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ミまとめ3

1 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 09:39:24 ID:???


2 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 09:40:01 ID:???
まやかしの平和主義、すばらしい速度で愚昧と偸安への坂道を辷り落ちてゆく人々、
にせものの経済的繁栄、狂ほしい享楽慾、世界政治の指導者たちの女のやうな虚栄心……
かういふものすべては、仕方なく手に委ねられた薔薇の花束の棘のやうに彼の指を刺した。
あとで考へればそれが恩寵の前触れであつたのだが、重一郎は世界がこんな悲境に陥つた責任を
自分一人の身に負うて苦しむやうになつた。誰かが苦しまなければならぬ。誰か一人でも、
この砕けおちた世界の硝子のかけらの上を、血を流して跣足で歩いてみせなければならぬ。


一人の人間が死苦にもだえてゐるとき、その苦痛がすべての人類に、ほんのわづかでも
苦痛の波動を及ぼさないとは何事だらう! こんな肉体的苦痛の明確な個人的限界に
つきあたると、重一郎は又しても深い絶望に沈んだ。どうしてあの原子爆弾の怖ろしい
苦痛ですら、個人的な苦痛に還元され、肉体的な体験だけで頒(わか)たれることに
なつたのだらう。あの原爆投下者の発狂の原因は、彼にはありありとわかるやうな気がした。

三島由紀夫「美しい星」より

3 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 09:40:22 ID:???
いやが上にも凡庸らしく、それが人に優れた人間の義務でもあり、また、唯一つの自衛の
手段なのだ。


今や人類は自ら築き上げた高度の文明との対決を迫られてをり、その文明の明智ある支配者と
なるか、それともその文明に使役された奴隷として亡びるか、二つに一つの決断を迫られてゐる。


アメリカは、広島への原爆の投下によつて、自らの手を汚しました。これは彼らの歴史の
永久に落ちぬ汚点となりました。


北方の人間のしつこい「進歩的」思想や、さういふものは猥雑でしかなかつた。彼が興味を
寄せるのは、個人的醇化、例外的な夢、反時代的な確証に尽きてゐた。彼があるべきだと
考へるものは、決してこの世に存在しない。しかし何かが存在しないなら、それが
存在するべきだつた。これは美の倫理であり、芸術の倫理でもある筈だつたが、彼が芸術家で
なかつたら、どうすればよいのか? すでに存在してゐるものに存在への夢を寄せ、それらを
二重の存在に変へてしまひ、すべてを二重に透視すればよいのだ。

肉の交はりはそもそも心の交合の模倣であり、絶望から生れた余儀ない代償ではないだらうか。

三島由紀夫「美しい星」より

4 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 09:40:39 ID:???
偶然といふ言葉は、人間が自分の無知を湖塗しようとして、尤もらしく見せかけるために
作つた言葉だよ。
偶然とは、人間どもの理解をこえた高い必然が、ふだんは厚いマントに身を隠してゐるのに、
ちらとその素肌の一部をのぞかせてしまつた現象なのだ。人智が探り得た最高の必然性は、
多分天体の運行だらうが、それよりさらに高度の、さらに精巧な必然は、まだ人間の目には
隠されてをり、わづかに迂遠な宗教的方法でそれを揣摩してゐるにすぎないのだ。宗教家が
神秘と呼び、科学者が偶然と呼ぶもの、そこにこそ真の必然が隠されてゐるのだが、天は
これを人間どもに、いかにも取るに足らぬもののやうに見せかけるために、悪戯つぽい、
不まじめな方法でちらつかせるにすぎない。人間どもはまことに単純で浅見だから、
まじめな哲学や緊急な現実問題やまともらしく見える現象には、持ち前の虚栄心から喜んで
飛びつくが、一見ばかばかしい事柄やノンセンスには、それ相応の軽い顧慮を払ふにすぎない。
かうして人間はいつも天の必然にだまし討ちにされる運命にあるのだ。

三島由紀夫「美しい星」より

5 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 09:40:55 ID:???
なぜなら天の必然の白い美しい素足の跡は、一見ばからしい偶然事のはうに、あらはに
印されてゐるのだから。
恋し合つてゐる者同士は、よく偶然に会ふ羽目になるものだ。それだけならふしぎもないが、
憎み合つてゐて、お互ひに避けたいと思つてゐる同士も、よく偶然に会ふ羽目になるものだ。
この二例を人間の論理で統一すると、愛憎いづれにしろ、関心を持つてゐる人間同士は
否応なしに偶然に会ふといふことになる。人間の論理はそれ以上は進まない。しかし
われわれ宇宙人の鳥瞰的な目は、もつと広大な展望を持つてゐる。そこから見ると、関心を
抱き合ひつつ偶然に会ふ人の数とは比べものにならぬほど、人間どもは、電車の中、町中で、
何ら関心を持ち合はない無数の他人とも、時々刻々、偶然に会つてゐるのだ。おそらく
一生に一度しか会はない人たちと、奇蹟的にも、日々、偶然に会つてゐるのだ。ここまで
ひろげられた偶然は、もう大きな見えない必然と云ふほかはあるまい。仏教徒だけが
この必然を洞察して、『一樹の蔭』とか『袖触れ合ふも他生の縁』とかの美しい隠喩で
それを表現した。

