大な
展望だつた。と同時に、私の内部に起るあらゆる出来事は、もはや心理や感情の羈絆を脱して、天空に自由に
描かれる大まかな文字になつた。

三島由紀夫「太陽と鉄 エピロオグ―F104」より

199 :名無しさん@また挑戦:2011/02/01(火) 11:48:46 ID:???
そのとき私は蛇を見たのだ。
地球を取り巻いてゐる白い雲の、つながりつながつて自らの尾を嚥んでゐる、巨大といふもおろかな蛇の姿を。
ほんのつかのまでも、われわれの脳裡に浮んだことは存在する。現に存在しなくても、かつてどこかに存在したか、
あるひはいつか存在するであらう。それこそ気密室と宇宙船との相似なのだ。私の深夜の書斎と、四万五千フィート
上空のF104の機体内との相似なのだ。肉体は精神の予見に充たされて光り、精神は肉体の予見に溢れて
輝やく筈だ。そしてその一部始終を見張る者こそ、意識なのだ。今、私の意識はジュラルミンのやうに澄明だつた。
あらゆる対極性を一つのものにしてしまふ巨大な蛇の環は、もしそれが私の脳裡に泛んだとすれば、すでに
存在してゐてふしぎはなかつた。蛇は永遠に自分の尾を嚥んでゐた。それは死よりも大きな環、かつて気密室で
私がほのかに匂ひをかいだ死よりももつと芳香に充ちた蛇、それこそはかがやく天空の彼方にあつて、われわれを
瞰下(みお)ろしてゐる統一原理の蛇だつた。

三島由紀夫「太陽と鉄 エピロオグ―F104」より

200 :名無しさん@また挑戦:2011/02/01(火) 12:05:44 ID:???
私はそもそも天に属するのか?
さうでなければ何故天は
かくも絶えざる青の注視を私へ投げ
私をいざなひ心もそらに
もつと高くもつと高く
人間的なものよりもはるか高みへ
たえず私をおびき寄せる?
均衡は厳密に考究され
飛翔は合理的に計算され
何一つ狂ほしいものはない筈なのに
何故かくも昇天の欲望は
それ自体が狂気に似てゐるのか?
私を満ち足らはせるものは何一つなく
地上のいかなる新も忽ち倦(あ)かれ
より高くより高くより不安定に
より太陽の光輝に近くおびき寄せられ
何故その理性の光源は私を灼き
何故その理性の光源は私を滅ぼす?
眼下はるか村落や川の迂回は
近くにあるよりもずつと耐へやすく
かくも遠くからならば
人間的なものを愛することもできようと
何故それは弁疏し是認し誘惑したのか?
その愛が目的であつた筈もないのに?
もしさうならば私が
そもそも天に属する筈もない道理なのに?
鳥の自由はかつてねがはず
自然の安逸はかつて思はず
ただ上昇と接近への
不可解な胸苦しさにのみ駆られて来て
空の青のなかに身をひたすのが
有機的な喜びにかくも反し
優越のたのしみからもかくも遠いのに
もつと高くもつと高く
翼の蝋の眩暈と灼熱におもねつたのか?

三島由紀夫「太陽と鉄――イカロス」より

201 :名無しさん@また挑戦:2011/02/01(火) 12:10:43 ID:???
私はそもそも天に属するのか?
さうでなければ何故天は
かくも絶えざる青の注視を私へ投げ
私をいざなひ心もそらに
もつと高くもつと高く
人間的なものよりもはるか高みへ
たえず私をおびき寄せる?
均衡は厳密に考究され
飛翔は合理的に計算され
何一つ狂ほしいものはない筈なのに
何故かくも昇天の欲望は
それ自体が狂気に似てゐるのか?
私を満ち足らはせるものは何一つなく
地上のいかなる新も忽ち倦(あ)かれ
より高くより高くより不安定に
より太陽の光輝に近くおびき寄せられ
何故その理性の光源は私を灼き
何故その理性の光源は私を滅ぼす?
眼下はるか村落や川の迂回は
近くにあるよりもずつと耐へやすく
かくも遠くからならば
人間的なものを愛することもできようと
何故それは弁疏し是認し誘惑したのか?
その愛が目的であつた筈もないのに?
もしさうならば私が
そもそも天に属する筈もない道理なのに?

三島由紀夫「太陽と鉄――イカロス」より

202 :名無しさん@また挑戦:2011/02/01(火) 12:13:53 ID:???
鳥の自由はかつてねがはず
自然の安逸はかつて思はず
ただ上昇と接近への
不可解な胸苦しさにのみ駆られて来て
空の青のなかに身をひたすのが
有機的な喜びにかくも反し
優越のたのしみからもかくも遠いのに
もつと高くもつと高く
翼の蝋の眩暈と灼熱におもねつたのか?

されば
そもそも私は地に属するのか?
さうでなければ何故地は
かくも急速に私の下降を促し
思考も感情もその暇を与へられず
何故かくもあの柔らかなものうい地は
鉄板の一打で私に応へたのか?
私の柔らかさを思ひ知らせるためにのみ
柔らかな大地は鉄と化したのか?
堕落は飛翔よりもはるかに自然で
あの不可解な情熱よりもはるかに自然だと
自然が私に思ひ知らせるために?
空の青は一つの仮想であり
すべてははじめから翼の蝋の
つかのまの灼熱の陶酔のために
私の属する地が仕組み
かつは天がひそかにその企図を助け
私に懲罰を下したのか?
私が私といふものを信ぜず
あるひは私が私といふものを信じすぎ
自分が何に属するかを性急に知りたがり
あるひはすべてを知つたと傲り
未知へ
あるひは既知へ
いづれも一点の青い表象へ
私が飛び翔たうとした罪の懲罰に?

三島由紀夫「太陽と鉄――イカロス」より

203 :名無しさん@また挑戦:2011/02/01(火) 17:08:30 ID:???
絶望を語ることはたやすい。しかし希望を語ることは危険である。わけてもその希望が一つ一つ裏切られてゆくやうな
状況裡に、たえず希望を語ることは、後世に対して、自尊心と羞恥心を賭けることだと云つてもよい。


私は本来国体論には正統も異端もなく、国体思想そのものの裡にたえず変革を誘発する契機があつて、むしろ
国体思想イコール変革の思想だといふ考へ方をするのである。それによつて、平田流神学から神風連を経て
二・二六にいたる精神史的潮流が把握されるので、国体論自体が永遠のナインであり、天皇信仰自体が永遠の
現実否定なのである。


道義の現実はつねにザインの状態へ低下する惧れがあり、つねにゾルレンのイメージにおびやかされる危険がある。
二・二六は、このやうな意味で、当為(ゾルレン)の革命、すなはち道義的革命の性格を担つてゐた。
あらゆる制度は、否定形においてはじめて純粋性を得る。そして純粋性のダイナミクスとは、つねに永久革命の
形態をとる。すなはち日本天皇制における永久革命的性格を担ふものこそ、天皇信仰なのである。

三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より

204 :名無しさん@また挑戦:2011/02/01(火) 17:12:04 ID:???
追ひつめられた状況で自ら神となるとは、自分の信条の、自己に超越的な性質を認めることである。


決して後悔しないといふことは、何はともあれ、男性に通有の論理的特質に照らして、男性的な美徳である。


事実(ファクト)が一歩一歩われらを死へ追ひつめるとき、人間の弱さと強さの弁別は混乱する。弱さとは
そのファクトから目をそむけ、ファクトを認めまいとすることなのか? もしさうだとすれば、強さとはファクトを
容認した諦念に他ならぬことになり、単なるファクトを宿命にまで持ち上げてしまふことになる。私には、事態が
最悪の状況に立ち至つたとき、人間に残されたものは想像力による抵抗だけであり、それこそは「最後の楽天主義」の
英雄的根拠だと思はれる。そのとき単なる希望も一つの行為になり、つひには実在となる。なぜなら、悔恨を
勘定に入れる余地のない希望とは、人間精神の最後の自由の証左だからだ。

三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より

205 :名無しさん@また挑戦:2011/02/03(木) 20:52:52 ID:???
   遺言       平岡公威(私の本名)

一、御父上様
  御母上様
  恩師清水先生ハジメ
  學習院並ニ東京帝國大學
  在學中薫陶ヲ受ケタル
  諸先生方ノ
  御鴻恩ヲ謝シ奉ル
一、學習院同級及諸先輩ノ
  友情マタ忘ジ難キモノ有リ
  諸子ノ光榮アル前途ヲ祈ル
一、妹美津子、弟千之ハ兄ニ代リ
  御父上、御母上ニ孝養ヲ尽シ
  殊ニ千之ハ兄ニ続キ一日モ早ク
  皇軍ノ貔貅(ヒキユウ)トナリ
  皇恩ノ万一ニ報ゼヨ
天皇陛下萬歳


(中略)私は生き残つた。遺書は今日、人々を笑はせる。それなりに結構で、おめでたい話にちがひない。
しかし私は、現代日本におけるいかなる死にも、二度とこのやうなもう一つの見えざる手が書かせる遺書は
ありえないことを、空虚に感じる心も否定できないのである。でも、まだしも諦めがつくのは、私もかつては
このやうな大遺書を書いたといふことだ。一生に遺書は多分これ一通で十分であらう。

三島由紀夫「私の遺書」より

206 :名無しさん@また挑戦:2011/02/03(木) 20:58:58 ID:???

   遺言       平岡公威(私の本名)

一、御父上様
  御母上様
  恩師清水先生ハジメ
  學習院並ニ東京帝國大學
  在學中薫陶ヲ受ケタル
  諸先生方ノ
  御鴻恩ヲ謝シ奉ル
一、學習院同級及諸先輩ノ
  友情マタ忘ジ難キモノ有リ
  諸子ノ光榮アル前途ヲ祈ル
一、妹美津子、弟千之ハ兄ニ代リ
  御父上、御母上ニ孝養ヲ尽シ
  殊ニ千之ハ兄ニ続キ一日モ早ク
  皇軍ノ貔貅(ひきう)トナリ
  皇恩ノ万一ニ報ゼヨ
天皇陛下萬歳


(中略)私は生き残つた。遺書は今日、人々を笑はせる。それなりに結構で、おめでたい話にちがひない。
しかし私は、現代日本におけるいかなる死にも、二度とこのやうなもう一つの見えざる手が書かせる遺書は
ありえないことを、空虚に感じる心も否定できないのである。でも、まだしも諦めがつくのは、私もかつては
このやうな大遺書を書いたといふことだ。一生に遺書は多分これ一通で十分であらう。

三島由紀夫「私の遺書」より

207 :名無しさん@また挑戦:2011/02/05(土) 17:30:27 ID:???
Q――クール・セックス時代とか、モノ・セックス時代とかいはれてをりますが、青年は男らしいと思ひますか?
たとへば、童貞が激増してゐるといふやうなこと。

三島:童貞がふえてるといふことと、男らしさといふものとは、あまり関係がないんぢやない?
だけど、ボクサーの場合、童貞の選手は強いですね。セックスをやつてるひとは弱いですね。それか、セックスを
ずーつと前に知つちやつてね、セックスといふものが、そんなに固定観念になつてないひとは、強いですね。
男らしさ、といふことをいへばいまは、女とやつてる奴の方が、女らしくなつてるかもしれない。
(中略)男の方がどうしても女のロマンチックな趣味に合はせるやうになりますからね。これは昔から変はらない
ことだけれども、若い女といふものは、あんまり男らしい男は、好きぢやないですよ、こはくて。
だから、いまの青年が男らしくないとすれば、それは女のせゐですよ。そんなの汚ならしい、カッコ悪いと
いはれれば、仕方がないからさうしちやふ。

三島由紀夫「青年論――キミ自身の生きかたを考へるために」より

208 :名無しさん@また挑戦:2011/02/05(土) 17:32:51 ID:???
Q――青年にすすめたい本、十冊をあげて下さい。

三島:ゲーテの「ヘルマンとドロテア」、これは一番すすめたい。
それから、林房雄の「青年」もぜひ読んで欲しい。これは、ちよつと我田引水になるけれども、ぼくが最近書いた
「葉隠入門」。
若いひとにぜひ読んでもらひたいと思つて、あれは書いたものだからね。
それからフランス文学では、サン・テグジュペリの小説、アンドレ・マルローの初期のものね。ああいふのは
青年らしいですよ。
東洋には、日本も含めて、青年のための本といふのは、少ないですがね、ぼくが非常におもしろくて、好きなのは、
世阿弥の「花伝書」。これはすすめたいな。(中略)
それから、ヘルデルリーンの詩、「ヒュペリオン」、あれはいい。
トルストイ、ドストエフスキーなども、「罪と罰」なんかいいけど、別にぼくがとくにすすめる必要はないと思ふ。

三島由紀夫「青年論――キミ自身の生きかたを考へるために」より

209 :テスト:2011/02/06(日) 19:12:19 ID:zKwZNLfF
あくまでてすと

210 :名無しさん@また挑戦:2011/02/06(日) 20:20:03 ID:???
想像力といふものは、多くは不満から生まれるものである。あるひは、退屈から生まれるものである。われわれが
危急に際して行動に熱中し、生きることにすべての力を注いでゐるときには、想像力の余地をほとんど持つことがない。
もし、想像力がノイローゼの原因になるとすれば、空襲にさらされた戦争中の日本は、最もノイローゼの出にくい
状況であつた。あの時代には、どろぼうも少なく、犯罪も少なく、人々の想像力のかては、すべて戦争といふ、
一民族のあらゆる精力をつぎ込まねば成功できない事業に、集中してゐたのである。


われわれは、人生の第一歩から、人生に満足して始めるわけではない。満足してゐる人はごく例外的である。
これは、どんな社会革命が成功しても、同じことであらう。芸術は、そこから始まるのである。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

211 :名無しさん@また挑戦:2011/02/06(日) 20:24:53 ID:???
人生といふものは、死に身をすり寄せないと、そのほんたうの力も人間の生の粘り強さも、示すことができないと
いふ仕組になつてゐる。ちやうど、ダイヤモンドのかたさをためすには、合成された硬いルビーかサファイアと
すり合さなければ、ダイヤモンドであることが証明されないやうに、生のかたさをためすには、死のかたさに
ぶつからなければ証明されないのかもしれない。死によつて、たちまち傷ついて割れてしまふのは、そのやうな生は
ただのガラスにすぎないのかもしれない。


二月十一日の建国記念日に、一人の青年がテレビの前でもなく、観客の前でもなく、暗い工事場の陰で焼身自殺した。
そこには、実に厳粛なファクトがあり、責任があつた。芸術がどうしても及ばないものは、この焼身自殺のやうな
政治行為であつて、またここに至らない政治行為であるならば、芸術はどこまでも自分の自立性と権威を誇つて
ゐることができるのである。私は、この焼身自殺をした江藤小三郎青年の「本気」といふものに、夢あるひは
芸術としての政治に対する最も強烈な批評を読んだ一人である。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

212 :名無しさん@また挑戦:2011/02/06(日) 20:28:30 ID:???
泰平無事が続くと、われわれはすぐ戦乱の思ひ出を忘れてしまひ、非常の事態のときに男がどうあるべきかと
いふことを忘れてしまふ。金嬉老事件は小さな地方的な事件であるが、日本もいつかあのやうな事件の非常に
拡大された形で、われわれ全部が金嬉老の人質と同じ身の上になるかもしれないのである。


危機を考へたくないといふことは、非常に女性的な思考である。なぜならば、女は愛し、結婚し、子供を生み、
子供を育てるために平和な巣が必要だからである。平和でありたいといふ願いは、女の中では生活の必要なのであつて、
その生活の必要のためには、何ものも犠牲にされてよいのだ。
しかし、それは男の思考ではない。危機に備へるのが男であつて、女の平和を脅かす危機が来るときに必要なのは
男の力であるが、いまの女性は自分の力で自分の平和を守れるといふ自信を持つてしまつた。それは一つには、
男が頼りにならないといふことを、彼女たちがよく見きはめたためでもあり、彼女たちが勇者といふものに一人も
会はなくなつたためでもあらう。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

213 :名無しさん@また挑戦:2011/02/06(日) 20:31:46 ID:???
剣道は礼に始まり礼に終ると言はれてゐるが、礼をしたあとでやることは、相手の頭をぶつたたくことである。
男の世界をこれは良く象徴してゐる。戦闘のためには作法がなければならず、作法は実は戦闘の前提である。


男の作法は、ただ相手に従ひ、相手の意のままになることが目的ではない。しかし、作法こそどうしてもくぐら
なければならない第一前提であるにもかかはらず、現代に於ては人間の正直な、むき出しの姿がそのまま相手の心に
通用するといふ不思議な迷信がはびこつてゐる。アメリカ流のフランクネスが、どのやうなビジネス上の罠を
隠してゐるとも知らず、アメリカ人のいきなり肩をたたくやり方、につこりと美しくほほゑみかけるやり方に
だまされて、ついこちらもフランクになりすぎて、思はぬ仕事の上の損失をかうむつた例は枚挙にいとまがない。
何故なら、野心家こそ作法を守るべきなのであり、また、人との関係に於ても、普段、作法を守つてゐればこそ、
いつたん酒が入つて裸踊りのひとつもやつてのけたときには、いかにも胸襟を開いたやうに思はれて、相手の信用を
かち得ることができる。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

214 :名無しさん@また挑戦:2011/02/07(月) 11:10:18 ID:???
作法をひとつの扉とすると、言葉の小さな使ひ方はその扉の蝶番にさされる油のやうなものである。そして、
いまでは油もささずにギーギー、ガーガー扉のあけたてがひどくなりすぎる。


男の世界はスポーツに似てゐる。ルールを守つた上で勝敗は争はれるので、根底にある争ひがそれだけカバーされる
わけである。しかし、女の世界はこの点で根底的な争ひといふもの、権力の争ひといふものが少ないために、
かへつてスポーツのルールが乱される場合が多い。スポーツのルールが乱されることが自分の生存を脅かさない
からであらう。
在外公館の夫人連の間の厳しさは、女がやはり政府の辞令を受けて、外交官夫人として外国に行くところから生れて、
男の世界の模倣をつくつてしまふからであらう。これは最近流行の大奥の生活を描いた小説や芝居にもよく
見えるとほりである。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

215 :名無しさん@また挑戦:2011/02/07(月) 11:13:20 ID:???
これからますますテレビジョンが発達し、人間像の伝達が目に見えるもので一瞬にしてキャッチされ、それによつて
価値が占はれるやうな時代になると、大統領でさへ整形手術をしたり、テレビのメーキャップにうき身をやつす
やうになる。これはアメリカの肉体主義の当然の帰結であるが、好むと好まざるとにかかはらず、目に見える印象で
そのすべての人間のバリューがきめられてゆくやうな社会は、当然に肉体主義におちいつていかざるを得ないのである。
私は、このやうな肉体主義はプラトニズムの堕落であると思ふ。
目に見えるものがたとへ美しくても、それが直ちに精神的な価値を約束するわけではない。ギリシャのことわざに
「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」といはれてゐるのはギリシャ語の誤訳であつて、「健全なる精神よ、
健全なる肉体に宿れかし」といふのが正しい訳のやうである。それといふのも、ギリシャ以来、肉体と精神との
齟齬矛盾についての観察が、いつも人々を悩ましてゐたことの証拠である。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

216 :名無しさん@また挑戦:2011/02/07(月) 11:16:27 ID:???
肉体主義は肉体を崇拝させると同時に、また肉体を侮蔑させ、売りものにさせるものである。肉体は崇拝の手続を
経ずに、美しいものは直ちに売られ、商業主義に泥だらけにされてしまふ。マリリン・モンローの悲劇は、
美しい肉体をそのやうに切り売りにされた一人の女性の生涯の悲劇であつた。
われわれは、いま二つの文化の極端な型のまん中に立つてゐる。われわれの心の中には、日本的な、肉体を
侮蔑する精神主義が残つてゐると同時に、一方では、アメリカから輸入されたあさはかな肉体主義が広がつてゐる。
そして、人間を判断するのに、そのどちらで判断していいか、人々はいつも迷つてゐる。私は、やはり男といへども
完全な肉体を持つことによつて精神を高め、精神の完全性を目ざすことによつて肉体も高めなければならないといふ
考へに到達するのが自然ではないかと思ふ。(中略)
そして、肉体が人に誤解されやすい最大の理由は、肉体美といふものはどうしても官能美と離れることができない
からであり、それこそは人間の宿命であるのみならず、人間が考へる美といふものの宿命だからであらう。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

217 :名無しさん@また挑戦:2011/02/07(月) 11:20:33 ID:???
同じ本を出すのにも、私どもと日本の出版社との約束は口約束で済むものが、アメリカでは何ページにもわたつて
アリのはふやうな細かい活字を連ねた煩瑣な契約書が、起りうるあらゆる危険、あらゆる裏切り、あらゆる背信行為を
予定して書きとめられてゐる。そもそも契約書がいらないやうな社会は天国なのである。契約書は人を疑ひ、
人間を悪人と規定するところから生れてくる。
そして相手の人間に考へられるところのあらゆる悪の可能性を初めから約束によつて封じて、しかしその約束の
範囲内ならば、どんな悪いことも許されるといふのは、契約や法律の本旨である。ところが別の考へ方もあるので、
ほんたうの近代的な契約社会は、何も紙をとりかはさなくても、お互ひの応諾の意思が発表された時期に契約が
成立するのだといふ学説もあるくらゐである。すなはち、契約社会の理想は、何も紙をとりかはさなくても
人間が契約を守るといふ根本精神が行きわたれば、それだけで安全に運行していくのであるが、そんなりつぱな
人間ばかりでないところからむづかしい問題が生ずるわけである。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

218 :名無しさん@また挑戦:2011/02/07(月) 15:36:28 ID:???
約束や信儀は、実は快楽主義のためにさへ守らなければならないのである。なぜなら快楽は鳥の影のやうなもので、
一度われわれがそれをつかみそこねたら永遠に飛びさつてしまふからである。
しかし、快楽のための約束として、もつとも普通な形がすなはち異性とのデートである。デートは、快楽のための
約束にもかかはらず、その快楽を刺激し、じらせ、かへつて高めるための技巧として、お互ひにちよつと時間を
ずらして、わざと約束の時間に来なかつたり、あるひは約束におくれてみせたりするローマのオヴィディウス以来の
愛のさまざまなウソの技巧が使はれる。しかしそれでさへも信義の上にあるのが本当だといふのは、私の考へであつて、
私は昔から約束を守らない女性は、どんな美人であつても嫌ひである。なぜなら私の考へでは、どんな快楽も
信儀の上に成り立つといふ考へだからである。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

219 :名無しさん@また挑戦:2011/02/07(月) 15:39:57 ID:???
男性の羞恥心は、あくまでも男らしさとつながつてゐた。男と女がそれぞれの領域をきちんと守り、心がどんなに
ひかれてゐても、それをまつすぐにあらはさないといふことが、恋愛の不可欠の要素であつた。これは、古い気質の
人間のあらゆる感情表現に影響を及ぼし、わざと嫌ひなふりをすることが、愛することの最大の表現と思はれてゐた。
いまでは、これが見られるのは小学生の間だけで、自分でもわからぬながら、心をひかれる女の子にやたらに
いぢわるをする男の子は、満六、七歳にしてすでに明治百年の男となつてゐるわけである。
男女関係自体が、新しいアメリカ風の、お互ひに愛を最大限に表現する形によつて、わざとらしい公明正大さを
得てきた。そして女の羞恥心すら、男女同権を破壊するやうな封建的遺習と考へられ、その女の羞恥心が薄れるに
従つて、男の羞恥心も、ガラスの表にはきかけた息のやうに、たちまち消え去つてゆき、そしていつの間にか、
かくも露骨に表現し合つた男と女は、お互ひの大切な性的表象を失つて、いま言はれるやうな中性化の時代が
来たのである。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

220 :名無しさん@また挑戦:2011/02/07(月) 16:27:37 ID:???
伝統は守らなければ自然に破壊され、そして二度とまた戻つてはこない。男は伝統の意味を知つてゐるから、
ある意味で主体的にいつも伝統を守る側に立ち、自らその伝統をよしとし、あるひは悪いと思つても伝統を
守らなければならないといふ、強い義務感を感じてゐた。それが日本の男性を必要以上に保守的に見せてきた原因で
あると思ふ。しかし、いつも女性はこの男性に対抗して、伝統を破壊するといふ方向にのみ、自分の自由と解放の
根拠を求めた。しかし、ここにはパラドックスがある。もし伝統破壊の行動を続けるならば、その女性は自分が
伝統によつて受身に縛られてきたときの態度を、伝統が破壊されたあとも、そのまま押し通すといふことに
なるのである。しかし、何もないところでは、何の行動の基準もあり得ないので、今度は女性は、西洋式な伝統の
サルマネを始め、それを男性に強要するやうになつた。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

221 :名無しさん@また挑戦:2011/02/07(月) 16:31:03 ID:???
女性の力ではなく、アメリカといふ男性の、占領軍の力によつて女性の自由と解放が成就されたとき、女性は
何によつて自分の力を証明しようとしたであらうか。それがいはゆる女性の平和運動である。その平和運動はすべて
感情を基盤にして、「二度と戦争はごめんだ」「愛するわが子を戦場へ送るな」といふ一連のヒステリックな叫びに
よつて貫かれ、それゆゑにどんな論理も寄せつけない力を持つた。しかし、女性が論理を寄せつけないことによつて
力を持つのは、実はパッシブな領域においてだけなのである。日本の平和運動の欠点は、感情によつて人に
訴へることがはなはだ強いのと同時に、論理によつて前へ進むことがはなはだ弱いといふ、女性的欠点を露呈した。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

222 :名無しさん@また挑戦:2011/02/08(火) 12:05:15 ID:???
外国人の目には、すべて民族的な服装は美しい。しかし美しいのと、便利とは別である。インド航空でいつも驚くのは、
スチュワーデスがサリーを着てゐることである。もしあれで事故でも起きたときには、どうするつもりだらうか。
サリーは足にまとはりつき、死なないでもよいものを、死ぬことになるかもしれない。日本航空で、スチュワーデスが
振袖を着てゐるときに感ずる危惧以上のものを、われわれは、インド航空のサリーに感じなければならない。
しかし飛行機会社が乗客にそのやうな危機感を抱かせることをもつて、彼女たちの美しさをいよいよ引き立てて
ゐるとすれば、これまた憎い計算ではある。
日本人は、わりに便利といふことに弱い国民である。明治時代の西洋崇拝から、日本人は不便の故を以て伝統的な
服装を放棄することに、何らの躊躇を感じなかつた。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

223 :名無しさん@また挑戦:2011/02/08(火) 12:08:51 ID:???
服装のほんたうの楽しみは、自由自在に勝手気ままなものを、好きな場合に着て歩くことではないといふことを、
人々は経済状態の落着きと社会の安定とともに、徐々に学んできたやうに思はれる。服装は強ひられるところに
喜びがあるのである。強制されるところに美があるのである。これを最も端的にあらはすのが、軍人の軍服であるが、
それと同時にタキシードひとつでも、それを着なければならないといふことから着るところに、まづその着方の巧拙、
あるひは着こなしの上手下手があらはれる。


タキシードを着なければならない人たちは、決してGパンをはくことができなかつた。また菜葉服を着てゐた人たちは、
決してタキシードを着ることができなかつた。それをわれわれは、無階級社会のおかげで、菜葉服からタキシードまで
自由自在に往来できる世の中に住んでゐる。(中略)
しかし悲しいかな、その周りにゐる人たちは、いづれも贋物の上流階級にすぎない。そしてタキシードとイブニングで
楽しんでゐる人たちは、本物の上流階級でないかはりに、上流階級が苦しんでゐた古い、わづらはしい、封建的
桎梏をも、完全に免れてゐるのである。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

224 :名無しさん@また挑戦:2011/02/08(火) 12:12:29 ID:???
人間は、場合によつては、楽をすることのはうが苦しい場合がある。貧乏性に生まれた人間は、一たび努力の義務を
はづされると、とたんにキツネがおちたキツネつきのやうに、身の扱ひに困つてしまふ。何十年の間、会社や役所で
ぢみな努力を重ねてきて、そこにだけ自分の生き方のモラルを発見してゐた人は、定年退職となると同時に、
生ける屍になつてしまふ。われわれの社会は、さういふ残酷な悲劇を、毎日人に与へてゐるのである。(中略)
実は一番つらいのは努力することそのことにあるのではない。ある能力を持つた人間が、その能力を使はないやうに
制限されることに、人間として一番不自然な苦しさ、つらさがあることを知らなければならない。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

225 :名無しさん@また挑戦:2011/02/08(火) 12:15:49 ID:???
人間の能力の百パーセントを出してゐるときに、むしろ、人間はいきいきとしてゐるといふ、不思議な性格を
持つてゐる。しかし、その能力を削減されて、自分でできるよりも、ずつと低いことしかやらされないといふ拷問には、
努力自体のつらさよりも、もつとおそろしいつらさがひそんでゐる。
われわれの社会は、努力にモラルを置いてゐる結果、能力のある人間をわざとのろく走らせることを強ひるといふ、
社会独特の拷問についてはほとんど触れるところはない。そして、われわれの知的能力のみならず、肉体的能力も
次々と進歩し、少年は十五歳で肉体的におとなになる。しかもわれわれの社会は青年をそのまま、ナマのまま
使へるやうな戦争といふ機会を持たず、社会には老人支配の鉄則ががつちりとはめられ、このやうな世界で、
十秒で走れる青年が、みな十七秒、十八秒で走るやうに強ひられてゐる。私は、ここらに、努力と建設といふ
ことだけをモラルにした、社会のうその反面、人間にもつとつらい、もつと苦しいものを強ひる、社会の力といふ
ものを見出すのである。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

226 :名無しさん@また挑戦:2011/02/08(火) 12:18:44 ID:???
社会全体のテンポが、早く走れる人間におそく走ることを要求し、おそく走る人間に早く走ることを要求して
ゐるのである。
これが現代日本の社会のひずみの、おそらく根本原因である。一方ではいくらでも長く走れるエネルギーが
あり余つてゐる。この連中は、若いがゆゑに軽視されてゐるだけだが、さうかといつて、彼らのすべてにすばらしい
才能があるとおだてるわけにはいかない。ただ、明治以来の日本の社会の特質に従つて、彼らも亦、「努力しろ、
努力しろ」と強ひられる。しかし、いくら努力しても、社会の壁が破られるわけではない。そこで実につらいことだが、
「百メートルを十五秒で駆けなければならぬ」といふ順応型モラルを身につけることになる。その瞬間に、
エネルギーはその真のフルな力の発揮の機会を、自ら放棄してしまつたのである。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

227 :名無しさん@また挑戦:2011/02/09(水) 11:22:57 ID:???
Q――映画に出演するといふこと、三島さんがおつしやつてる「行動」とか、「肉体」とかを結びつけると……

三島:世間では、みんな結びつけたがるから、何もかも結びつけちやふんだけど、ぼくは人間を、さういふふうに
一元的に統一しようといふのは、現代の悪い傾向だと思ふ。なるべく、ワクからはづれることが、人間にとつて
大事だといふ考へをもつてゐる。
たとへば、いちばん崇高でもあり、つぎの瞬間にいちばん下劣でもあるのが人間なんですよ。ぼくは、さういふ人間を
考へる。崇高なだけであつてもウソに決まつてゐる。また下劣なのが人間の本当の姿だ、といふ考へ方も大きらひ
なんですよ。それは自然主義的な考へ方で、十九世紀に、ごく一部にできた迷信ですよ。人間は崇高であると同時に
下劣。だから、ぼくのことを下劣だと思ふ人があれば、それでもかまはない。ぼくの中にだつて、「一寸の虫にも
五分の魂」で、崇高なものもある。それを、ぼくは自分でぼくだと思ふ。

三島由紀夫「ぼくは文学を水晶のお城だと考へる」より

228 :名無しさん@また挑戦:2011/02/09(水) 11:31:26 ID:???
Q――五社英雄監督の印象は?