三島由紀夫「美しい星」より

6 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 09:41:11 ID:???
そこには人間の存在にかすかに余影をとどめてゐる『星の特質』がうかがはれ、天体の
精妙な運行の、遠い反映が認められるのだ。実はそこには、それよりもさらに高い必然の
網目の影も落ちかかつてゐるのだが……。
この地球の無秩序も、全然宇宙の諧和と異質なものではないのだから、われわれは絶望的に
なることは一つもない。


このごろ私にはやうやくわかりかけて来たのだが、かつてあれほど私を悩ました地上の人々や
事物のばらばらな姿は、天の配慮かもしれないのだ。といふのは、宇宙的調和と統一の時が
近づくに従つて、天の必然が白熱した機械のやうに昂進し、そのことが却つて、人間の考へる
論理的必然的聨関ではどうにも辻褄の合はぬほど、玩具箱を引つくりかへしたやうな状態を
地上に作りだしてしまつたにちがひないのだ。そのためわれわれも身のまはりにたえず
注意を払つて、一見ばかばかしい偶然の発生を記録しておいたはうがいい。小さな事物の
つまらない偶然の暗号が、これから地上には加速度にふえて行くだらうと私は見てゐる。

三島由紀夫「美しい星」より

7 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 09:44:57 ID:???
去年の薔薇は丸く小さく、死んだ睾丸のやうであつた。かぼそく風に揺れる枝頭にあつて、
乾き果てた花弁が時折灰のやうに崩れるために、崩れた残りの花弁はジグザグの縁をしてゐた。
羽黒はその花弁に手をふれて、さらにその縁を欠いた。すると、指はほとんど力を入れて
ゐないのに、薔薇は壊れて彼の指紋をこなごなの砕片でまぶした。
生きながら焚刑に処されて、形を保つたまま灰になつた薔薇、……悪の美しい二重の形態。
――羽黒は確信してゐた。この世の形態はみんないつはりであり、滅亡でさへ形態をもち、
その形態にあざむかれてゐると。
実際、人類の滅亡を惹起するのに、彼は力を用ひる必要があるだらうか。今しがた彼の指が、
かすかに触れるばかりで崩壊した薔薇のやうに、人間の世界も潰(つひ)え去るのでは
なからうか。いや、すでにそれは死に絶え、ただ形態だけを保つてゐるのではなからうか。
……こんな考へが時折心に兆すと、羽黒はいそいで邪念としてそれをしりぞけた。こんな
考へこそ彼の使命を等閑(なほざり)にさせるものだ。

三島由紀夫「美しい星」より

8 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 09:45:32 ID:???
死は今や美しい雲の形で地球人を取り巻いてゐた。夕空に映える高い紅や紫の雲は、みんな
有毒だつた。見えない死のたえまない浸潤。あの空のはるか高みにふりまかれた毒が、
地に降りて、野菜や牛乳を通して、人間の骨の奥につひに宿りを定める春が来てゐた。
幽暗な棲家を求めて、地上のかがやかしい田園の動植物の体をかいくぐつて、倦まない旅を
つづける微細な死は、いよいよ居を定めると、生きてゐる人間たちに、その肉体の不朽な
部分の本質を、すなはち骨の本質を高らかに告げ知らせるのだ。死ぬまでは閑却されてゐた
人間の骨が、生きながら喇叭のやうに歌ひだすのだ。それらの死は、日を浴びた美しい野菜畑や、
緑の森と小川を控へた牧場や、すべて花と蜜蜂にあふれた風景の只中からやつてくる。
ピクニックの人々は、自然の中にこまかく織り込まれた死と呼応して、自分たちの中の骨が
歌ひだすのを感じるにちがひない。人間に不朽なものは骨だけであり、死の灰は肉を
滅ぼしこそすれ、骨の美しく涸れた簡素なすがたは、永久に失はれることがない、と。

三島由紀夫「美しい星」より

9 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 09:45:47 ID:???
かつて叫ばれた八紘一宇といふ言葉は、かかる文明史的予言であつたものを、軍閥に利用されて、
卑小な意味に転化されたのだ。


世界連邦はいつかは樹立されなければならないが、世界連邦の理念は、国際連合的な
悪平等の上に立つてにつちもさつちも行かなくなるやうなものではなく、文明史的潮流の
予言的洞察の上に立ち、日本といふ個と、世界といふ全体との、お互ひがお互ひを包み込む
やうな多次元的綜合(!)に依るべきである。


人間には三つの宿命的な病気といふか、宿命的な欠陥がある。その一つは事物への
関心(ゾルゲ)であり、もう一つは人間への関心であり、もう一つは神への関心である。
人類がこの三つの関心を捨てれば、あるひは滅亡を免れるかもしれないが、私の見るところでは、
この三つは不治の病なのです。

三島由紀夫「美しい星」より

10 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 09:46:04 ID:???
おわかりですか。私はひいては天体としての地球の物的性質、無機物の勝利といふことを
言つてゐるのです。いくら人間が群をなして集まつても、宇宙法則の中で『生命』といふものが
例外的なものにすぎないといふ無意識の孤独感は拭はれず、人間はとりわけ物に、無機物に
執着します。金貨と宝石とは人間の生命と生活に対する一等冷淡な対立物であるにもかかはらず、
さういふ物質をとらへて、人間的色彩をこれに加へ、人間的臭気をこれに与へることに
人々は熱中して来ました。そのうちに人間は物に馴れ親しみ、物の運動と秩序のなかに、
人間の本質をみつけ出すやうにさへなつたのです。そして有機物にすら、生きて動いてゐる
猫にすら、人間の惹き起す事件にすら、いや、人間そのものにすら、物の属性を与へなくては
安心できぬやうになつた。物の属性を即座に与へることが事物に完結性の外観をもたらし、
人間が恒久性の観念と故意をごつちやにしてゐる『幸福』の外観をもたらすからです。

三島由紀夫「美しい星」より

11 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 09:46:40 ID:???
かやうに人間の事物への関心は、時間の不可逆性からつねに自分を救ひ出さうとする欲求で、
三十年前にロンドンで買つた傘を愛用してゐる紳士も、今年の夏の流行の水着を身につける女も、
三十年間にしろ、一ヵ月にしろ、その時間を代表する物質に自分を閉じ込めて安心するのです。
物質に対する人間の支配は、暗々裡に、いつも物質の最終的な勝利を認めてきた。さうで
なかつたら、どうして地球上に、あんなに沢山、石や銅や鉄のいやらしい記念碑や建築物や
お墓が残つてゐる筈がありませう。さて、そこで人間は、最後に、物質の性質をある程度
究明して、原子力を発見したのです。水素爆弾は人間の到達したもつとも逆説的な事物で、
今人間どもは、この危険な物質の裡に、究極の『人間的』幻影を描いてゐるのです。


水素爆弾が、最後の人間として登場したわけです。それはまるで、現代の人間が、自分たちには
真似もできないが、現代の人間世界にふさはしい人間は、かうあらねばならぬといふ絶望的な
夢を、全部具備してゐるからです。

三島由紀夫「美しい星」より

12 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 09:49:49 ID:???
性慾は実は人間的関心ではないのです。それは繁殖と破壊の間から、世界の薄明を覗き見る
行為です。


彼らはみな、苦痛が決して伝播しないこと、しかも一人一人が同じ苦痛の『条件』を
荷つてゐることを知悉してゐるのです。
人間の人間に対する関心は、いつもこのやうな形をとります。同じ存在の条件を荷ひながら、
決して人類共有の苦痛とか、人類共有の胃袋とかいふものは存在しないといふ自信。……
女が出産の苦痛を忘れることの早さと、自分が一等難産だつたと信じてゐることを、あなたも
よく承知でせう。すべては老い、病み、さうして死ぬのに、人類共有の老いも病気も死も、
決して存在しないといふ個体の自信。
政治的スローガンとか、思想とか、さういふ痛くも痒くもないものには、人間は喜んで
普遍性と共有性を認めます。毒にも薬にもならない古くさい建築や美術品は、やすやすと
人類共有の文化的遺産になります。しかし苦痛がさうなつては困るのです。大演説の最中に
政治的指導者の奥歯が痛みだしたとき、数万の聴衆の奥歯が同時に痛みだしては困るのです。

三島由紀夫「美しい星」より

13 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 09:50:14 ID:???
いくら握手したところで黒人の胃袋が白人の胃袋に、同じ胃痛を伝播する心配がないならば、
握手ぐらゐのことが何の妨げになるでせう。世界共和国の思想には、かうしてどこか不感症の、
そのくせ異様に甘い、キャンディーのやうなところがあります。ところで、世界共和国は早晩、
その基礎理念に強ひられて、おそろしい結末に立ちいたるのです。それが人間の存在の条件の
同一性の確認にはじまつた以上、その共同意識は、だんだん痛みや痒みや空腹の孤立状態に
耐へられなくなる。歯の痛い人間にとつては、世界共和国なんか糞くらへといふものだ。
世界共和国の中で自分一人老いてゆくことは何だか不公平なやうな気がしてくる。どうして
若いぴちぴちした連中に、自分の老いを伝播させてやることができないのか。人間どもは
自分が一旦拒否した共有を、いつまでも叛逆罪の中に閉じこめておくことに耐へられない。
世界共和国の人民は、同時に生れ、同時に老い、同時に滅びるべきではないのか。もし
存在の条件の同一性が、この厖大な国家の唯一の理念であるならば、国家はいつかその明証を
提示しなければならない。

三島由紀夫「美しい星」より

14 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 09:50:30 ID:???
神のことを、人間は好んで真理だとか、正義だとか呼びたがる。しかし神は真理自体でもなく、
正義自体でもなく、神自体ですらないのです。それは管理人にすぎず、人知と虚無との
継ぎ目のあいまいさを故ら維持し、ありもしないものと所与の存在との境目をぼかすことに
従事します。何故なら人間は存在と非在との裂け目に耐へないからであるし、一度人間が
『絶対』の想念を心にうかべた上は、世界のすべてのものの相対性とその『絶対』との間の
距離に耐へないからです。遠いところに駐屯する辺境守備兵は、相対性の世界をぼんやりと
絶対へとつなげてくれるやうに思はれるのです。そして彼らの武器と兜も、みんな人間が
稼いで、人間が貢いでやつたものばかりです。
傭兵たちは何千年の間よく働らいてくれましたから、人間は彼らへの関心を失ふことがなかつた。
スコラ派の哲学者などにいたつては、人間は贋の有限的存在で、真の存在は神だけだと
ほざいてゐたくらゐです。