三島:ぼくは、非常にこの人物が好きになつた。会つたのは初めてですけど、いい人です。映画監督特有の、
もつて回つたやうな芸術家気取りがない。そして好きなものは好き、きらひなものはきらひとして、なんら
映画界の権威を認めてゐない。自分の好きにとつちやふんだ。映画界からみれば、こんなに腹の立つ男はゐないと思ふ。

Q――映画に出演するといふこと、三島さんがおつしやつてる「行動」とか、「肉体」とかを結びつけると……

三島:世間では、みんな結びつけたがるから、何もかも結びつけちやふんだけど、ぼくは人間を、さういふふうに
一元的に統一しようといふのは、現代の悪い傾向だと思ふ。なるべく、ワクからはづれることが、人間にとつて
大事だといふ考へをもつてゐる。

三島由紀夫「ぼくは文学を水晶のお城だと考へる」より

229 :名無しさん@また挑戦:2011/02/09(水) 11:33:41 ID:???
たとへば、いちばん崇高でもあり、つぎの瞬間にいちばん下劣でもあるのが人間なんですよ。ぼくは、さういふ人間を
考へる。崇高なだけであつてもウソに決まつてゐる。また下劣なのが人間の本当の姿だ、といふ考へ方も大きらひ
なんですよ。それは自然主義的な考へ方で、十九世紀に、ごく一部にできた迷信ですよ。人間は崇高であると同時に
下劣。だから、ぼくのことを下劣だと思ふ人があれば、それでもかまはない。ぼくの中にだつて、「一寸の虫にも
五分の魂」で、崇高なものもある。それを、ぼくは自分でぼくだと思ふ。
むりやりに結びつけて、論理的に統一しようつたつて、できるものではない。ただ思想的には節操は大切だと
思ひますけど、それと人間の行動の一つ一つ。つまり節操の正しい人は、どんなクソの仕方をするのか。いつも
まつすぐなクソがでてくるかといふと、そんなものぢやない。節操の正しい人でも、トグロを巻いちやふ。
節操の曲がつた人でも、まつすぐなクソが出るかもしれない。そんなこと関係ないですよ。

三島由紀夫「ぼくは文学を水晶のお城だと考へる」より

230 :名無しさん@また挑戦:2011/02/09(水) 11:41:16 ID:???
Q――かなり全共闘に共鳴するところがあつたんぢやないですか。

三島:それは共鳴するところもあるし、反発するところもある。自民党の人間と会つたつて、それは同じことだ。

Q――全共闘の立ち場を幕末でいふと……。

三島:幕末にはないよ。幕末は一人でやれなければいけない。みんなからだを張つてゐますね。一人でやれると
いふことは、サムラヒの根本条件ですよ。一人でやれるやつは、全共闘に一人もゐないぢやないですか。みんな
集団の力を組まなければ、何もできない。一人で連れてきて胸ぐらをつかんだら、みんなペコペコするだけですよ。
そんなのサムラヒぢやない。したがつて、明治維新に類型を求めることはできませんね。

Q――サムラヒといふことについて、もう少し詳しく説明をしてください。

三島:要するにサムラヒといふのは、一人でやれるといふことですよ。その精神だね。それしかないと思ふ。
外人の中で、よく全共闘を幕末の志士にたとへるやつがゐるんだけれども、とてもぼくは怒るんですよ。
とんでもない。精神が違ひますよ。

三島由紀夫「ぼくは文学を水晶のお城だと考へる」より

231 :名無しさん@また挑戦:2011/02/09(水) 11:44:46 ID:???
Q――文学者としての三島さんが、時務の文章を書くのは……。

三島:つまり文学といふものは、死んだものぢやない。生きて動いてゐるものだ。お茶器みたいに、きれいなものを
作つて、戸だなにしまつておくものぢやない。動いてゐるものだ。一方で、美しい文学を書くためには、喜んで
ドロ沼の中へ手を突つ込まなければダメだと思ふ。手を汚さないことばかり考へたんぢや、文学はダメになつちやふ。
たまたま病気でサナトリウムにはひつてゐる、といふなら、それはいいよ。運命だからね。

Q――その人にとつては、それがドロ沼の中に手をつつ込んだことになるわけですね。

三島:その人にとつてはさうだ。病気といふものはさうだらう。宿命だから……。だけど、からだが丈夫で、
生きて動いてゐる人間が、ドロ沼のそばを着物が汚れるからと、よけて通るのは作家ぢやない。ぼくはさう思ふ。
ドロ沼にはひつて、おぼれるかもしれないけれど、おぼれる危険を冒して、生きてゐなきや小説は書けない。
ドロ沼にはひつたとき、どういふふうに表現するか。人間だから考へますね。

三島由紀夫「ぼくは文学を水晶のお城だと考へる」より

232 :名無しさん@また挑戦:2011/02/09(水) 11:47:04 ID:???
それは、濾過されて文学になる部分もあり、いくら濾過しても文学にならん部分もある。ドロ水を飲料水にするための
濾過装置があるでせう。濾過装置の中で、残つたドロと飲料水になる水とあるけど、残つたドロがいらないもので、
捨てちやつていいものかといふと、ぼくはさうぢやない。それが現実なんだ。現実を避けることはできないね。
現実を避けて自分が象牙の塔に閉ぢこもるときには、象牙の塔の純粋性が保たれなければ死んでしまふ。
ぼくは、文学を象牙の塔だと考へてゐる。水晶のお城だと考へてゐる。それを大事にしておくためには、作家が
ドロ沼へはひらなければ、といふパラドックスがある。ぼくはさうだと思ふ。

三島由紀夫「ぼくは文学を水晶のお城だと考へる」より

233 :名無しさん@また挑戦:2011/02/09(水) 17:34:26 ID:???
ところで私はあらゆる楽観主義、楽天主義がきらひである。ファクトといふものは、悲観をも楽観をも蹂躙してゆく
戦車だといふのが私の考へで、ファクトに携はらぬ人は往々歴史を見誤まるのである。

三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 原始戦に有効な剣道の哲理」より


人間の目と心は、どちらが先なのか? この人たちの心が何かを見るのか? 目が先に見て、心がそれを解釈し
分析するのか? 瞬間でも狼の目が借りられたら、すべてを投げ出しても悔いない、と言つたのは、ポオル・
ヴァレリーだが、われわれは、ファクトをつかむには、そのとき、その人の見る世界を見ようと努めなければならない。
第一回は機動隊の目に映つた世界、あれは又明るく単純な戦闘行為の世界だつた。第二回は反戦青年委員会の目に
映つた世界、これは暗い現在と不可測の未来へひらかれた複雑な世界である。
ファクトはどちら側にあるのだらうか? 算術的にその中間にあるといふものではあるまい。反戦青年委員会の
いはゆる「未来の閉ざされた世界」に住む機動隊が明るく、一方、未来に明るい光りを見ようとする者の世界は暗い。

三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 地についた怖るべき相手」より

234 :名無しさん@また挑戦:2011/02/09(水) 17:40:02 ID:???
兜町――それは現在のこの一瞬だ。
現実といふのは、兜町のやうな姿をしてゐるのかもしれない。すなはち過去に対しても未来に対しても絶対に無責任な、
しかしものすごく確信のある、ものすごくいきいきとした現実。このかたはらに置いたら、ほかのいかなる現実も
色あせて、ニセモノめいてくるやうな本物の現実。
そこには、なるほど資本主義の枠はあるけれど、どんなイデオロギーにもゆがめられない、テコでも動かない
現在只今の生活感覚が充実してゐて、盲目でありながら透視力に充ち、どんな理窟もはねとばし、予想も論理も
役に立たない。よかれ、あしかれ、ありのままの素ッ裸。兜町を直視すれば、気取りも羞恥心も吹つ飛んでしまふ。
いかに壮大な革命理論をゑがいても、心のどこかに、「マイホームを建てる三十坪の土地がほしい」といふ気持が
あれば、その集積が、露骨に株式相場にあらはれてしまふ。

三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 逞しく強烈な現実認識」より

235 :名無しさん@また挑戦:2011/02/09(水) 17:42:19 ID:???
ひどく敏感で、ひどく鈍感。(中略)
時代に対して徹底的に受身で、自己一身の利益しか考へてゐないといふ「心」が、集積されると、時代を
動かしてゆく一つの重要な動因になるといふそのふしぎ。
一九七〇年の危機が叫ばれ、ゲバ学生の襲撃の危険がささやかれる兜町の第一線の人々と親しく話してみて、
そこに世代の差による考へ方のちがひは当然ありながら、「どんな観念論も空しい」といふ一点で、逞しい合意に
達してはたらいてゐる人々の、一種強烈な自信に圧倒された。
しかし果して、どんな観念論も空しいだらうか?
それは歴史が決定する問題であり、「現実」がまだ最後の勝利を占めたわけではないのである。

三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 逞しく強烈な現実認識」より

236 :名無しさん@また挑戦:2011/02/09(水) 18:06:12 ID:???
都市の問題を考へるとき、ゴミの問題を抜きにしては考へられない。パリの五月革命では、ゴミ処理のために軍隊が
出勤し、それが又いはゆる「後拠支援」の絶好の口実になつた。身に物理的危険が迫らなくても、ゴミの問題一つで、
大都市は力にすがらざるをえなくなるのである。都市の弱点とは、いはゆる重要施設ばかりではない。いかに
都市が近代化され機械化されても、その構成員が人間である以上、都市には動物的肉体的特徴が備はつてゐる。
それがすなはち、食物・飲料水と、排泄物の問題であり、この巨獣の排泄機能に故障が起れば、数日でダウンしてしまふ。
しかも消費経済の過剰な発達は、どんどん物を消費し廃品化して行かなければ、経済自体が成立たないといふ、
アメリカ経済的体質に変りつつある。もはや質素と倹約は、国家的見地からも美徳でなくなつたのである。

三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 人間と都市の生の証し」より

237 :名無しさん@また挑戦:2011/02/09(水) 18:08:29 ID:???
かくて大都市は、毎日毎夜、狂ほしくゴミを製造しつづける大工場になつた。私有の財貨は、ゴミと化すると共に、
公有の厄介物になる。それはあたかも、私有財産制が、たえざる自己否定と自己破壊をくりかへすことによつてしか、
自らの持つ意味をたしかめられない時代に入つたかのやうである。
ゴミをつくり、屎尿を排出することだけが、人間の生きてゐるしるしであり、人生は自分がゴミと化することに
よつて終る。
私の会つた東京都清掃局の古いヴェテラン職員の顔には、何か哲学者のやうな翳があつた。人間をさういふところで
キャッチしてゐるといふ並々ならぬ自信がうかがはれた。かういふ人たちの前へ出ると、われわれは実に弱い。
何だか自分がゴミと屎尿の製造機にすぎぬやうな気がしてくるからだ。夢の島を見て、その厖大さに、気の遠くなる
思ひをしたすぐあとのことであつた。

三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 人間と都市の生の証し」より

238 :名無しさん@また挑戦:2011/02/10(木) 13:33:39 ID:???
戦後、文化の問題の偏頗な扱ひは、久しく私の疑惑を培つて来た。戦争について書かれた作品で、文学作品として
後世に伝へられる資格を得たものは、悉く文学者の作品である。餅は餅屋であるから、もちろん文章は巧い。
文学的な深みもあり、普遍的な説得力もある。しかし、いかんせん、その個人的な戦争体験は限られてをり、
戦闘に参加する前から文筆の人であつた者の目に映じた戦争は、どんなに公平を期しても、そこに自ら視点の
限定がある。いかなる大戦争といへども、個々人にとつては個人的体験であることは当然だが、同時に、そこには、
純戦闘員による戦争の真髄が逸せられてゐたことは否めない。
誤解のないやうに願ひたいが、私は、文学者の書いた戦記が、体験のひろがりと切実さを欠いてゐる、と非難して
ゐるのではない。ただ、あの戦争に関する記録乃至創作を、純文学的評価だけで品隲することは、実は、もつと
大きな見地からは、非文学的、ひいては非文化的行為ではないか、といふ疑問を呈したのである。

三島由紀夫「『戦塵録』について」より

239 :名無しさん@また挑戦:2011/02/10(木) 13:37:15 ID:???
その好例がこの「戦塵録」である。これがいはゆる文学作品を狙つた記録でもなければ、文学的素養ゆたかな人の
作物でもないことは、一読すでに明らかである。しかしここに描かれてゐるのは、大きな一つの文化及び文化様式の
終末の悲劇なのである。
わけても貴重なのは、筆者が戦闘機乗りとしての純戦闘員であり、戦争の最先端の感情と行為を体験し、又、
一人の若者であつて、純情な恋愛とその愛別離苦を身にしみて味はひ、且つ、戦争の終末とその終末に殉じた人たちの最期に立会つたと
いふことである。行為者にして記録者であること、青春の人にして終末の立会人であつたこと、……このやうな
相矛盾する使命をこの人に課したのは、おそらく歴史のもつとも生粋のものを後世に伝へようと
はかられた神意であるにちがひない。
今にして思へば、私は、戦後文化の復興者であらうと自負した人たちの近くにゐすぎた。そこにゐたのは、必ずしも
私の責任ではないが、そこにゐて感じた反撥の数々は、却つて私をして文化と歴史の本質について目をひらかせて
くれたとも考へられる。

三島由紀夫「『戦塵録』について」より

240 :名無しさん@また挑戦:2011/02/10(木) 13:42:36 ID:???
すなはち、昭和二十年八月、身を以て、日本文化の伝統的様式を発揚し、日本の純にして純なる文化の終末を体現し、
そこに後世に伝へるべき真の創造を行つたのは、いはゆる文化人ではなくて、「戦塵録」に登場する、若い戦士
だつたのであり、自刃して行つた矜り高い武人たちだつたのである。戦後の文化人は、そこにもつとも重要な
文化の問題がひそむことを理解せずに、浅墓な新生へ向つて雀躍したのである。残念ながら、私もその一人で
あつたと云はねばならない。「戦塵録」の著者ならびにその戦友たちは、若き日を、戦ひ、死に直面し、絶対的な
ものについて思惟し、しかも活々と談笑し、冗談を飛ばし、喧嘩をし、異国の美女に心を惹かれ、明日をも知れぬ恋を
体験し、……そのやうに十分に生きた上で、ひとりひとり、いさぎよく散つてゆく。冒頭の人名の上に引かれた赤線は、
かれらの名を抹消するのではなく、かれらの名を不朽のものにするのである。

三島由紀夫「『戦塵録』について」より

241 :名無しさん@また挑戦:2011/02/10(木) 13:46:02 ID:???
そして、選局逼迫の只中にも句会を催ほし、死に臨んでは辞世を作る。日々日本刀の手入は怠りなく、そこには、
日本人に対する日本文化の「型」が与へた最後の完璧な強制とその達成があつた。もちろんかれらは、強制されて
句を作り辞世を詠んだわけではない。しかし文化の本質とは、その文化内の成員に対して、水や空気のやうに、
生存の必須の条件として作用して、それが絶たれたときは死ぬときであるから、無意識のうちに、不断に強制力を
及ぼす処のものである。それこそは文化であり、このやうな文化を理解しなくなつたところに、戦後の似而非文化は
出発したのである。戦士たちの死の作法そのものが文化であるやうな文化の、最高度の発揚とその終末を、
「戦塵録」ほど、みごとに活々と語つてゐる本はなく、その点でいはゆる文学作品をはるかに凌駕してゐる。

三島由紀夫「『戦塵録』について」より

242 :名無しさん@また挑戦:2011/02/10(木) 13:49:51 ID:???
>>241訂正
そして、選局逼迫の只中にも句会を催ほし、死に臨んでは辞世を作る。日々日本刀の手入は怠りなく、そこには、
日本人に対する日本文化の「型」が与へた最後の完璧な強制とその達成があつた。もちろんかれらは、強制されて
句を作り辞世を詠んだわけではない。しかし文化の本質とは、その文化内の成員に対して、水や空気のやうに、
生存の必須の条件として作用して、それが絶たれたときは死ぬときであるから、無意識のうちに、不断に強制力を
及ぼす処のものである。それこそは文化であり、このやうな文化を理解しなくなつたところに、戦後の似而非文化は
出発したのである。戦士たちの死の作法そのものが文化であるやうな文化の、最高度の発揚とその終末を、
「戦塵録」ほど、みごとに活々と語つてゐる本はなく、その点でいはゆる文学作品をはるかに凌駕してゐる。
では果して、日本文化は滅びたのか? 私は、ここには、反時代的なその「型」の復活の衝撃によつてのみ、
蘇生の可能性をのこしてゐる、とだけ言つて置かう。

三島由紀夫「『戦塵録』について」より

243 :名無しさん@また挑戦:2011/02/10(木) 13:53:33 ID:???
「戦塵録」は、もとより意図して、文化の発揚と終末を語つたものではない。それは伝来の規律正しい簡潔な
「軍隊の文体」で語られた記録であり、すべてが「型」の文体であるから、そこには人間心理の発見などといふ
ものではない。戦闘状況は巨細に述べられるが、強ひて迫力を加へようとした抒述はない。(中略)
平凡な抒述であるだけに却つて深い真実に迫つてゐる。戦闘の場面と、これら恋愛の場面と、最後の自決の場面が、
「戦塵録」の三つのクライマックスであることは明らかである。
私はその上に、ただ一行、いつまでも心に残る個所をあげておきたい。それは私がそのやうな青空を同じ時期に
日本でも見てゐるからであり、又、今を去る数年前、同じ青空を、現地カンボジアで見てゐるからでもある。
昭和二十年六月二十五日、死を決した著者は、スコールのあくる日の大空、「手を伸せば指の先が藍色に染って
しまひそうな」ほど鮮やかに澄んだ熱帯の空を眺めて、次のやうな一行の感想を心に抱くのである。
「此の大空、果てしない碧空にこそ凡ての真理を包蔵して居るのではなからうか」

三島由紀夫「『戦塵録』について」より

244 :名無しさん@また挑戦:2011/02/10(木) 20:44:11 ID:???
行動といふものはそれ自体の独特の論理を持つてゐる。したがつて、行動は一度始まり出すと、その論理が終るまで
やむことがない。これはあたかもぜんまいを巻ききつたおもちやが、そのぜんまいがゆるみきるまで無限に同じ
運動を繰り返すのに似てゐると言へよう。知識人にとつては、行動のこのやうな論理がこはいのである。


目的のない行動はあり得ないから、目的のない思考、あるひは目的のない感覚に生きてゐる人たちは行動といふものを
忌みきらひ、これをおそれて身をよける。思想や論理がある目的を持つて動き出すときには、最終的にはことばや
言論ではなくて、肉体行動に帰着しなければならないことは当然なのである。


人生の時間や、また何百時間に及ぶ訓練の時間は人々の目に触れることがない。行動は一瞬に火花のやうに
炸裂しながら、長い人生を要約するふしぎな力を持つてゐる。であるから、時間がかからないといふことによつて
行動を軽蔑することはできない。

三島由紀夫「行動学入門」より

245 :名無しさん@また挑戦:2011/02/11(金) 10:34:29 ID:???
体を動かしてゐるときには、われわれの体自体が全体なのである。したがつて、自分の体以外の全体といふものは
その目に映らない。どんなにチームワークのとれた団体競技であつても、その一人一人のプレーヤーの行動は、
いつも全体の見地から行なはれてゐるわけではない。われわれは全体が見えないで、自分の命じられ、指定された
行動の中で全力を尽くすときに、肉体行動としての最高のレベルに達することができる。しかし、その場合にも
少なくとも集団行動であれば、全体を見透かす目がなければならない。ところが、人間が全体を見透かすのは
目だけであつて、体全体ではないのである。


ここに一つの矛盾が起きてくる。われわれは、行動しようとすると自分の体を動かす。しかし、その行動を有効にし、
目的に向かつて進めようとすれば、かつ幾つかの力を集めて、集団的な力を発揮させようとすれば、どうしても
その全体を統制する行動者にならなければならない。しかし、全体を統制する行動者になることは、無限に自分から
肉体的行動の余地を少なくしていくことなのである。

三島由紀夫「行動学入門」より

246 :名無しさん@また挑戦:2011/02/11(金) 10:37:26 ID:???
真に有効な行動とは、自分の一身を犠牲にして、最も極端な効果をねらつたテロリズム以外にはなくなるであらう。
ところが死の向う側にわれわれは自分の個人の効果といふものを、あるひは個人の利得といふものを考へることは
できないのであるから、政治的効果といふものは初めから超個人的なところに求められなければならない。
超個人的な効果をねらつて個人が自己犠牲を払ふといふところにしか、政治的効果がないとすれば、それ以前の
すべての効果は無効にすぎない。
しかしまたそこには逆説が成り立つので、われわれは全く無効だと覚悟した行動にしか真の政治的有効性といふものを
発見しないのかもしれない。


無効性に徹することによつてはじめて有効性が生じるといふところに、純粋行動の本質があり、そこに正義運動の
反政治性があり、「政治」との真の断絶があるべきだ、と私は考へる。

三島由紀夫「行動学入門」より

247 :名無しさん@また挑戦:2011/02/11(金) 10:43:06 ID:???
待機は、行動における「機」といふものと深くつながつてゐる。機とは煮詰まることであり、最高の有効性を
発揮することであり、そこにこそほんたうの姿が形をあらはす。賭けとは全身全霊の行為であるが、百万円
持つてゐた人間が、百万円を賭け切るときにしか、賭けの真価はあらはれない。なしくづしに賭けていつたのでは、
賭けではない。その全身をかけに賭けた瞬間のためには、機が熟し、行動と意志とが最高度にまで煮詰められ
なければならない。そこまでいくと行動とは、ほとんど忍耐の別語である。


長い待機の時間はことばではないのである。行動とことばとの乖離が行動を失敗させるやうに、ただことばや観念で
待機に耐へようとする人間は必ず失敗する。坐禅がその間の消息をよく説明してゐるが、面壁して何時間でも坐つて
ゐなければならぬといふ、あの精神状態には、生き、動かうとする人間の行動を徹底的に押しつぶして、そこに
人生の真理に到達する精神的なバネを、たわみ込んでいくといふ発明がみられる。行動がことばでないと同様に、
待機もことばではない。それはただ濃密な平板な、人生で最も苦しい時間なのである。

三島由紀夫「行動学入門」より

248 :名無しさん@また挑戦:2011/02/11(金) 10:52:06 ID:???
アメリカ的な戦術は敵の可能行動を幾つかに分析して、消去法によつてその可能行動を絞つて、それに向かつて
こちらの作戦を立てるといふことが綿密に行なはれてゐる。しかしかういふ合理的な作戦といへども、相手が
自分と同じ頭脳を持ち、論理構造を持つてゐるところで初めて成り立つもので、敵が宇宙人であるかあるひは
ベトコンのやうに、アメリカ人とまるきり違つた生活感情と論理構造を持つてゐる人間が相手のときは往々にして
失敗する。
計画は百パーセントを規制するものでもなく、行動の百パーセントの成功を保証するものでもないが、その
何十パーセントかを可能の範疇の中に組み入れる。人は行動の型を持つてゐる。(中略)相手方の行動のパターンを
収集するのは情報の働きである。


ソウル市内の北鮮スパイがいかにして露見するかを聞いたが、実につまらないことでたびたび捕まつてゐる。
一例がタバコである。(中略)北鮮スパイはまづタバコの値段を聞くところで足がつく。またタバコの値段を
よく知らないので、おつりをもらふのを忘れたことで足がつく。(中略)向う側からいへば、情報の不足である。

三島由紀夫「行動学入門」より

249 :名無しさん@また挑戦:2011/02/11(金) 11:00:00 ID:???
行動とは、自分のうちの力が一定の軌跡を描いて目的へ突進する姿であるから、それはあたかも疾走する鹿が
いかに美しくても、鹿自体には何ら美が感じられないのと同じである。およそ美しいものには自分の美しさを
感じる暇がないといふのがほんたうのところであらう。自分の美しさが決して感じられない状況においてだけ、
美がその本来の純粋な形をとるとも言へる。だからプラトンは「美はすばやい、早いものほど美しい」と言ふのである。
そしてまたゲーテがファウストの中で「美しいものよ、しばしとどまれ」と言つたやうに、瞬間に現象するものにしか
美がないといふことが言へる。


武士があらゆる芸能を蔑みながら、能楽だけをみとめたのは、能楽が一回の公演を原則として、そこへこめられる
精力が、それだけ実際の行動に近い一回性に基づいてゐる、といふところにあらう。二度と繰り返されぬところにしか
行動の美がないならば、それは花火と同じである。しかしこのはかない人生に、そもそも花火以上に永遠の瞬間を、
誰が持つことができようか。

三島由紀夫「行動学入門」より

250 :名無しさん@また挑戦:2011/02/11(金) 14:53:17 ID:???
力はいつも数で評価され、戦力は数以外にはないと思はれてゐる。しかし、数が増すほど行動のヴォルテージが
下がり、数が減るほど行動のヴォルテージが上がつて、例へばテロ化する、といふ法則も亦厳然として在る。
ゲリラは多くは小さな集団であつて、その小さな集団では数はたいして意味をなさない。その数のかはりに
一人一人の能力と、おそるべき意志力と、その団結心が要求されるのである。ここで集団と団結心との問題が
きは立つたコントラストをなして浮かんでくる。
もし、鉄の団結を持つた大集団があれば、それは有効であり、人におそれられるであらう。(中略)しかしながら、
ほんたうの意味で強固な団結心に富んだ、巨大な集団といふものは考へられない。われわれは自分の手で小さな
集団でもつくつてみれば、小集団ほど団結心も高い筈であるのに、その実、いかに強固な団結心をつくるのが
むづかしいかといふことを、如実に味はふのである。

三島由紀夫「行動学入門」より

251 :名無しさん@また挑戦:2011/02/11(金) 14:56:26 ID:???
集団をつくれば、そこにおのづからその集団の目的に照らして、人間の差が歴然と出てくることを否定することは
できない。ごく簡単に言つても、十人の集団がゐれば一人が自然に指導者になるだらう。そして百人の集団のうち
十人が精鋭であれば、あと九十人は幾つかのニュアンスを持ちながら、ぐうたらの会員から、非常に熱心な会員までの
幾段階かに分けられてしまふ。キリストの弟子は十二人あつて、そのうちに一人ユダといふ裏切り者がゐたやうに、
集団は宿命的にさういふものを持つてゐるのである。
そして集団の濃淡は、一番濃い中心としての指導者から、周辺に広がるほど薄まつていき、その薄まつた極限まで
全部を含めた行動が集団行動となる点では、大衆社会の何千人、何万人のマス行動とも何ら変りはない。


一人一人が全く自発的な意志で、全能力をかけて、お互ひにまた同じやうな高さの能力を持ちながら団結すると
いふことは、実は口で言つてもやさしいことではない。

三島由紀夫「行動学入門」より

252 :名無しさん@また挑戦:2011/02/11(金) 15:00:00 ID:???
われわれは集団行動と一口に言ふけれども、そこに微妙なニュアンスの差があつて、最後の最後には、中心の個人の
決意にすべてがかかつてゐるといふことをみるのである。一種の非合理的な熱狂と陶酔の渦で大ぜいの人間を
巻き込みながら、一つの目的へ向かつて突き進めるには、その中核体が熔鉱炉の炎のやうに燃え盛つてゐなければ
ならないのである。革命的指導者とはそのやうなものであり、右からの革命でも、北一輝はそのやうなカリスマ的
性格の持ち主であつた。いはばカリスマ的性格とは、核融合を起させる一番最初の核のやうなものであつて、
彼が原動力であり、彼が炎の中心であるからこそ、火は燎原の炎のやうに周囲に広まつていくのである。そこで
われわれは集団行動といふことばにまぎらはされずに、一人の人間の意志が歴史を突き動かし、結局、大きな歴史も
一つの人間意志から生まれたといふところに注目しなければならない。カストロも、また、ゲバラも毛沢東も
一個人であつた。どんな変革も、個人の心の中に初めてともつた火から広がつていくものだといふことを知らねば
ならない。

三島由紀夫「行動学入門」より

253 :名無しさん@また挑戦:2011/02/11(金) 15:05:13 ID:???
すべてのものに始めと終りがあるやうに、行動も一度幕を開けたらば幕を閉じなければならない。行動は、
たびたび繰り返したやうに、瞬時に終るものであるから、その正否の判断はなかなかつかない。歴史の中に
埋もれたまま、長い年月がたつても正当化されない行為はたくさんある。


行動はことばで表現できないからこそ行動なのであり、論じても論じても、論じ尽くせないからこそ行動なのである。
ことばでとらへた行動といふものは、煙のやうに消えていき、そこに何ら痕跡は残らず、また、行動の理論体系を
立てるといふこと自体が、行動家の目から見ればすでに滑稽である。


法はあくまで近代社会の約束であり、人間性は近代社会や法を越えてさらに深く、さらに広い。かつて太陽を浴びて
ゐたものが日蔭に追ひやられ、かつて英雄の行為として人々の称賛を博したものが、いまや近代ヒューマニズムの
見地から裁かれるやうになつた。

三島由紀夫「行動学入門」より

254 :名無しさん@また挑戦:2011/02/11(金) 15:08:40 ID:???
行動はともするとヒューマニズムを乗り越えるものであり、生命の危険ををかすものであり、したがつて、
近代ヒューマニズムがつくり上げた全体系と衝突するものである。その行動といふものの中にひそむおそろしさに
気がついてゐないとき、われわれは安心してスポーツに励み、安心して「あの人は行動的だ」などとほめて
ゐられるのである。
会社の社長室で一日に百二十本も電話をかけながら、ほかの商社と競争してゐる男がどうして行動的であらうか? 
後進国へ行つて後進国の住民たちをだまし歩き、会社の収益を上げてほめられる男がどうして行動的であらうか? 
現代、行動的と言はれる人間には、たいていそのやうな俗社会のかすがついてゐる。そして、この世俗の垢に
まみれた中で、人々は英雄類型が衰へ、死に、むざんな腐臭を放つていくのを見るのである。青年たちは、自分らが
かつて少年雑誌の劇画から学んだ英雄類型が、やがて自分が置かれるべき未来の社会の中でむざんな敗北と腐敗に
さらされていくのを、焦燥を持つて見守らなければならない。そして、英雄類型を滅ぼす社会全体に向かつて
否定を叫び、彼ら自身の小さな神を必死に守らうとするのである。

三島由紀夫「行動学入門」より

255 :名無しさん@また挑戦:2011/02/14(月) 12:22:14 ID:???
はつきり言へることは、近代戦のもつとも凄壮な様相が如実に描かれてゐる点で、又、ただ僥倖としか思へない事情で
生き永らへた証人によつて、人間の「滅尽争」Vernichteter Kampf がはつきり描かれてゐる点で、これは世界に
比類のない本だといふことである。この本は実にありえないやうな偶然(すなはち証人の生存)によつて書かれた
ものであるから、これ以上の文学的贅沢などを求めるのは全く無意味である。
私の貧しい感想が、この本に何一つ加へるものがないことを知りながら、次の三点について読者の注意を促して
おくことは無駄ではあるまいと思ふ。
第一は、もつとも苛烈な状況に置かれたときの人間精神の、高さと美しさの、この本が最上の証言をなしてゐる
ことである。玉砕寸前の戦場において、自分の腕を切つてその血を戦友の渇を医やさうとし、自分の死肉を以て
戦友の飢を救はうとする心、その戦友愛以上の崇高な心情が、この世にあらうとは思はれない。日本は戦争に
敗れたけれども、人間精神の極限的な志向に、一つの高い階梯を加へることができたのである。

三島由紀夫「序 舩坂弘著『英霊の絶叫』」より

256 :名無しさん@また挑戦:2011/02/14(月) 12:27:02 ID:???
第二は、著者自身についてのことであるが、人間の生命力といふもののふしぎである。
舩坂氏の生命力は、もちろん強靭な精神力に支へられてのことであるが、すべての科学的常識を超越してゐる。
あらゆる条件が氏に死を課してゐると同時に、あらゆる条件が氏に生を課してゐた。まるで氏は、神によつて
このふしぎな実験の材料に選ばれたかのやうだ。氏は、水も食もない戦場で、左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創二ヶ所、
頭部打撲傷、右肩捻挫、左腹部盲管銃創、さらに左頸部盲管銃創といふ致命傷を受け、一旦あきらかに戦死したのち、
三日目に米軍野戦病院で蘇り、さらにペリリュー収容所で、敵機を破壊しようと闘魂を燃やす。
しかも氏が生を無視しようとすればするほど、死もあとずさりをするのである。もちろん、氏に課せられた死の条件が
十であるとすれば、その条件がたとひ一であり二であつた人も、一方では現実に命を失つてゆく。それは意志とも、
あるひは勇気とも関はりがない。氏の勇猛果敢が、氏の命を救つたすべての理由であつたといふわけではない。

三島由紀夫「序 舩坂弘著『英霊の絶叫』」より

257 :名無しさん@また挑戦:2011/02/14(月) 12:31:07 ID:???
体力、精神力、知力に恵まれてゐたことが、氏を生命の岸へ呼び戻した何十パーセントの要素であつたことは
疑ひがないが、のこりの何十パーセントは、氏が持つてゐたあらゆる有利な属性とも何ら関はりがないのである。
それでは、ひたすら生きようといふ意志が氏を生かしてゐたか、といふと、それも当らない。氏は一旦、はつきりと
自決の決意を固めてゐたからである。
氏が拾つた命は、神の戯れとしか云ひやうがないものであつた。その神秘に目ざめ、且つ戦後の二十年間に、
その神秘に徐々に飽きてきたときに、氏の中には、自分の行為と、行為を推進した情熱とが、単なる僥倖としての
生以上の何かを意味してゐたにちがひない、といふ痛切な喚起が生じた。その意味を信じなければ、現在の生命の
意味も失はれるといふぎりぎりの心境にあつて、この本が書き出されたとき、「本を書く」といふことも亦、一つの
行為であり、生命力の一つのあらはれであるといふことに気づくとは、何といふ逆説だらう。氏はかう書いてゐる。
「彼ら(英霊)はその報告書として私を生かしてくれたのだと感じた」

三島由紀夫「序 舩坂弘著『英霊の絶叫』」より

258 :名無しさん@また挑戦:2011/02/14(月) 12:34:21 ID:???
第三には、これは私自身にとつても大切な問題だが、「見る」といふことの異様な価値である。
行為のさなかでも見ることをやめない人間が、お互ひに「見、見られること」を根絶しようとして戦ふのが、
戦争といふものであるらしい。敵をもはや「見ること」のない存在、すなはち屍体に還元せしめようとするのが、
戦ひの本質である。氏がつひに生きのびたといふことは、氏が戦ひに勝つたといふことであり、自分の目と、
自分の見たものとを保持したといふことである。そして氏の見たものは、他に一人も証人のゐない地獄であると
同時に、絶巓における人間の美であつた。
そして目が見たものは、言葉でしか伝へやうがない。そこに言葉の世界がはじまり、文学の根元的な問題がはじまる。
言葉が、徐々に、しのびやかに、執拗に、とどまるところを知らぬ動きをはじめるのである。……

三島由紀夫「序 舩坂弘著『英霊の絶叫』」より

259 :名無しさん@また挑戦:2011/02/15(火) 19:16:44 ID:???
日米共同コミュニケによつて、現憲法の維持は、国際的国内的に新たなメリットを得たのである。すなはち国内的には、
今後も穏和な左翼勢力に平和現憲法の飴玉をしやぶらせつづけて面子を立ててやる一方、過激派には現憲法にも
これだけの危機収集能力のあることを思ひ知らせ、国際的には、無制限にアメリカの全アジア軍事戦略体制に
コミットさせられる危険に対して、平和憲法を格好の歯止めに使ひ、一方では安保体制堅持を謳いながら、一方では
平和憲法護持を受け身のナショナリズムの根拠にするといふメリットが生じたのである。これはいはば吉田茂方式の
継承であり、早急な改憲は、現憲法がアメリカによつて強ひられた憲法であるより以上に、さらにアメリカの
軍事的要請に沿うた憲法を招来するにすぎないといふ恫喝ほど、効き目のあるものはあるまい。改憲サボタージュは、
完全に自民党の体質になつた。

三島由紀夫「『変革の思想』とは――道理の実現」より

260 :名無しさん@また挑戦:2011/02/15(火) 19:18:30 ID:???
空文化されればされるほど政治的利用価値が生じてきた、といふところに、新憲法のふしぎな魔力があり、
戦後の偽善はすべてここに発したといつても過言ではない。完全に遵奉することの不可能な成文法の存在は、
道義的退廃を惹き起こす。それは戦後のヤミ食糧取締法と同じことである。
(中略)
私が憲法を問題にするのは、そこに国家の問題が鮮明にあらはれてゐるからであり、しかも現憲法は、国家への
忠節に肩すかしを食わせて、未実現の人類共通の理想へのみ忠誠を誓はせるやうにできてをり、国家と忠誠とを
別次元に属する形で併記してゐる。
国家とは何ぞや、忠誠とは何ぞや、といふ問ひからはじめなければ、変革の論理は実質を欠くことにならう。

三島由紀夫「『変革の思想』とは――道理の実現」より

261 :名無しさん@また挑戦:2011/02/15(火) 19:23:03 ID:???
私見によれば、祭政一致的な国家が二つに分離して、統治的国家(行政権の主体)と祭祀的国家(国民精神の主体)に
分れ、後者が前者の背後に影のごとく揺曳してゐるのが現代の日本である。近代政治学が問題にする国家とは、
前者にほかならない。ところで自由世界の未来の国家像は、ますます統治国家がその統治機能を、自治体、民間団体、
企業等へ移譲し、国家自体は管理国家としてのマネージメントのみに専念し、言論やセックスの自由は最大限に容認し、
いはばもつとも稀薄な国家がもつとも良い国家と呼ばれることにならう。そこでは時間的連続性は問題にされず、
通信連絡、情報、交易の世界化国際化による空間的ひろがりが重んじられる。スポーツや学術をはじめ、多くの
領域で世界国家的イメージが準備される。事実このやうな管理国家は世界連邦たるべきものの胎児なのである。
これを支配する原理は、ヒューマニズム、理性、人類愛などであり、非理性的ないし反理性的なものはきびしく
排除されるロゴスとしての国家である。

三島由紀夫「『変革の思想』とは――道理の実現」より

262 :名無しさん@また挑戦:2011/02/15(火) 19:25:17 ID:???
一方、祭祀的国家はふだんは目に見えない。ここでは象徴行為としての祭祀が、国家の永遠の時間的連続性を保障し、
歴史・伝統・文化などが継承され、反理性的なもの、情感的情緒的なものの源泉が保持され、文化はここにのみ根を
見いだし、真のエロティシズムはここにのみ存在する。このエートスとパトスの国家の首長は天皇である。
ここでは濃厚な国家がもつとも良い国家なのである。
さて統治国家を遠心力とすれば祭祀国家は求心力であり、前者を空間的国家とすれば、後者は時間的国家であり、
私の理想とする国家はこのやうな二元性の調和、緊張をはらんだ生ける均衡にほかならない。
私はこの二種の国家をつきつけて、国民にどちらの国家に忠誠を誓ふか、決断を迫るべきであると思ふ。
いふまでもなく真にナショナルな自立の思想の根拠は、祭祀的国家のみにあり、統治的国家は国際協調主義と
世界連邦の方向の線上にあるものである。
そしてその忠誠の選択に基づいて、自衛隊を二分したらよいのである。このことは現憲法下でも法理的に可能である。

三島由紀夫「『変革の思想』とは――道理の実現」より

263 :名無しさん@また挑戦:2011/02/15(火) 19:31:05 ID:???
現自衛隊に対する国民の最終的な疑惑は、表面上、最高指揮権は内閣総理大臣にあるけれども、最終的な指揮権は
アメリカ大統領にあるのではないかといふ疑惑であらう。航空自衛隊の編成装備、英語による指令等を見た者は、
一抹の不安を禁じえないであらう。
そこでまづ、航空自衛隊現勢力の九割、海上自衛隊の七割、陸上自衛隊の一割をもつて「国連警察予備軍」を
編成する。なぜ予備軍かといへば、現憲法下では海外派兵がむづかしいからである。日本国連警察予備軍は
統治国家としての日本に属し、安保条約によつて集団安全保障体制にリンクし、制服も独自の制服を持ち、主任務は
対直接侵略にあり、根本理念は国際主義的であり、将兵の身分は国連事務局における日本人職員に準ずる。
第二に、残余の兵力、すなはち陸上自衛隊現勢力の九割、海上自衛隊の三割、航空自衛隊の一割は「国土防衛軍」を
構成する。国土防衛軍の根本理念は、祭祀国家の長としての天皇への忠誠にあり、絶対自立の軍隊であつて、
いかなる外国とも軍事条約を結ばない。

三島由紀夫「『変革の思想』とは――道理の実現」より

264 :名無しさん@また挑戦:2011/02/15(火) 19:36:08 ID:???
国連警察予備軍は状況に応じて、国連から核兵器の管理を委任されることもあるが、国土防衛軍の装備は在来兵器に
限られる。主任務は対間接侵略にあり、治安出勤も国土防衛軍の仕事である。なほ国土防衛軍は相当数の民兵を
包含し、わが「楯の会」はこのためのパイオニヤである。
国連警察予備軍は、高度の技術的軍隊で、新兵器の開発、技術の習得はここで行はれ、その成員は、軍人であると
同時に技師である。これに反して、国土防衛軍は、魂の軍隊といふ色彩が強く、そのモラルは徹頭徹尾武士的な
ものである。
そしてこの二つの軍隊を、共に指揮系統として内閣総理大臣が統括するが、その最終的忠誠の対象が異なるところから、
種々の礼式の相違があらはれるであらう。
(中略)私としては考へに考へた末であり、かつ、一場の夢物語であることも承知である。しかし日本の防衛の
あるべき姿を考へれば考へるほど、私にはほかの解決は思ひ当らない。もちろんこれには憲法の制約を考慮に
入れた上のことで、憲法を変へるとなれば、また話は別である。

三島由紀夫「『変革の思想』とは――道理の実現」より

265 :名無しさん@また挑戦:2011/02/15(火) 19:43:09 ID:???
日本にとつてもつとも緊急に変革を要するものは防衛の問題であり、しかもそこにいかにして自立の思想を
盛り込むかといふ問題である。日本に変革の必須な問題は多々あらうが、これを除外して変革を考へることは
空論であり、共産党ですら、核兵器に一言も触れぬ狡猾さをもつて、武装中立を謳つてゐる。日本の防衛と自立の
永遠のジレンマのもとである核兵器が、国内戦に使へないといふ特質を持つてゐるところに目をつけて、この特質を
逆手にとつて、絶対自立の軍隊を健軍することがまづ急務であり、自衛隊をただあいまいに安保条約に接着させて
おくことは危険なのだ。中共はすでにIRBMの戦略配置を終つたと伝えられ、日本はその射程距離内に
はひるのである。
私の変革方式は、変革の雛型をまづ自分の力で自分の周辺に作ることだ。雛型であるから、まだ実用に役立たなくても
仕方ない。しかし自立の思想を肉体化し現実化して、これを通じて、何が正しいかを顕現することだ。

三島由紀夫「『変革の思想』とは――道理の実現」より

266 :名無しさん@また挑戦:2011/02/15(火) 19:51:27 ID:???
(中略)現代社会では、一定の効果と一定のメリットが評価され、それが抽出されてしまふと、たちまちうしろへ
投げ捨てられてしまふ。政治は場当りの効果主義の集積である。
(中略)この「何事か」の積み重ねは、いくら積み重ねても同じ次元の積み重ねにすぎず、そこから別次元の
変革への飛躍は生れない。(中略)
私は文士としてまづ言葉を信ずる。しかし何らかの政治的有効性において信ずるのではない。私にとつての変革とは、
言葉と同じ高度の次元の、決して現象化され相対化されぬ現実を創り出すことでなければならない。そのための
行動とは、死を決した最終的な行動しかなく、それまでの行動類似のものはすべて訓練であり、世阿弥の言ふ
「稽古は強かれ」の「稽古」にほかならない。
変革とは一つのプランに向かつて着々と進むことではなく、一つの叫びを叫びつづけることだ、といふ考へが、
私の場合には牢固としてゐる。前述の自衛隊二分論は、相対的解決策としての変革にすぎぬが、その中にも私の
叫びの貫流してゐることを、聞く人は聞くであらう。

三島由紀夫「『変革の思想』とは――道理の実現」より

267 :名無しさん@また挑戦:2011/02/15(火) 19:56:05 ID:???
かつてアメリカ占領軍は剣道を禁止し、竹刀競技の形で半ば復活したのちも、懸声をきびしく禁じた。この着眼は
卓抜なものである。あれはただの懸声ではなく、日本人の魂の叫びだつたからである。彼らはこれらをおそれ、
その叫びの伝播と、その叫びの触発するものをおそれた。しかしこの叫びを忌避して、日本人にとつての真の
変革の原理はありえない。近代日本知識人が剣道のあの裂帛の叫びを嫌悪するのは、あれによつて彼らの後生大事に
してゐる近代ヒューマニズムと理性の体系にひびのはひるのをおそれるからだ。あの叫びこそ、彼らの臆病な
安住の家をこはしにかかる斧の音をきくからだ。
変革とは、このやうな叫びを、死にいたるまで叫びつづけることである。その結果が死であつても構はぬ、
死は現象には属さないからだ。うまずたゆまず、魂の叫びをあげ、それを現象への融解から救ひ上げ、精神の
最終証明として後世にのこすことだ。言葉は形であり、行動も形でなければならぬ。文化とは形であり、形こそ
すべてなのだ、と信ずる点で私は古代ギリシア人と同じである。

三島由紀夫「『変革の思想』とは――道理の実現」より

268 :名無しさん@また挑戦:2011/02/16(水) 11:42:46 ID:???
文人の倖は、凡百の批評家の讃辞を浴びることよりも、一人の友情に充ちた伝記作者を死後に持つことである。
しかもその伝記作者が詩人であれば、倖はここに極まる。小高根二郎氏のこの好著を得て、蓮田善明氏は、
戦後二十年の不当な黙殺を償つて余りある、文人としての羨むべき幸運を担つた。(中略)このやうな作品を
小高根氏をして書かせたものこそ、蓮田氏の徳であり、又、その運命の力である。しかも蓮田氏の生前、
小高根氏との交遊が浅かつたことを考へれば、この作品に好い意味でも悪い意味でもみぢんも私心のないことが
首肯され、蓮田氏の文業とその謎の死が、この著作を内的な自然な衝動を以て促したことがすぐ見てとれるのである。
蓮田氏の文業とその壮烈な最期との間には、目のくらむやうな断絶があり、コントラストがある。終戦直後、
蓮田中尉がその聨隊長を通敵行為の故を以て射殺し、ただちに自決したといふ劇的な最期を遂げたとき、これを
伝へ聞いた蓮田氏の敵は、戦時中の右翼イデオローグのファナティシズムの当然の帰結だと思つたにちがひない。

三島由紀夫「『蓮田善明とその死』序文」より

269 :名無しさん@また挑戦:2011/02/16(水) 11:48:41 ID:???
しかし少年時代氏に親炙した私にとつて、この死と私の知る蓮田氏のイメージとの間には、軽々に結び合はされぬ
断絶があつた。
ところで一個の肉体、一個の精神から出たものが、冥々の裡にも一本の糸として結ばれるといふ点については、
蓮田氏の敵もまちがつてはゐなかつた。ただ敵は、そのやうな激しい怒り、そのやうな果敢な行為が、或る非妥協の
やさしさの純粋な帰結であり、すべての源泉はこの「やさしさ」にあつたことを、知らうともせず、知りたいとも
思はなかつただけである。
少年時代に蓮田氏を知つた私の目からすれば、私は幸運にも蓮田氏のやさしさのみを享け、氏から激しい怒りを
向けられたことはなく、ただその怒りが目の前で発現して、私にもよくわからぬ別の方向へ迸つてゐる壮観を
見るばかりであつた。月に一度の「文芸文化」の同人会に、一少年寄稿家として出席を許され、そこで専ら
蓮田氏に接した私の印象は、薩摩訛りの、やさしい目をした、しかし激越な慷慨家としての氏であつた。

三島由紀夫「『蓮田善明とその死』序文」より

270 :名無しさん@また挑戦:2011/02/16(水) 11:58:21 ID:???
が、私は、詩人的国文学者としての氏を、古代から近代までの古典を潺湲(せんくわん)と流れる抒情を、何ら
偏見なく儒臭なく、直下にとらへて現代へ齎しうる人と考へてゐたから、氏の怒りの対象については関知する
ところでなかつた。
氏はそのやうな人として現はれ、そのやうな人として私の眼前から去つたのである。
「予はかかる時代の人は若くして死なねばならないのではないかと思ふ。……然うして死ぬことが今日の自分の
文化だと知つてゐる」(「大津皇子論」)
この蓮田氏の書いた数行は、今も私の心にこびりついて離れない。死ぬことが文化だ、といふ考への、或る時代の
青年の心を襲つた稲妻のやうな美しさから、今日なほ私がのがれることができないのは、多分、自分が
そのやうにして「文化」を創る人間になり得なかつたといふ千年の憾(うら)みに拠る。
氏が二度目の応召で、事実上、小高根氏のいはゆる「賜死」の旅へ旅立つたとき、のこる私に何か大事なものを
託して行つた筈だが、不明な私は永いこと何を託されたかがわからなかつた。

三島由紀夫「『蓮田善明とその死』序文」より

271 :名無しさん@また挑戦:2011/02/16(水) 12:07:42 ID:???
(中略)
それがわかつてきたのは、四十歳に近く、氏の享年に徐々に近づくにつれてである。私はまづ氏が何に対して
あんなに怒つてゐたかがわかつてきた。あれは日本の知識人に対する怒りだつた。最大の「内部の敵」に対する
怒りだつた。
戦時中も現在も日本近代知識人の性格がほとんど不変なのは愕くべきことであり、その怯懦、その冷笑、
その客観主義、その根なし草的な共通心情、その不誠実、その事大主義、その抵抗の身ぶり、その独善、
その非行動性、その多弁、その食言、……それらが戦時における偽善に修飾されたとき、どのような腐敗を放ち、
どのように文化の本質を毒したか、蓮田氏はつぶさに見て、自分の少年のやうな非妥協のやさしさがとらへた
文化のために、憤りにかられてゐたのである。この騎士的な憤怒は当時の私には理解できなかつたが、戦後自ら
知識人の実態に触れるにつれ、徐々に蓮田氏の怒りは私のものになつた。そして氏の享年に近づくにつれ、
氏の死が、その死の形が何を意味したかが、突然啓示のやうに私の久しい迷蒙を照らし出したのである。

三島由紀夫「『蓮田善明とその死』序文」より

272 :名無しさん@また挑戦:2011/02/16(水) 15:30:25 ID:???
日本近代知識人は、最初からナショナルな基盤から自分を切り離す傾向にあつたから、根底的にデラシネ
(根なし草)であり、大学アカデミズムや出版資本に寄生し、一方ではその無用性に自立の根拠を置きながら、
一方では失はれた有用性に心ひそかに憧憬を寄せてゐる。そこに知識人の複雑なコンプレックスがあり、こんなに
扱ひにくい人種はちよつと想像もできない。
知識人の自立を尊重するふりをしながら、その大衆操作の有用性をうまく利用し、かたがた彼らの有用性への
ひそかな憧れをみたしてやつた点では、政府よりも左翼のはうが何十倍も巧みであつた。戦後の知識人の役割が、
九割方、左翼の利用するところとなつたのは周知の事実であり、それなりに効果をあげたのである。
大学問題の勃発は、しかし、このやうな安定した進歩的知識人の天国に打撃を与へた。彼らの足もとに火がつき、
周章狼狽なすところを知らず、有用性の幻想は破壊されつつ、無用性の自立もすでに白昼夢となつた。進歩的知識人は
瓦礫と化した。

三島由紀夫「新知識人論」より

273 :名無しさん@また挑戦:2011/02/16(水) 15:34:50 ID:???
(中略)
私はここでまたしても日本知識人が自己欺瞞に陥るくらゐなら、死んだはうがよからう、と嘲笑はれてゐる声を
きかなければ、知識人の資格はないと思つてゐる。知識人の唯一の長所は自意識であり、自分の滑稽さぐらゐは
弁へてゐなくてはならぬからである。
大学問題は、命を賭けて守れぬやうな思想は思想と呼ぶに値しないといふ、人間と思想とのもつとも重要な
「関係」に目をひらかせた。これは戦後もつとも軽視されてゐた問題であつた。(中略)
知識人はもはや国家有用の材ではありえないし、いはんや反国家有用の材でもありえない、といふ悲惨な現状を
直視して、そこから出発しないことには何もはじまらない。あらゆる有用性有効性の幻想をきつぱり捨て、
「いや、君だつて役に立つんだよ」
といふ甘言に一切耳を貸さず、有用性へのノスタルジアも己惚れも捨てなければならない。と同時に、無用性の
永遠の嘆き節からも訣別せねばならない。

三島由紀夫「新知識人論」より

274 :名無しさん@また挑戦:2011/02/16(水) 15:41:26 ID:???
機動隊導入によつてやつと救はれながら、大学立法反対の面子を捨てかねてゐる、あの教授連の自己冒涜の轍を
踏んではならない。それはもう知識人としてでなく、人間としてダメになつた人たちなのだ。
知識人の任務は、そのデラシネ性を払拭して、日本にとつてもつとも本質的もつとも根本的な「大義」が何かを
問ひつめてゐればよいのである。安保賛成や反対は足下に踏み破り、有用性と無用性を乗りこえた地点で、
ただ精神のもつとも純粋、正義のもつとも正しいものを開顕しようと日夜励んでゐればよいのである。権力も
反権力も見失つてゐる、日本にとつてもつとも大切なものを凝視してゐればよいのである。暗夜に一点の蝋燭の火を
見詰めてゐればよいのである。断固として動かないものを内に秘めて、動揺する日本の、中軸に端座してゐれば
よいのである。私はこの端座の姿勢が、日本の近代知識人にもつとも欠けてゐたものであると思ふ。

三島由紀夫「新知識人論」より

275 :名無しさん@また挑戦:2011/02/19(土) 20:09:52.57 ID:???
どうもこの日本人といふのは、防衛といふ問題について、まだ戦争のアレルギーが残つてゐる。すぐ、徴兵制度の
恐怖といふのを考へる。私はこの機会にもはつきり申し上げておきますが、徴兵制度は反対であります。少なくとも
自分の意志に反して兵隊にするといふことは、これからの時代には、私は原理的に不可能なんぢやないかと思ふんです。
そんな兵隊が軍隊にゐたら反戦運動やるに決まつてるし、パンフレットを配るに決まつてるんです。そんな人間で
軍隊が内部崩壊することを恐れるのに比べれば、人数は少なくつてもいいから、やりたいつて奴だけ集めればいい。
それ以外の人間は、もし戦争でも起きたらどういふふうに国に協力できるか。それは各々の軍を持つてやればいい。
各々の軍といふのはどういふことか。その時になつて色んな人間が自衛隊の周りに群がつて来て、「私にも
手伝はせてくれ」つて言はれましても、御飯炊きをする奴がいつぱいゐても困る。普段の平時からそれぞれの能力に
応じて、一旦緩急ある時に協力できる体制を作ればいいぢやないか。

三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より

276 :名無しさん@また挑戦:2011/02/19(土) 20:54:05.87 ID:???
どんなことかと申しますと、例へば自動車の免許であります。(中略)とにかくレジャー時代で、(中略)今では
子供から自動車持つやうになつちやつた。(中略)
私はこのライセンスといふものをですね、全て一種の軍事的な条件付きのライセンスにしたらいいんぢやないかと。
もし日本で戦争が起きた場合には、お前の自動車召し上げるぞ。或ひは、お前、自動車の運転手として徴集するぞ。
さういふ形にして自動車の免許証を取らせることにいたしますと、まあ、中曾根さんのお話では、それは
憲法違反ぢやないか、職業上の自由を阻害することになるぢやないかと言はれましたけれども、プロの運転手に
なるのは別として、今白ナンバーでヨタヨタ走つてゐるのは皆アマチュアで、遊ぶために自動車が欲しいんですから、
「遊びたいと思つたら軍事的義務を負ふ」といふことを日本中あらゆる所にくつつけておけば、その技術が
役に立つ場合が来るんぢやないか。(中略)さうすると日本中に自動車が減つて公害が少なくなつて、非常に
日本はいい国になるんです。どつち転んでもいいことなら、やつた方がいいぢやないか。

三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より

277 :名無しさん@また挑戦:2011/02/19(土) 20:58:15.43 ID:???
また、この新宿なんかいらつしやると、西口に副都心といふものがありますね。あの下の方へずつと入つて
らつしやると、相当な地下街があるんです。あれをどうしてシェルター基準にしないんだ。シェルターといふものは、
一メートル、あるひは一メートル二十位のコンクリート壁がまづ必要条件です。ところが、どの壁も薄くつて
そんなシェルター基準に合ふわけがない。さうしますと、この建築基準の中にですね、シェルター基準をすつと
混じり込ませればいいんです。美濃部さんにも黙つてうまくやれるんです。美濃部さん反対するでせうけど。
さういふふうにちよつとしたことで、基準を設ければ、いくらでも軍事施設といふものに転用ができるんです。
平和時代には、そこでネグリジェだのパンティだの売つてる。そして、戦時になれば、忽ち転換して市民を
とにかく安全な場所へ避難させるシェルターができるんです。

三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より

278 :名無しさん@また挑戦:2011/02/19(土) 21:03:01.66 ID:???
それから、高速道路ですね。あんなねえ、まあ、仮小屋みたいなもの作つてですね、あれは世界銀行から慌てて
金を借りて、オリンピックに間に合はせた一号線なんてのはもうガタが来てる。あんなもの作るくらゐなら、
初めから戦車一個大隊通れるくらゐの建築基準作ればよろしい。今の高速道路では、戦車一個大隊が無事に通れるか
はなはだ危ない。また方々の高速道路でも、まあゲリラかなんかに爆弾しかけられますと、一ヶ所が途切れれば
もう忽ち輸送ができなくなつてしまふ。
さういふ所に平和の時代から軍事的な配慮を入れて、「治に居て乱を忘れず」といふやうなものも、自主防衛の
一つで、国民がレジャーを楽しむ為に何かを我慢する。もう税金取られてるんですから、どうせ。少しぐらゐ
我慢すること、何でもない。さういふ形でギブ・アンド・テイクをやつていかないと、これからの日本はダメだと。
遊びたかつたら、何かちよつと辛いことが一つある。でも、それでも遊びたいつてのは、人間の本性ですから
遊ぶでせう。

三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より

279 :名無しさん@また挑戦:2011/02/20(日) 11:20:45.26 ID:???
(中略)
防衛とちよつと話がはづれますが、ある機動隊へ私は話しに行つたことがある。(中略)私は、この機動隊へ行つて、
機動隊諸君の熱情に非常に打たれた。私は実はおまはりさんてあまり好きぢやないんですけれども、機動隊員は
実に好きだ。といふのは、機動隊員は真つ直ぐに自分の行動に挺身するために身体を張つてゐる。さういふ
行動集団である。かういふ連中は実に気持ちがいい。私は彼等と話して非常にいい気持ちになつた。
ところが、その最後にそこのキャプテンみたいな、ちよつと年輩の人でした、私ぐらゐでせう、それが、私が
あまり話が合ふんで心配になつたんでせう。最後にかういふことを言つた。「えー、ミスマ先生、今のおハナス、
大変結構でしたけれども、どうかこの国民ソクンに誤解されないやうにお願ひしたいと思つてをります」
「誤解されないつて、あなた何を言ひたいんですか」「我々は、ミンススギを、デモクラスィを守るために
やつてゐるんで、デモクラスィ、守るのが機動隊だつつうことを忘れないやうにお願ひしたい」
私はその話を聞いて、非常に情けなかつた。

三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より

280 :名無しさん@また挑戦:2011/02/20(日) 11:24:33.61 ID:???
我々はデモクラシー守るために機動隊をやつてるんぢやないんだ。デモクラシーつていふものを、さういふふうに
簡単に考へて使ふ、そして、さういふふうな形でもつて機動隊といふものを教育してる。機動隊諸君には可哀想だ
けれども、諸君、デモクラシー守るためにどうしてそんな血を流すんだと。デモクラシーは外国からやつてきて、
外国の占領軍が日本に押しつけて去つた、何かはかない根無し草ぢやないか。
それも日本ていふのは、デモクラシーの良いところを明治時代からうんと認めてですね、徐々に徐々に国民の力で、
普通選挙法の成立まで、国民同士が血を流しながら作つてきたんだ。その中で政治制度にいろんな欠点はあつた
けれども、日本なりに一番日本人に適した形の民主主義を作らうと思つて、営々として努力してきたんだ。
それが、戦争に負けて一時御破算になつたけれども、そこの上に接木されたやうな、全くのアメリカのデモクラシー、
日本の風土に何も根ざさないやうな外国から来たデモクラシーを、何で守らなきやならんのだ。

三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より

281 :名無しさん@また挑戦:2011/02/20(日) 11:29:46.00 ID:???
日本人は日本人に一番適した政治制度を、我々の力で作つていくのが本当ぢやないか。外国から押しつけられた
ものをただ守るために、その武装集団が居てくれたつてしやうがないんだ。我々は外国人のお陰で生きてゐるつて
いふよりも、日本人なんだといふやうな反感を、私は感じたことがあるんです。
それと同じやうなことで、自衛隊も、デモクラシーを守るといふやうぢや困る。自衛隊が国連憲章の精神に忠実で
あることはいいんです。しかし、それは結局デモクラシーの方向において国連に繋がるだけであつて、本当に
国民精神の自発的な要求によつて国連に繋がるんぢやなければ、本当は意味がないんです。
その自発的な国民の意志といふものは国民精神からしか生まれない。しかも、その国民精神といふものがですね、
今、目前の色んな政治的事象の中にある、単なる政治化、国際協調主義から生まれるものぢやなくて、日本といふ
ものに対する本当の自信から生まれるものである。その自信は何かといふと、あくまでも文化価値、精神的価値で
あつて、政治的価値ではない。

三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より

282 :名無しさん@また挑戦:2011/02/20(日) 11:34:46.24 ID:???
国民精神といふものは、歴史と伝統と文化との誇りから自然に生まれてくるものである。外国から押しつけられた
教育で、国民の誇りをなくすやうな方向へ日本を持つて行きながら、さうして国民精神を自ら崩壊させる方向へ
持つて行きながら、何をもつてさういふものを基盤にした防衛といふものが成り立ちうるか。
それで、私はまたしても憲法の問題に戻つてくるんです。私共のやうな人間が絶えず憲法を改正しろと言つて
ゐなければ、もう憲法改正の気運は永久にどつかへ消えてしまふでありませう。私はあの敗戦憲法を敗戦の日本に
残した、この傷跡をですね、なんとかして改善しなけりやならんといふことを永年考へてきたんです。しかし、
我々がいくら言つてもダメだといふやうな悲しい事態になつたのに、国民はそれについて憲法改正できないと
いふことは、何を意味するんだといふことを考へないできたんです。

三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より

283 :名無しさん@また挑戦:2011/02/20(日) 11:37:58.45 ID:???
それでは憲法改正すりや、ファッショになるだらうか。これが非常に問題なんですね。ナチスはワイマール憲法を
改正してないのは、皆さんご存知と思ふんです。ナチスはたうとう憲法改正事業つていふことを、やつてないんです。
そして、全権授権法つていふのを成立させたのは、ワイマール憲法下で成立させたんです。あくまで平和憲法下で
ナチズムといふものは出てきたんです。この事実、歴史的な事実をよく知らない人間は、憲法改正すれば
ファシズムになる、ナチズムになると言ふんです。
ところが、ファシズムやナチズムになりたかつたら、憲法を変へる必要がないんです。そして、国家の根本の
精神といふものを作り直すには、何もそんな難しいことをやらなくたつていいんだつてことを、だんだんと
分かつてきてるのかどうかといふことを、私は非常に疑問に思つてきたわけであります。

三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より

284 :名無しさん@また挑戦:2011/02/20(日) 11:41:51.67 ID:???
(中略)
今この危機感が全然ないといふやうな時代になつてきて、今、世界中で一番呑気なのは日本かもしれないんですが、
日本に果たして、かういふ危機がもし生じた場合、対処するやうな大きな精神的基盤があるだらうか。いや、
日本人は大丈夫だ、日本人といふのは放つておいても、いざといふ時にやるさ。ところが、放つておくうちにですね、
お腹の脂肪が一センチづつだんだんだんだん膨らんでくるのが、皆さんの体験的事実としてご存じだと思ふんです。
そして、人間といふのは豚になる傾向もつてゐるんです。
私は今日人間だと思つても、明日自分が豚になるかもしれないといふ恐怖でいつも生きてきた。やつぱり豚に
ならないためには、そして脂肪が蓄積しないためには、絶えず精神を研ぎすまし、例へば日本刀を毎日磨くやうに、
磨いていかなきや人間てのはダメになると。日本人はその一日一日ダメになつていくといふことに気がつかないん
ぢやないか。さう思つてまゐりますと、今の世界情勢といひますか、この国際戦略上の日本といふ国の難しさと
いふものが、だんだんに分かつてくるのであります。

三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より

285 :名無しさん@また挑戦:2011/02/20(日) 12:25:48.06 ID:???
(中略)
我々は国際戦略といふものの、一番渦が渦巻いてゐる日本といふ国にゐるんです。日本ていふ国はあたかも
実験室のやうなものです。ベトナムのやうな激しい戦争は戦はれてはゐないけれども、国民の心の一つ一つの
中にですね、さういふ二つの大きな勢力の渦が、どつちが勝つかといふ形で忍び込んできてゐる。その忍び込み方は
非常に巧妙で、騙されやすい。
(中略)
そして、日本ていふ国はですね、天皇陛下を中心にして、まあ、千年以上、二千年近い歴史を、とにかく
日本人独特のやり方によつて生きてきたんです。これが、日本といふものの大事な点であつて、それをどつか
棚の上に上げておいて、ヒューマニズムだとか、国連中心主義だとか、やれ平和尊重だとか、やれ民主主義擁護だ
とか言つてみたところで、私は共産戦略に勝つことは絶対にできないと固く信じてゐるんです。
その日本人てことが、防衛の問題になつてどう出てくるか。

三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より

286 :名無しさん@また挑戦:2011/02/20(日) 12:30:21.88 ID:???
これは、防衛問題で一番難しいところで、うつかり日本人、日本人て言ひ過ぎると、また、軍国主義復活なんて
外国の新聞で叩かれちやふ。だから、さうも言へない。お前、自分で防衛を論ずる場合、何が一番大事だと思ふんだ、
日本を守ることであるつて言ふと、今や多少モンロー主義的になりつつあるアメリカはどう言ふか。よしやつてくれ。
頼もしい。諸君、是非自分で自分の国を守つてくれつて言ふでせう。
(中略)まあ、左翼側に言はせれば、アジア人をしてアジア人と戦はしめよといふやうなのが、アメリカ側の
軍事政策であると言はれてゐる。(中略)
我々は何もそのアメリカのおかげでもつて、民族同士、よその民族主義と戦ふ気持ちは毛頭ない。我々はただ、
日本といふものを守り、せつかく日本といふ国があるのに、それを侵さうとする勢力から守らうとしてゐるに
過ぎない。ただ、その日本人の守らうとする自主防衛の努力と、向うが、よし自分たちでやつてくれといふ
気持ちとは、本当にすつきりと合ふ時があるかどうかは、私は非常に疑問に思ふんです。

三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より

287 :名無しさん@また挑戦:2011/02/20(日) 13:05:31.81 ID:???
日本はアメリカに反抗して生きることはできません、悲しいながら。しかしながら、アメリカの何も手下になつて、
ただかつかつと、まあ残り物をもらつて生きるといふのもプライドが許さない。(中略)自分たちの力でですね、
日本が日本を守るといふことがどういふことかと、その一番現実的であると同時に理念的精神的な問題を、
突つ込んで突つ込んで突つ込まなきやいかん。
で、その基盤になる国民精神とは何であるか、日本の国体とは何だ、国柄とは何だ、さういふものをよおく
突つ込んで考へることが、防衛といふものの一番の問題であつて、さういふことを抜きにしてですね、この次の
ファントムが一機幾らだから税金をどれくらゐ取られるとか、そんなことは何億円、何十億円かからうとも、
末の末の問題だと私は思つてゐる。何よりも、その精神の価値といふものを自分の中に認識したいと、これが私の
今日のお話で、結論になります。

三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より

288 :名無しさん@また挑戦:2011/02/21(月) 17:42:29.22 ID:???
乃木大将の死とともに終つた陽明学的知的環境は、大正教養主義と大正ヒューマニズムの敵に他ならなかつた。
過去の敵であるばかりではなく、未来の敵にもなつた。といふのは、大正知識人が徐々に指導者となる時代、
昭和初年にいたつて、このやうに否定され忌避され抑圧された陽明学的潮流は、地下に潜流して、過激な右翼思潮の
温床となつたために、ますます大正知識人に嫌はれる対象となり、被害者意識から大正知識人が、後輩へあへて
伝へまいとした有害な「黒い秘教」になつたのである。
一方マルクシズムは、知識層の革命的関心の、ほとんど九十パーセントを奪ひ去つた。北一輝のやうな日本的
革命思想の追究者は、孤立した星であつた。マルクシズムが陽明学にとつて代り、大正教養主義・ヒューマニズムが
朱子学にとつて代つたといふこともできるであらう。朱子学の、なかんづく、荻生徂徠のやうな外来思想の心酔者は、
大正知識人にとつてもむしろ親しみやすかつた。しかし国学と陽明学はやりきれぬ代物だつた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

289 :名無しさん@また挑戦:2011/02/21(月) 17:46:41.65 ID:???
国学は右翼学者の、陽明学は一部の軍人や右翼政治家の専用品になつた。インテリは触れるべからざるものに
なつたのである。
今日でも、インテリが触れてはならぬと自戒してゐるいくつかの思想的タブーがあり、武士道では「葉隠」、
国学では平田(篤胤)神学、その後の正統右翼思想、したがつて天皇崇拝等々は、それに触れたが最後、
インテリ社会から村八分にされる危険があるものとされてゐる。さういふものを何か「いまはしい」ものと
考へるインテリの感覚の底には、明治の開明主義が影を落としてゐる。西欧的合理主義の移入者であり代弁者で
あるところに、自己のプライドの根拠を置いてきた明治初期の留学生の気質は、今なほ日本知識層の気質の底に
ひそんでゐる。決して西欧化に馴染まぬものは、未開なもの、アジア的なもの、蒙昧なもの、いまはしいもの、
醜いもの、卑しむべきもの、外人に見せたくないもの、として押入の奥へ片付けておく。陽明学もその一つで
あつたのである。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

290 :名無しさん@また挑戦:2011/02/21(月) 17:52:09.40 ID:???
現代日本知識人は、かくて無意識のうちに朱子学的伝統を引いてゐる。すなはち、西欧化近代化の文明開化主義の
明治政府と、その劇画化としての第二次大戦後の政府との、基本方針を逸脱せぬところで、同じ次元で、これを
批判し、あるひは「教育」する立場に矜りを見つける。マルクシストさへ、近代化の方策の差といふのみで、
近代主義者には変りがないから、近代主義の先駆としての立場から、「保守的」政府を批判し、それ以上には
出ないのである。大内兵衛氏が、自民党内閣と社会党と双方に関係するのは、双方が近代主義の異腹の児で
あるといふ点で、矛盾はない。
現代日本知識人の身を置く立場や思想は、マルクシズムの神話の崩壊につれ、ますます朱子学の各分派といふ様相を
呈するであらう。私見によれば陽明学は、決してその分派に属さない。むしろ今こそそれは嘗てあつたよりも
激しい形で、提起され直さねばならない。あらゆる政治学が劇薬でありえなくなつた現在、菌にも耐性ができて、
大ていの薬では利かなくなつたのである。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

291 :名無しさん@また挑戦:2011/02/21(月) 20:35:45.81 ID:???
さて今まではといへば、たとへば(中略)(丸山真男)氏はそのかなり大部の著書の中でわづかに一頁の
コメンタリーを陽明学に当ててゐるに過ぎない。氏は、陽明学をあくまで朱子学に依存する一セクトとして見、
これを簡略に説明して、朱子の「知先行後」に対して「知行合一」を主張するところの主観的、個人的哲学で
あるとなし、陽明学は朱子学の理の内包してゐた物理性をことごとく道理性のうちに解消せしめたが故に、
朱子学ほどの包括性をもたず、朱子学ほどの社会性を失つた、と説いてゐる。
しかしながら陽明学は、明治維新のやうな革命状況を準備した精神史的な諸事実の上に、強大な力を刻印してゐた。
陽明学を無視して明治維新を語ることはできない。
大体、革命を準備する哲学及びその哲学を裏づける心情は、私には、いつの場合もニヒリズムとミスティシズムの
二本の柱にあると思はれる。(中略)二十世紀のナチスの革命においては、ニイチェやハイデッカーの準備した
能動的ニヒリズムの背景のもとに、ゲルマン神話の復活を策するローゼンベルクの「二十世紀の神話」が、
ナチスのミスティシズムを形成した。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

292 :名無しさん@また挑戦:2011/02/21(月) 20:58:02.97 ID:???
革命は行動である。行動は死と隣り合はせになることが多いから、ひとたび書斎の思索を離れて行動の世界に
入るときに、人が死を前にしたニヒリズムと偶然の僥倖を頼むミスティシズムとの虜にならざるを得ないのは
人間性の自然である。
明治維新は、私見によれば、ミスティシズムとしての国学と、能動的ニヒリズムとしての陽明学によつて準備された。
本居宣長のアポロン的な国学は、時代を経るにしたがつて平田篤胤、さらには林桜園のやうなミスティックな
神がかりの行動哲学に集約され、平田篤胤の神学は明治維新の志士達の直接の激情を培つた。
また、これと並行して、中江藤樹以来の陽明学は明治維新的思想行動のはるか先駆といはれる大塩平八郎の乱の
背景をなし、大塩の著書「洗心洞箚記」は明治維新後の最後のナショナルな反乱ともいふべき西南戦争の首領
西郷隆盛が、死に至るまで愛読した本であつた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

293 :名無しさん@また挑戦:2011/02/21(月) 21:02:08.21 ID:???
また、吉田松陰の行動哲学の裏にも陽明学の思想は脈々と波打つてをり、一度アカデミックなくびきをはづされた
朱子学は、もとの朱子学が体制擁護の体系を完成するとともに、一方は異端のなまなましい血のざわめきの中へ
おりていき、まさに維新の志士の心情そのものの思想的形成にあづかるのである。
主観哲学であり、且つ道理を明らかにすることによつて善悪を超越する哲学であるこの陽明学といふ危険な思想は、
丸山氏のいふところの、まさに逆を行つて、権力擁護の朱子学、徂徠学の一分派といふ仮面に隠れながら、その実、
もつとも極端なラディカリズムと能動的ニヒリズムの極限へ向かつて進んでいつた。その「良知」とは、単に
認識の良知を意味するものではなく、「太虚」に入つて創造と行動の原動力をなすものであり、また一見、
武士的な行動原理と思はれる知行合一は、認識と行動の関係にひそむもつとも危険な消息を伝へるものであつた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

294 :名無しさん@また挑戦:2011/02/22(火) 10:41:25.84 ID:???
(中略)
私はさつき、死に直面する行動がニヒリズムを養成するといふことを言つた。陽明学の時代にはニヒリズムと
いふ言葉はなかつたから、それは大塩平八郎(中斎)の中斎学派がとりわけ強調した「帰太虚」の説の中に
表はれてゐる。
「帰太虚」とは太虚に帰するの意であるが、大塩は太虚といふものこそ万物創造の源であり、また善と悪とを
良知によつて弁別し得る最後のものであり、ここに至つて人々の行動は生死を超越した正義そのものに帰着すると
主張した。彼は一つの譬喩を持ち出して、たとへば壷が毀(こは)されると壷を満たしてゐた空虚はそのまま
太虚に帰するやうなものである、といつた。壷を人間の肉体とすれば、壷の中の空虚、すなはち肉体に包まれた
思想がもし良知に至つて真の太虚に達してゐるならば、その壷すなはち肉体が毀されようと、瞬間にして永遠に
偏在する太虚に帰することができるのである。
その太虚はさつきも言つたやうに良知の極致と考へられてゐるが、現代風にいへば能動的ニヒリズムの根元と
考へてよいだらう。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

295 :名無しさん@また挑戦:2011/02/22(火) 20:05:22.75 ID:???
ただ、この太虚が仏教の空観に、ともすると似てきてしまふことは、森鴎外も小説「大塩平八郎」の中でそれとなく
皮肉に指摘してゐる。仏教の空観と陽明学の太虚を比べると、万物が涅槃の中に溶け込む空と、その万物の
創造の母体であり行動の源泉である空虚とは、一見反対のやうであるが、いつたん悟達に達してまた現世へ
戻つてきて衆生済度の行動に出なければならぬと教へる大乗仏教の教へにはこの仏教の空観と陽明学の太虚を
つなぐものがおぼろげに暗示されてゐる。ベトナムにおける抗議僧の焼身自殺は大乗仏教から説明されるが、
また陽明学的な行動ともいふことができるのである。
陽明学をごく簡単に説明したものとしては、井上哲次郎博士の「王陽明の哲学の心髄骨子」といふ古い論文がある。
(中略)明代の哲学者王陽明は朱子哲学の反動としておこつた人であるが、朱子哲学が二元論であつたので、
これに対して一元論の哲学を唱導し、陸象山の思想を受けてこれに自由主義的あるひは平等主義的な傾向を与へて
陽明学を体系づけた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