三島由紀夫「美しい星」より

15 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 09:50:46 ID:???
神への関心のおかげで、人間はなんとか虚無や非在や絶対などに直面しないですんできました。
だから今もなほ、人間は虚無の真相について知るところ少なく、虚無のやうな全的破壊の原理は
人間の文化内部には発生しないと妄信してゐる人間主義の愚かな名残で、人知が虚無を
作りだすことなどできないと信じてゐます。
本当にさうでせうか? 虚無とは、二階の階段を一階へ下りようとして、そのまますとんと
深淵へ墜落すること。花瓶へ花を活けようとして、その花を深淵へ投げ込んでしまふこと。
つまり目的も持ち、意志から発した行為が、行為のはじまつた瞬間に、意志は裏切られ、
目的は乗り超えられて、際限なく無意味なもののなかへ顛落すること。要するに、あたかも
自分が望んだがごとく、無意味の中へダイヴすること。あらゆる形の小さな失錯が、同種の
巨大な滅亡の中へ併呑されること。……人間世界では至極ありふれた、よく起る事例であり、
これが虚無の本質なのです。

三島由紀夫「美しい星」より

16 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 09:51:17 ID:???
科学的技術は、ふしぎなほど正確に、すでに瀰漫してゐた虚無に点火する術を知つてゐます。
科学的技術は人間が考へてゐるほど理性的なものではなく、或る不透明な衝動の抽象化であり、
錬金術以来、人間の夢魔の組織化であり、人間どもが或る望まない怪物の出現を夢みると、
科学的技術は、すでに人間どもがその望まない怪物を望んでゐるといふことを、証明して
みせてくれるのです。そこで、人間をすでにひたひたと浸してゐた虚無に点火される日が
やつてきました。それは気違ひじみた真赤な巨大な薔薇の花、人間の栽培した最初の虚無、
つまり水素爆弾だつたのです。
しかし未だに虚無の管理者としての神とその管理責任を信じてゐる人間は、安心して水爆の
釦を押します。十字を切りながら、お祈りをしながら、すつかり自分の責任を免れて、
必ず、釦を押します。
どつちへ転んでも、三つの関心のどれを辿つても、人間どもは必ずあの釦を押すやうに
できてゐるのです。

三島由紀夫「美しい星」より

17 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 09:54:40 ID:???
平和は自由と同様に、われわれ宇宙人の海から漁られた魚であつて、地球へ陸揚げされると
忽ち腐る。平和の地球的本質であるこの腐敗の足の早さ、これが彼らの不満のたねで、
彼らがしきりに願つてゐる平和は、新鮮な瞬間的な平和か、金属のやうに不朽の恒久平和かの
いづれかで、中間的なだらだらした平和は、みんな贋物くさい匂ひがするのです。


人類はまだまだ時間を征服することはできない。だから人類にとつての平和や自由の観念は、
時間の原理に関はりがあり、その原理によつて縛られてゐる。時間の不可逆性が、人間どもの
平和や自由を極度に困難にしてゐる宿命的要因なのです。
もし時間の法則が崩れて、事後が事前へ持ち込まれ、瞬間がそのまま永遠へ結びつけられるなら、
人類の平和や自由は、たちどころに可能になるでせう。そのときこそ絶対の平和や自由が
現前するでせうし、誰もそれを贋物くさいなどと思ふ者はをりません。

三島由紀夫「美しい星」より

18 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 09:54:57 ID:???
私が彼らの想像力に愬(うつた)へようとしたやり方は、破滅の幻を強めて平和の幻と同等にし、
それをつひには鏡像のやうに似通はせ、一方が鏡中の影であれば、一方は必ず現実であると
思はせるところまで、持つて行く方法でした。空飛ぶ円盤の出現は、人間理性をかきみだす
ためだつたし、理性を目ざめさせるにはその敵対物の陶酔しかないことを、理性自体に
気づかせるのが目的であつた。そしてわれわれの云ふ陶酔とは、時間の不可逆性が崩れること、
未来の不確実性が崩れること、すなはち、欲望を持ちえなくなること、――何故なら
人間の欲望はすべて時間が原因であるから――、これらもろもろの、人間理性の最後の
自己否定なのでした。人間の純粋理性とは、経験を可能にする先天的な認識能力のすべてを
云ふのださうで、人間の経験は欲望の、すなはち時間の原則に従つて動くからです。
私は未開の陶酔を人間どもに教へようとしたのでした。そこでこそ現在が花ひらき、
人間世界はたちどころに光輝を放ち、目前の草の露がただちに宝石に変貌するやうな陶酔を。

三島由紀夫「美しい星」より

19 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 09:55:14 ID:???
私が私の予見を語らないのは、それが語られると同時に、地球の人類の宿命になつて
しまふからだ。
動いてやまない人間を静止させるのが私の使命だとしても、それを宿命の形で静止させるのを
私は好まない。あくまで陶酔、静かな、絶対に欲望を持たない陶酔のうちに、彼らを
休らはすのが私の流儀なのだ。
人間の政治、いつも未来を女の太腿のやうに猥褻にちらつかせ、夢や希望や『よりよいもの』への
餌を、馬の鼻面に人参をぶらさげるやり方でぶらさげておき、未来の暗黒へ向つて人々を
鞭打ちながら、自分は現在の薄明の中に止まらうとするあの政治、……あれをしばらく
陶酔のうちに静止させなくてはいかん。


人間を統治するのは簡単なことで、人間の内部の虚無と空白を統括すればそれですむのだ。
人間といふ人間は、みんな胴体に風のとほる穴をあけてゐる。そいつに紐をとほしてつなげば、
何億人だらうが、黙つて引きずられる。