296 :名無しさん@また挑戦:2011/02/22(火) 20:09:45.85 ID:???
そもそも陽明学には、アポロン的な理性の持ち主には理解しがたいデモーニッシュな要素がある。ラショナリズムに
立てこもらうとする人は、この狂熱を避けて通る。
もちろん、認識と行動との一致といふことを離れて考へてみても、われわれが認識ならぬ知に達する方法としては
古人がすでに二つの道を用意してゐた。一つは、認識それ自体の機能を極限までおし進めるアポロン的な方法であり、
一つは、理性のくびきを脱して狂奔する行動に身をまかせ、そこに生ずるハイデッガーのいはゆる脱自、陶酔、
恍惚、の一種の宗教的見神的体験を通じて知に到達するといふ方法である。これは哲学の中の二つの潮流を
形づくると同時に、人間の行動様式、行動様式の表はれとしての倫理や文化などの、すべての分岐点として現はれた。
陽明学を革命の哲学だといふのは、それが革命に必要な行動性の極致をある狂熱的認識を通して把握しようとした
ものだからである。私がかう言ふのは、学問によつてではなく行動によつて今日までもつとも有名になつてゐる
大塩平八郎のことをいま思ひうかべるからだ。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

297 :名無しさん@また挑戦:2011/02/22(火) 20:22:05.30 ID:???
(中略)
大塩が思ふには、われわれは天といへば青空のことだと思つてゐるが、こればかりが天ではなくて、石の間に
ひそむ空虚、あるひは生えてゐる竹の中にひそんでゐる空虚もまつたく同じ天であり、太虚の一つである。
この太虚は植物、無機物ばかりではなく、人間の肉体の中にも口や耳を通じてひそんでゐる。われわれが持つて
ゐる小さな虚も、聖人の持つてゐる虚と異なるところはない。もし、誰であつても心から欲を打ち払つて太虚に
帰すれば、天がすでにその心に宿つてゐるのである。誰でも聖人の地位に達しようと欲して達し得ないことはない。
「聖人は即ち言あるの太虚にして、太虚は即ち言はざるの聖人なり」
太虚に帰すべき方法としては、真心をつくし誠をつくして情欲を一掃し、そこへ入つていくほかはない。形の
あるものはすべて滅び、すべて動揺する。大きな山でさへ地震によつてゆすぶられる。何故なら形があるからである。
しかし、地震は太虚を動かすことはできない。これでわかるやうに心が太虚に帰するときに、初めて真の「不動」を
語ることができるのである。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

298 :名無しさん@また挑戦:2011/02/22(火) 20:26:32.55 ID:???
すなはち、太虚は永遠不滅であり不動である。心がすでに太虚に帰するときは、いかなる行動も善悪を超脱して
真の良知に達し、天の正義と一致するのである。
その太虚とは何であるか。人の心は太虚と同じであり、心と太虚とは二つのものではない。また、心の外にある虚は、
すなはちわが心の本体である。かくて、その太虚は世界の実在である。この説は世界の実在はすなはちわれであると
いふ点で、ウパニシャッドのアートマンとはなはだ相近づいてくる。
大塩平八郎はその「洗心洞剳記」にもいふやうに、「身の死するを恨みずして心の死するを恨む」といふことを
つねに主張してゐた。この主張から大塩の過激な行動が一直線に出てきたと思はれるのである。心がすでに太虚に
帰すれば、肉体は死んでも滅びないものがある。だから、肉体の死ぬのを恐れず心の死ぬのを恐れるのである。
心が本当に死なないことを知つてゐるならば、この世に恐ろしいものは何一つない。決心が動揺することは絶対ない。
そのときわれわれは天命を知るのだ、と大塩は言つた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

299 :名無しさん@また挑戦:2011/02/22(火) 20:33:39.31 ID:???
(中略)
われわれは心の死にやすい時代に生きてゐる。しかも平均年齢は年々延びていき、ともすると日本には、平八郎とは
反対に、「心の死するを恐れず、ただただ身の死するを恐れる」といふ人が無数にふえていくことが想像される。
肉体の延命は精神の延命と同一に論じられないのである。われわれの戦後民主主義が立脚してゐる人命尊重の
ヒューマニズムは、ひたすら肉体の安全無事を主張して、魂や精神の生死を問はないのである。
社会は肉体の安全を保障するが、魂の安全を保障しはしない。心の死ぬことを恐れず、肉体の死ぬことばかり
恐れてゐる人で日本中が占められてゐるならば、無事安泰であり平和である。しかし、そこに肉体の生死を
ものともせず、ただ心の死んでいくことを恐れる人があるからこそ、この社会には緊張が生じ、革新の意欲が
底流することになるのである。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

300 :名無しさん@また挑戦:2011/02/22(火) 20:39:10.68 ID:???
(中略)
大塩平八郎の死は、前にも言つたやうに天保八年三月のことであつたが、それから四十年を経た、西郷南洲の
西南の役における死に思ひ及びと、西郷の生涯が再び陽明学の不思議な反知性主義と行動主義によつて貫かれて
ゐることにわれわれは気づく。西郷の「手抄言志録」によれば、その第二十一には、死を恐れるのは生まれてから
のちに生ずる情であつて、肉体があればこそ死を恐れるの心が生じる。そして死を恐れないのは生まれる前の
性質であつて、肉体を離れるとき初めてこの死の性質をみることができる。したがつて、人は死を恐れるといふ
気持のうちに死を恐れないといふ真理を発見しなければならない。それは人間がその生前の本性に帰ることである、
といふ意味のことをいつてゐる。
現にま西郷は幕吏に追はれた親友の僧月照と共に薩摩の海に舟を浮かべ、月照が示した和歌に同感して直ちに
彼と共に相擁して海に身を投じたことがある。そのときに死んだのは月照だけで、西郷は蘇ることになるのであるが、
彼はその後一生、月照と共に死ねなかつたことを憾みに思つてゐたやうである。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

301 :名無しさん@また挑戦:2011/02/22(火) 20:44:18.74 ID:???
(中略)
この(「南洲遺訓」)文章などは、われわれの中で一人の人間の理想像が組み立てられるときに、その理想像に
同一化できるかできないかといふところに能力の有無を見てゐる点で、あたかも大塩平八郎の行動を想起させる
のである。聖人がわれわれの胸奥に住むならば、その聖人とわれわれとは同格でなければならない。甚だ傲慢な
哲学であるが、それはあたかも「葉隠」の、「われは日本一なりとの増上慢なくてはお役に立ち難し」といふやうな
自我哲学の絶頂と照応してゐる。
このやうな同一化の可能性が生じないで、ただおとなしくこれを学び、ひたすら聖人に及ばざることのみを考へて
ゐるところからは、決して行動のエネルギーは湧いてはこない。同一化とは、自分の中の空虚を巨人の中の空虚と
同一視することであり、自分の得たニヒリズムをもつと巨大なニヒリズムと同一化することである。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

302 :名無しさん@また挑戦:2011/02/22(火) 21:11:21.60 ID:???
そのやうな行動の、次元を絶した境地は、吉田松陰が獄中から品川弥二郎に送つた書簡の中にもうかがはれる。
松陰は一つの空虚を巨大な空虚に結びつけ、一つの小さな政治的考慮を最高の理想に結びつけて、小さな行動を
最終の理念に直結させるための跳躍の姿勢をさまざまにためした。そのとき狭い獄舎の中で松陰が試みた精神的
ジャンプは、たちまち日常生活の次元を超えて、空間と時間とを新しい次元へ飛躍させたのである。
松陰が入つていつたこのやうな心境を証明するもつとも恐ろしく、私の忘れがたい一句は、「天地の悠久に比せば
松柏も一時蠅なり」といふものだ。(中略)
そのとき松陰は、人生の短さと天地の悠久との間に何等差別をつけてゐなかつた。われわれの生存がもつてゐる
種々の困難、われわれの日々の生が担つてゐるもろもろの条件を脱却して、直ちに最小のものから最大のものに、
もつとも短いものからもつとも長いものへ一ぺんに跳躍し、同一視する観点を把握してゐた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

303 :名無しさん@また挑戦:2011/02/23(水) 13:18:29.85 ID:???
(中略)
この陽明学はおそらく、乃木大将の死に至つて、日本の現代史の表面から消えていつたやうに思はれる。その後、
陽明学的な行動原理は学究を通じてではなくて、むしろ日本人の行動様式のメンタリティーの基本を形づくることに
なつて、ひそかに潜流し始めたものであらう。昭和の動乱の時代から今日に至るまで、日本人が企てた行動には、
西欧人が企及し得ぬ、また想像し得ぬさまざまな不思議な要素がふくまれてゐる。そしてその日本人の政治行動
自体には、完全な理性主義や主知主義に反するところの不思議な暴発状況や、無効を承知でやつた行動のいくつかの
めざましい事例がみられるのである。
何故日本人はムダを承知の政治行動をやるのであるか。しかし、もし真にニヒリズムを経過した行動ならば、
その行動の効果がムダであつてももはや驚くに足りない。陽明学的な行動原理が日本人の心の中に潜む限り、
これから先も、西欧人にはまつたくうかがひ知られぬやうな不思議な政治的事象が、日本に次々と起ることは
予言してもよい。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

304 :名無しさん@また挑戦:2011/02/23(水) 13:23:39.85 ID:???
(中略)
七〇年は予想されたやうな波瀾も見せずに、再び占領体制下と同じやうな論理が復活するのに役立つた。いまや
自民党も共産党も同じやうな次元の議会主義政党に堕し、共に政治目標実現の最終的な不可能を知りながら、
目前の事態の処理によつて大衆社会をどちらがより多く味方に引きつけるか、といふ術策に憂き身をやつすやうに
なつた。このやうな政治行動は、すみずみまでソロバンづくの有効性によつて計量され、有効性の判断が政治行動の
メリットの唯一の基準になつた。すでに自民党がさうである如く、共産党も政権獲得のための票数の増加と、
日常活動による市民生活への浸透に目安をおいて、一刻一刻、一日一日の政治行動を、すべてこのプラクティカルな
目的に対する有効性によつて判断してゐる。
それをジャーナリズムはまた、理想主義の終焉、あるひは脱イデオロギーの時代が来たとよんでゐる。そして
工業化社会の果てに、ポスト・インダストリアル・ジェネレーション、脱工業化社会が来るといふことは、つとに
予見されたことであつたが、その予見は半ば当り半ば当らなかつた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

305 :名無しさん@また挑戦:2011/02/23(水) 13:29:24.97 ID:???
工業化の果てにおける精神的空白は再びまた工業化によつて埋められ、精神の飢ゑが再び飽満した食欲によつて
満たされることになつた。そして先にも言つたやうに、人は心の死、魂の死を恐れないやうになつたのである。
陽明学が示唆するものは、このやうな政治の有効性に対する精神の最終的な無効性にしか、精神の尊厳を認めまいと
するかたくなな哲学である。いつたんニヒリズムを経過した尊厳性が精神の最終的な価値であるとするならば、
もはやそこにあるのは政治的有効性にコミットすることではなく、今後の精神と政治との対立状況のもつとも
きびしい地点に身をおくことでなければならない。そのときわれわれは、新しい功利的な革命思想の反対側に
ゐるのである。陽明学はもともと支那に発した哲学であるが、以上にも述べたやうに日本の行動家の魂の中で
いつたん完全に濾過され日本化されて風土化を完成した哲学である。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

306 :名無しさん@また挑戦:2011/02/23(水) 13:34:10.04 ID:???
もし革命思想がよみがへるとすれば、このやうな日本人のメンタリティの奥底に重りをおろした思想から
出発するより他はない。一方、国学のファナティックなミスティシズムが現代に蘇ることがはなはだむづかしいと
するならば、陽明学がその中にもつてゐる論理性と思想的骨格は、これから先の革新思想の一つの新しい芽生えを
用意するかもしれない。
われわれの近代史は、その近代化の厖大な波の陰に、多くの挫折と悲劇的な意欲を葬つてきた。われわれは西洋に
対して戦ふといふときに何をもとにして戦ふかを、つひに知らなかつた。そして西欧化に最終的に順応したもの
だけが、日本の近代における覇者となつたのである。明治政府自体が西欧化による西欧に対する勝利といふ理念を
掲げたときに、その実力による最終証明となつたものは日露戦争であつたから、その後の日本は西欧的な戦争を
戦ふことによつて西欧に打ち勝つといふ固定観念に向かつて進んで、第二次大戦の破局に際会した。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

307 :名無しさん@また挑戦:2011/02/23(水) 13:37:26.35 ID:???
一方目ざめたアジアは、アジア独特の思考によりベトナムや中共で西欧化に対するしたたかな抵抗の作戦を展開した。
それらはもちろん、地理的な条件やさまざまな風土的な条件の恵みによることはもちろんであるが、日本が
貿易立国によつて進まねばならない島国といふ特性を有しながらも、アジアの一環に属することによつて西欧化に
対する最後の抵抗を試みるならば、それは精神による抵抗でなければならないはずである。
精神の抵抗は反体制運動であると否とを問はず、日本の中に浸潤してゐる西欧化の弊害を革正することによつてしか、
最終的に成就されない道である。そのとき革新思想がどのやうな形で西欧化に妥協するかによつて、無限にその
政治的有効性の方向に引きずられていくことは、戦後の歴史が無惨に証明した如くである。われわれはこの
陽明学といふ忘れられた行動哲学にかへることによつて、もう一度、精神と政治の対立状況における精神の
闘ひの方法を、深く探究しなほす必要があるのではあるまいか。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

308 :名無しさん@また挑戦:2011/02/24(木) 16:25:52.28 ID:???
>>303の後
日本における革命運動は、日本的革命とは何ぞやといふ問題をひさしく閑却してきた。革命はすべて外来思想であり、
マルクシズムも亦西欧の近代化の一翼に乗つて日本に入つてきた一思想であつた。そして、日本といふアジアの
後進国家が物質文明による近代化に乗り出したときに、その近代化に随伴する一つのアンチテーゼの思想が
移入されたのは必然的であつた。そして、マルクシズムの思想の日本化のためには、苦しい血のにじむやうな
努力が要つた。
転向の問題は、一度、外来思想を人間の肉体と心情を通して濾過し、その心情の根底において思想とは何ものかを
問ふといふことによつて、日本の知識人に重要な歴史的転機を与へた。もし、あの転向の思想的体験が戦後の
革命思想に正当に貫かれてゐたならば、私は「日本的革命とは何ぞや」といふ問題が、真に展開されてゐたで
あらうと思ふ。
しかしながら、戦後のアメリカ民主主義による突如の解放によつて、革命思想の日本化肉体化といふ問題は一時
置きざりにされた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

309 :名無しさん@また挑戦:2011/02/24(木) 16:28:57.93 ID:???
即ち、それは再び啓蒙思想に復帰し、近代主義に立ち戻り、すべてを振り出しから始めるといふ新しい楽天的な、
再度の近代化西欧化の代表をつとめるやうになつたのだ。戦後、このやうな近代主義がたちまち破綻したのは
当然のなりゆきである。
その後の新左翼の勃興は、かうした混迷、矛盾を経て老朽化していつた共産党的革命思想に対するアンチテーゼで
あつたが、その後被ら自身が自分の思想の肉体化といふことについて、風土性の問題から離れざるを得ぬといふ
時代的環境に置かれていつた。すでに農地改革以後、ブルジョア革命が成就した日本で、極度の急激な工業化と共に
大衆社会化状況が生まれ、工業化、都市化の進展は農村人ロの減少をもたらし、その思想の風土性は、帰るべき
故郷を失つた状態にあつた。主に学生運動は都市から発生し、その都市化の極点における空白においてのみ、
一般の大衆の精神的空白と相わたつた。そのとき、もはや革命思想は日本的、風土的なものに還元されるべき
手がかりを失つてゐた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

310 :名無しさん@また挑戦:2011/03/03(木) 17:01:40.52 ID:???
或る小説がそこに存在するおかげで、どれだけ多くの人々が告白を免かれてゐることであらうか。


世間一般では、小説家こそ人生と密着してゐるといふ迷信が、いかにひろく行はれてゐることだらう。何よりも
それを怖れて小説家になつた彼であるのに! 私がいつもふしぎに思ふのは、小説家がしたり気な回答者として、
新聞雑誌の人生相談の欄に招かれることである。それはあたかも、オレンヂ・ジュースしか呑んだことのない人間が、
オレンヂの樹の栽培について答へてゐるやうなものだ。
人生に対する好奇心などといふものが、人生を一心不乱に生きてゐる最中にめつたに生れないものであることは、
われわれの経験上の事実であり、しかもこの種の関心は人生との「関係」を暗示すると共に、人生における
「関係」の忌避をも意味するのである。小説家は、自分の内部への関係と、外部への関係とを同一視する人種で
あつて、一方を等閑視することを許さないから、従つて人生に密着することができない。人生を生きるとは、
いづれにしろ、一方に目をつぶることなのである。

三島由紀夫「小説とは何か」より

311 :名無しさん@また挑戦:2011/03/03(木) 17:09:34.31 ID:???
一面からいへば、神は怠けものであり、ベッドに身を横たへた駘蕩たる娼婦なのだ。働らかされ、努力させられ、
打ちのめされるのは、いつも人間の役割である。小説はこの怖ろしい白昼の神の怠惰を、そのまま描き出すことは
できない。小説は人間の側の惑乱を扱ふことに宿命づけられたジャンルである。そして神の側からわづかに
描くことができるのは、人間(息子)の愚かさに対する、愛と知的焦燥の入りまじつた微かな絶望の断片のみで
あらう。神は熱帯の泥沼に居すわつた河馬のやうだ。
「お前の母親は泥沼の中でしか落着けないのよ」
人間の神の拒否、神の否定の必死の叫びが、実は「本心からではない」ことをバタイユは冷酷に指摘する。
その「本心」こそ、バタイユのいはゆる「エロティシズム」の核心であり、ウィーンの俗悪な精神分析学者などの
遠く及ばぬエロティシズムの深淵を、われわれに切り拓いてみせてくれた人こそバタイユであつた。

三島由紀夫「小説とは何か 七」より

312 :名無しさん@また挑戦:2011/03/03(木) 21:37:24.79 ID:???
或る小説がそこに存在するおかげで、どれだけ多くの人々が告白を免かれてゐることであらうか。それと同時に、
小説といふものが存在するおかげで、人々は自分の内の反社会性の領域へ幾分か押し出され、そこへ押し出された以上、
もちろん無記名ではあるが、リスト・アップされる義務を負ふことになる。社会秩序の隠密な再編成に同意する
ことになるのである。
このやうな同意は本来ならば、きびしい倫理的決断である筈だが、小説の読者は、同意によつて何ら倫理的責任を
負はないですむといふ特典を持つてゐる。その点は芝居の観客も同様だが、小説が芝居とちがふ点は、もし
単なる享受が人生における倫理的空白を容認することであれば、いくらでも長篇でありうる小説といふジャンルは、
芝居よりもずつと長時間にわたつて、読者の人生を支配するので、(あらゆる時間芸術のうちで、長篇小説は
いちばん人生経験によく似たものを与へるジャンルである)、人々は次第に、その倫理的空白に不安になつて、
つひに自分の人生に対するのと同じ倫理的関係を、小説に対して結ぶにいたることがないではない。

三島由紀夫「小説とは何か 一」より

313 :名無しさん@また挑戦:2011/03/03(木) 21:47:23.36 ID:???
バルザックが病床で自分の作中の医者を呼べと叫んだことはよく知られてゐるが、作家はしばしばこの二種の現実を
混同するものである。しかし決して混同しないことが、私にとつては重要な方法論、人生と芸術に関するもつとも
本質的な方法論であつた。(中略)
私のやうな作家にとつては、書くことは、非現実の霊感にとらはれつづけることではなく、逆に、一瞬一瞬自分の
自由の根拠を確認する行為に他ならない。その自由とはいはゆる作家の自由ではない。私が二種の現実のいづれかを、
いついかなる時点においても、決然と選択しうるといふ自由である。この自由の感覚なしには私は書きつづける
ことができない。選択とは、簡単に言へば、文学を捨てるか、現実を捨てるか、といふことであり、その際どい
選択の保留においてのみ私は書きつづけてゐるのであり、ある瞬間における自由の確認によつて、はじめて
「保留」が決定され、その保留がすなはち「書くこと」になるのである。この自由抜き選択抜きの保留には、
私は到底耐へられない。

三島由紀夫「小説とは何か 十一」より

314 :名無しさん@また挑戦:2011/03/03(木) 21:51:46.54 ID:???
「暁の寺」を脱稿したときの私のいひしれぬ不快は、すべてこの私の心理に基づくものであつた。何を大袈裟なと
言はれるだらうが、人は自分の感覚的真実を否定することはできない。すなはち、「暁の寺」の完成によつて、
それまで浮遊してゐた二種の現実は確定せられ、一つの作品世界が完結し閉ぢられると共に、それまでの作品外の
現実はすべてこの瞬間に紙屑になつたのである。私は本当のところ、それを紙屑にしたくなかつた。それは私に
とつての貴重な現実であり人生であつた筈だ。しかしこの第三巻に携はつてゐた一年八ヶ月は、小休止と共に、
二種の現実の対立・緊張の関係を失ひ、一方は作品に、一方は紙屑になつたのだつた。それは私の自由でもなければ、
私の選択でもない。作品の完成といふものはさういふものである。それがオートマティックに、一方の現実を
「廃棄」させるのであり、それは作品が残るために必須の残酷な手続である。

三島由紀夫「小説とは何か 十一」より

315 :名無しさん@また挑戦:2011/03/03(木) 21:56:44.39 ID:???
私はこの第三巻の終結部が嵐のやうに襲つて来たとき、ほとんど信じることができなかつた。それが完結することが
ないかもしれない、といふ現実のはうへ、私は賭けてゐたからである。この完結は、狐につままれたやうな
出来事だつた。「何を大袈裟な」と人々の言ふ声が再びきこえる。作家の精神生活といふものは世界大に大袈裟な
ものである。
(中略)
しかしまだ一巻が残つてゐる。最終巻が残つてゐる。「この小説がすんだら」といふ言葉は、今の私にとつて
最大のタブーだ。この小説が終つたあとの世界を、私は考へることができないからであり、その世界を想像することが
イヤでもあり怖ろしいのである。そこでこそ決定的に、この浮遊する二種の現実が袂を分ち、一方が廃棄され、
一方が作品の中へ閉ぢ込められるとしたら、私の自由はどうなるのであらうか。唯一ののこされた自由は、その
作品の「作者」と呼ばれることなのであらうか。あたかも縁もゆかりもない人からたのまれて、義理でその人の子の
名付け親になるやうに。

三島由紀夫「小説とは何か 十一」より

316 :名無しさん@また挑戦:2011/03/03(木) 22:09:28.49 ID:???
(中略)
吉田松陰は、高杉晋作に宛てたその獄中書簡で、
「身亡びて魂存する者あり、心死すれば生くるも益なし、魂存すれば亡ぶるも損なきなり」
と書いてゐる。
この説に従へば、この世には二種の人間があるのである。心が死んで肉体の生きてゐる人間と、肉体が死んで
心の生きてゐる人間と。心も肉体も両方生きてゐることは実にむづかしい。生きてゐる作家はさうあるべきだが、
心も肉体も共に生きてゐる作家は沢山はゐない。作家の場合、困つたことに、肉体が死んでも、作品が残る。
心が残らないで、作品だけが残るとは、何と不気味なことであらうか。又、心が死んで、肉体が生きてゐるとして、
なほ心が生きてゐたころの作品と共存して生きてゆかねばならぬとは、何と醜怪なことであらう。作家の人生は、
生きてゐても死んでゐても、吉田松陰のやうに透明な行動家の人生とは比較にならないのである。生きながら
魂の死を、その死の経過を、存分に味はふことが作家の宿命であるとすれば、これほど呪はれた人生もあるまい。
「何を大袈裟な」と笑ふ声が三度きこえる。

三島由紀夫「小説とは何か 十一」より

317 :名無しさん@また挑戦:2011/03/04(金) 11:50:40.95 ID:???
ドストエフスキーの「罪と罰」を引張り出すまでもなく、本来、芸術と犯罪とは甚だ近い類縁にあつた。
「小説と犯罪とは」と言ひ直してもよい。小説は多くの犯罪から深い恩顧を受けてをり、「赤と黒」から
「異邦人」にいたるまで、犯罪者に感情移入をしてゐない名作の数は却つて少ないくらゐである。
それが現実の犯罪にぶつかると、うつかり犯人に同情しては世間の指弾を浴びるのではないか、といふ思惑が
働らくやうでは、もはや小説家の資格はないと云つてよいが、さういふ思惑の上に立ちつつ、世間の金科玉条の
ヒューマニズムの隠れ簑に身を隠してものを言ふのは、さらに一そう卑怯な態度と云はねばならない。そのくらゐなら
警察の権道的発言に同調したはうがまだしもましである。
さて、犯罪は小説の恰好の素材であるばかりでなく、犯罪者的素質は小説家的素質の内に不可分にまざり合つてゐる。
なぜならば、共にその素質は、蓋然性の研究に秀でてゐなければならぬからであり、しかもその蓋然性は法律を
超越したところにのみ求められるからである。

三島由紀夫「小説とは何か 十二」より

318 :名無しさん@また挑戦:2011/03/04(金) 11:54:23.94 ID:???
法律と芸術と犯罪と三者の関係について、私はかつて、人間性といふ地獄の劫火の上の、餅焼きの網の比喩を
用ひたことがあるが、法律はこの網であり、犯罪は網をとび出して落ちて黒焦げになつた餅であり、芸術は適度に
狐いろに焼けた喰べごろの餅である、と説いたことがあつた。いづれにしても、地獄の劫火の焦げ跡なしに、
芸術は成立しない。
(中略)
悪は、抽象的な原罪や、あるひは普遍的な人間性の共有の問題であるにとどまらない。きはめて孤立した、
きはめて論証しにくい、人間性の或る未知の側面に関はつてゐる筈である。私はアメリカで行はれた凶悪暴力犯人の
染色体の研究で、男性因子が普通の男よりも一個多い異型が、これらの中にふつうよりもはるかに多数発見されたと
いふ記事を読んだとき、戦争といふもつとも神秘な問題を照らし出す一つの鍵が発見されたやうな気がした。
それは又裏返せば、男性と文化創造との関係についても、今までにない視点を提供する筈である。

三島由紀夫「小説とは何か 十二」より

319 :名無しさん@また挑戦:2011/03/04(金) 14:31:45.32 ID:???
文学と狂気との関係は、文学と宗教との関係に似たところがある。ヘルダーリンの狂気も、ジェラアル・ド・
ネルヴァルの狂気も、ニイチェの狂気も、ふしぎに昂進するほど、一方では極度に孤立した知性の、澄明な高度の
登攀(とうはん)のありさまを見せた。何か酸素が欠乏して常人なら高山病にかかるに決まつてゐる高度でも、
平気で耐へられるやうな力を、(ほんの短かい期間ではあるが)、狂気は与へるらしいのである。
(中略)
分裂病の進行が、往々あるやうに、殺人や自殺に終つても、それを厳密な意味でクライマックスと呼ぶことは
できないであらう。こちら側から見れば、危険な反社会性の現実化であり、一つの社会事件としてのクライマックスで
あつても、向う側から見れば、さらに進行する経過の上の偶発的事件であるにすぎないからである。
(中略)
しかるに、狂気は、その進行過程において、つひに必然的クライマックスを持たない。必然的クライマックスとは
「物化」「自己物質化」であつて、常人の側からは「死」と同じことである。

三島由紀夫「小説とは何か 十三」より

320 :名無しさん@また挑戦:2011/03/04(金) 14:38:26.51 ID:???
狂人の自殺は二重の意味を持つ。すなはち、自己物質化を狂気が達成しうるのに、さらに死によつてその達成を
助けることだからである。一方、狂人の殺人は、その反社会性によつて社会とは一見対立関係に立つやうだけれども、
法も亦責任能力を免除してゐるやうに、厳密な一対一の対立関係は成立しない。「きちがひに刃物」とはよく
言つたもので、狂人に殺された人間は、社会の用語によれば「事故死」なのである。
このやうな偶然性の体現、自己の行為を偶然化されること、そのこと自体が、自己物質化の進行と浸潤を意味する。
なぜなら、偶然とは「物」の特質だからである。これを宗教の用語で言へば、偶然とは「神」の本質であらう。
すなはち人間的必然を超えたところにあらはれる現象は、神の領域に他ならないからである。
(中略)
狂気と正常な社会生活との並行関係乃至離反のプロセスだけが、小説の題材になりうる。

三島由紀夫「小説とは何か 十三」より

321 :名無しさん@また挑戦:2011/03/04(金) 14:41:49.86 ID:???
狂気の困つた特色は、その本質が反社会性にあるのではなくて、狂気の論理自体にしか本質がないのにもかかはらず、
狂人の幻想には社会生活の残滓が、(もつとも低俗なものをも含めて)、横溢してゐるといふことなのである。
このことは、前回の犯罪の問題と比べてみるとよくわかるだらう。犯罪的素因を先天性のものと考へるロムブロゾオ
などの諸説はともかく、犯罪はその本質を反社会性に持つてゐる。なぜなら犯罪を正当化する最高の論理は、
政治的犯罪と非政治的犯罪とにかかはらす、われわれが自己の社会を正当化する論理と同じ次元に立つてゐる
からである。このことが、小説の題材として、古来、狂気よりも犯罪が親しまれてきた一因であらう。
われわれが殺人を許容しない社会に住んでゐることは、一種の社会契約によつて、われわれ自身の殺人をも
許容されないものにしてしまつてゐるわけだが、狂気はあくまで病気の一種であり、人間の自由意志とは関係が
ないから、いかに狂気が危険でも、われわれ自身が発狂することは許されてゐるのである。

三島由紀夫「小説とは何か 十三」より

322 :名無しさん@また挑戦:2011/03/04(金) 14:44:41.37 ID:???
これは一見ヘンな論理だと思はれるであらう。しかしここには小説の大切な問題がひそんでゐる。
なぜなら、小説も芸術の一種である以上、主題の選択、題材の選択、用語の選択、あらゆるものに、作者の意志が
かかり、精神がかかり、肉体がかかつてゐる。われわれはそれを不可測の神の意志、あるひは狂気の偶然の意志に
委ねるわけには行かないのである。なるほどソクラテスはその哲学をデエモンの霊感によつて得た。しかし、
ソクラテスは狂気には陥らなかつた。
選択それ自体が自由意志の問題を抱へ込んでをり、小説は、「自由意志」といふ信仰の極限的実験であつたとも
いへる。この社会の要求する社会契約も、倫理的制約も、すべて自由意志自身の責任において乗り超え踏み
破らうとする仮構であつた。
ひとたびここへ狂気の問題を導入すると、この根本的なメカニズムにひびが入つてしまふのである。自由意志が
否定されたところで、どうして小説世界の構築性といふ、自由意志の精華のやうなものが具現されるであらうか。

三島由紀夫「小説とは何か 十三」より

323 :名無しさん@また挑戦:2011/03/04(金) 17:38:24.90 ID:???
小説とは何か、といふ問題について、無限に語りつづけることは空しい。小説自体が無限定の鵺(ぬえ)のやうな
ジャンルであり、ペトロニウスの昔から「雑俎(サテュリコン)」そのものであつたのだから、それはほとんど、
人間とは何か、世界とは何か、を問ふに等しい場所に連れて行かれる。そこまで行けば「小説とは何か」を
問ふことが、すなはち小説の主題、いや小説そのものになるのであり、プルウストの「失はれし時を求めて」は、
そのやうな作品だつた。概して近代の産物である小説の諸傑作は、ほとんど「小説とは何か」の、自他への
問ひかけであつた、と云つても過言ではない。小説はかくて、永久に、世界観と方法論との間でさまよひつづける
ジャンルなのである。その彷徨とその懐疑とを失つた小説は、厳密な意味で小説と呼ぶべきでないかもしれない。
そこで小説とは、小説について考へつづける人間が、小説とは何かを模索する作業だ、と云つてしまへば、
技術的定義に偏して、重要な何ものかを逸してしまふ、といふところに、又、小説の怪物性がある。

三島由紀夫「小説とは何か 十四」より

324 :名無しさん@また挑戦:2011/03/06(日) 20:17:51.67 ID:???
「土耳古(トルコ)人の学校」

私の家の横にある坂を登つて細い道を真直に行くと、剥げた水色の番瀝青(ペンキ)に飾られた貧しい垣と
低い門が有る。其の門柱には墨で描いたのか殆ど見えない様な字がある。上方のは、土耳古回々教学校とどうにか
読めるが、下の方の奇妙な外国語がちよいちよいと顔を出して大抵消えてゐる。木造の洋風家屋は殺風景な庭の
一隅にあつて、二階は寄宿舎で階下は教室らしい。
日曜など、八時頃に起きて散歩に来て見ると、土耳古人の子等がどやどやと入つて行く。日曜だから御説教でも
聞くのであらう。昼過ぎになると出て来る。
寄宿舎に居るものは、かなり小人数らしい。女の児の方が多いが、男の子も少なからず居る。併し、彼等は実に
哀れな身装(みなり)をして居るのである。バンドのない状袋の様な洋服や、男の子達は短い皴くちやなズボンを
はき、見悪(みにく)く汚ない上着を着けて居る。時々彼等の口から本国の民謡風のものが唱はれるが、他は
流暢な日本語である。

平岡公威(三島由紀夫)中等科一年、12歳の作文

325 :名無しさん@また挑戦:2011/03/06(日) 20:21:38.07 ID:???
「土耳古(トルコ)人の学校」

或る雨の日、彼等ゴム長靴連の行方を見てゐたら、代々木八幡の方角であつた。何処でどんな暮しを行つて居るのか、
私は彼等の生活の上に好奇心を持つ。又彼等の容貌は云ひ知れぬ愁ひを含んでゐる。其の眼は、五月の空のやうに
蒼く美しいが、眉の奥深く黒い縁にかこまれて冷え切つた荒野の土のやうに沈んでゐる。その頭髪はブロンドも
あれば、稍(やや)鳶色のもあるが、酷く手入を怠つてゐると見え、雀の巣のやうである。疲れ切つてほのかな
紅色を失つた頬。凡て快活な少年少女らしさを失つて居るとはいふものゝ、彼等はよく遊ぶ。
固いボールを以て。
校庭の山羊を相手に。
秋雨の日など、よぼよぼの牝牡の山羊が、ぬれた雑草を食べてゐる。
此の老夫婦の所へ、もう直ぐ小山羊が来るさうである。
山羊は、親しみを湛へた目で私に寄つて来る。

平岡公威(三島由紀夫)中等科一年、12歳の作文

326 :名無しさん@また挑戦:2011/03/07(月) 12:00:57.40 ID:???
「新潮」から愛誦詩を一つ挙げよ、と言つてきた。そこですぐ伊東静雄と答へた。(中略)
なぜ伊東静雄なのか? 俺にとつてあの人の詩句は、着物の中に縫ひ忘れた針のやうに、どこかわからぬが、
突然、過去から針先をつき出して、肌を刺してくる感じがする。どんなに典雅な、たとへば詩集「春のいそぎ」の
中の詩句でもさうなのだ。
伊東静雄の詩は、俺の心の中で、ひどくいらいらさせる美しさを保つてゐる。あの人は愚かな人だつた。
生きのびた者の特権で言はせてもらふが、あの人は一個の小人物だつた。それでゐて、飛切りの詩人だつた。
詩人といふ存在は何と厄介なのだらう。人生でちよつと出会つただけでも、あんな赤むけのした裸の魂が、
それなりに世俗に揉まれながら、生きてゐたといふ感じが耐へがたい気がする。詩人などといふ人間がこの世に
ゐなかつたら、どんなに俺たちは、心を痛めることが少なくてすむだらう。

三島由紀夫「伊東静雄の詩――わが詩歌」より

327 :名無しさん@また挑戦:2011/03/07(月) 12:06:29.63 ID:???
何か俺たちの見たくない不愉快な真実といふものがこの世にはある。しかもその不愉快な真実が、もつとも
美しい一行に結晶してゐるやうな詩を見るのは辛い。それでちつとも俺たちの不愉快は救はれはしない。美しい
詩句になつて、そいつは却つて一そう深く俺たちの心に突き刺さつて残るのだ。何のための記念碑ぞ。
さういふ一句は伊東静雄の詩のはうばうに散見する。
(中略)
俺が声のかぎりに叫んだ場所であの人は冷笑を浮べて黙つてゐた。俺が切実に口をつぐんでゐたときに、あの人は
言つてはならない言葉を言つた。あの人の詩句は、いつもそんな塩梅のものに俺には思はれる。そんな詩句が
これほど美しいのは、殆んど許し難いことだ。
伊東静雄の中からたつた一篇を選ぶとき、俺は、思ひ切つて、「海戦想望」を選んでやらうかと思つてゐた。あの、
「つはものが頬にのぼりし
ゑまひをもみそなはしけむ」
といふ天上的な一句によつて忘れがたい詩だ。しかし俺は敢てこれを捨てた。
俺はもつとも音楽的な、新古今集以来もつともきらびやかな日本語で書かれた、あの、ほとんど意味のない、
空しいほどに明るい燕の詩を選ぶことに決めた。

三島由紀夫「伊東静雄の詩――わが詩歌」より

328 :名無しさん@また挑戦:2011/03/07(月) 12:55:11.75 ID:???
○ 廿年十月四日夜放送のニュースによれば
米情報頒布係長、興行協会長を招いて十月興行を批判し、歌舞伎はじめ、封建的色彩強く、或ひは股旅物等
軍国主義的色彩を払拭し切れず、ポツダム宣言の趣旨に沿ふもの頗る貧困也、須(すべか)らく帰郷兵士等が
新建設にいそしむ様等を描ける新作を上演し、或ひは劇作家を動員してかゝる新作を執筆せしむべきなり、と訓示す。
嗚呼、歌舞伎より封建的色彩と軍国主義をマイナスして何が残る。米国的演劇観よりは解しがたき「技術の演劇」
として歌舞伎を見なければ、彼等によつて歌舞伎並びに歌舞伎役者は廃絶の他はなからう。宣伝演劇の悪弊は
米人御自身よく御存知の筈、演劇に対する不当な干渉は、マックス・ラインハルト等有識者の来朝を待つての後に
してほしい。
(中略)
遂に歌舞伎最後の日が来た。時事新報その他の記事に一月廿日この歴史的事実が発表された。菊五郎は云つて居る。
(中略)
菊五郎にして何といふ意気地のない信念のない役者根性、「上司の指示であれば」といふこの言葉と、日頃の
芸術家気どりとの矛盾がわからないのか。

平岡公威(三島由紀夫)20〜21歳「芝居日記」より

329 :名無しさん@また挑戦:2011/03/08(火) 17:19:27.75 ID:???
若い世代は、代々、その特有な時代病を看板にして次々と登場して来たのであつた。彼らは一生のうちには必ず
癒つて行つた。(と言つても、カルシウムの摂取で病竃を固めてしまつただけのことだが)しかしここに不治の病を
持つた一世代が登場したとしたら、事態はおそらく今までの繰り返しではすまないだらう。その不治の病の名は
「健康」と言ふのであつた。
(中略)
われわれの世代を「傷ついた世代」と呼ぶことは誤りである。虚無のどす黒い膿をしたたらす傷口が精神の上に
与へられるためには、もうすこし退屈な時代に生きなければならない。退屈がなければ、心の傷痍は存在しない。
戦争は決して私たちに精神の傷を与へはしなかつた。
のみならず私たちの皮膚を強靭にした。面の皮もだが、おしなべて私たちの皮膚だけを強靭にした。傷つかぬ魂が
強靭な皮膚に包まれてゐるのである。不死身に似てゐる。

三島由紀夫「重症者の兇器」より

330 :名無しさん@また挑戦:2011/03/08(火) 17:25:34.58 ID:???
(中略)
「芸術」といふあの気恥かしい言葉を、とりわけ作家・批評家にとつてはタブウであるらしいあの言葉を、
臆面もなくしやあしやあと素面で口にするといふ芸当は、われわれ面の皮の厚い世代が草始することになるだらう。
作家は含羞から、批評家は世故から、芸術だの芸術家だのといふ言葉をたやすく口にしなかつた。彼らは素朴な
観念といふものが人を裸かにすることを怖れるあまり、却つてその裏を掻いて、素朴な観念ほど人間の本然の
裸身を偽るものはないといふ教説を流布させた。
「芸術」とは人類がその具象化された精神活動に、それに用ひられた「手」を記念するために与へた最も素朴な
観念である。しかしこの言葉はタブウになると、それは「生」とか「生活」とか「社会」とか「思想」とかいふ
さまざまな言替の言葉で代置された。これらの言葉で人は裸かになりえたか。なりえない。何故なら彼等は
これらの言葉が、この場合、代置としてのみ意味を持たらしめてゐることに気附いてゐないのだから。それに
気附きつつそれに依つた真の選ばれた個性は、日本ではわづかに二三を数へるのみである。

三島由紀夫「重症者の兇器」より

331 :名無しさん@また挑戦:2011/03/08(火) 17:28:30.68 ID:???
私はそのやうな選ばれた人々のみが歩みうる道に自分がふさはしいとする自信をもたない。だから傷つかない魂と
強靭な皮膚の力を借りて、「芸術」といふこの素朴な観念を信じ、それをいはゆる「生活」よりも一段と高所に置く。
だからまた、芸術とは私にとつて私の自我の他者である。私は人の噂をするやうに芸術の名を呼ぶ。それといふのも、
人が自分を語らうとして嘘の泥沼に踏込んでゆき、人の噂や悪口をいふはづみに却つて赤裸々な自己を露呈する
ことのあるあの精神の逆作用を逆用して、自我を語らんがために他者としての芸術の名を呼びつづけるのだ。
これは、西洋中世のお伽噺で、魔法使を射殺するには彼自身の姿を狙つては甲斐なく、彼より二三歩離れた林檎の
樹を狙ふとき必ず彼の体に矢を射込むことができるといふ秘伝の模倣でもあるのである。――端的に言へば、
私はかう考へる。(きはめて素朴に考へたい)生活よりも高次なものとして考へられた文学のみが、生活の真の
意味を明かにしてくれるのだ、と。

三島由紀夫「重症者の兇器」より

332 :名無しさん@また挑戦:2011/03/10(木) 20:16:52.44 ID:???
河、重い雲、星、対岸の大都会、暮色、灯……さういふ詩的な雰囲気が今の東京には全然ないやうです。
マンチェスタアのやうなマニフェクチュア工業の都会の哀愁は「人間の身すぎ世すぎ」「人間のなりはひ」といふ
ものに対する詩的感情から来てゐるのですね。「商業」それも大規模な商業には、人間の集団とその生活が
もたらす深い暮色の香りがたゞよつてゐるやうな気がします。人間が大勢あつまると暮色がたゞよふのです。
(中略)
戦争中、中島飛行場にゐたときも、僕はガウガウ音をたててゐる工場のなかを歩きまはりながら「インダストリーと
いふ雰囲気にはどこかメランコリックなものがあるね」と時代錯誤的な言草で友達を面喰はせたものでした。(中略)
僕はまた、万国博覧会にリボンをつけた硝子罎に入れて陳列されてゐるさまざまな微細な軽工業の商品見本が
好きでした。それは明治時代の国家資本主義の野暮つたい雰囲気と奇妙にマッチしてゐるなつかしさです。
生糸や鉛筆や、さういふ商品からまことに非実用的な蠱惑を僕は受けてゐたのでした。

三島由紀夫「インダストリー――柏原君への手紙」より

333 :名無しさん@また挑戦:2011/03/10(木) 20:21:45.93 ID:???
野暮くさいレッテル、何とかマッチの大箱のレッテル、小学校の教科書のやうな薄暗い画で飾られたレッテルを
僕は愛しました。そのくせ僕はアド・バルーンやネオン・サインはそれほど好きでもなかつたのです。
詩情をよびおこすものは消費面より生産面のはうが多いのではないかといふ僕のドグマティックな想像を裏書する
よい証拠はないものでせうか。それともそれは消費面に育つた都会児のセンチメンタルな憧れにすぎないのでせうか。
僕はビルディングの窓々にともる灯火よりも、工場街の灯火のはうに、深い郷愁をそそるものがあるのを感じます。
それは正にコムミュニズムとは全く無関係な立場でです。昼のサイレンよりも、工場の作業開始のサイレンのはうが、
何故かしら僕のあこがれる世界に近かつたのです。そこでは又しても暗いどよめきの彼方に、汚れた河口や、
並立つ煙突や、曇つた空や、それらの象徴する漠たる人工の苦悩が聳(そび)え立つてくるのでした。

三島由紀夫「インダストリー――柏原君への手紙」より

334 :名無しさん@また挑戦:2011/03/12(土) 13:35:55.98 ID:???
文学に対する情熱は大抵春機発動期に生れてくるはしかのやうなものである。一度女と寝てみたいと少年が
夢みるやうに、一度小説といふものを書いてみたいと、少年は空想する。
(中略)
ニイチェが孔雀のやうなきらびやかな奇警な本をつぎつぎと書いたのは、彼の梅毒初期であつた。それと知らずに
彼自身は自分が天才である証拠としか考へなかつた。しかし芸術家の健康とはかくの如きものである。彼の精神が
最高度の高さと深さと幅において表現される状態が、この一種宙に泛んで透明な自我の構造をすみずみまで
見渡せるやうな状態が芸術家の本当の健康の姿である。生涯にわたつて創造力の朗らかな湧出の尽きない作家とは、
いはば内部のどこかしらに梅毒初期の症状の如きものを恒久的に手なづけてゐる作家であつて、ゲーテのやうな
人間をふつうの意味で健全な悠々たる半神のやうに思ふのは俗見にすぎず、ゲーテはむしろ病症を巧みに固定し
再構成した作家であつた。思春期もまたかくの如きものである。

三島由紀夫「文学に於ける春のめざめ」より

335 :名無しさん@また挑戦:2011/03/12(土) 13:39:36.85 ID:???
われわれは人生を自分のものにしてしまふと、好奇心も恐怖もおどろきも喜びも忘れてしまふ。思春期に於ては
人生は夢みられる。われわれ生きることと夢みることと両方を同時にやることができないのであるが、かういふ
人間の不器用に思春期はまだ気づいてゐない。
(中略)
思春期にある潔癖感は、多く自分を不潔だと考へることから生れてくる。かう考へることは少年たちを安心させるが、
それは自分がまだ人生から拒まれ排斥されてゐるといふ逆説的な怠惰な安堵なのである。谷崎潤一郎氏の「少年」は
この心理の証明であり、「神童」はそれと全く反対の方向の正常な心理の解明である。(中略)
「神童」の主題は、あらゆる思春期の怠惰をもたない勤勉と立身出世の主題でありこの人生における勤勉は、
人生における怠惰の上に成立つてゐた「神童」の名を滅ぼすのであるが、このとき滅びるものは「神童」の
名のみではなく、彼の中にあらゆる抵抗を以て育つてゐた純潔な怠惰、詩の本能もまた滅びるのである。思春期を
殺してしまつた詩人といふものは考へられない。

三島由紀夫「文学に於ける春のめざめ」より

336 :名無しさん@また挑戦:2011/03/12(土) 14:21:03.74 ID:???
別離だから悲しからう、悲しければもたもたするだらう、といふのが浅薄な心理主義と私の呼ぶところのものである。
別離は、劇に於ける超人間的なモメントだといふことが、そこでは完全に忘れ去られてゐる。それは別離を人間の
常態だと説いた哲学からの、なまぬるい離反なのであつた。


そもそも「見られた主体」とは「主張する客体」といふのと同じやうに、不可思議な存在である。戯曲といふ
純粋主体は誰の目にも見えず、俳優といふものの客体的要素が、それを人の目に見せる媒(なかだ)ちをする。
(ラジオ・ドラマでは、肉声が、この客体的要素に当る)。ところで、俳優の客体的要素が高まれば高まるほど、
映画俳優やバレエ・ダンサーのやうに、それはますます、主題を表現する抽象的役割を担ふのである。中では
舞台俳優が、セリフを通じて、もつとも主体的要素を含みつつ、実はその役割は、ますます具体的なものになる。
舞台の上では、裸体ほど抽象的で観念的なものはなく、セリフほど具体的なものはない、といふ逆説が、ここに
明らかになる。

三島由紀夫「芸術断想 舞台のさまざま」より

337 :名無しさん@また挑戦:2011/03/13(日) 12:50:50.47 ID:???
芸術家の値打の分れ目は、死んだあとに書かれる追悼文の面白さで決ると言つてよいが、世間をあげて哀悼の意を
表しても、つまらない追悼文しか書かれない芸術家の死は哀れである。


サルドゥの「トスカ」で、私が主要な俳優たちにしばしば忠告したのは、この種の芝居における登場と退場の
大切さであつた。
役の人物があらはれる一瞬前に、役者が登場しなければならぬ。役の人物が退場した一瞬あとに、役者が
退場しなければならぬ。それがかうしたシアトリカルな芝居の味はひであると私は信じてゐる。
(中略)
つまりかういふ芝居で、観客は、役者と演技との或る一瞬のズレをたのしむのだが、それは必ずしもスタアへの
憧れや、あるひは役者の素顔に対する期待を意味するものではない。まづ存在を見、それから演技を見たいと
望んでゐるのである。それは奇術師の対する期待と似てゐて、一つのおどろくべき能力を見せられる前に、その
能力の容器をじつくり見せてもらひたいのである。

三島由紀夫「芸術断想 猿翁のことども」より

338 :名無しさん@また挑戦:2011/03/13(日) 12:53:58.56 ID:???
能以外の劇は、すべて、運動会のピストルみたいな幼稚な効果にたよつてゐる点で、大きな顔はできない。
「桜の園」の幕切れの有名な効果音も、いくら象徴的な効果を狙つても、この域を出ない。われわれは、劇の
総合的な効果といふものについて、丁度現実の突発的な小事件の連鎖のやうな、因果律の虜になつてゐる。
ピストルを打てば、消音ピストルでなければ、音がしなければ納まらない。しかし遠い花火があのやうに美しいのは、
遅く来る音の前に、あざやかに無言の光りの幻が空中に花咲き、音の来るときはもう終つてゐるからではないだらうか。
光りは言葉であり、音は音楽である。光りを花火と見るときに、音は不要なのだが、あとからゆるゆると来る音は、
もはや花火ではない、花火の追憶といふ別の現実性のイメーヂをわれわれの心に定着しつつ、別の独立な使命を
帯びて、われわれの耳に届くのである。

三島由紀夫「芸術断想 詩情を感じた『蜜の味』」より

339 :名無しさん@また挑戦:2011/03/13(日) 12:58:17.69 ID:???
『真相』なんて、大ていまやかしものに決まつてゐる。いつでもすばらしいのは事件そのもので、それだけなのだ。


「希望は過去にしかない」といふ悲観哲学は、伝統芸能の場合、一種特別な意味合ひを帯び、「昔はよかつた」
といふ言葉にたえず刺戟されないかぎり、芸術的完成はありえないことを、特に若い歌舞伎俳優に銘記して
もらいたいと思ふのである。


低級な剽窃はさておき、小説で模倣の目立つほどの作品は、却つて形式意欲の旺盛な、芸術的な作品に多い。
これから見て、模倣の目立つ絵は、それだけ芸術的に高度な、あるひは高度なものを
目ざした絵であるか、といふと、それはちがふ。絵画では、形式や色彩は、より本質的なものであるから、従つて
形式や色彩は画家の無意識的なものに緊密に結びついてゐるから、その模倣は、一そう低級であつて、第一義を
誤まつてゐる。これに比して、小説の文体その他形式上の模倣は、小説における形式が非本質的かつ知的なもので
あるから、その模倣も、多少とも知的なものと考へられて恕される。

三島由紀夫「芸術断想 期待と失望」より

340 :名無しさん@また挑戦:2011/03/13(日) 14:09:00.45 ID:???
私には、「ワグナーの純粋化」といふ観念そのものが、世にもばからしく思はれたのである。
ワグナーとは、あらゆる純粋性に対する反措定なのだ。その点では、ワグナーは、象徴主義にとつてさへ敵である。
その「綜合」の意識、「全体」の観念には、おそろしく冒涜的な力があつて、その力がもつとも崇高なものから
もつとも猥褻なものまでのあらゆる価値を等しなみにし、そこに彼独特の甘美な怖ろしい毒を、甘美な病気を
ひろめたのであつた。「トリスタン」は、ただ単に官能的だから怖ろしいのでもなく、ただ単に形而上学的だから
崇高なのでもない。そこではバスを待つ人の行列のやうにお互ひに無関心に、官能と形而上学とが一小節づつ
平然と隣り合つて並んでゐる。こんなグロテスクな無差別の最高原理である「綜合」や「全体」が、死神にしか
似てゐないのは当然だらう。死神の鎌の無差別が、人間精神の全体性への嗜慾の象徴になる。それだから
「トリスタン」は怖ろしいのである。「トリスタン」の腐敗の力に、なまなかの純粋精神などが歯が立たないのは
このためなのだ。

三島由紀夫「芸術断想 三流の知性」より

341 :名無しさん@また挑戦:2011/03/13(日) 14:11:37.44 ID:???
芝居とはSHOWであり、見せるもの、示すものである。すべてが観客席へ向つて集約されてゆく作業である。
それだといふのに、舞台から向う側に属する人たちのはうが、観客よりもいつも幸福さうに見えるのは何故だらう。
何故観客席のわれわれは、安楽な椅子を宛はれ、薄闇の中で何もせずに坐つてゐればよく、すべての点で最上の
待遇を受けてゐるのにもかかはらず、どうしてこのやうに疲れ果て、つねに幾分不幸なのであらう。
私は妙な理論だが、こんなことを考へる。つまり人生においても、劇場においても、観客席に坐るといふ人間の
在り方には、何かパッシヴな、不自然なものがあるのである。示されるもの、見せられるものを見る、といふ
状況には、何か忌まはしいものがある。われわれの目、われわれの耳は、自己防衛と発見のためについてゐるので、
本来、お膳立てされたものを見且つ聴くやうにはできてゐないかもしれない。

三島由紀夫「芸術断想 劇場の中の『自然』」より

342 :名無しさん@また挑戦:2011/03/13(日) 14:15:21.83 ID:???
芸術の享受者の立場といふものには、何か永遠に屈辱的なものがある。すべての芸術には、晴朗な悪意、幸福感に
充ちた悪意がひそんでをり、屈辱を喜ぶ享受者を相手にすることをたのしむのである。そのもつとも端的な
あらはれが劇場芸術だと言つてよい。(中略)
劇場とは、どんな形であれ「存在」の仮構であるが、劇が進行するあひだ、俳優が存在を代表し、観客が存在を
放棄してゐるやうなあの状態、(いかに観客が舞台に「参加」してゐるといふ仮説が巧みに立てられようとも)、
あの状態からは、何か人間の幸福といふものに関する空しい教理がひびいてくる。もつと厳密に言へば、俳優は
彼自身の存在を放棄し、彼ならぬ別個の人格の「役」の存在証明にすべてを捧げてゐるからこそ幸福なのであり、
一方観客は、彼自身の存在をあいまいに受動的に保ちつつ、彼以外のものになるあらゆる可能性を、俳優によつて
奪はれてゐるからこそ不幸なのであらう。劇場の暗闇へなど入らぬかぎり、われわれはみなそれぞれの社会で
固有の役割を果してをり、決して「観客」などといふ、十把一トからげの、不名誉な呼称で呼ばれないですむのである。

三島由紀夫「芸術断想 劇場の中の『自然』」より

343 :名無しさん@また挑戦:2011/03/14(月) 12:59:43.23 ID:???
「ざつくばらん」といふ奴も、男の世界の虚栄心の一つだ。


人間は自分一人でゐるときでさへ、自分に対して気取りを忘れない。


つとめて虚心坦懐に、呑気に、こだはりなく、誠実に、たのもしく振舞ふこと、ケチだと思はれないこと。
男の虚栄心は、虚栄心がないやうに見せかけることである。なぜなら虚栄心は女性的なもので、男は名誉心や
面子に従つて行動してゐるつもりであるから、「男の一分が立たねえ」などと云ふときには、云つてゐる御当人は
微塵も虚栄から出た啖呵とは思つてゐない。
古い社会では、男の虚栄心が公的に是認され、公的な意味をつけられてゐた。封建時代の武士の体面や名前といふ
ものがそれである。男性の虚栄心に公的な意味をつけておくことは、社会の秩序の維持のために、大へん有利でも
あるし、安全でもある。金縛りよりもずつと上乗な手段である。

三島由紀夫「虚栄心について」より

344 :名無しさん@また挑戦:2011/03/15(火) 15:42:12.39 ID:???
一フランス人が面白いことを言つた。日本は極東ではなくつて、極西である。中華民国から極東がはじまるのだ、
と言つたのである。ヨーロッパは多くの日本人が想像してゐるよりはずつと遠い。ヨーロッパ的世界にとつて、
極東よりも極西のはうが遠いのである。好むと好まざるとにかかはらず、北米大陸の存在は今後の日本にとつては
宿命的で、ヨーロッパにとつて、日本はアメリカの向う側に位する。


技術も文学や絵と同様に、風土の質や量(ひろさ)と深い関係があり、アメリカの技術は日本の風土に適しない。
それはさうである。しかしヨーロッパの精神文明と、日本の精神文明は、全く対蹠的なものである。(中略)
ある意味において、アメリカの文化は、ヨーロッパ文化の風土を無視した強引な受継であつて、そこでは微妙な
ものも見失はれた代りに、ヨーロッパに堆積してゐるあのおびたゞしい因襲の引継も免れたのである。
同じアメリカぎらひでも、フランスのそれと日本のそれとの間には、大きな相違がある。フランスのアメリカぎらひは、
自分の下手な似顔を描いた絵描きに対する憎悪のやうなものである。

三島由紀夫「遠視眼の旅人 日本は極西」より

345 :名無しさん@また挑戦:2011/03/15(火) 15:44:12.11 ID:???
ニュースの功罪について、僕はいろいろと考へざるをえなかつた。どこの国でも知識階級は疑り深くて、新聞に
書いてあることを一から十まで信じはしない。信じるのは民衆である。しかし或る非常の事態にいたると、
知識階級の観念性よりも、民衆の直感のはうが、ニュースを超えて、事態の真実を見抜いてしまふ。かれらは
自分の生活の場に立つて、蟻が洪水を予感するやうに、しづかに触角をうごめかして現実を測つてゐる。真実な
デマゴオグ(煽動者)といふものが、かうして起る。敗戦間近い日本に起つたやうなあの民衆の本能的不信は、
古代にもたびたび起つた。民衆のあひだにいつのまにか歌はれはじめる童謡が、何らかの政治的変革の前兆と
考へられたのには、理由がある。

三島由紀夫「遠視眼の旅人 大衆の触角」より

346 :名無しさん@また挑戦:2011/03/15(火) 17:22:09.83 ID:???
これ(皮肉〈シニスム〉)が大抵のものを凡庸と滑稽に墜してしまふのは、十九世紀の科学的実証主義にもとづく
自然主義以来の習慣である。私は自意識の病ひを自然主義の亡霊だと考へてゐる。すべてを見てしまつたと
思ひ込んだ人間の迷蒙だと考へてゐる。あらゆる悲哀の裏に滑稽の要素を剔出するのはこの迷蒙の作用である。
いきほひ感情は無力なものになり、情熱は衰へ、何かしらあいまいな不透明なものになり終つた。愛さうとして
愛しえぬ苦悩が地獄の定義だとドストエフスキーは長老ゾシマにいはせたが、近代病のもつとも簡明な定義も
またこれである。
(中略)
悲劇は強引な形式への意慾を、悲哀そのものが近代性から継子扱ひをされるにつれてますます強められ、おのづから
近代性への反抗精神を内包するにいたる。それは近代性の奥底から生み出された古典主義である。喜劇は近代を
のりこえる力がない。(中略)偉大な感情を、情熱を、復活せねばならぬ。それなしには諷刺は冷却の作用を
しかもたないだらう。

三島由紀夫「悲劇の在処」より

347 :名無しさん@また挑戦:2011/03/15(火) 21:42:33.59 ID:???
上田秋成は日本のヴィリエ・ド・リラダンと言つてもよい。苛烈な諷刺精神、ほとんど狂熱的な反抗精神、
暗黒の理想主義、傲岸な美的秩序。加ふるに絶望的な人間蔑視が、一方では「未来のイヴ」となり、一方では
稀代の妖怪譚となつて結実した。
ロボットと妖怪。これは共に人間を愛さうとして愛しえない地獄に陥ちた孤独な作家の、復讐的な創造なのである。
リラダンは作中で、この比類ない創造、失はれた精神の代位とも称すべき無機質の美の具現を、海中の深淵に
投ぜざるを得なかつたし、秋成もまた、幾多の貴重な草稿を、狂気のやうになつて古井戸の中へ投げ入れざるを
得なかつたのである。二人ともに、己れの生涯を賭けた創造の虚しさを知つてゐた。
私はのちにむしろ雨月以後の「春雨物語」を愛するやうになつたが、そこには秋成の、堪へぬいたあとの凝視の
やうな空洞が、不気味に、しかし森厳に定着されてゐるのである。こんな絶望の産物を、私は世界の文学にも
ざらには見ない。

三島由紀夫「雨月物語について」より

348 :名無しさん@また挑戦:2011/03/16(水) 11:59:41.29 ID:???
人の思惑に気をつかふ日本人は、滅多に「私は天才です」などと云へないものだから、天才たちの博引旁捜で
自己陶酔を味はふが、ヨーロッパの芸術家はもつと無邪気に「私は天才です」と吹聴してゐる。自我といふものは
ナイーヴでなければ意味をなさない。


日本の新劇から教壇臭、教訓臭、優等生臭、インテリ的肝つ玉の小ささ、さういふものが完全に払拭されないと
芝居が面白くならない。そのためにはもつと歌舞伎を見習ふがよいのである。演劇とはスキャンダルだ。


後進国の例にもれず、芸術性と啓蒙性がいたるところで混同されてゐる例は、戦時中の御用文学にあらはれ、
今日また平和運動と文学とのあいまいな関聯を皆がつきとめないで甲論乙駁してゐる情景に見られるのである。
フランスの深夜叢書にイデオロギーにとらはれずに多くの文学者が参加したのは、結局その根本的なイデエが、
政治的権力の恣意に対する芸術の純粋性擁護にあつたからだと思はれる。

三島由紀夫「戯曲を書きたがる小説書きのノート」より

349 :名無しさん@また挑戦:2011/03/16(水) 20:12:59.54 ID:???
芸術はすべて何らかの意味で、その扱つてゐる素材に対する批評である。判断であり、選択である。小説の中に
出てくる人間批評だの文明批評だのといふのは末の問題で、小説も芸術である(といふ前提には異論があらうが)
以上、創作衝動がまづ素材にぶつかつて感じる抵抗がなければならない。


文体をもたない批評は文体を批評する資格がなく、文体をもつた批評は(小林秀雄氏のやうに)芸術作品になつて
しまふ。なぜかといふと文体をもつかぎり、批評は創造に無限に近づくからである。多くの批評家は、言葉の
記録的機能を以て表現的機能を批評するといふ矛盾を平気で犯してゐるのである。


小説を総体として見るときに、批評家は読者の恣意の代表者として、それをどう解釈しようと勝手であるが、
技術を問題にしはじめたら最後、彼ははなはだ倫理的な問題をはなはだ無道徳な立場で扱ふといふ宿命を避けがたい。


理解力は性格を分解させる。理解することは多くの場合不毛な結果をしか生まず、愛は断じて理解ではない。


芸術家の才能には、理解力を滅殺する或る生理作用がたえず働いてゐる必要があるやうに思はれる。

三島由紀夫「批評家に小説がわかるか」より

350 :名無しさん@また挑戦:2011/03/16(水) 20:15:28.02 ID:???
芸術はすべて何らかの意味で、その扱つてゐる素材に対する批評である。判断であり、選択である。小説の中に
出てくる人間批評だの文明批評だのといふのは末の問題で、小説も芸術である(といふ前提には異論があらうが)
以上、創作衝動がまづ素材にぶつかつて感じる抵抗がなければならない。


文体をもたない批評は文体を批評する資格がなく、文体をもつた批評は(小林秀雄氏のやうに)芸術作品になつて
しまふ。なぜかといふと文体をもつかぎり、批評は創造に無限に近づくからである。多くの批評家は、言葉の
記録的機能を以て表現的機能を批評するといふ矛盾を平気で犯してゐるのである。


小説を総体として見るときに、批評家は読者の恣意の代表者として、それをどう解釈しようと勝手であるが、
技術を問題にしはじめたら最後、彼ははなはだ倫理的な問題をはなはだ無道徳な立場で扱ふといふ宿命を避けがたい。


理解力は性格を分解させる。理解することは多くの場合不毛な結果をしか生まず、愛は断じて理解ではない。(中略)
芸術家の才能には、理解力を滅殺する或る生理作用がたえず働いてゐる必要があるやうに思はれる。

三島由紀夫「批評家に小説がわかるか」より

351 :名無しさん@また挑戦:2011/03/16(水) 20:59:12.71 ID:???
パリ人はもともと、外国人をみんな田舎者だと思ふ中華思想をもつてゐる。


パリへのあこがれは、小説家へのあこがれのやうなもので、およそ実物に接してみて興ざめのする人種は、
小説家に及ぶものはないやうに、パリへあこがれて出かけるのは丁度小説を読んでゐるだけで満足せずに、
わざわざ小説家の御面相を拝みにゆく読者同様である。パリはつまり、芸術の台所なのである。おもては観光客
目あてに美々しく装うてゐるが、これほど台所的都会はないことに気づくだらう。パリのみみつちさは崇高な
芸術の生れる温床であり、パリの卑しさは芸術の高貴の実体なのである。私はよい芸術が、パリ市民の俗悪に
反抗して生れるから、パリが逆説的に温床だといつてゐるのではない。トーマス・マンもいふやうに、芸術とは
何かきはめていかがはしいものであり、丁度日本の家のやうに床の間のうしろに便所があるやうな、さういふ構造を
宿命的に持つてゐる。これを如実に体現してみせた都会がパリであるから、その独創性はまことに珍重に値ひする。

三島由紀夫「パリにほれず」より

352 :名無しさん@また挑戦:2011/03/16(水) 21:15:14.11 ID:???
詩とは何か? それはむつかしい問題ですが、最も純粋であつてもつとも受動的なもの、思考と行為との窮極の堺、
むしろ行為に近いもの、と云つてよい。「受動的な純粋行為」などといふものがありうるか? 言葉といふものは
ふしぎなもので、言葉は能動的であり、濫用されればされるほど、行為から遠ざかる、といふ矛盾した作用を
もつてゐる。近代の小説の宿命は、この矛盾の上に築かれてゐるのですが、詩は言葉をもつとも行為に近づけた
ものである。従つて、言葉の表現機能としては極度に受動的にならざるをえない。かういふ詩の演劇的表出は、
行為を極度に受動的に表現することによつて、逆に言葉による詩の表現に近づけることができる。簡単に言つて
しまへば、詩は対話では表現できぬ。詩は孤独な行為によつてしか表現できぬ。しかも、その行為は、詩における
言葉と同様に、極度に節約されたものでなければならぬ。言葉が純粋行為に近づくに従つていや増す受動性を、
最高度に帯びてゐなければならぬ。お能の動きは、見事にこの要請に叶つてをります。

三島由紀夫「『班女』拝見」より

353 :名無しさん@また挑戦:2011/03/17(木) 12:39:14.45 ID:???
殿下は、一方日本の風土から生じ、一方敗戦国の国際的地位から生じる幾多の虚偽と必要悪とに目ざめつつ、
それらを併呑して動じない強さを持たれることを、宿命となさつたのである。偽悪者たることは易しく、反抗者たり
否定者たることはむしろたやすいが、あらゆる外面的内面的要求に飜弄されず、自身のもつとも蔑視するものに
万全を尽くすことは、人間として無意味なことではない。「最高の偽善者」とはさういふことであり、物事が
決して簡単につまらなくなつたりしてしまはない人のことである。


殿下の持つてをられる自由は、われわれよりはるかに乏しいが、人間は自由を与へられれば与へられるほど
幸福になるとは限らないことは、終戦後の日本を見て、殿下にもよく御承知であらう。殿下は人間がいつも
夢みてゐる、自由の逆説としての幸福を生きてをられるので、いかに御自身を不幸と思はれるときがあつても、
御自身を多くの人間が考へてゐる幸福といふ逆説だとお考へになつて、いつも晴朗な態度を持しておいでになる
ことが肝要である。

三島由紀夫「最高の偽善者として――皇太子殿下への手紙」より

354 :名無しさん@また挑戦:2011/03/17(木) 14:15:03.53 ID:???
大学新聞にはとにかく野生がほしい。野生なき理想主義は、知性なきニヒリズムより数倍わるくて汚ならしい。

三島由紀夫「野生を持て――新聞に望む」より


「後悔せぬこと」――これはいかなる時代にも「最後の者」たる自覚をもつ人のみが抱きうる決心である。
浅間しい戦後文学の一系列が、ほしいまま跳梁を示してゐるなかに、最後の者、最後の貴族の生みえたまことの
芸術が、失はれた星の壮麗を復活させようとする決心に、後悔はありえない。

三島由紀夫「跋(坊城俊民著「末裔」)」より


理想は狂熱に、合理主義は打算に、食慾はお腹下しに、真面目は頑迷に、遊び好きは自堕落に、意地悪は
ヒステリーに紙一重の美徳でありますから、その紙一重を破らぬためには、やはり清潔な秩序の精神が、
まばゆいほど真白なエプロンが、いつもあなたがたの生活のシンボルであつてほしいと思ひます。

三島由紀夫「女学生よ白いエプロンの如くあれ」より

355 :名無しさん@また挑戦:2011/03/17(木) 14:29:22.03 ID:???
あらゆる芸術作品は完結されない美であるが、もし万一完結されるときそれは犯罪となるのである。
犯罪、殊に殺人のやうな行為には、創造のもつ本質的な超倫理性の醜さが見られ、犯人は人間の登場すべからざる
「事実」の領域へ足を踏み入れたことによつて罰せられるのだ。だからあらゆる犯罪者の信条には、何かきはめて
健康なものがある。

三島由紀夫「画家の犯罪――Pen, Pencil and Poison の再現」より


衒気(げんき)のなかでいちばんいやなものが無智を衒(てら)ふことだ。

三島由紀夫「戦後観客的随想――『ああ荒野』について」より


人間の道徳とは、実に単純な問題、行為の二者択一の問題なのです。善悪や正不正は選択後の問題にすぎません。
道徳とはいつの場合も行為なんです。


自意識が強いから愛せないなんて子供じみた世迷ひ言で、愛さないから自意識がだぶついてくるだけのことです。

三島由紀夫「一青年の道徳的判断」より

356 :名無しさん@また挑戦:2011/03/17(木) 14:37:37.52 ID:???
真の技術といふものはそれ自身一つの感動なのである。そこではもはや伝達の意識は失はれる。俳優が一個の
機械になる。人形劇や仮面劇との差は、この無限の無内容を内に秘めた人間の肉体の或る実在的な内容に
すぎなくなる。それが顔であり面であり、姿であり、柄であり、景容であるのである。そこではじめて「典型」が
成就される。


歌舞伎とは魑魅魍魎の世界である。その美は「まじもの」の美でなければならず、その醜さには悪魔的な蠱惑が
なければならない。

三島由紀夫「中村芝翫論」より


物語は古典となるにしたがつて、夢みられた人生の原型になり、また、人生よりももつと確実な生の原型に
なるのである。
それはまだ人生の手前にゐる人には、夢の総称になり、いくらかでも人生を生きたといふことのできる人に
とつては、その追憶の確証になつた。
その後現実感の見失はれる不安な時代には、源氏物語は、なほかつ必ずどこかに存在すると信じられてゐる
「現実」の呼名になつた。その「現実」の象徴になつた。そしてそれこそは古典の本来の職分なのである。

三島由紀夫「源氏物語紀行――『舟橋源氏』のことなど」より

357 :名無しさん@また挑戦:2011/03/17(木) 14:43:36.73 ID:???
創作のよろこびと同様、批評のよろこびも、私にとつては美と真実の発見のおどろきを述べることにすぎない。
私が自分の好きな書物について、何故それが好きかといふことを綿々とのべるのは、私の快楽なのである。

三島由紀夫「戸板康二氏の『歌舞伎の周囲』」より


そもそも作品以外のどこに作者の本音があるだらう。附け加へた言葉は整形手術のやうなものである。鼻のひくい
おかめ面の作品を書いておいて、「作者の言葉」で整形手術的言辞を弄する。神の与へた容貌の一部の変改は、
自然の調和をやぶつて、もつとをかしなものにしてしまふにきまつてゐる。いきほひ舞台を見てゐても、むりに
高くした鼻ばかり目について、顔全体が見えなくなる。せつかく粋な目もとの持主が、不自然に盛り上げた鼻の
おかげで、相殺されてしまふ。かさねがさねも整形手術は施すまじきことである。