三島由紀夫「美しい星」より

20 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 09:55:31 ID:???
歴史上、政治とは要するに、パンを与へるいろんな方策だつたが、宗教家にまさる政治家の
知恵は、人間はパンだけで生きるものだといふ認識だつた。この認識は甚だ貴重で、どんなに
宗教家たちが喚き立てようと、人間はこの生物学的認識の上にどつかと腰を据ゑ、健全で
明快な各種の政治学を組み立てたのだ。
さて、あなたは、こんな単純な人間の生存の条件にはつきり直面し、一たびパンだけで
生きうるといふことを知つてしまつた時の人間の絶望について、考へたことがありますか?
それは多分、人類で最初に自殺を企てた男だらうと思ふ。何か悲しいことがあつて、彼は
明日自殺しようとした。今日、彼は気が進まぬながらパンを喰べた。彼は思ひあぐねて自殺を
明後日に延期した。明日、彼は又、気が進まぬながらパンを喰べた。自殺は一日のばしに
延ばされ、そのたびに彼はパンを喰べた。……或る日、彼は突然、自分がただパンだけで、
純粋にパンだけで、目的も意味もない人生を生きえてゐることを発見する。

三島由紀夫「美しい星」より

21 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 09:55:54 ID:???
自分が今現に生きてをり、その生きてゐる原因は正にパンだけなのだから、これ以上
確かなことはない。 彼はおそろしい絶望に襲はれたが、これは決して自殺によつては
解決されない絶望だつた。何故なら、これは普通の自殺の原因となるやうな、生きて
ゐるといふことへの絶望ではなく、生きてゐること自体の絶望なのであるから、絶望が
ますます彼を生かすからだ。
彼はこの絶望から何かを作り出さなくてはならない。政治の冷徹な認識に復讐を企てるために、
自殺の代りに、何か独自のものを作り出さなくてはならない。そこで考へ出されたことが、
政治家に気づかれぬやうに、自分の胴体に、こつそり無意味な風穴をあけることだつた。
その風穴からあらゆる意味が洩れこぼれてしまひ、パンだけは順調に消化され、永久に、
次のパンを、次のパンを、次のパンを求めつづけること。生存の無意味を保障するために、
彼らにパンを与へつづけることを、政治家たち統治者たちの、知られざる責務にしてしまふこと。
しかもそれを絶対に統治者たちには気づかせぬこと。

三島由紀夫「美しい星」より

22 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 09:59:21 ID:???
この空洞、この風穴は、ひそかに人類の遺伝子になり、あまねく遺伝し、私が公園のベンチや
混んだ電車でたびたび見たあの反政治的な表情の素になつたのだ。
こいつらは組織を好み、地上のいたるところに、趣きのない塔を建ててまはる。私はそれらを
ひとつひとつ洞察して、つひには支配者の胴体、統治者の胴体にすら、立派な衣服の下に
小さな風穴の所在を嗅ぎつけたのだ。
今しも地球上の人類の、平和と統一とが可能だといふメドをつけたのは、私がこの風穴を
発見したときからだつた。お恥かしいことだが、私が仮りの人間生活を送つてゐたころは、
私の胴体にも見事にその風穴があいてゐたものだ。
私は破滅の前の人間にこのやうな状態が一般化したことを、宇宙的恩寵だとすら考へてゐる。
なぜなら、この空洞、この風穴こそ、われわれの宇宙の雛形だからだ。

地上の政治家が、たとへ悪の目的のためにもせよ。みんな結託することができる瞬間には、
すでに地上の平和は来てゐるのです。

三島由紀夫「美しい星」より

23 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 09:59:44 ID:???
人間が内部の空虚の連帯によつて充実するとき、すべての政治は無意味になり、反政治的な
統一が可能になる。彼らは決して釦を押さない。釦を押すことは、彼らの宇宙を、内部の
空虚を崩壊させることになるからだ。肉体を滅ぼすことを怖れない連中も、この空虚を
滅ぼすことには耐へられない。何故ならそれは、母なる宇宙の雛形だからだ。


愛と生殖とを結びつけたのは人間どもの宗教の政治的詐術で、ほかのもろもろの政治的詐術と
同様、羊の群を柵の中へ追ひ込むやり方、つまり本来無目的なものを目的意識の中へ追ひ込む、
あの千篇一律のやり方の一つなのだね。


皮肉なことに愛の背理は、待たれてゐるものは必ず来ず、望んだものは必ず得られず、
しかも来ないこと得られぬことの原因が、正に待つこと望むこと自体にあるといふ構造を
持つてゐるから、二大国の指導者たちが、決して破滅を望んでゐないといふことこそ、
危険の最たるものなのだ。彼らが何ものかを愛してゐる以上、望まないものは必ず来るのだ。

三島由紀夫「美しい星」より

24 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 10:00:13 ID:???
気まぐれこそ人間が天から得た美質で、時折人間が演じる気まぐれには、たしかに天の最も
甘美なものの片鱗がうかがはれる。それは整然たる宇宙法則が時折洩らす吐息のやうなもの、
許容された詩のやうなもので、それが遠い宇宙から人間に投影されたのだ。人間どもの宗教の
用語を借りれば、人間の中の唯一つの天使的特質といへるだらう。
人間が人間を殺さうとして、まさに発射しようとするときに、彼の心に生れ、その腕を突然
ほかの方向へ外らしてしまふふしぎな気まぐれ。今夜こそこの手に抱くことのできる恋人の
窓の下まで来て、まさに縄梯子に足をかけようとするときに、微風のやうに彼の心を襲ひ、
急に彼の足を砂漠への長い旅へ向けてしまふ不可解な気まぐれ。さういふ美しい気まぐれの
多くは、人間自体にはどうしても解けない謎で、おそらく沢山の薔薇の前へ来た蜜蜂だけが
知つてゐる謎なのだ。何故なら、こんな気まぐれこそ、薔薇はみな同じ薔薇であり、目前の
薔薇のほかにも又薔薇があり、世界は薔薇に充ちてゐるといふ認識だけが、解き明かすことの
できる謎だからだ。