三島由紀夫「作者の言葉(『灯台』初演について

358 :名無しさん@また挑戦:2011/03/17(木) 14:50:23.50 ID:???
われわれが住んでゐる時代は政治が歴史を風化してゆくまれな時代である。歴史が政治を風化してゆく時代が
どこかにあつたやうに考へるのは、錯覚であり幻想であるかもしれない。しかし今世紀のそれほど、政治および
政治機構が自然力に近似してゆく姿は、ほかのどの世紀にも見出すことができない。古代には運命が、中世には
信仰が、近代には懐疑が、歴史の創造力として政治以前に存在した。ところが今では、政治以前には何ものも
存在せず、政治は自然力の代弁者であり、したがつて人間は、食あたりで床について下痢ばかりしてゐる無力な
患者のやうに、しばらく(であることを祈るが)彼自身の責任を喪失してゐる。

三島由紀夫「天の接近――八月十五日に寄す」より


これつぽつちの空想も叶へられない日本にゐて、「先生」なんかになりたくなし。

三島由紀夫「作家の日記」より


私の詩に伏字が入る! 何といふ光栄だらう。何といふ素晴らしい幸運だらう。

三島由紀夫「伏字」より

359 :名無しさん@また挑戦:2011/03/17(木) 14:57:01.88 ID:???
作家はどんな環境とも偶然にぶつかるものではない。

三島由紀夫「面識のない大岡昇平氏」より


理想主義者はきまつてはにかみやだ。

三島由紀夫「武田泰淳の近作」より


簡潔とは十語を削つて五語にすることではない。いざといふ場合の収斂作用をつねに忘れない平静な日常が、
散文の簡潔さであらう。

三島由紀夫「『元帥』について」より


伝説や神話では、説話が個人によつて導かれるよりも、むしろ説話が個人を導くのであつて、もともとその個人は
説話の主題の体現にふさはしい資格において選ばれてゐるのである。


己れを滅ぼすものを信じること、これは宿命に手だすけすることによつて宿命を暗殺する方法である。宿命に
手だすけする代償として、宿命を信じる義務を免かれる行き方である。浪漫主義者の生活の理念は、ともすると
この種の免罪符をもつてゐる。

三島由紀夫「檀一雄の悲哀」より

360 :名無しさん@また挑戦:2011/03/17(木) 15:05:38.64 ID:???
小説のヒーローまたはヒロインは、必然的に作者自身またはその反映なのである。ボヴァリイ夫人は私だ、と
フロベェルがいつたといふ話は、耳にタコのできるほどくりかへされる噂である。同時に、雪子は私だ、と
潤一郎はいふであらう。雪子は作者の全美学体系の結晶であり、これに捧げられた作者自身の自己放棄の反映である。

三島由紀夫「世界のどこかの隅に――私の描きたい女性」より


主人公や女主人公とウマが合ふか合はないかで、その小説が好きになるかならないかは、半ば決つてしまふ。

三島由紀夫「私の好きな作中人物――希臘から現代までの中に」より


君の考へが僕の考へに似てゐるから握手しようといふほど愚劣なことはない。それは野合といふものである。
われわれの考へは偶発的に、あるひは偶然の合致によつて似、一致するのではなく、また、体系の諸部分の
類似性によつて似るのではない。われわれの考へは似るべくして似る。それは何ら連帯ではなく、共同の主義
及至は理想でもない。

三島由紀夫「新古典派」より

361 :名無しさん@また挑戦:2011/03/17(木) 15:18:56.99 ID:???
小説家には自分の気のつかない悪癖が一つぐらゐなければならぬ。気がついてゐては、それは悪でも背徳でもなく、
何か八百長の悪業、却つてうすぼんやりした善行に近づいてしまふ。

三島由紀夫「ジイドの『背徳者』」より


われわれが孤独だといふ前提は何の意味もない。生れるときも一人であり、死ぬときも一人だといふ前提は、
宗教が利用するのを常とする原始的な恐怖しか惹き起さない。ところがわれわれの生は本質的に孤独の前提を
もたないのである。誕生と死の間にはさまれる生は、かかる存在論的な孤独とは別箇のものである。

三島由紀夫「『異邦人』――カミュ作」より


愛慾の空しさなどといふものは、人間が演ずると、奇妙な、時には奇怪なものになりがちである。文学としての
「輪舞」は、何の説明がなくても、作者のシニシズムが納得されるが、映画の「輪舞」は、肝腎の役者たちが
生身の愛慾の場面を演じ、その限りで、肉慾そのものの誠実さのはうが、強く前面に押し出されざるをえない。

三島由紀夫「映画『輪舞(ロンド)』のこと」より

362 :名無しさん@また挑戦:2011/03/17(木) 15:23:26.52 ID:???
老夫妻の間の友情のやうなものは、友情のもつとも美しい芸術品である。


一面からいへば友情と恋愛を峻別することは愚かな話で、もしかすると友情と恋愛とは同一の生理学的基礎に
立つものかもしれない。
長い間続く親友同志の間には、必ず、外貌あるひは精神の、両性的対象がある。

三島由紀夫「女の友情について」より


大体イヴニングを着てダンサーに見えない女は、日本人では、よほどの気品と育ちのよさの備はつた女か、
それともよほどのおばあさんかどちらかである。

三島由紀夫「高原ホテル」より


私はまだ酒に情熱を抱くにいたらない。時々仕事の疲労から必要に迫られて呑むことがある。趣味はある場合は
必要不可欠のものである。しかし必要と情熱とは同じものではない。私の酒が趣味の域にとどまつてゐる所以であらう。

三島由紀夫「趣味的の酒」より


女の美しさといふものは一国の文化の化身に他ならず、女性は必ずしも文化の創造者ではないが、男性によつて
完成された文化を体現するのに最適の素質を備へてゐる。

三島由紀夫「映画『処女オリヴィア』」より

363 :名無しさん@また挑戦:2011/03/17(木) 20:04:40.22 ID:???
作品といふものは作者の身幅に合つた衣裳であつてはならない。自分自身になり切つたとき作者は死ぬのである。
ところが作者の身幅に合つた衣裳は、あたかも作者が自分自身になり切つてゐるかのやうな錯覚を読者に与へる。
自分自身になり切つたら作品は書けない筈なのを、なほかつ、自分自身になり切つたかのごとき作品が存在するのは
をかしい。そこには何かまやかしがなければならない。そのまやかしとは、作者と作中の主人公が同一人で
あるといふトリックだ。私小説が非難されるのはこの点であらう。尤も私は志賀直哉氏の暗夜行路などは、
いはゆる私小説だと考へてゐない。
たとへば禅が不立文字をとなへるのは、禅といふものが、「自己自身になりきること」を直接の道標とするからで
あらう。自己自身になりきることが一生の道標である点では、文学もかはりがない。ただそれが直接の道標では
ないだけである。直接の道標であれば作品は要らない。

三島由紀夫「極く短かい小説の効用」より

364 :名無しさん@また挑戦:2011/03/17(木) 20:08:03.07 ID:???
一生の果てに、瀕死の瞬間に、自己自身になりきらうと目指す文学がある。それを純粋な文学と私は呼ばう。
白鳥は末期の一声を美しく歌はうがために、一生を沈黙のうちに暮すといふ。作家は末期の瞬間に自己自身に
なりきつた沈黙を味はふがために一生を語りつづけ喋りつづける。白鳥の一生の沈黙と、作家の一生の饒舌と、
それは畢竟同じものである。


安易に自己自身になりきれるかのやうな無数のわなからのがれるために、純粋な作家は遠まはりを余儀なくされる。
それも誰よりも遠い、一番遠い遠まはりを。――従つて純粋な作家の方法論は、不純のかたまりでなければならぬ。
さうでなければ、その純粋さは贋ものである。一つの純粋さのために千の純粋さが犠牲にされねばならぬ。

三島由紀夫「極く短かい小説の効用」より

365 :名無しさん@また挑戦:2011/03/18(金) 12:40:12.91 ID:???
なぜ自分が作家にならざるを得ないかをためしてみる最もよい方法は、作品以外のいろいろの実生活の分野で活動し、
その結果どの活動分野でも自分がそこに合はないといふ事がはつきりしてから作家になつておそくない。


小説家はまづ第一にしつかりした頭をつくる事が第一、みだれない正確な、そしていたづらに抽象的でない、
はつきりした生活のうらづけのある事が必要である。何もかもむやみに悲しくて、センチメンタルにしか物事を
見られないのは小説家としても脆弱である。


バルザックは毎日十八時間小説を書いた。本当は小説といふものはさういふふうにしてかくものである。詩のやうに
ぼんやりインスピレーションのくるのを待つてゐるものではない。このコツコツとたゆみない努力の出来る事が
小説家としての第一条件であり、この努力の必要な事に於ては芸術家も実業家も政治家もかはりないと思ふ。
なまけものはどこに行つても駄目なのである。

三島由紀夫「作家を志す人々の為に」より

366 :名無しさん@また挑戦:2011/03/18(金) 12:45:04.79 ID:???
空襲のとき、自分の家だけは焼けないと思つてゐた人が沢山をり自分だけは死なないと思つてゐた人がもつと
沢山ゐた。かういふ盲目的な生存本能は、何かの事変や災害の場合、人間の最後の支へになるが、同時に、
事変や災害を防止したり、阻止したりする力としてはマイナスに働く。(中略)
また逆に、自分の家だけが焼け自分だけが死ぬといふ確信があつたとしたら、人は事変や災害を防止しようとせずに、
ますます我家と我身だけを守らうとするだらうし、自分だけは生残ると思つてゐる虫のよい傍観者のはうが、
まだしも使ひ物になることだらう。
本当に生きたいといふ意思は生命の危機に際してしか自覚されないもので、平和を守らうと言つたつて安穏無事な
市民生活を守らうといふ気にはなかなかなれるものではないのである。生命の危機感のない生活に対して人は結局
弁護の理由を失ふのである。貧窮がいつも生活の有力な弁護人として登場する所以である。

三島由紀夫「言ひがかり」より

367 :名無しさん@また挑戦:2011/03/20(日) 12:41:22.43 ID:???
能は、いつも劇の終つたところからはじまる、と私はかねて考へてゐた。(中略)
能がはじまるとき、そこに存在するのは、地獄を見たことによつて変質した優雅である。芸術といふものは特に
このやうなものに興味を持つ。芸術家は狐のやうに、この特殊な餌を嗅ぎ当てて接近する。それは芸術の本質的な
悪趣味であり、イロニイなのだ。
(中略)
優雅と、血みどろな人間の実相と、宗教と、この三つのものが、「大原御幸」の劇を成立させてをり、かつ文化の
究極のドラマ形態を形づくつてゐる。この一つが欠ければ、他の二つも無用になるといふ具合に。
ところで、現代はいかなる時代かといふのに、優雅は影も形もない。それから、血みどろな人間の実相は、
時たま起る酸鼻な事件を除いては、一般の目から隠されてゐる。病気や死は、病院や葬儀屋の手で、手際よく
片附けられる。宗教にいたつては、息もたえだえである。……芸術のドラマは、三者の完全な欠如によつて、
煙のやうに消えてしまふ。

三島由紀夫「変質した優雅」より

368 :名無しさん@また挑戦:2011/03/20(日) 12:47:24.76 ID:???
かうした芸術の成立の困難は、女院が味はつたやうな困難とはちがふ。女院が、変質した優雅をもてあまして、
表現と体験の板ばさみになつてしまつたやうな事情とはちがふ。むしろ、現代の問題は、芸術の成立の困難には
なくて、そのふしぎな容易さにあることは、周知のとほりである。
それは軽つぽい抒情やエロティシズムが優雅にとつて代はり、人間の死と腐敗の実相は、赤い血のりをふんだんに
使つたインチキの残酷さでごまかされ、さらに宗教の代りに似非論理の未来信仰があり、といふ具合に、三者の
代理の贋物が、対立し激突するどころか、仲好く手をつなぐにいたる状況である。
そこでは、この贋物の三者のうち、少くとも二者の野合によつて、いとも容易に、表現らしきもの、芸術らしきもの、
文学らしきものが生み出される。かくてわれわれは、かくも多くのまがひものの氾濫に、悩まされることに
なつたのである。

三島由紀夫「変質した優雅」より

369 :名無しさん@また挑戦:2011/03/20(日) 13:09:57.31 ID:???
足るを知る人間なんか誰一人ゐないのが社会で、それでこそ社会は生成発展するのである。
実際、空虚な目標であれ、目標をめざして努力する過程にしか人間の幸福が存在しないとすれば、よほどぐうたらな
息子でない限り、学校の勉強や入試を通じて、苛酷な生存競争に立ちまじつてゆくことを選ぶにちがひない。


知力に、意志力に、体力が加はれば、どんな分野でも鬼に金棒だが、この三者の調和をとることがいかに困難で
あるかは、父自身がよく味はつてきたことなのだ。


男としての自覚を持つために、肉体的勇気が必要である。これも父自身が永年考へてきたことである。男は
どんな職業についても、根本に膂力の自信を持つてゐなくてはならない。なぜなら世間は知的エリートだけで
動いてゐるのではなく、無知な人間に対して優越性を証明するのは、肉体的な力と勇気だけだからだ。

三島由紀夫「小説家の息子」より

370 :名無しさん@また挑戦:2011/03/20(日) 17:39:31.17 ID:???
映像はいつも映画作家の意志に屈服するとは限らぬことは、言葉がいつも小説家の意志に屈服するとは限らぬと
同じである。映像も言葉も、たえず作家を裏切る。


われわれの古典文学では、紅葉(もみぢ)や桜は、血潮や死のメタフォアである。民族の深層意識に深く
しみついたこのメタフォアは、生理的恐怖に美的形式を課する訓練を数百年に亘つてつづけて来たので、歴史の
変遷は、ただこの観念聯合の秤のどちらかに、重みをかけることでバランスを保つてきた。戦争中のやうに
多すぎる血潮や死の時代には、人々の心は紅葉や桜に傾き、伝統的な美的形象で、直接の生理的恐怖を消化した。
今日のやうに泰平の時代には、秤が逆に傾いて、血潮や死自体に、観念的美的形象を与へがちになるのは、
当然なことである。かういふことは近代輸入品のヒューマニズムなどで解決する問題ではない。

三島由紀夫「残酷美について」より

371 :名無しさん@また挑戦:2011/03/20(日) 20:07:32.25 ID:???
別に酒を飲んだりごちそうをたべたりしなくても、気の合つた人間同士の三十分か一時間の会話の中には、
人生の至福がひそむといふのが社交の本義である。

三島由紀夫「社交について――世界を旅し、日本を顧みる」より


どんなに平和な装ひをしてゐても「世界政策」といふことばには、ヤクザの隠語のやうな、独特の血なまぐささがある。
概括的な、概念的な世界認識の裏側には必ず水素爆弾がくすぶつてゐるのである。なぜなら、ある人間が、
頭の中で、地球儀のやうな、一望の下に見渡される図式的な世界像を即座に描き出せるといふこと、どんな
凡庸な人間にもそれが可能だといふことには、ゾッとするやうなものがあるからだ。

三島由紀夫「終末観と文学」より


大体、時代といふものは、自分のすぐ前の時代には敵意を抱き、もう一つ前の時代には親しみを抱く傾きがある。

三島由紀夫「明治と官僚」より

372 :名無しさん@また挑戦:2011/03/20(日) 20:17:08.73 ID:???
青春が誤解の時期であるならば、自分の天性に反した文学的観念にあざむかれるほど、典型的な青春はあるまい。
またその荒廃の過程ほど典型的な荒廃はあるまい。しかもそのあざむかれた自分を、一つの個性として全的に
是認すること。……これは佐藤氏より小さな規模で、今日われわれの周囲にくりかへされてゐる。

三島由紀夫「青春の荒廃――中村光夫『佐藤春夫論』」より


人のよい読者は、作家によつて書かれた小説作法といふものを、小説書き初心者のための親切な入門書と思つて
読むだらうが、それは概して、たいへんなまちがひである。作家は他の現代作家の方法意識の欠如、甘つちよろさ、
無知、増上慢、などに対する限りない軽蔑から、自分の小説作法を書くであらう。

三島由紀夫「爽快な知的腕力――大岡昇平『現代小説作法』」より


自分に関するおしやべりが人を男らしくするといふことは、至難の業である。

三島由紀夫「アメリカ版大私小説―N・メイラー作 山西英一訳『ぼく自身のための広告』」より

373 :名無しさん@また挑戦:2011/03/21(月) 11:01:48.74 ID:???
旅では、誰も知るやうに、思ひがけない喜びといふものは、思ひがけない蹉跌に比べると、ほぼ百分の一、
千分の一ぐらゐの比率でしか、存在しないものである。


私はいつも人間よりも風景に感動する。小説家としては困つたことかもしれないが、人間は抽象化される要素を
持つてゐるものとして私の目に映り、主としてその問題性によつて私を惹きつけるのに、風景には何か黙つた
肉体のやうなものがあつて、頑固に抽象化を拒否してゐるやうに思はれる。自然描写は実に退屈で、かなり
時代おくれの技法であるが、私の小説ではいつも重要な部分を占めてゐる。


最初に細部にいたるまで構成がきちんと決ることはありえず、しかも小説の制作の過程では、細部が、それまで
眠つてゐた或る大きなものを目ざめさせ、それ以後の構成の変更を迫ることが往々にして起る。したがつて、
構成を最初に立てることは、一種の気休めにすぎない。

三島由紀夫「わが創作方法」より

374 :名無しさん@また挑戦:2011/03/21(月) 11:18:07.96 ID:???
嘘八百の裏側にきらめく真実もある。

三島由紀夫「『黒蜥蜴』について」より


顔と肉体は、俳優の宿命である。いつも思ふことだが、俳優といふものは、宿命を外側に持つてゐる。一般人も
ある程度さうだが、文士などの場合は、その程度は殊に薄くて、彼ははつきり宿命を内側に持つてゐる。これは
職業の差などといふよりは、人間の在り方の差で、宿命を外側に持つ人間と、内側に持つ人間との、両極端の
代表的存在が、俳優と文士といふものだらうと思はれる。
だから俳優は自分の顔と戦はなければならない。その顔が世間から愛されれば愛されるほど、その顔と戦はなければ
ならない。

三島由紀夫「若尾文子讃」より


二流のはうが官能的魅力にすぐれてゐる。

三島由紀夫「ギュスターヴ・モロオの『雅歌』――わが愛する女性像」より


人がやつてくれないなら、自分がやらねばならぬ。

三島由紀夫「ジャン・コクトオの遺言劇――映画『オルフェの遺言』」より

375 :名無しさん@また挑戦:2011/03/21(月) 11:22:52.07 ID:???
私の文学の母胎は、偉さうな西欧近代文学なんぞではなくて、もしかすると幼時に耽溺した童話集なのかもしれない。
目下SFに凝つてゐるのも、推理小説などとちがつて、それは大人の童話だからだ。

三島由紀夫「こども部屋の三島由紀夫――ジャックと豆の木の壁画の下で」より


日本には妙な悪習慣がある。「何を青二才が」といふ青年蔑視と、もう一つは「若さが最高無上の価値だ」といふ、
そのアンチテーゼとである。私はそのどちらにも与しない。小沢征爾は何も若いから偉いのではなく、いい音楽家
だから偉いのである。

三島由紀夫「小沢征爾の音楽会をきいて」より


SFからはすくなくとも、低次のセンチメンタリズムが払拭されてゐなければならぬ。
私は心中、近代ヒューマニズムを完全に克服する最初の文学はSFではないか、とさへ思つてゐるのである。

三島由紀夫「一S・Fファンのわがままな希望」より

376 :名無しさん@また挑戦:2011/03/21(月) 11:52:39.55 ID:???
私は本当のところ、恋愛結婚も見合ひ結婚も、本質的に大してちがひのないのが現代だと思つてゐる。
それをムリに区別して考へるのは、恋愛がタブーであつた徳川時代の常識に、いまだにとらはれてゐるのである。
つまりこの二つは、「禁止を破つた結婚」と「公認された結婚」といふやうな、相対立する概念ではなくなつて
ゐるのである。
禁止されてゐればこそ、恋愛(不義)の火も燃えさかるので、適当に理性的に恋愛してゐる若い世代は、結婚に
ついても全然理性的で、形だけは恋愛結婚、実質は、見合ひ結婚よりは、はるかに理性結婚に近い、といふやうな
例も多いにちがひない。
恋愛といつても、大都会でこそ、偶然の出会ひによる珍妙な一組も成立するが、その大都会でも、多くの恋愛は、
職場などの小さな地域社会から生まれる。浮気のチャンスはころがつてゐても、恋愛のチャンスはどこにでも
ころがつてゐるわけではない。無限の選択の可能性があるわけではない。みんな要するに、何かの形の生簀の中を
泳いでゐて、同じ生簀の魚と恋してゐるにすぎないのである。

三島由紀夫「見合ひ結婚のすすめ」より

377 :名無しさん@また挑戦:2011/03/21(月) 11:55:46.48 ID:???
外国の社交界ともまたちがつた、日本独特の見合ひ結婚の利点は、なまじつかな恋愛結婚より、選択の範囲が
かへつてひろいといふことである。だれかの口ききで、いろんな職業、いろんな地域の相手とも、見合ひにまで
進むことができる。
北海道の果ての娘と、九州の果ての青年とが偶然に出会ふ確率は少ないが、見合ひなら、さういふ結びつきも
十分にありうる。
アメリカのオールドミスが、日本の見合ひ結婚の話を聞いてうらやましがるのももつともで、アメリカの
(上流を除く)一般社会では、結婚自体が苛酷な生存競争であることは、「マーティ」といふあはれな醜男を
描いた映画で、皆さんもご承知であらう。
結婚生活を何年かやれば、だれにもわかることだが、夫婦の生活程度や教養の程度の近似といふことは、
結婚生活のかなり大事な要素である。性格の相違などといふ文句は、実は、それまでの夫婦各自の生活史の
ちがひにすぎぬことが多い。
見合ひ結婚といふせつかくの日本特産物を、失はないやうにすることが、結局これからの若い人たちのしあはせで
あらうと思ふ。

三島由紀夫「見合ひ結婚のすすめ」より

378 :名無しさん@また挑戦:2011/03/21(月) 13:07:10.35 ID:???
諸君が芸術および芸術家に対して抱いてゐる甘い小ずるい観念が今やはつきりした。なるほど「喜びの琴」は
今までの私の作風と全くちがつた作品で、危険を内包した戯曲であらう。しかしこの程度の作品におどろく
くらゐなら、諸君は今まで私を何と思つてゐたのか。思想的に無害な、客の入りのいい芝居だけを書く座付作者だと
ナメてゐたのか。さういふ無害なものだけを芸術と祭り上げ、腹の底には生煮えの政治的偏向を隠し、以て
芸術至上主義だの現代劇の樹立だのを謳つてゐたなら、それは偽善的な商業主義以外の何ものなのか。
諸君によく知つてもらひたいことがある。芸術には必ず針がある。毒がある。この毒をのまずに、ミツだけを
吸ふことはできない。四方八方から可愛がられて、ぬくぬくと育てることができる芸術などは、この世に存在しない。
諸君を北風の中へ引張り出して鍛へてやらうと思つたのに、ふたたび温室の中へはひ込むのなら、私は残念ながら
諸君とタモトを分つ他はないのである。

三島由紀夫「文学座の諸君への『公開状』――『喜びの琴』の上演拒否について」より

379 :名無しさん@また挑戦:2011/03/21(月) 13:38:37.58 ID:???
ボクシングのいい試合を見てゐると、私はくわうくわうたるライトに照らされたリングの四角の空間に、一つの
集約された世界を見る。行動する人間にとつては、世界はいつもこんなふうに単純きはまる四角い空間に他ならない。
世界を、こんがらかつた複雑怪奇な場所のやうに想像してゐる人間は、行動してゐないからだ。そこへ二人の
行動家が登場する。そしてもつとも単純化された、いはば、もつとも具体的で同時にもつとも抽象的な、疑ひやうの
ない一つの純粋な戦ひが戦はれる。さういふときのボクサーには、完全な人間とは本来かういふものではないか、
と思はせるだけの輝きがある。もちろん観客は、不完全な人間ばかりだ。
ボクシングの美しさに魅せられると、ほかの大ていの美しさは、何だかニセモノめいて来る。それは錯覚に
ちがひないが、いい試合を見てゐるときは、たしかにさう感じる。そして文明などといふものが人間をダメにして
しまつたことがしみじみわかるのである。

三島由紀夫「ウソのない世界――ひきつける野生の魅力」より

380 :名無しさん@また挑戦:2011/03/21(月) 13:44:02.81 ID:???
初恋に勝つて人生に失敗するのはよくある例で、初恋は破れる方がいいといふ説もある。

三島由紀夫「冷血熱血」より


赤ん坊の顔は無個性だけれど、もし赤ん坊の顔のままを大人まで持ちつづけたら、すばらしい個性になるだらう。
しかし誰もそんなことはできず、大人は大人なりに、又々十把一からげの顔になることかくの如し。

三島由紀夫「赤ちゃん時代――私のアルバム」より


今日のやうに泰平のつづく世の中では、人間の死の本能の欲求不満はいろいろな形であらはれ、ある場合には、
社会不安のたねにさへなる。こんな問題は、浅薄なヒューマニズムや、平べつたい人間認識では、とても片付かない。

三島由紀夫「K・A・メニンジャー著 草野栄三良訳『おのれに背くもの』推薦文」より


アメリカでは、成功者や金持は決して自由ではない。従つて、「最高の自由」は、わびしさの同義語になる。

三島由紀夫「芸術家部落――グリニッチ・ヴィレッジの午後」より

381 :名無しさん@また挑戦:2011/03/21(月) 16:05:22.09 ID:???
文学の勉強といふのは、とにかく古典を読むことに尽きるので、自国の古典に親しんだのち、この世界文学の
古典に親しめば、鬼に金棒である。東西の古典を渉猟すれば、人間の問題はそこに全部すでに語り尽くされて
ゐるのを知るだらう。ヘナヘナしたモダンな思ひつきの独創性なんか、この鉄壁によつてはねかへされてしまふのを
知るだらう。その絶望からしか、現代の文学も亦、はじらぬことに気づくだらう。
一般読者には実はこの全集をすすめたくない。古典の面白さを一度味はつたら、現代文学なんかをかしくて
読めなくなる危険があるから。

三島由紀夫「小説家志望の少年に(『世界古典文学全集』推薦文)」


古典文学に親しむ機会の少なかつたことが、大正以後の日本文学にとつて、どれだけマイナスになつてゐるか。
又、大正以後の知識人の思考の浅薄をどれだけ助長したかは、今日、日ましに明らかになりつつある事実である。

三島由紀夫「時宜を得た大事業(『日本古典文学大系 第二期』推薦文)」より

382 :名無しさん@また挑戦:2011/03/21(月) 16:21:40.12 ID:???
日本の芸能の古いものほど、広大な全アジア的ひろがりが背後に揺曳するものが多い。能でも「翁」には、
さういふ影があるし、かつて二月堂のお水取の行事に参列したときも、中央アジアに及ぶ古代文化の大きな類縁を、
ふしぎな声明の一トふし毎に聴く思ひがした。
さういふ点では(宗達の「舞楽図」もちやんとそれをとらへてゐるが)舞楽ほどせまい中世以後の純日本文化から
高く抜きん出た、広大な茫漠とした展望を、目に浮ばせる芸能はない。表向きは、古代支那の戦物語を描いてゐても、
その仮面、その装束、その動作の淵源ははるかに見定めがたく、われわれの心は古代のペルシャ湾のほとりへまで、
辿りついてしまふのである。
われわれの祖先は、大らかな、怪奇そのものすらも晴れやかな、ちつともコセコセしない、このやうな光彩陸離たる
芸術を持ち、それをわが宮廷が伝へて来たといふことは、日本の誇るべき特色である。だんだん矮小化されてきた
日本文化の数百年のあひだに、それと全くちがつた、のびやかな視点を、日本の宮廷は保つてきたのである。

三島由紀夫「舞楽礼讃」より

383 :名無しさん@また挑戦:2011/03/21(月) 16:49:31.16 ID:???
私には特に、新劇の公演の、あの死灰のやうな気分が堪へられない。いたづらに誠実さうな顔つきをした、
「まじめな」観客といふものが堪へられない。劇場といふものは、ビリビリと神経質に慄へ、深い吐息をし、
興奮のために地震のやうに揺れ、稲妻によつて青々と照らし出され、落雷によつて燃え上がる、さういふ巨大な、
良導体で鎧はれた動物のやうなものであるべきだ。

三島由紀夫「ロマンチック演劇の復興」より


俳優は、良い人間である必要はありません。芸さへよければよいのです。と同時に、俳優は、俳優に徹することに
よつて思想をつかみ、人間をつかむべきではないでせうか。組織のなかで、中途はんぱなつかみ方をするのは
いけないと思ひます。

三島由紀夫「俳優に徹すること――杉村春子さんへ」より


イデオロギーは本質的に相対的なものだ、といふのは私の固い信念であり、だからこそ芸術の存在理由があるのだ、
といふのも私の固い信念である。

三島由紀夫「前書――ムジナの弁(「喜びの琴」)」より

384 :名無しさん@また挑戦:2011/03/21(月) 17:03:33.56 ID:???
アポローンの永遠の青春は、私の仕事の根源であり、私の光りである。アポローンの面影をとどめたガンダーラ仏の
源流と思へば、この像はいはばわが仏であらうか。

三島由紀夫「庭のアポローン像について」より


男らしさとは、対女性的観念ではなく、あくまで自律的な観念であつて、ここで考へられてゐる男とは、何か
青空へ向つて直立した孤独な男根のごときものである。男らしさを企図する人間には、必ずファリック・
ナルシシズムがある。


「男らしさ」といふことの価値には、一種の露出症的なものがあり、他人の賞賛が必要なのである。


真に独創的な英雄といふものは存在しない。


あと何百万年たつても、女が男にかなはないものが二つある。それは筋肉と知性である。

三島由紀夫「私の中の“男らしさ”の告白」より


美しい静かな絵といふものは、世路の艱難の只中から生れるものだ。それは艱難からの逃避ではなく、生きることの
むづかしさそのものから直ちにひらいた花だ。

三島由紀夫「無題(鈴木徳義個展推薦文)」より

385 :名無しさん@また挑戦:2011/03/21(月) 21:56:51.13 ID:???
右翼とは、思想ではなくて、純粋に心情の問題である。


共産主義と攘夷論とは、あたかも両極端である。しかし見かけがちがふほど本質はちがはないといふ仮定が、
あらゆる思想に対してゆるされるときに、もはや人は思想の相対性の世界に住んでゐるのである。そのとき林氏には、
さらに辛辣なイロニイがゆるされる。すなはち、氏のかつてのマルクス主義への熱情、その志、その「大義」への
挺身こそ、もともと、「青年」のなかの攘夷論と同じ、もつとも古くもつとも暗く、かつ無意識的に革新的で
あるところの、本質的原初的な「日本人のこころ」であつたといふイロニイが。


日本の作家は、生れてから死ぬまで、何千回日本へ帰つたらよいのであらうか。日本列島は弓のやうに日本人たちを
たえずはじき飛ばし、鳥もちのやうにたえず引きつける。

三島由紀夫「林房雄論」より

386 :名無しさん@また挑戦:2011/03/21(月) 22:08:52.87 ID:???
うす暗い喫茶店で、ゴミのはひつたコーヒーを、そのゴミも暗くて見えないまま、深刻にすすつてゐるのが
好きな人は、明るすぎる喫茶店など、我慢できたものではあるまい。


文学だらうと、何だらうと、簡明が美徳でないやうな世界など、犬に食はれてしまふがいい、と私はかねがね考へてゐる。


文学が人の心を動かす度合は、享受者の些末な窄い関心事をのりこえて、文学独特の世界へ引きずりこむだけの
力を備へてゐるかどうかによつて測られる。それを面白いと言ひ、その力を備へてゐないものをつまらないと
言ふことは、読者の権利である。

三島由紀夫「胸のすく林房雄氏の文芸時評」より


狂言の「釣狐」ではないけれど、狐はある場合は、敢然と罠に飛び込むことで、彼自身が狐であることを実証する。
それは狐の宿命、プロ・ボクサーの宿命のごときものであらう。

三島由紀夫「狐の宿命(関・ラモス戦観戦記)」より

387 :名無しさん@また挑戦:2011/03/22(火) 13:53:08.81 ID:???
日本といふ国は、自発的な革命はやらない国である。革命の惨禍が避けがたいものならば、自分で手を下すより、
外力のせゐにしたはうがよい。


復興には時間がかかる。ところが、復興といふ奴が、又日本人の十八番なのである。どうも日本人は、改革の
情熱よりも、復興の情熱に適してゐるところがある。その点でも私は安心してゐる。

三島由紀夫「幸せな革命」より


人間には、不条理な行動へ促す魔的な力の作用することがある。作家はいつもこの魔的な力から制作の衝動を
うけとる。

三島由紀夫「魔的なものの力」より


浮世は「幻の栖(すみか)」にすぎず、自分の肉体は過客にすぎぬ。

三島由紀夫「久保田万太郎氏を悼む」より


小さくても完全なものには、巨大なものには、求められない逸楽があり、必ずしも偉大でなくても、小さく澄んだ
崇高さがありうる。

三島由紀夫「宝石づくめの小密室」より

388 :名無しさん@また挑戦:2011/03/22(火) 14:38:23.73 ID:???
ミュージカルとはアメリカの歌舞伎である。誇るべき文化遺産を持たない新しい国が、必死になつて、ヨーロッパの
オペラや、バレーに対抗する劇場芸術、しかもアメリカでしか生れないものを狙つて、アメリカのものすごい
エネルギーと資本を傾注して、やつと今のやうな形にまでしたものだ。だからそこには、草創期の歌舞伎に似た、
若々しい創造のエネルギーと、若さだけの持ちうる詩と、俗悪さと、商業主義と、悪ふざけと、スノビズムと、
知的享楽と、諷刺と、……あらゆるものが渾然一体となつてゐる。こんなものが一朝一夕に、他国人に真似られる
ものではない。そこには第一、音楽や舞踊のヨーロッパ的な基礎的教養や訓練が、前提になつてゐるのである。

三島由紀夫「ミュージカル病の療法」より


若い女性の多くは、能楽を、退屈に感じて見たがらない。そして、日本でしか、日本人しか、真に味はふことの
できぬ美的体験を自ら捨ててゐるのだ。

三島由紀夫「能――その心に学ぶ」より

389 :名無しさん@また挑戦:2011/03/22(火) 14:43:00.61 ID:???
私はずいぶんいろんな西洋人の夫婦を知つたが、それから得た結論は、夫婦といふものは、世界中どこも同じであり、
又、世界中どこも千差万別である、といふ月並な結論であつた。


日劇のストリップ・ショウの特別席は、大てい外人の観光客で占められてゐるが、鬼をもとりひしぐ顔つきの老婆と
居並んで、ぽかんと口をあけてストリップを見てゐる老紳士ほど、哀れな感じのするものはない。ああいふのを
見ると、私はいつも、西洋人の夫婦を支配してゐる或る「性の苛烈さ」を感じてしまふのである。尤も御当人の
身にしてみれば、鬼のごとき老妻に首根つこをつかまへられながらストリップを見るといふ、一種の醍醐味が
あるのかもしれない。

三島由紀夫「西洋人の夫婦」より

390 :名無しさん@また挑戦:2011/03/22(火) 14:46:32.88 ID:???
猫は何を見ても猫的見地から見るでせうし、床屋さんは映画を見てもテレビを見ても、人の頭ばかり気になる
さうです。世の中に、絶対公平な、客観的な見地などといふものがあるわけはありません。われわれはみんな
色眼鏡をかけてゐます。そのおかげで、われわれは生きてゐられるともいへるので、興味の選択ははじめから
決つてをり、一つ一つの些事に当つて選択を迫られる苦労もなく、それだけ世界はきれいに整備され、生きる
たのしみがそこに生じます。
しかし人生がそこで終ればめでたしですが、まだ先があります。同じ色眼鏡が、ほかの人の見えない地獄や深淵を
そこに発見させるやうになります。猫は猫にしか見えない猫の地獄を見出し、床屋さんは床屋さんにしか見えない
深淵を見つけ出します。

三島由紀夫「序(久富志子著『食いしんぼうママ』)」より

391 :名無しさん@また挑戦:2011/03/22(火) 19:56:29.29 ID:???
本当は法律といふものは、昼間の理性を以て、夜の情念を律するために作られたものであるから、真夜中の仕事を
本業とする人間は、反法律的、あへて言へば犯罪的人間である。


理性的な社会、安定した秩序の社会といふものが、もし存在するとするならば、これは、法規制のエネルギーが、
直流式ではなく、交流式に働く社会のやうに思はれる。すなはち、昼間の理性が夜の情念を律すると同時に、
夜の情念が昼間の理性を律し、且つこの相互作用によつて、夜の情念が情念それ自体の精妙な理法を編み出し、
又、昼の理性が理性それ自体の情感乃至風情といふものをにじみ出させてゐる、といふやうな社会なのである。
(中略)
急に卑近な話になるが、オリンピックの外来客に、東京を清潔な都会と思はせるため、飲食店その他の深夜営業を
禁止しようとしてゐる東京都の役人の考へなど、頑なな昼の理性のもつとも低俗な表現と言へるであらう。

三島由紀夫「夜の法律」より

392 :名無しさん@また挑戦:2011/03/23(水) 10:52:54.20 ID:???
あれほど難航してきた米英ソの核停条約が調印されるにいたつてみると、もちろん楽観はゆるさないが、天下泰平の
時代は、もう一段と息の永くなつたことが感じられる。
日本は万国に太平をひらかんとして降伏したのであるし、天下泰平は国民すべての念願であつたことはもちろんだが、
戦後十八年の平和のつづくうちに、平和そのものが微妙に変質して行くのを感じてきたのは、何も鋭敏な知識人
ばかりとは限らない。
天下泰平は事実として実在してゐることはたしかだが、天下泰平の思想、天下泰平を生きる者のモラルといふ点では、
こんなに不備な時代もめづらしい。平和な時代をどうやつて生きてよいかわからず、中ぶらりんな気持で生き
永らへてきたのは、戦中派ばかりではあるまい。
トインビーの「ヘレニズム」といふ本は、この点でおもしろい示唆を与へる。トインビーはヘレネス世界国家の
住民の、天下泰平の生活の倦怠感に言及して、当時のキリスト教の与へた感覚的効能を説いてゐる。

三島由紀夫「天下泰平の思想」より

393 :名無しさん@また挑戦:2011/03/23(水) 10:57:13.16 ID:???
(中略)
安保以後の日本は、又一段と沈滞したふしぎな時代で、こんな時代の人心が、どんな焔を内包してゐるかを考へると、
いつそ気味がわるい。そして、さういふことを考へたことのない政治家は、幸福な政治家かもしれないが、同時に
愚かな政治家である。民をして、鼓腹撃壌せしめるのも、もちろん政治家の大切な仕事であるが、民衆のなかに
暗く澱んで、爆発の機会を待つてゐる「死の衝動」を忘れてゐると、とんだことになる。
民主主義的自由は、死の衝動を薄める効果のある薬剤ではあるが、死の衝動をごまかさせる効果はあつても、
死の衝動そのものを解放したり、あるひは根絶したりする力は持たない。もちろんそれは、政治の人間性に対する
力の限界ではある。現在、日の出の勢ひにある創価学会にしても、もしこれが禁遏されてゐたら、おそるべき力を
持つであらうが、信教の自由によつて、その力はなだめられてゐる。

三島由紀夫「天下泰平の思想」より

394 :名無しさん@また挑戦:2011/03/23(水) 11:01:03.05 ID:???
これを別の面からいふと、現在、民衆の裡に、宗教を求める力が静かに湧き起つてゐるのは事実であつても、
信教の自由がある限り、宗教の真の危険な爆発力は点火される惧れがなく、そのことは又、宗教の真の危険な
魅惑は、薄められてゐると云ふことができよう。
これは思想についても同断で、真に危険な思想といふものは、われわれの日常的想像力では、思ひゑがくことが
できない。(中略)
私はここに、一つの設問を出すことができるだけだが、天下泰平の思想といふものが、もし出て来て力を持つと
すれば、今までのやうな平和主義でないことはたしかであらう。それは一種危険な魅惑を持つてゐなければならない。
トインビーのいはゆる「危険なうちに生きるという賜物」を提供しなければならない。生命を捧げるに足るだけの
何らかの価値を提示しなければならない。と言つて、かつての国家主義哲学は、現代の世界ではすでに古い。
とすれば、それは何であらうか?