三島由紀夫「美しい星」より

25 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 10:00:31 ID:???
私が希望を捨てないといふのは、人間の理性を信頼するからではない。人間のかういふ
美しい気まぐれに、信頼を寄せてゐるからだ。あなたは人間どもは必ず釦を押すと言ふ。
それはさうだらう。しかし釦を押す直前に、気まぐれが微笑みかけることだつてある。
それが人間といふものだ。


人間の理性にはもう決断の能力はないのだよ。釦を押す能力があるだけだ。確信を以て、
冷静に、そして白痴のやうに。
…私が今度は、人間の五つの美点、滅ぼすには惜しい五つの特質を挙げるべき番だと思ふ。
実際、人間の奇妙な習性も多々あるけれど、その中のいくつかは是非とも残しておきたく、
そんな習性を残すためだけに、全人類を救つてもいいといふほど、価値あるものに私には
思はれる。
だが、もし人類が滅んだら、私は少なくとも、その五つの美点をうまく纏めて、一つの
墓碑銘を書かずにはゐられないだらう。この墓碑銘には、人類の今までにやつたことが
必要且つ十分に要約されてをり、人類の歴史はそれ以上でもそれ以下でもなかつたのだ。
その碑文の草案は次のやうなものだ。

三島由紀夫「美しい星」より

26 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 10:00:57 ID:???
『地球なる一惑星に住める
  人間なる一種族ここに眠る。
彼らは嘘をつきつぱなしについた。
彼らは吉凶につけて花を飾つた。
彼らはよく小鳥を飼つた。
彼らは約束の時間にしばしば遅れた。
そして彼らはよく笑つた。
  ねがはくはとこしへなる眠りの安らかならんことを』
これをあなた方の言葉に飜訳すればかうなるのだ。
『地球なる一惑星に住める
  人間なる一種族ここに眠る。
彼らはなかなか芸術家であつた。
彼らは喜悦と悲嘆に同じ象徴を用ひた。
彼らは他の自由を剥奪して、それによつて辛うじて自分の自由を相対的に確認した。
彼らは時間を征服しえず、その代りにせめて時間に不忠実であらうと試みた。
そして時には、彼らは虚無をしばらく自分の息で吹き飛ばす術を知つてゐた。
  ねがはくはとこしへなる眠りの安らかならんことを』

三島由紀夫「美しい星」より

27 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 10:03:53 ID:???
私も亦、進歩の妄説にたぶらかされてゐる人間を危ぶんではゐるが、人間自体は決して
そんな風には生れついてゐないのだ。人間の操縦する宇宙船が、どこへ向つて進むかは
私は知つてゐる。あれは宇宙の未来の暗黒へ勇ましく突き進んでゆくかのやうに見えるが、
実は同時に、人間が忘れてゐる過去の記憶の深淵へまつしぐらに後退してゆくのだ。
あれは人間の未知の経験への冒険といふだけではなく、諸民族の暗い果てしれぬ原初的な
体験の再現を目ざしてゐるのだ。人間の意識にとつて、宇宙の構造は、永遠に到達すべき場所と、
永遠に回帰すべき場所との二重構造になつてゐる。それはあたかも人間の男にとつての女が、
母の影像と二重になつてゐるのと似てゐる。
人間は前へ進まうとするとき、必ずうしろへも進んでゐるのだ。だから彼らは決して
到達することも、帰り着くこともない。これが彼らの宇宙なのだから、われわれがそれに
怖ぢて、われわれの宇宙の受ける損害をあれこれと心配することはないのだ。

三島由紀夫「美しい星」より

28 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 10:04:13 ID:???
今、あなたと私との間を流れてゐるこの時間は、紛れもない『人間の時』なのだ。破滅か
救済かいづれへ向つてゐようと、未来は鉄壁の彼方にあつて、こちらには、すべてに
手つかずの純潔な時がたゆたうてゐる。この、掌の中に自在にたはめられる、柔らかな、
決定を待つていかやうにも鋳られる、しかもなほ現成の時、これこそ人間の時なのだ。
人間はこれらの瞬間々々に成りまた崩れ去る波のやうな存在だ。未来の人間を滅ぼすことが
できても、どうして現在のこの瞬間の人間を滅ぼすことができようか。


私は人間が現在を拒否し、人間の時を自ら軽視し、この貴重な宝をいつもどこかへ置き忘れ、
人間の時ならぬ他の時、過去や未来へ気をとられがちなのを戒めるために、地球へやつて
来たやうなものだ。それといふのも、この現在の人間の時に、私はゆたかな尽きせぬ泉を
認めるからだ。なるほど人類は、私の与へるべき陶酔をまだ知りはしない。しかし、この現在に、
この人間の時に、その時にだけ、私のいはゆる『陶酔』の萌芽がひそんでゐることを私は
見抜いたのだ。

三島由紀夫「美しい星」より

29 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 10:04:33 ID:???
第一に、どんな種類の救済にも終末の威嚇がつきものだが、どんな威嚇も、人間の楽天主義には
敵ひはしないのだ。その点では、地獄であらうと、水爆戦争であらうと、魂の破滅であらうと、
肉体の破滅であらうと、同じことだ。本当に終末が来るまでは、誰もまじめに終末などを
信じはしない。
第二に、人間は全然、生きたいといふ意志など持つてゐないことだ。生きる意志の欠如と
楽天主義との、世にも怠惰な結びつきが人間といふものだ。
『ああ、もう死んでしまひたい。しかし私は結局死なないだらう』
これがすべての健康な人間の生活の歌なのだ。町工場の旋盤のほとり、物干場にひるがへる
白いシャツのかげ、ゆきかへりの電車の混雑、水たまりだらけの横丁、あらゆる場所で
間断なく歌はれる人間の生活の歌なのだ。
こんな人間をどうやつて救済する。やつらはつるつるした球体で、お前のひよわな爪先に
引つかけられたりすることは、金輪際あるまい。

三島由紀夫「美しい星」より

30 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 10:04:49 ID:???
人間の思想は種切れになると、何度でも、性懲りもなく、終末を考へ出した。人間の歴史が
はじまつてから、来る筈の終末が何度もあつて、しかもそれは来はしなかつた。しかし
今度の終末こそ本物だ。何故なら、人間の思想と呼ぶべきものはみんな死んでしまつたからだ。
人類は失語症になつた。世界には死の兆候が彌漫してゐる。思想の衣裳は悉く腐れ落ち、
人間は裸かで宇宙の冷たさに直面してゐる。


神々が死に、魂が死に、思想が死んだ。肉体だけが残つてゐるが、それはただの肉体の
形をした形骸だ。そして奴らは、自覚症状のない死苦に犯されてゐる。苦しみもなく、
痛みもなく、何も感じられないといふこの夕凪のやうな死苦。
終末といふものは、かういふ状況の上へ、夜のやうに自然に下りて来る。柩はすでに
出来てゐる。柩布が覆ひかぶさつてくるのは、時を得て、誰の目にも自然にだ。
世界中にひろがる屍臭、死に先立つ屍臭に気づいてゐないのは、当の人間たちだけだ。

三島由紀夫「美しい星」より

31 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 10:05:05 ID:???
仮りの肉体の衰滅が、どうしてこんな恐怖やおそろしい沈鬱な感情をのしかからせてくるのか、
重一郎にはどうしてもわからなかつた。人間は死の不可解に悩むのだらうか。彼は死の
恐怖の不可解、死の影響力の不可解に愕いてゐたのである。


彼は人間が幸福や永生をねがつて、考へ出したいろんな象徴を思ひうかべた。祝寿の象徴、
紅と白の水引、のびやかに飛翔する鶴、海のきはに海風に押しまくられて傾いてゐる松、
打ちあげられたさまざまの海藻、そのあひだにうづくまる巨大な亀、……彼らはそれらの
属目の事物から、時間に対するつかのまの勝利と、繁殖による永遠の連鎖を夢みたのだ。
死は沖のとほくから重い瞼をあげて睨んでゐたが、これらの祝寿の象徴にかこまれた明るい汀は
人間の領域だつた。
いくたびの夜をくぐり抜けて、又しても人間どもは、この明るい汀に集ひ、いくたび同じ歌を
歌はうとするか、はかり知れない。重一郎は自分の悪液質の乾いた手を眺めながら、
生きてゆく人間たちの、はかない、しかし輝かしい肉を夢みた。

三島由紀夫「美しい星」より

32 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 10:07:02 ID:???
一寸傷つけただけで血を流すくせに、太陽を写す鏡面ともなるつややかな肉。あの肉の外側へ
一ミリでも出ることができないのが人間の宿命だつた。しかし同時に、人間はその肉体の
縁(へり)を、広大な宇宙空間の海と、等しく広大な内面の陸との、傷つきやすく揺れやすい
「明るい汀」にしたのだ。その内面から放たれる力は海をほんの少し押し戻し、その薄い皮膚は
又、たえまない海の侵蝕を防いでゐた。若い輝かしい肉が、人間の矜りになるのも尤もだつた。
それは祝寿にあふれた、もつとも明るい、もつとも輝かしい汀であるから。
重一郎を置きざりにして人間が生きつづけることは、もとより彼の予見に背いた事態では
あつたが、疑ひもなく、白鳥座六十一番星の見えざる惑星から来た、あの不吉な宇宙人たちの
陰謀に対する、重一郎の勝利を示すものでもあつた。犠牲といふ観念が彼の心に浮んだ。
宇宙の意志は、重一郎といふ一個の火星人の犠牲と引きかへに、全人類の救済を約束してをり、
その企図は重一郎自身には、今まで隠されてゐたのかもしれないのだ。

三島由紀夫「美しい星」より

33 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:07:02 ID:???
苦悩や青春の焦燥を恥ぢるあまり、それを告白せぬことに馴れてしまつて、かれらは極度に
ストイックになつた。かれらは歯を喰ひしばつてゐた。実に愉しげな顔をして。この世に
苦悩などといふものの存在することを、絶対に信じないふりをしなくてはならぬ。白を
切りとほさなくてはならぬ。


あの一面の焼野原の広大なすがすがしい光りをいつまでもおぼえてゐて、過去の記憶に
照らして現在の街を眺めてゐる。きつとさうだ。……君は今すつかり修復された冷たい
コンクリートの道を歩きながら、足の下に灼けただれた土地の燠の火照りを感じなくては、
どことなく物足らず、新築のモダンな硝子張りのビルの中にも、焼跡に生えてゐた
たんぽぽの花を透視しなくては、淋しいにちがひない。でも君の好きなのはもう過去のものと
なつた破滅で、君には、その破滅を破滅のままに、手塩にかけて育て、洗ひ上げ、
完成したといふ誇りがある筈だ。