三島由紀夫「天下泰平の思想」より

395 :名無しさん@また挑戦:2011/03/23(水) 11:59:08.68 ID:???
最近読んだ本で、末松太平氏の「私の昭和史」ほど、深い感銘を与へられた本はない。軍人の書いた文章と
思へぬほど、見事な洗練された文章であり、話者の「私」の位置決定も正確なら、淡々たる叙述のうちに哀切な
抒情がにじみ出てゐるのも心憎く、立派な一篇の文学である。殊に全篇を読み来たつて、エピロオグの
「大岸頼好の死」の章に読みいたつたときの、パセティックで、しかも残酷な印象は比類がない。
これは二・二六事件の関係者で、おそらく唯一人の生き残りの、かつての「青年将校」が、冷静に当時の自分と
自分の周囲を描き出したいはば回想録である。しかしこんなに新鮮な回想録といふものもまた珍らしい。
(中略)
この本の中で、青年将校たちが上官からちやほやされ、こはもてするのは、もちろん利用価値があつたからでは
あるが、結局は、軍隊といふ特殊な一社会集団において、その集団のモラリティー(士道)を体現するものと目されたからである。

三島由紀夫「利用とあこがれ」より

396 :名無しさん@また挑戦:2011/03/23(水) 12:05:08.07 ID:???
この社会集団には、きびしい規律もあり、階級制度もあり、立身出世主義も功利主義もあるが、それらはいづれも
この集団の本質的特徴をなすものではなく、最後にのこる本質的特徴としてはモラリティー(士道)しかないことを、
誰しもみとめざるをえず、しかもその行動的倫理の実現の可能性は、何をしでかすかわからない危険な
「青年将校」の中にしかないことを、暗黙の裡にみとめ合つてゐたからである。軍上層部の心理としては、
かれらを利用することと、かれらにあこがれることとは、ほとんど同義語であつたと考へてよい。
しかし、問題はただ、昔の軍隊にとどまらず、社会が、その立脚すべき真のモラリティーの保持者を求めて
動揺するときには、(そして、宗教も何らその要求にこたへないときには)、すべては似たやうなメカニズムに
おいて動く。(中略)
社会の上層部の道徳的自己疎外(あへて腐敗とは云はない)は、隠密に、何ものかを利用しようとし、何ものかに
あこがれてゐる。あとはただ、誰がその場所に折よく立つてゐるか、といふだけのことである。

三島由紀夫「利用とあこがれ」より

397 :名無しさん@また挑戦:2011/04/05(火) 11:56:42.33 ID:???
>>396訂正
この社会集団には、きびしい規律もあり、階級制度もあり、立身出世主義も功利主義もあるが、それらはいづれも
この集団の本質的特徴をなすものではなく、最後にのこる本質的特徴としてはモラリティー(士道)しかないことを、
誰しもみとめざるをえず、しかもその行動的倫理の実現の可能性は、何をしでかすかわからない危険な
「青年将校」の中にしかないことを、暗黙の裡にみとめ合つてゐたからである。軍上層部の心理としては、
かれらを利用することと、かれらにあこがれることとは、ほとんど同義語であつたと考へてよい。
しかし、問題はただ、昔の軍隊にとどまらず、社会が、その立脚すべき真のモラリティーの保持者を求めて
動揺するときには、(そして、宗教も何らその要求にこたへないときには)、すべては似たやうなメカニズムに
おいて動く。安保闘争のとき、全学連主流派に対して、田中清玄氏が資金を提供してゐたといふ興味あるニュースは、
このことを暗示してゐる。
社会の上層部の道徳的自己疎外(あへて腐敗とは云はない)は、隠密に、何ものかを利用しようとし、何ものかに
あこがれてゐる。


三島由紀夫「利用とあこがれ」より

398 :名無しさん@また挑戦:2011/04/09(土) 16:29:03.56 ID:???
外国へ行つたら、日本のことをとやかくきかれるかと思つて、それなりの心づもりをして行つたら、大まちがひで
あつた。どの国も自分の国のことだけで一杯で、日本みたいに好奇心のさかんな国はどこにもない。講演会で、
中学生が講師に質問して、
「先生はサルトルについてどうお考へですか」などと訊くのは日本だけである。
なかんづく好奇心の皆無におどろかされるのはフランスで、あの唯我独尊の文化的優越感は支那に似てゐる。
(中略)
アメリカでは、はうぼうで、日本に関する歯の浮くやうなお世辞を云はれたり、「原子爆弾を落してすまなかつた」と
隣家の窓ガラスに野球の球をぶちこんだ時のやうな真顔の詫び言を云はれたこともあつたが、アメリカ人の
いふことには、概して政治的な臭味があつて人の心を打たない。それだけ、アメリカ人は正直なのであらう。

三島由紀夫「日本の株価――通じる日本語」より

399 :名無しさん@また挑戦:2011/04/09(土) 16:36:12.01 ID:???
一つ快い思ひ出はギリシアである。
(中略)バスが故障して何度も停つたので、その間に伯父さんにつれられて田舎へ遠足にゆく、二人のかはいらしい
小学生と知合になつた。かれらは英語を勉強してゐるので、私と英語で話すことが得意なのである。(中略)
「古橋はすばらしいですね、僕たちとても古橋を尊敬してゐるんです」
私は源氏物語の日本を尊敬してゐるなんぞとどこかの国のインテリに云はれるより、他ならぬギリシアの子供に
かう云はれたことのはうをよほど嬉しく感じた。競技の優勝者を尊敬した古代ギリシアの風習が、子供たちの心に
残つてをり、しかもわが日本が、(古代ギリシアには、水泳競技はなかつたと思はれるが)、古代ギリシアの
競技会に参加して、優勝者を出したやうな気がしたのである。かういふ端的なスポーツの勝利が、いかに世界を
おほつて、世界の子供たちの心を動かすかに、私は併せて羨望を禁じえなかつた。事実、われわれの精神の仕事も、
もし人より一センチ高く飛ぶとか、一秒速く走るかとかいふ問題をバカにすれば、殆んどその存在理由を失ふであらう。

三島由紀夫「日本の株価――通じる日本語」より

400 :名無しさん@また挑戦:2011/04/09(土) 19:33:39.67 ID:???
電気の世の中が蛍光電灯の世の中になつて、人間は影を失なひ、血色を失なつた。蛍光灯の下では美人も幽霊の
やうに見える。近代生活のビジネスに疲れ果てた幽霊の男女が、蛍光灯の下で、あまり美味しくもなささうな色の
料理を食べてゐるのは、文明の劇画である。
そこで、はうばうのレストランでは、臘燭が用ひられだした。磨硝子の円筒形のなかに臘燭を点したのが卓上に
置かれる。すると、白い卓布の上にアット・ホームな円光がゑがかれ、そこに顔をさし出した女は、周囲の暗い
喧騒のなかから静かに浮彫のやうに浮き出して見え、ほんの一寸した微笑、ほんの一寸した目の煌めきまでが
いきいきと見える。情緒生活の照明では、今日も臘燭に如くものはないらしい。そこで今度は古来の提灯が
かへり見られる番であらう。
子供のころ、こんな謎々があつた。
「火を紙で包んだもの、なあに」
この端的な提灯の定義は、今日でも外国人の好奇心を誘ふものであらう。
私の幼年時代はむろん電気の時代だつたが、提灯はまだ生活の一部に生きてゐた。

三島由紀夫「臘燭の灯――今月の表紙に因んで」より

401 :名無しさん@また挑戦:2011/04/09(土) 19:38:03.04 ID:???
内玄関の鴨居には、家紋をつけた大小長短の提灯が埃まみれの箱に納められてかかつてゐた。火事や変事の場合は、
それらが一家の避難所の目じるしになるのであつた。
提灯行列は軍国主義花やかなりし時代の唯一の俳句的景物であつたが、岐阜提灯のさびしさが今日では、生活の中の
季節感に残された唯一のものであらう。盆のころには、地方によつては、まだ盆灯籠が用ひられてゐるだらうが、
都会では灯籠といへば、石灯籠か回はり灯籠で、提灯との縁はうすくなつた。
「大塔宮曦鎧」といふ芝居があつて、その身替り音頭の場面には、たしか美しい抒情的な切子(きりこ)灯籠が
一役買つてゐた。切子灯籠は、歳時記を見ると、切子とも言ひ、灯籠の枠を四角の角を落とした切子形に作り、
薄い白紙で張り、灯籠の下の四辺には模様などを透し切りにした長い白紙を下げたもの、と書いてある。江戸時代の
庶民の発明した紙のシャンデリアである。
花灯籠、絵灯籠、灯籠流し、といふのはもう言葉ばかりで、正直のところ、私の都会生活で、ゆらめく臘燭の灯に
接する機会は、レストランか、さもなければ停電の夜だけになつた。

三島由紀夫「臘燭の灯――今月の表紙に因んで」より

402 :名無しさん@また挑戦:2011/04/09(土) 20:09:22.43 ID:???
氏は純潔で、孤独で、わが少年期の師表であつた。しかし今、氏の作品を読み返してみると、その徹底的な孤独に
対して、文字どほり騒壇の人となつた自分を恥ぢるのみである。記憶はおぼろげながら、あの貴重な面唔の際、
何か氏の大事な訓誡を耳にしたやうな気がするのである。思ひ出すことの困難さが、氏のやさしい、しかし
厳しい沈黙の表情をばかり思ひ出させる。氏が教を垂れたのは、「沈黙」についてではなかつたか? 今、氏の
三詩集を順次に辿つてみると、戦後の氏の「沈黙」も一つの詩であり、詩人の営為であつたことが、はつきりして来た。

三島由紀夫「伊東静雄氏を悼む」より

403 :名無しさん@また挑戦:2011/04/10(日) 13:53:15.97 ID:???
中世における世界像の縮小とコロンブスのアメリカ発見による再拡大、近世における植民地の争奪による世界像の
終局的拡大、……かういふものを通じて、前大戦後の失敗にをはつた国際連盟あたりから、世界国家の理想が
登場してくる。第二次世界大戦後にもこの理想は、国際連合の形で生き延びてゐる。
そこで問題は、原子爆弾と国際連合との宿命的なつながりに帰着する。
われわれはもう個人の死といふものを信じてゐないし、われわれの死には、自然死にもあれ戦死にもあれ、
個性的なところはひとつもない。しかし死は厳密に個人的な事柄で、誰も自分以外の死をわが身に引受けることは
できないのだ。死がこんな風に個性を失つたのには、近代生活の劃一化と劃一化された生活様式の世界的普及による
世界像の単一化が原因してゐる。
ところで原子爆弾は数十万の人間を一瞬のうちに屠るが、この事実から来る終末感、世界滅亡の感覚は、おそらく
大砲が発明された時代に、大砲によつて数百の人間が滅ぼされるといふ新鮮な事実のもたらした感覚と同等の
ものなのだ。

三島由紀夫「死の分量」より

404 :名無しさん@また挑戦:2011/04/10(日) 14:00:36.91 ID:???
小さな封建国家の滅亡は、世界の滅亡と同様の感覚的事実であつた。われわれの原子爆弾に対する恐怖には、
われわれの世界像の拡大と単一化が、あづかつて力あるのだ。原爆の国連管理がやかましくいはれてゐるが、
国連を生んだ思想は、同時に原子爆弾を生まざるをえず、世界国家の理想と原爆に対する恐怖とは、互ひに力を
貸し合つてゐるのである。
交通機関の発達と、わづか二つの政治勢力の世界的な対立とは、われわれの抱く世界像を拡大すると同時に
狭窄にする。原子爆弾の招来する死者の数は、われわれの時代の世界像に、皮肉なほどにしつくりしてゐる。
世界がはつきり二大勢力に二分されれば、世界の半分は一瞬に滅亡させる破壊力が発明されることは必至である。
しかし決してわれわれは他人の死を死ぬのではない。原爆で死んでも、脳溢血で死んでも、個々人の死の分量は
同じなのである。原爆から新たなケンタウロスの神話を創造するやうな錯覚に狂奔せずに、自分の死の分量を明確に
見極めた人が、これからの世界で本当に勇気を持つた人間になるだらう。まづ個人が復活しなければならないのだ。

三島由紀夫「死の分量」より

405 :名無しさん@また挑戦:2011/04/10(日) 21:04:10.65 ID:???
男にとつて、仕事は宿命です。


純粋な女の恋には、野心がありません。もし野心をもつたら、恋に打算が加はつて醜くなります。
それに、人を愛しながら野心を満足させることは、女の場合できないのです。女性においては、純粋な恋ほど、
野心から遠ざかります。
こゝに男の恋と女の恋の違ひがあるのです。男性の場合は、仕事に対する情熱――野心と、恋愛とが常にぶつかり
合ふのです。
野心をもたないやうな男は、情熱のない男です。(中略)情熱のない男、エネルギーの少い男性には、どんなに
閑があつても、ほんたうの恋愛はできません。


女は、恋のために、男の仕事を邪魔してはなりません。
(中略)一たん男が仕事に情熱を打ち込んだら、女性は放つておくこと。そんなときの男性は、子供が新しい
おもちやに夢中になつてゐるやうに、決して浮気をしません。
男性を仕事に熱中させることです。こんなときに男から仕事をとり上げてしまつたら、男は仕事を邪魔しない女性と
恋愛をするやうになります。

三島由紀夫「男は恋愛だけに熱中できるか?」より

406 :名無しさん@また挑戦:2011/04/10(日) 21:11:38.31 ID:???
科学的見地から見れば、素人のわれわれにも、フロイトのユダヤ的夢判断よりもハヴロック・エリスの夢の研究の
はうが妥当なやうに思はれる。しかしフロイトの魅力はもとよりその妥当さに在るのではない。フロイトの強引な
仮説は今日われわれの社会生活の常識にまでしみ入りおくればせに北米合衆国を風靡して、おかみさん階級までが
アナリシスに熱中してゐる。古典的合理主義の支配してゐる米国では、性慾その他の非合理的世界がいつも
恐怖の対象になつてゐるので、フロイトはもつぱらその合理的側面から、DDTみたいに愛用されてゐるのである。


「芸術論」を再読してみて、カントが芸術にぶつかつて「判断力批判」で失敗したやうに、フロイトも芸術で
つまづいて、ここで最もボロを出してゐると思はれるところが多い。極度に反美学的考察のやうにみえながら、
実はフロイトが陥つてゐるのは、美学が陥つたのと同様の係蹄である。芸術の体験的把握を離れた分析の図式主義と、
芸術を形成する知的な要素と官能的な要素との相関関係の解明にとどまつて、「鶏が先か卵が先か」といふ
循環論法に終始してゐる。

三島由紀夫「フロイト『芸術論』」より

407 :名無しさん@また挑戦:2011/04/11(月) 13:05:07.58 ID:???
感受性といふものは、知的ではないところの、それ自体の頑固な様式をもつてゐる。


病気といふものは、個々の作家にとつて象徴的な事柄である。(中略)ニイチェの著作がもつとも多く書かれたのは、
彼の梅毒の初期であり、初期症状の幾多の病徴が、当時の作品群を特色づけてゐる由だが、小説家もまた、
好い作品を書くためには、いつも梅毒の初期症状に似たものを、しかもそれ以上亢進もせずよくもならないところの
症状を、自分の体内に、人工培養しておく必要があるのかもしれない。


精神の停滞を阻む不断の緊張のために、病気を利用することから一歩進んで、もし自由に病気の選択ができると
したら、できるだけ、生の躍動を象徴的に、また内在的にとらへうるやうな病気にかかることが望ましい。
ニイチェはそれを、「強さのペシミズム」「生の豊饒から直接生れるところの悲観主義」と呼んでゐる。

三島由紀夫「卑俗な文体について」より

408 :名無しさん@また挑戦:2011/04/11(月) 13:08:18.83 ID:???
卑俗な文体、「品質のわるい文体」のもつ異様な説得力は、鴎外の高貴な文体、「最高の品質」の文体のもつ
真らしさ、とはまるで正反対のものであるが、真らしさの点については同程度の成果をあげることができる。
卑俗な文体は一般的な先入主に故意によりかかり、事物を生かさずに、事物に対する常識的な判断を適宜に塩梅し、
それの総和に於て、世にも非常識な現実の真らしさを生み出すことができるのであるが、そこでは通常潔癖な
小説家が、故意に避ける偶然の重複などが、あたかも自明の現実のやうに現前してゐる。そして事実人生には、
小説にしたら嘘ッ八としか思へないやうな、奇抜な偶然の出会や因果関係が存在するのである。
(中略)私が小説のアクチュアリティーを保証する一手段として、この卑俗な文体に抱いた関心は、おそらく
戯曲の文体につながる問題だといふことに気がついた。

三島由紀夫「卑俗な文体について」より

409 :名無しさん@また挑戦:2011/04/11(月) 20:48:54.87 ID:???
ウィリアム・ブレークの絵に、よく翼も何もなしに天翔けつてゐる人間の姿が出て来る。それを見てゐると、
その飛翔の姿勢がいかにも自然なので、人間はひよつとすると鳥のやうに飛べるのを自分で知らないでゐるのでは
ないかといふ気がしてくる。
それと同じで、アイスショウの美しい「滑走人間」の群像を見てゐるうちに、私は幻想にとらはれた。誰も、
もう歩いたり駈けたりするのをやめて、滑つたらいいぢやないか。さうすれば未来の大都会の雑踏は、どんなに
流動的に軽快なものになるだらう。
小鳥が枝に下り立つて気まぐれに向きを変へるやうに、休止の姿勢にバランスを保つてゐるスケータアの一瞬の
姿は美しい。どんな一瞬間にもバランスが厳密に要求され、休止の中にも可憐な緊張があつて、彼女らはオペラの
コーラスのやうによそ見をしたりお喋りをしたりすることはできない。
われわれ観客が目を転ずる速度よりも、スケータアのスピードは速い。そこでわれわれは目を以てよりも
イメーヂを以て、その姿を追ふのである。すると夕日をうけた真紅の帆をかかげて疾走するスケータアたちは、
本当に帆船の群に変貌してしまふ。

三島由紀夫「疾走するイメーヂ――世界一アイスショウに寄せて」より

410 :名無しさん@また挑戦:2011/04/12(火) 12:45:37.47 ID:???
私だつて人並に洋服はほしいが、さう沢山もつてゐるはうではないと思ふ。洋服を作る金があると、つい
呑んぢやつたり、旅行に出ちやつたりして、学生諸君が月謝を使ひ込むやうに使ひ込んでしまふ。第一に面倒
なのである。私はショッピングが大きらひだ。店のなかをウロウロして、十軒も二十軒も東京中を歩いて、やつと
一本のネクタイを買ふ人があるが、時間が惜しくてとてもあんな真似はできない。私の買物は即興詩みたいなものだ。
町を歩いてゐて、視界のはじつこのはうに、ちよつと気に入つたネクタイが目に入る。と間髪を入れずそれを
買ふのである。今のチャンスをのがしたら、その同じネクタイが気に入ることは二度とないだらうと感じるからだ。
しかしさうして買つたネクタイは必然的に、洋服に合はず、空しくネクタイ掛にぶらさがる始末になる。

三島由紀夫「お洒落は面倒くさいが――私のおしやれ談義」より

411 :名無しさん@また挑戦:2011/04/12(火) 12:49:06.48 ID:???
私は色が生ッ白いから、紺しか似合はぬことは百も承知なのに、若気のいたりで、ついいろんな色の洋服を着て
みたくなる。体格が貧弱で、胸郭が薄つぺらなのに、大いにスポーツマン気取りのアメリカン・スタイルを試みて、
生き恥をさらしたりしてゐる。外国へ行つてからは、五等身の日本人はどうマネしたつて洋服は似合はない、
といふことを身にしみて感じたが、日本にゐればゐるで水準以外のお洒落といふものはあるものである。但し、
私は帽子だけは絶対にかぶらない。馬にシルク・ハットをかぶせたら、イヤといふにきまつてゐる。
本当のお洒落といふのは、下着から靴下から靴から、すみずみまでのお洒落であらう。私は到底お洒落の資格はない。
せいぜいカラーに汚れのない白いワイシャツをいつも着てゐるぐらゐが私のお洒落であらう。靴下のことまで
考へるのは面倒くさい。しかしもし下着から靴下まで考へることが本当のお洒落ならば、もう一歩進んで、自分の
頭の中味まで考へてみることが、おそらく本当のお洒落であらう。

三島由紀夫「お洒落は面倒くさいが――私のおしやれ談義」より

412 :名無しさん@また挑戦:2011/04/12(火) 13:02:27.43 ID:???
青年といふものは、少年よりはるかに素直なものである。

三島由紀夫「死せる若き天才ラディゲの文学と映画『肉体の悪魔』に対する私の観察」より


若い女性の「芸術」かぶれには、いかにもユーモアがなく、何が困るといつて、昔の長唄やお茶の稽古事のやうな
稽古事の謙虚さを失くして、ただむやみに飛んだり跳ねたりすれば、それが芸術だと思ひこんでゐるらしいことである。
芸術とは忍耐の要る退屈な稽古事なのだ。そしてそれ以外に、芸術への道はないのである。

三島由紀夫「芸術ばやり――風俗時評」より


文士などといふ人種ほど、我慢ならぬものはない。ああいふ虫ケラどもが、愚にもつかぬヨタ話を書きちらし、
一方では軟派が安逸奢侈の生活を勤め、一方では左翼文士が斜視的社会観を養つて、日本再建をマイナスすること
ばかり狂奔してゐる。


若造の純文学文士がしきりに呼号する「時代の不安」だの、「実存」(こんな日本語があるものか)だの、
「カソリシズムかコミュニズムか」だの、青年を迷はすバカバカしいお題目は、私にいはせれば悉く文士の
不健康な生活の生んだ妄想だと思はれるのである。

三島由紀夫「蔵相就任の思ひ出――ボクは大蔵大臣」より

413 :名無しさん@また挑戦:2011/04/12(火) 13:09:01.22 ID:???
青年といふものは、少年よりはるかに素直なものである。

三島由紀夫「死せる若き天才ラディゲの文学と映画『肉体の悪魔』に対する私の観察」より


若い女性の「芸術」かぶれには、いかにもユーモアがなく、何が困るといつて、昔の長唄やお茶の稽古事のやうな
稽古事の謙虚さを失くして、ただむやみに飛んだり跳ねたりすれば、それが芸術だと思ひこんでゐるらしいことである。
芸術とは忍耐の要る退屈な稽古事なのだ。そしてそれ以外に、芸術への道はないのである。

三島由紀夫「芸術ばやり――風俗時評」より


ヨーロッパの人文主義が築いた文化の根本的欠陥が、現代ヨーロッパのいたましい病患をなし「人間的なもの」の
最後の救済のために、人々は政治に狂奔してゐる。殿下が見られるあまりにも政治的なヨーロッパは、デカダンスに
陥つた西欧文化の自己表現なのである。文化といふものの最悪の表現形態が政治なのだ。ギボンのローマ帝国衰亡史を
繙かれれば、殿下は文化的創造力を失つた偉大な民族が、巨大な政治の生産者に堕した様相を読まれるであらう。

三島由紀夫「愉しき御航海を――皇太子殿下へ」より

414 :名無しさん@また挑戦:2011/04/12(火) 13:17:01.92 ID:???
すべての芸術家は、自分の持つて生れた資質を十全に生かすと共にそれを殺すところに発展がある。

三島由紀夫「歌右衛門丈へ」より


文士などといふ人種ほど、我慢ならぬものはない。ああいふ虫ケラどもが、愚にもつかぬヨタ話を書きちらし、
一方では軟派が安逸奢侈の生活を勤め、一方では左翼文士が斜視的社会観を養つて、日本再建をマイナスすること
ばかり狂奔してゐる。


若造の純文学文士がしきりに呼号する「時代の不安」だの、「実存」(こんな日本語があるものか)だの、
「カソリシズムかコミュニズムか」だの、青年を迷はすバカバカしいお題目は、私にいはせれば悉く文士の
不健康な生活の生んだ妄想だと思はれるのである。

三島由紀夫「蔵相就任の思ひ出――ボクは大蔵大臣」より


義理人情に酔ふやくざと等しく、もつとも行為の世界に適した男は、「感性的人間」なのだ。日本的感性に素直に
従ふ男は勇猛果敢になり、素直に従ふ女は貞淑な働き者になる。

三島由紀夫「宮崎清隆『憲兵』『続憲兵』」より

415 :名無しさん@また挑戦:2011/04/12(火) 17:10:53.02 ID:???
それぞれの芸術ジャンルは、それぞれの表現の機能と職分を持つてゐる。もしワットオが画家でありながら、
詩や音楽のやうな画を描いたと云つたところで、褒め言葉にもなりはしない。重要なのは、彼が詩のやうな画を
描いたことではなくて、詩そのものを描いたことにあると云つたはうがいい。
セザンヌの描いた林檎は、普遍的な林檎になり、林檎のイデエに達する。ところがワットオの描いたロココの風俗は、
林檎のやうな確乎たる物象ではなかつた。彼はそのあいまいな対象のなかから、彼の林檎を創り出さなければならぬ。
ワットオの林檎は、不可視の林檎だつた。
実際この画家の、黄昏の光に照らし出された可視の完全な小世界は、見えない核心にむかつて微妙に構成されて
ゐるやうにも感じられる。この画家の秘められた企てに、画中の人物は誰一人気づいてゐない。気づかれないほどに、
それほど繊細に思慮深く、画家の手は動いたのだ。その企図がわづかながらうかがはれるのが「シテエルへの船出」
なのである。

三島由紀夫「ワットオの《シテエルへの船出》」より

416 :名無しさん@また挑戦:2011/04/12(火) 20:28:07.07 ID:???
恥かしい話だが、今でも私はときどき本屋の店頭で、少年冒険雑誌を立ち読みする。いつかは私も大人のために、
「前にワニ後に虎、サッと身をかはすと、大口あけたワニの咽喉の奥まで虎がとびこんだ」と云つた冒険小説を
書いてみたいと思ふ。芸術の母胎といふものは、インファンティリズムにちがひない、と私は信じてゐるのである。
地底の怪奇な王国、そこに祭られてゐる魔神の儀式、不死の女王、宝石を秘めた洞窟、さういふものがいつまで
たつても私は好きである。子供のころ、宝島の地図を書いて、従兄弟と一緒にそれを竹筒に入れ庭に埋めたりして
遊んだものであつた。
アメリカへ行つたときまづ私が探したのは、おそらく日本に輸入されてゐないさういふ子供むき映画の常設館で
あつたが、いくら探してもみつからなかつた。アメリカの子供は漫画雑誌でしよつちゆう「スーパー・マン」などに
心酔してゐるのに、それを映画で見ることはできないのであらうか。

三島由紀夫「荒唐無稽」より

417 :名無しさん@また挑戦:2011/04/12(火) 20:31:55.81 ID:???
最近「乱暴者」といふ映画に大へん感動したが、そこには精神年齢の低い青少年の冒険慾が周囲に冒険慾を
充たす環境を見出だしえず、やむなく平板凡庸な地方の小都会を荒らしまはるにいたる一種の無償の行為が、
簡潔強烈に描かれてゐたからであつた。
映画には青少年に与へる悪影響も数々あらうが、映画は映画なりのカタルシスの作用を持つてゐる。それが
無害なものであるためには、できるだけ空想的であることがのぞましく、大人の中にもあり子供の中にもある
冒険慾が、何の遠慮もなく充たされるやうな荒唐無稽な環境がなければならない。「乱暴者」のやうな映画は、
大人には面白いが、子供には有害であらう。
ハリウッド映画のおかげで、あらゆる歴史的環境は、新奇な感を失つたなまぬるいリアルなものになつてしまつた。
私はもう一度、映画で思ふさま荒唐無稽を味はつてみたいと思ふのである。
ディズニィの漫画で、「不思議の国のアリス」の気違ひ兎と気違ひ帽子屋のパーティーの場面は、私を大よろこび
させた。「ダンボ」の酩酊のファンタジーもよかつた。

三島由紀夫「荒唐無稽」より

418 :名無しさん@また挑戦:2011/04/12(火) 20:35:33.36 ID:???
しかしやつぱり人間、この親愛感あるふしぎな動物、写真にその顔が出るだけでわれわれの感情移入を容易にし、
どんなありえない事件の中に彼が置かれても、心理的つながりを感じさせるこの動物が、はつきり登場して
ゐなくてはならない。写真はこの点でふしぎな説得力をもつてゐる。小説ではさうは行かない。
さうして彼は埋没した王国を探りに旅立ち、さまざまな奇怪な人物に会ひ、いくたびか地図を盗まれ、巻数半ばで、
想像を絶したふしぎな国土とその生活にとび込むのである。そこではミイラもよみがへり、美しい女王は千歳を閲し、
怪物は人語を発し、花々はあやしい触手をのばし、危難は一足ごとにあらゆる辻に身を伏せてうかがつてゐる。
それも決して喜劇であつてはならず、おそろしい厳粛さ真剣さが全巻を支配してゐなければならない。
私はいつもそんな映画にかつゑてゐる。そして私のいちばん嫌ひな映画といへば、それはいふまでもなく、あの
ホーム・ドラマといふ代物である。

三島由紀夫「荒唐無稽」より

419 :名無しさん@また挑戦:2011/04/13(水) 13:15:16.59 ID:???
女性は抽象精神とは無縁の徒である。音楽と建築は女の手によつてろくなものはできず、透明な抽象的構造を
いつもべたべたな感受性でよごしてしまふ。構成力の欠如、感受性の過剰、瑣末主義、無意味な具体性、低次の
現実主義、これらはみな女性的欠陥であり、芸術において女性的様式は問題なく「悪い」様式である。(中略)
実際芸術の堕落は、すべて女性の社会進出から起つてゐる。女が何かつべこべいふと、土性骨のすわらぬ
男性芸術家が、いつも妥協し屈服して来たのだ。あのフェミニストらしきフランスが、女に選挙権を与へるのを
いつまでも渋つてゐたのは、フランスが芸術の何たるかを知つてゐたからである。(中略)
道徳の堕落も亦、女性の側から起つてゐる。男性の仕事の能力を削減し、男性を性的存在にしばりつけるやうな
道徳が、女性の側から提唱され、アメリカの如きは女のおかげで惨澹たる被害を蒙つてゐる。悪しき人間主義は
いつも女性的なものである。男性固有の道徳、ローマ人の道徳は、キリスト教によつて普遍的か人間道徳へと
曲げられた。そのとき道徳の堕落がはじまつた。道徳の中性化が起つたのである。

三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

420 :名無しさん@また挑戦:2011/04/13(水) 13:18:35.60 ID:???
一夫一婦制度のごときは、道徳の性別を無視した神話的こじつけである。女性はそれを固執する。人間的立場から
固執するのだ。女にかういふ拠点を与へたことが、男性の道徳を崩壊させ、男はローマ人の廉潔を失つて、
ウソをつくことをおぼえたのである。男はそのウソつきを女から教はつた。キリスト教道徳は根本的に偽善を
包んでゐる。それは道徳的目標を、ありもしない普遍的人間性といふこと、神の前における人間の平等に置いて
ゐるからである。これな反して、古代の異教世界においては、人間たれ、といふことは、男たれ、といふことで
あつた。男は男性的美徳の発揚について道徳的責任があつた。なぜなら世界構造を理解し、その構築に手を貸し、
その支配を意志するのは男性の機能だからだ。男性からかういふ誇りを失はせた結果が、道徳専門家たる地位を
男性をして自ら捨てしめ、道徳に対してつべこべ女の口を出させ、つひには今日の道徳的瓦解を招いたものと
私は考へる。一方からいふと、男は女の進出のおかげで、道徳的責任を免れたのである。

三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

421 :名無しさん@また挑戦:2011/04/13(水) 13:22:00.96 ID:???
サディズムとマゾヒズムが紙一重であるやうに、女性に対するギャラントリィと女ぎらひとが紙一重であると
いふことに女自身が気がつくのは、まだずつと先のことであらう。女は馬鹿だから、なかなか気がつかないだらう。
私は女をだます気がないから、かうして嫌はれることを承知で直言を吐くけれども、女がその真相に気がつかない間は、
欺瞞に熱中する男の勝利はまだ当分つづくだらう。男が欺瞞を弄するといふことは男性として恥づべきことであり、
もともとこの方法は女性の方法の逆用であるが、それだけに最も功を奏するやり方である。「危険な関係」の
ヴァルモン子爵は、(中略)女性崇拝のあらゆる言辞を最高の誠実さを以てつらね、女の心をとろかす甘言を
総動員して、さて女が一度身を任せると、敝履(へいり)の如く捨ててかへりみない。(中略)
女に対する最大の侮蔑は、男性の欲望の本質の中にそなはつてゐる。女ぎらひの侮蔑などに目くじら立てる女は、
そのへんがおぼこなのである。

三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

422 :名無しさん@また挑戦:2011/04/13(水) 13:28:29.99 ID:???
(中略)
私が大体女を低級で男を高級だと思ふのは、人間の文化といふものが、男の生殖作用の余力を傾注して作り上げた
ものだと考へてゐるからである。蟻は空中で結婚して、交尾ののち、役目を果した雄がたちまち斃れるが、雄の
本質的役割が生殖にあるなら、蟻のまねをして、最初の性交のあとで男はすぐ死ねばよいのであつた。
omne animal post coitum triste(なべての動物は性交のあとに悲し)といふのは、この無力感と死の予感の痕跡が
のこつてゐるのであらう。が、概してこの悲しみは、女には少く、男には甚だしいのが常であつて、人間の文化は
この悲しみ、この無力感と死の予感、この感情の剰余物から生れたのである。したがつて芸術に限らず、
文化そのものがもともと贅沢な存在である。芸術家の余計者意識の根源はそこにあるので、余計者たるに悩むことは、
人間たるに悩むことと同然である。

三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

423 :名無しさん@また挑戦:2011/04/13(水) 13:31:10.32 ID:???
(中略)
私が大体女を低級で男を高級だと思ふのは、人間の文化といふものが、男の生殖作用の余力を傾注して作り上げた
ものだと考へてゐるからである。蟻は空中で結婚して、交尾ののち、役目を果した雄がたちまち斃れるが、雄の
本質的役割が生殖にあるなら、蟻のまねをして、最初の性交のあとで男はすぐ死ねばよいのであつた。
omne animal post coitum triste(なべての動物は性交のあとに悲し)といふのは、この無力感と死の予感の痕跡が
のこつてゐるのであらう。が、概してこの悲しみは、女には少く、男には甚だしいのが常であつて、人間の文化は
この悲しみ、この無力感と死の予感、この感情の剰余物から生れたのである。したがつて芸術に限らず、
文化そのものがもともと贅沢な存在である。芸術家の余計者意識の根源はそこにあるので、余計者たるに悩むことは、
人間たるに悩むことと同然である。
男は取り残される。快楽のあとに、姙娠の予感もなく、育児の希望もなく、取り残される。この孤独が生産的な
文化の母胎であつた。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

424 :名無しさん@また挑戦:2011/04/13(水) 13:45:52.43 ID:???
したがつて女性は、芸術ひろく文化の原体験を味はふことができぬのである。文化の進歩につれて、この孤独の意識を
先天的に持つた者が、芸術家として生れ、芸術の専門家になるのだ。私は芸術家志望の女性に会ふと、女優か
女声歌手になるのなら格別、女に天才といふものが理論的にありえないといふことに、どうして気がつかないかと
首をひねらざるをえない。
あらゆる点で女は女を知らない。いちいち男に自分のことを教へてもらつてゐる始末である。教師的趣味の男が
いつぱいゐるから、それでどうにか持つてゐるが、丁度眼鏡を額にずらし上げてゐるのを忘れて、一生けんめい
眼鏡をさがしてゐる人のやうに、女は女性といふ眼鏡をいつも額にずらして忘れてゐるのだ。(時には故意に!)
こんな歯がゆい眺めはなく、こんな面白くも可笑しくもない、腹の立つ光景といふものはない。私はそんな明察を
欠いた人間と附合ふのはごめんである。うつかり附合つてごらん。あたしの眼鏡をどこへ隠したのよ、とつかみ
かかつてくるに決つてゐる。
もつとも女が自分の本質をはつきり知つた時は、おそらく彼女は女ではない何か別のものであらう。

三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

425 :名無しさん@また挑戦:2011/04/13(水) 13:52:59.43 ID:???
この世で最も怖ろしい孤独は、道徳的孤独であるやうに私には思はれる。


良心といふ言葉は、あいまいな用語である。もしくは人為的な用語である。良心以前に、人の心を苛むものが
どこかにあるのだ。

三島由紀夫「道徳と孤独」より


文化の本当の肉体的浸透力とは、表現不可能の領域をしてすら、おのづから表現の形態をとるにいたらしめる、
さういふ力なのだ。世界を裏返しにしてみせ、所与の存在が、ことごとく表現力を以て歩む出すことなのだ。
爛熟した文化は、知性の化物を生むだけではない。それは野獣をも生むのである。

三島由紀夫「ジャン・ジュネ」より


その苦悩によつて惚れられる小説家は数多いが、その青春によつて惚れられる小説家は稀有である。

三島由紀夫「『ラディゲ全集』について」より


愛情の裏附のある鋭い批評ほど、本当の批評はありません。さういふ批評は、そして、すぐれた読者にしか
できないので、はじめから冷たい批評の物差で物を読む人からは生れません。

三島由紀夫「作品を忘れないで……人生の教師ではない私――読者へのてがみ」より

426 :名無しさん@また挑戦:2011/04/13(水) 14:02:39.37 ID:???
男といふものは、もしかすると通念に反して、弱い、脆い、はかないものかもしれないので、男たちを支へて
鼓舞するために、男性の美徳といふ枷が発明されてゐたのかもしれないのである。さうして正直なところ、女は
男よりも少なからずバカであるから、卑劣や嫉妬やウソつきや怯惰などの人間の弱点を、無意識に軽々しく露出し、
しかも「女はかよわいもの」といふ金科玉条を楯にとつて、人間全体の寛恕を要求して来たのかもしれない。

三島由紀夫「男といふものは」より


恥多き思ひ出は、またたのしい思ひ出でもある。

三島由紀夫「『恥』」より


私は自分の顔をさう好きではない。しかし大きらひだと云つては嘘になる。自分の顔を大きらひだといふ奴は、
よほど己惚れのつよい奴だ。自分の顔と折合いをつけながら、だんだんに年をとつてゆくのは賢明な方法である。
六千か七十になれば、いい顔だと云つてくれる人も現はれるだらう。

三島由紀夫「私の顔」より

427 :名無しさん@また挑戦:2011/04/13(水) 20:07:06.55 ID:???
文学とは、青年らしくない卑怯な仕業だ、といふ意識が、いつも私の心の片隅にあつた。本当の青年だつたら、
矛盾と不正に誠実に激昂して、殺されるか、自殺するか、すべきなのだ。


青年だけがおのれの個性の劇を誠実に演じることができる。


青年期が空白な役割にすぎぬといふ思ひは、私から去らない。芸術家にとつて本当に重要な時期は、少年期、
それよりもさらに、幼年期であらう。


肉体の若さと精神の若さとが、或る種の植物の花と葉のやうに、決して同時にあらはれないものだと考へる私は、
青年における精神を、形成過程に在るものとして以外は、高く評価しないのである。肉体が衰へなくては、
本当の精神は生れて来ないのだ。私はもつぱら「知的青春」なるものにうつつを抜かしてゐる青年に抱く嫌悪は
ここから生じる。

三島由紀夫「空白の役割」より

428 :名無しさん@また挑戦:2011/04/13(水) 20:10:35.77 ID:???
今日の時代では、青年の役割はすでに死に絶え、青年の世界は廃滅し、しかも古代希臘のやうに、老年の智恵に
青年が静かに耳傾けるやうな時代も、再びやつて来ない。孤独が今日の青年の置かれた状況であつて、青年の役割は
そこにしかない。それに誠実に直面して、そこから何ものかを掘り出して来ること以外にはない。


今日の時代では、自分の青春の特権に酔つてゐるやうな青年は、まるきり空つぽで見どころがなく、青春の特権などを
信じない青年だけが、誠実で見どころがあり、且つ青年の役割に忠実だといへるであらう。
さう思ふ一方、私にはやはり少年期の夢想が残つてゐて、アメリカ留学の一念にかられて、鱶のゐる海をハワイへ
泳ぎついた単純な青年などよりも、アジヤの風雲に乗じて一ト働きをし、時代に一つの青年の役割を確立するやうな、
さういふ豪放な若者の出てくるのを、待望する気持が失せない。
やはり青年のためにだけ在り、青年に本当にふさはしい世界は、行動の世界しかないからである。

三島由紀夫「空白の役割」より

429 :名無しさん@また挑戦:2011/04/13(水) 20:13:34.91 ID:???
諷刺は人を刺し、おのれを刺す。


精神と精神との共分母にくらべれば、顔と顔との、単に目口鼻などといふ共分母は、それが全く機能的な意味を
しか想起させない、いかに稀薄な、いかに小さなものであらうか。われわれが、お互ひにどんなに共感し
共鳴しようと、相手の顔はわれわれの精神の外側にあり、われわれ自身の顔はといふと、共感した精神のなかに
没してしまつて、あたかも存在しないかのやうであり、そこでこれに反して相手の顔は、いかにも存在を堂々と
主張してゐる不公平なものに思はれる。相手の顔に対する、われわれの要請は果てしれない。
だが、要するに、私は顔といふものを信じる。明晰さを愛する人間は、顔を、肉体を、目に見えるままの素面を
信じることに落ちつくものだ。といふのも、最後の謎、最後の神秘は、そこにしかないからだ。


絶対的な誠実といふものはない。一つの誠実、個別的な誠実があるだけだ。

三島由紀夫「福田恆存氏の顔」より

430 :名無しさん@また挑戦:2011/04/14(木) 13:34:10.68 ID:???
役者の好き嫌ひは、友達にも肌の合ふ人と合はない人があるやうなものです。


美しい花を咲かせるためには塵芥が要る如く、芸術は多く汚い所から生れるものです。

三島由紀夫「好きな芝居、好きな役者――歌舞伎と私」より


歌舞伎はよく生き永らへてゐる。内容が古びても、文体だけによつて小説が生き永らへるやうに、歌舞伎の
スタイルだけは、おそらく不死であらう。


様式こそ、見かけの内容よりもつと深いものを訴へかけてゐる。

三島由紀夫「芸術時評」より


「潮騒」における思春期の設定は小説の道具にすぎず、私は人間の思春期なんか、別に重大に変へてゐない。
あの小説で私の書きたかつたのは、小説の登場人物から「個性」といふものを全く取去つた架空の人間像であつて、
そのためにわざわざ、遠い小島へ話をもつてゆき、年齢もとりわけ少年期の人物を選んだわけである。それなら
何故子供を書かないか? 冗談ではない。子供は少年よりもずつと個性的な存在なのである。

三島由紀夫「映画の中の思春期」より

431 :名無しさん@また挑戦:2011/04/14(木) 14:44:48.68 ID:???
中年や老人の奇癖は滑稽で時には風趣もあるが、未熟な青年の奇癖といふものは、醜く、わざとらしくなりがちだ。

三島由紀夫「あとがき(『若人よ蘇れ』)」より


われわれのふだんの会話を注意してきいてゐれば、すこし頭のよい人間は、物事を整理して喋つてゐる。筋道を立て、
簡潔に喋ることが、社会生活の第一条件といふべきである。心理的な会話なんて、さうたんとはない。頭のわるい
女だの、甘い抒情的な男に限つて、廻りくどい会話をするものである。

三島由紀夫「『若人よ蘇れ』について」より


人間のやることは残酷である。鳥羽の真珠島で、真珠の肉を手術して、人工の核を押し込むところを見たが、
玲瓏(れいろう)たる真珠ができるまでの貝の苦痛が、まざまざと想像された。このごろ流行のダムも、この規模を
大きくしたやうなものである。ダム工事の行はれる地点は、大てい純潔な自然で、風光は極めて美しい。その
自然の肉に、コンクリートと鉄の異物が押し込まれ、自然の永い苦痛がはじまる。

三島由紀夫「『沈める滝』について」より

432 :名無しさん@また挑戦:2011/04/14(木) 15:10:10.55 ID:???
外国の話は、その外国へ行つた人とだけ話題にすべきものだと思ふ。いはば共通の女の思ひ出を語るやうに
語るべきもので、人に吹聴したら早速キザになるのだ。

三島由紀夫「外遊精算書」より


ランボオとは、体験としてしか語られないある存在らしい。


絶対の無垢といふ、わかりやすいものを前にして、これほど仰々しい言葉の行列を並べてみせる、ミラア及び
西洋人といふものを、私はどうも鬱陶しく思ふ。この評論こそは、ランボオの呪つた文明的錯雑そのものではないか?

三島由紀夫「文明的錯雑そのもの――ヘンリ・ミラア作 小西茂也訳『ランボオ論』」より


いくら名だたる野球選手でも、水泳の名手でも、ゲーテの名も知らず、万葉集の何たるかも知らないでは一人前とは
いへますまい。私はそれと正反対の状況にありました。小説こそいくらか書いたが、肉体的には、レベル以下
ほとんどゼロでした。これでは一人前とはいへますまい。

三島由紀夫「信仰に似た運動――告知板」より

433 :名無しさん@また挑戦:2011/04/14(木) 15:15:19.94 ID:???
作者が自分の目で人生を眺め、人生がどうしてもかういふ風にしか見えないといふ場所に立つて書くのが、
要するに小説のリアリズムと呼ばれるべきである。

三島由紀夫「解説(川端康成『舞姫』)」より


私にとつての一つの宿命は、私が、「正当な論敵」の中にしか、本当の友を見出すことができない、といふ性癖を
もつてゐることである。

三島由紀夫「黛氏のこと」より


あらゆる年齢の、腐りやすい果実のやうな真実は、たとへそのもぎ方が拙劣で、果実をこはすやうな破目になつても、
とにかくもいでみなければわかるものではない。


死に急ぎの見本は特攻隊だが、それと同じ程度に、「生き急ぎ」もパセティックで美しいのだ。

三島由紀夫「はしがき(『十代作家作品集』)」より


芝居はイデェだ。
イデェなくして、何のドラマツルギーぞや。何の舞台技巧ぞや。何の職人的作劇経験ぞや。


人間の現在の行為は、ことごとく無駄ではない。そのうちの、未来に対して有効な行為だけが有効なのではない。

三島由紀夫「ドラマに於ける未来」より

434 :名無しさん@また挑戦:2011/04/14(木) 15:19:19.17 ID:???
男性が持つてゐる特長で、女性にたえて見られぬものは、ユーモアである。


ユーモアとは、ともすれば男性の気弱な楯、男同士の社会の相互防衛の手段かもしれないのである。

三島由紀夫「長島さんのこと――あるひは現代アマゾン頌」より


芸術家が自分の美徳に殉ずることは、悪徳に殉ずることと同じくらいに、云ひやすくして行ひ難いことだ。
われわれは、恥かしながら、みんな宙ぶらりんのところで生きてゐる。


死の予感の中で、死のむかうの転生の物語を書く。芸術家が真に自由なのはこの瞬間なのである。

三島由紀夫「加藤道夫氏のこと」より


表現の見地から見れば、食欲や飲酒欲は、エロや涙より、はるかに高尚な対象なのである。なぜなら、物を
食ひたかつたり、酒をのみたかつたりすれば、本を読むより実物を得るはうがたやすく、かういふ充たされやすい
欲望を、言葉で表現するといふことは、ティーターン的大業ではないか。

三島由紀夫「誨楽の書――吉田健一氏『酒に呑まれた頭』」より

435 :名無しさん@また挑戦:2011/04/14(木) 15:32:18.07 ID:???
僕は青春の花のさかりの美しい男女にいつも喝采を送る。ある年齢の堆積から来る美といふものも、わからぬではない。
しかしそれは女に限られてゐる。自分の母の年齢までの女の美しさは、みんなわかるつもりだ。母が七十になれば、
僕には七十の老婆の美もわかるやうになるだらう。ところで、男の年齢の累積は美しくない。それは男が成年期に
達すると、単なる男から、一個の抽象概念としての「人間」に脱皮するからであらう。世間で男ざかりなどと
いふのは、主としてこの後者の意味である。女はこれに反して、いつまでたつても女だ。女は第一お化粧をするから、
いつまでも美しいわけで、生地のままの男のはうが青春のさかりは短いのである。これは世間の定説に反した私の
確信ある学説で、世の女性に捧げる福音である。アレキサンダア大王が、死ぬまで、二十歳そこそこの自分の
肖像しか作らせなかつたといふ伝説は、古代ギリシャの知恵が、このマケドニヤの大帝の中に生きてゐた証拠と思はれる。

三島由紀夫「美しいと思ふ七人の人」より

436 :名無しさん@また挑戦:2011/04/14(木) 21:41:22.91 ID:???
張り合ひのない女ほど男にとつて張り合ひのある女はなく、物喜びをしないといふ特性は、愛されたいと思ふ女の
必ず持たねばならない特性であつて、かういふ女を愛する男は、大抵忠実な犬よりも無愛想な猫を愛するやうに
生れついてゐる。
(中略)
冷たさの魅力、不感症の魅力にこそ深淵が存在する。
物理的には、ものを燃え立たせるのは火だけであるのに、心理的には、ものを燃え立たせるものは氷に他ならない。
そしてこの種の冷たさには、ふしぎと人生の価値を転倒させる力がひそんでゐて、その前に立てば、あらゆる価値が
冷笑され、しかも冷笑される側では、そんな不遜な権利が、一体客観的に見て相手にそなはつてゐるかどうかを、
検討してみる余裕もないのである。
こんないら立たしい魅力も、しかし心を息(やす)ませないから、実は魅力の御本尊の自負してみるほど、
永続きはしないものである。

三島由紀夫「好きな女性」より

437 :名無しさん@また挑戦:2011/04/14(木) 21:45:36.48 ID:???
(中略)
ありがた迷惑なほどの女房気取も、時によつては男の心をくすぐるものである。かういふ女性の中には、どんなに
知識と経験を積んでも、自分でどうしても乗り超えられない或る根本的な無智が住んでゐて、その無智が決して
節度といふことの教へを垂れないから、いつも彼女自身の過剰な感情のなかでじたばたしてゐるのである。
(中略)
恋愛では手放しの献身が手放しの己惚れと結びついてゐる場合が決して少なくない。しかし計量できない天文学的
数字の過剰な感情の中にとぢこめられてゐる女性といふものは、はたで想像するほど男をうるさがらせてはゐないのだ。
それは過剰の揺藍(ゆりかご)に男を乗せて快くゆすぶり、この世の疑はしいことやさまざまなことから目を
つぶらせて、男をしばらく高いいびきで眠らせてしまふのである。
私は時には、さういふ催眠剤的な女性をも好む。
これはさつきの議論と矛盾するやうでもあるが、一方、認識慾のつよい男ほど、催眠剤を愛用する傾きも強く、
その必要も大きいといふことが云へるだらう。

三島由紀夫「好きな女性」より

438 :名無しさん@また挑戦:2011/04/14(木) 21:52:53.44 ID:???
この世にはいろんな種類の愛らしさがある。しかし可愛気のないものに、永続的な愛情を注ぐことは困難であらう。
美しいと謂はれてゐる女の人工的な計算された可愛気は、たいていの場合挫折する。実に美しさは誤算の能力に
正比例する。
(中略)
可愛気は結局、天賦のものであり天真のものである。
そしてかういふものに対してなら、敗北する価値があるのだ。
ほんのちよつとした心づかひ、洋服の襟についた糸屑をとつてくれること、そんなことは誰しもすることであるが、
技巧は、かういふ些細なところでいつも正体をあらはしてしまふ。
私は小鳥を愛する女の心情の中にさへ、暗い不可解な無意識の心理を、忖度せずにはゐられない不幸な人間であるが、
たまには、(時には気候の加減で)さういふ時の女にかけがへのない天真さを発見する。
何かわれわれの庇護したい感情に愬へるものは、おそらく憐れつぽいものではなくて、庇護しなければ忽ち
汚れてしまふ、さういふ危険を感じさせる或るものなのであらう。ところが一方には何の危険も感じさせない
潔らかさや天真さといふものもあり、さういふものは却つて私を怖気づかせてしまふから妙である。

三島由紀夫「好きな女性」より

439 :名無しさん@また挑戦:2011/04/15(金) 14:20:04.65 ID:???
新聞雑誌の批評は、こぞつて「ローマの休日」のはうへ軍配をあげてゐるやうである。私はむしろ、「サブリナ」の
はうへ軍配をあげる。グレゴリイ・ペックのやうな大根が出て来ないだけでも大助かりである。
どうして時々、私とかう評価が喰ひちがふのか。一例がチャップリンの近作でも、「ライムライト」を私は好かない。
「殺人狂時代」のはうが遥かに面白かつた。ところが世間の評価は逆であつた。
ディズニイの漫画でも、「不思議の国のアリス」は、アメリカ文明生活の狂躁の象徴のやうで、殊に気違ひ帽子屋と
気違ひ兎のパーティーなどは絶妙だと思つた。それが批評はこの作品をあまり認めたがらない。
(中略)
私はお客を置いて、とつとと自分の論理を進めてゆく映画が好きだ。「アリス」のやうなきちがひの論理、
夢の論理であつてもかまはない。「サブリナ」も気持よく自分の論理をとつとと進めてゆく映画である。もつとも
その点では、「イヴの総て」ほどの作品はめつたにないが。

三島由紀夫「アメリカ映画ノオト『麗しのサブリナ』」より

440 :名無しさん@また挑戦:2011/04/15(金) 14:24:19.62 ID:???
こいつは正真正銘の傑作だ。もつとも人間といふ厄介な代物が出て来なければ傑作を生み出すのは、(技術的な
労苦は別として)、さほど難中の難事ではなからうが。
私は子供のころから、昆虫や小動物の生活を書いた本が大好きで、ハドスンの本からパンパス(大草原)にあこがれ、
アルゼンチンへパンパスを見に行くつもりでゐたが、ヴィザがとれなくて行けなかつた。そこでこの映画で、
アメリカ西部の砂漠の「鳥獣映画」に堪能した。
私はどういふものか、山猫、カンガルー鼠、栗鼠みたいなムクムクしたものが好きだ。あるひはチョロチョロ
したものが。しかし、伊達者でもつとも感心したのは赤尾鷹のすばらしい横顔と、翼をひろげた壮麗なポーズと
である。これにはハリウッドのよほどの伊達者もちよつと敵ふまい。

三島由紀夫「アメリカ映画ノオト『砂漠は生きてゐる』」より

441 :名無しさん@また挑戦:2011/04/16(土) 20:48:15.29 ID:???
私の主義としては、匿名の原稿は一切引受けない。これは匿名批評を否定するから引受けないのではなく、
ウィスキーは決してストレイトで呑まないとか、飛行機には決して乗らないとか、(中略)さういふことを
力んで主義にしてゐる人のやうに、私も力んで主義にしてゐるにすぎない。健康上の理由のほか、大した根拠は
ないのである。
一般的に匿名批評は是が非かといふことになると、人のやることにはあまり口を出したくないから、勝手にやつて
もらつたらいい。ただ困るのは、匿名批評といふものは、人のやることにいちいち口を出したがる立場だから、
こつちがかういふ態度でゐれば、おのづと火の粉はこちらの身にかかり、無防禦の受身になつたも同様である。
事実私も、匿名といふ匿名で、袋叩きに合つた経験があり、さういふときはどうして覆面同士の気がピタリと
合ふのか、面白いほどである。
自分がやらないから、匿名家の心理といふものはわからぬが、一年もつづけてやると、自己中毒症状に陥るのでは
ないかと思はれる。ミスティフィケイションの心理には、永続性がなく、必ず地獄のやうな倦怠に陥る。

三島由紀夫「匿名批評是非」より

442 :名無しさん@また挑戦:2011/04/16(土) 20:53:09.00 ID:???
一生ミスティフィケイションをとほして平気だつた文学者といふものもあるが、それは実はミスティフィケイションと
見えたものが、その人の素顔だつたのである。野暮な議論だが、およそ文筆活動といふものは、自我の拡張の
喜びであつて、署名はその最低限度のあらはれである。できることなら、私、私、私、私、と百万べんも書きたいのだ。
一方、匿名の趣味は、覆面の英雄を喜ぶ民衆の趣味に支へられるから、それを読む民衆ははじめから、公平な
最大公約数的意見だなどと思つて読みはしない。(中略)さうすると、匿名作家は、おしのびの快楽にいつしか
熱中し、署名附文筆よりももつと絶対な自我の拡張のよろこびを味はつてゐるかもしれないのである。かういふ
心理が自家中毒を起すと私は言ひたいのだが、しかしそれも私のひがみの一種であらう。
結論をいふと、現代の匿名批評には、批評される対象にとつての害悪、および読者にとつての害悪はほとんど
みとめられず、ただ(余計なお節介であらうが)匿名家自身の健康に害悪がありはしないか、と憂慮されるのみである。

三島由紀夫「匿名批評是非」より

443 :名無しさん@また挑戦:2011/04/16(土) 20:57:52.11 ID:???
私は自殺をする人間がきらひである。自殺にも一種の勇気を要するし、私自身も自殺を考へた経験があり、自殺を
敢行しなかつたのは単に私の怯惰からだとは思つてゐるが、自殺する文学者といふものを、どうも尊敬できない。
武士には武士の徳目があつて、切腹やその他の自決は、かれらの道徳律の内部にあつては、作戦や突撃や一騎打と
同一線上にある行為の一種にすぎない。だから私は、武士の自殺といふものはみとめる。しかし文学者の自殺は
みとめない。日々の製作の労苦や喜びを、作家の行為とするなら、自殺は決してその同一線上にある行為では
あるまい。行為の範疇がちがつてゐる。病気や発狂などの他動的な力が、突然作家の生活におそひかかつて、
後になつて、彼の芸術の象徴的な意味を帯びるのとは話がちがふ。自殺と芸術とは、病気と医薬のやうな対立的な
ものなのだ。医薬がもし利かなくて病気が治せなかつたといふなら、それは医薬がわるかつたのだ。これは少くとも、
患者の心理でなくても、医師の確信であるべきである。

三島由紀夫「芥川龍之介について」より

444 :名無しさん@また挑戦:2011/04/21(木) 13:16:00.48 ID:???
大体、左翼の人は「ファッシスト」と呼ぶことを最大の悪口だと思つてゐるから、これは世間一般の言葉に
飜訳すれば「大馬鹿野郎」とか「へうろく玉」程度の意味であらう。(中略)
私は大体、ファッシズムを純粋に西欧的な現象として、主にイタリーのその本家とドイツのナチズムとに限定して
考へるのが、本筋だと考へてゐる。(中略)
日本のいはゆるファッシストたちは廿世紀的現象としてのファッシズムとは縁が遠かつたといふほかはない。
何故なら戦前の日本の右翼は、悉く天皇主義者である。彼らの思想は極度に人工的な体系を欠いてゐた。つまり
議会制民主々義は技術的政治形態であるから、欽定憲法の下でも、いくばくの矛盾を容認しつつ、成立しうる。
しかしファッシズムは、人工的な世界観的政治形態であるから、実は自然発生的な天皇制とはもつとも相容れない
筈であつた。私は戦時中の日本のファッシズムといはれるものを、その言論統制その他におけるあらゆる
ナチス化をも含めて、技術的な政治の理論的混乱とより以上は考へないのである。

三島由紀夫「新ファッシズム論」より

445 :名無しさん@また挑戦:2011/04/21(木) 13:21:30.25 ID:???
軍部独裁は歴史上にしばしば見られたところで何の新味もなく、統制経済と言論統制は世界観的政治の技術的
模倣にすぎず、かれらの犯した悪は、ファッシズムの悪といふより、人間悪、権力悪の表現であつた。(中略)
また日本のいはゆるファッシストは、インテリゲンチャの味方を持たなかつた。日本のハイカラなインテリゲンチャは、
日の丸の鉢巻や詩吟や紋付の羽織袴にはついて行かなかつた。しかるに西欧のファッシズムは、プチ・
ブゥルジョアジーの革命と考へられてゐる。(中略)ファッシズムが多数の自由職業者・専門家層に呼びかけ、
インテリゲンチャの人心を収攬したことはたしかであつた。
(中略)
ファッシズムの発生はヨーロッパの十九世紀後半から今世紀初頭にかけての精神状況と切り離せぬ関係を持つてゐる。
そしてファッシズムの指導者自体がまぎれもないニヒリストであつた。日本の右翼の楽天主義と、ファッシズムほど
程遠いものはない。

三島由紀夫「新ファッシズム論」より

446 :名無しさん@また挑戦:2011/04/21(木) 13:24:10.56 ID:???
(中略)
私は「自由世界」といふ言葉をきくたびに吹き出さずにはゐられない。本来相対的観念である「自由」なるものが、
このやうな絶対的な一理念の姿を装うてゐるのは可笑しいことである。絶対主義のかういふ無理な模倣のおかげで、
今日世界をおほうてゐるのは、政治における理想主義の害悪なのである。
(中略)
暴力と残酷さは人間に普遍的である。それは正に、人間の直下に棲息してゐる。今日店頭で売られてゐる雑誌に、
縄で縛られて苦しむ女の写真が氾濫してゐるのを見れば、いかにいたるところにサーディストが充満し、
そしらぬ顔でコーヒーを呑んだり、パチンコに興じたりしてゐるかがわかるだらう。同様にファッシズムも
普遍的である。殊に廿世紀に於て、いやしくも絶望の存在するところには、必ずファッシズムの萌芽がひそんでゐると
云つても過言ではない。

三島由紀夫「新ファッシズム論」より

447 :名無しさん@また挑戦:2011/04/27(水) 15:42:57.78 ID:???
先頃、妙心寺にお世話になつて、修行道場を拝見したり、霊雲院に一泊を許されたりして、大そう感銘が深く、
得るところが多かつた。
在家の者が、たつた一日のぞいただけで、何か得たやうな気のするのは思ひ上りであらうが、私にとつて興味の
あつたのは、生活全般にわたるその極度の簡潔さであつた。(中略)
典座にはもちろんガスもなく、朝の洗面の水もツルベで上げる。かういふことは殊更現代文明に白眼をむいて
ゐるやうにも見えるが、さうではない。ガスを引かぬこと、ツルベで水をくみ上げること、さういふことは皆、
思想の要請なのである。現代人は思想といふものを、ここまで徹底させる能力を失つて、思想といへば、活字の
中にしかないものだと思つてゐる。もしガスを引き、タイル張りのガス風呂を置けば、思想の一角は崩れ、
あらゆる妥協が、精神生活をも犯さずにはゐないといふことを、われわれは忘れてゐる。
さて、話にきくと、ある地方の、収入のよい禅寺に、電気洗濯機を置いてゐる寺があるといふことである。
電気洗濯機を置いた禅寺とは、もはや禅寺ではないのだ。

三島由紀夫「電気洗濯機の問題」より

448 :名無しさん@また挑戦:2011/04/27(水) 15:46:29.72 ID:???
それについて、英国の歴史家アーノルド・トインビーが面白い例をあげてゐる。
「文化の交流では次から次へと事件が起るに決つてゐる」
といふ法則をトインビーは立て、それを知らないで、誤算して失敗した十九世紀のトルコの例と、それを深く
知悉してゐたガンジーの例とをあげてゐるのである。
(中略)
「彼(ガンジー)は、もしインド教徒が西欧で西欧の機械によつて作られた服を着るのを止めなければ」、いづれは、
インドへ英国の機械を輸入し、田畑の仕事をやめ、工場へ働らきに行き、娯楽も西欧風になり、魂も西欧風に
なるだらうと考へた。彼はインド教徒の魂を救ふためには、西欧との経済的な紐帯を絶つほかはないとさとり、
自ら手本を示して、インドの綿を昔風の方法で手で紡いで織る仕事に従事した。かくてガンジーと糸車とは
切つても切れぬものになつた。
ガンジーは文化の交流の冷酷な法則と、思想を守る者の態度を知つてゐたのである。
ガンジーは、すべての禅寺に電気洗濯機をそなへるやうになれば、禅といふものは死滅する、といふことを、
予言してゐたやうに思はれる。

三島由紀夫「電気洗濯機の問題」より

449 :名無しさん@また挑戦:2011/04/27(水) 17:03:20.15 ID:???
オルテガの史観は、所与の事実をそのまま歴史とはみとめない。(中略)
これは結局、キリスト教徒の歴史観のうちにあらはれた世代の観念である。世代を媒体にして、歴史的事実が
形成されるといふ世代論である。
私たちは歴史といふものを、必ずしもさういふ風に考へてゐない。太平洋戦争は、ともかく事件であつた。
その全部がこのやうな唯心論的史観で説明されようとは思はれぬ。あの戦争の核心には、われわれのうけとり方が
どうあらうと不変の、何かカチンとした、とてつもない「物」があつた。その「物」がわれわれの頭にのしかかつて
ゐた。その物は不感で、こちらをまで、不感にしてしまつてゐた。
(中略)
今の三十代は、特攻隊のもつとも多く出た世代であるが、特攻隊の歴史感覚と、オルテガ流の「理念のなかに
おける再体験の試み」といふ歴史感覚ほど、相隔たること遠いものはない。
私には、今も、戦争体験はオルテガ流に甦つては来ない。特攻隊は歴史の中に突入し、埋もれた。われわれは
偶然生き残つて、歴史の外に取り残された。私は歴史の外にある自分の存在理由をたづねて、今日に及んだのである。

三島由紀夫31歳「歴史の外に自分をたづねて――三十代の処生」より

450 :名無しさん@また挑戦:2011/06/07(火) 12:30:38.48 ID:???
丸山明宏君が、浮世の浮華な人気を離れてから久しく、そのうちに徐々に徐々に、本物の光りを放ちだしたことは、
具眼の士と云はうか、「具耳」の士には、既にみとめられてゐたことである。彼は自ら作詞し、自ら作曲し、
自ら歌ふことによつて、ほんたうの日本の歌へ向つて進んで行つた。ペーソスとユーモアと官能と粋と、しかも
それを大根(おおね)のところで支へる彼の深い素朴さと、ひよわさうにみえて実は怖ろしいほどの強靭さと、
これが、丸山明宏のすべてであり、その抒情のすべてである。彼の風姿には元禄の美少年の遠い反映があり、
彼の声には廃坑の炭坑夫の嘆きぶりの力強さがあり、そして、彼はあくまでも銀の歌手であり、暁の明星で
あるよりは、宵の明星なのだ。彼の歌はどんなに希望に燃えて歌はれても、朝を告げ知らすのではなく、夜の到来を
告げる。(中略)冬来りなば、春遠からじ。夜来りなば、朝遠からじ。彼の歌にひそむ未来と希望は、あからさまな
直接なものではなく、夜のヴェールに幾重にも包まれて、実にさりげなく、つつましくさし出されてゐるのである。

三島由紀夫40歳「夜を告げる星(丸山明宏リサイタルに寄せて)」より

451 :名無しさん@また挑戦:2011/12/10(土) 17:33:23.35 ID:???


452 : 【12.5m】 電脳プリオン ◆3YKmpu7JR7Ic :2012/06/23(土) 22:18:49.91 ID:??? ?PLT(12079)
1は使い切らないのか

453 : 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(4+0:8) :2013/04/02(火) 01:13:30.56 ID:???
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      弋ミニ∨::::::::メ弋゙多        ̄  !::}::l::::i:i::::::`、  おまえは何を言っているんだ
       ヽ:::::::ヽ::::::::\ ̄      `    }::ハi:::jノヽ:::::::\
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454 : 忍法帖【Lv=18,xxxPT】(3+0:8) :2013/04/09(火) 01:01:22.24 ID:???
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455 : 忍法帖【Lv=29,xxxPT】(7+0:8) :2013/04/20(土) 00:06:02.96 ID:???
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456 : 忍法帖【Lv=30,xxxPT】(8+0:8) :2013/04/21(日) 00:30:34.18 ID:???
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457 : 忍法帖【Lv=31,xxxPT】(8+0:8) :2013/04/24(水) 00:24:19.44 ID:???
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458 : 忍法帖【Lv=32,xxxPT】(8+0:8) :2013/04/25(木) 00:18:32.52 ID:???
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459 : 忍法帖【Lv=33,xxxPT】(8+0:8) :2013/04/26(金) 00:58:13.14 ID:???
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460 : 忍法帖【Lv=34,xxxPT】(8+0:8) :2013/04/27(土) 00:40:17.32 ID:???
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461 : 忍法帖【Lv=35,xxxPT】(7+0:8) :2013/04/28(日) 00:36:35.41 ID:???
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462 : 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:8) :2013/06/16(日) 14:17:45.35 ID:???
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463 : :2013/06/16(日) 22:52:26.45 ID:???
 

464 : 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(3+0:8) :2013/06/22(土) 00:16:28.57 ID:???
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465 : 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(4+0:8) :2013/06/23(日) 01:01:27.96 ID:???
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466 : 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(4+0:8) :2013/06/24(月) 00:45:40.84 ID:???
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467 : 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(4+0:8) :2013/06/25(火) 00:29:10.92 ID:???
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468 : 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(4+0:8) :2013/06/26(水) 00:15:52.72 ID:???
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469 : 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(4+0:8) :2013/06/27(木) 00:24:50.80 ID:???
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470 : :2013/06/27(木) 09:51:38.82 ID:???
 

471 : 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(5+0:8) :2013/06/28(金) 09:59:15.62 ID:???
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