世界が必ず滅びるといふ確信がなかつたら、どうやつて生きてゆくことができるだらう。

三島由紀夫「鏡子の家」より

34 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:07:23 ID:???
「…君は過去の世界崩壊を夢み、俺は未来の世界崩壊を予知してゐる。さうしてその二つの
世界崩壊のあひだに、現在がちびりちびりと生き延びてゐる。その生き延び方は、卑怯で
しぶとくて、おそろしく無神経で、ひつきりなしにわれわれに、それが永久につづき永久に
生き延びるやうな幻影を抱かせるんだ。幻影はだんだんにひろまり、万人を麻痺させて、
今では現実と夢との堺目がなくなつたばかりか、この幻影のはうが現実だと、みんな思ひ
込んでしまつたんだ」
「あなただけがそれを幻影だと知つてゐるから、だから平気で嚥み込めるわけなのね」

「さうだよ。俺は本当の現実は、『崩壊寸前の世界』だといふことを知つてゐるから」
「どうして知つたの?」
「俺には見えるんだ。一寸目を据ゑて見れば、誰にも自分の行動の根拠が見えるんだよ。
ただ誰もそれを見ようとしないだけなんだ。俺にはそれを見る勇気があるし、それより先に、
俺の目にありありと見えて来るんだから仕方ない。遠い時計台の時計の針が、はつきり
見えてしまふみたいに」

三島由紀夫「鏡子の家」より

35 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:07:39 ID:???
詩才の欠如は人の信用を博する早道である。


どんなに辛苦を重ねても、浅い夢しか見ない人は浅い生をしか生きることができない。


狂人がある程度自分を狂人だと知つてゐるやうに、嫌はれるタイプの男は、ある程度、自分が
嫌はれることを知つてゐるのだが、狂人がさういふ自己認識にすこしも煩はされないやうに、
嫌はれてゐるといふ認識にすこしも煩はされないことが、嫌はれ型の真個の特質なのである。


人体でもつとも微妙なものは筋肉なのである!


思想は筋肉のやうに明瞭でなければならぬ。内面の闇に埋もれたあいまいな形をした
思想などよりも、筋肉が思想を代行したはうがはるかにましである。なぜなら筋肉は厳密に
個人に属しつつ、感情よりもずつと普遍的である点で、言葉に似てゐるけれど、言葉よりも
ずつと明晰である点で、言葉よりもすぐれた「思想の媒体」なのである。

三島由紀夫「鏡子の家」より

36 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:07:55 ID:???
『僕は詩人の顔と闘牛士の体とを持ちたい』と切に思つた。素朴さ、荒々しさ、野蛮、
などの支へが今の自分にすつかり欠けてゐるのを知つた。真に抒情的なものは、詩人の
面立(おもだち)と闘牛士の肉体との、稀な結合からだけしか生れないだらう。


今ただ一つたしかなことは、巨きな壁があり、その壁に鼻を突きつけて、四人が立つて
ゐるといふことなのである。
『俺はその壁をぶち割つてやるんだ』と峻吉は拳を握つて思つてゐた。
『俺はその壁を鏡に変へてしまふだらう』と収は怠惰な気持で思つた。
『俺はとにかくその壁に描くんだ。壁が風景や花々の壁画に変つてしまへば』と夏雄は
熱烈に考へた。
そして清一郎の考へてゐたことはかうである。
『俺はその壁になるんだ。俺がその壁自体に化けてしまふことだ』


『この世は必ず破滅にをはる。しかもその前に、輝かしい行動は、一瞬々々のうちに生れ、
一瞬々々のうちに死ぬ』

三島由紀夫「鏡子の家」より

37 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:08:10 ID:???
芸術的才能といふものの裡にひそむ一種の抜きがたい暗さを嗅ぎ当てる点では、世俗的な
人たちの鼻もなかなか莫迦にしたものではない。才能とは宿命の一種であり、宿命といふものは
多かれ少なかれ、市民生活の敵なのである。それに生れつき身にそなはつたものだけで
人生を経営してゆくことは、女や貴族の生き方であり、市民の男の生き方ではなかつた。

どう時代が移らうとも、日本経済には不変の法則があり、いはば奇癖があつた。好況のときには
好い気持になつて使ひ果し、不況になるとヒステリックに貿易振興を叫び出すのであつた。


会社のタイム・レコーダアを莫迦らしいと思はない人が、どうして結納の三往復を
莫迦らしいなどと言ふことができよう。


女の裸体は猥褻なだけさ。美しいのは男の肉体に決まつてゐるさ。


神聖なものほど猥褻だ。だから恋愛より結婚のはうがずつと猥褻だ。


人は信じた思想のとほりの顔になる。

三島由紀夫「鏡子の家」より

38 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:14:42 ID:???
どこの社会にも、誰が見ても不適任者と思はれる人が、そのくせ恰(あた)かも運命的に
そこに居据つてゐるのを見るものだ。


権力や金に倦き果てた老人のたしなむ芸術には、あらゆる玄人の芸術にとつて必須な、
あの世界に対する権力意志が忌避されてゐる。


芸術作品とは、目に見える美とはちがつて、目に見える美をおもてに示しながら、実は
それ自体は目に見えない、単なる時間的耐久性の保障なのである。作品の本質とは、
超時間性に他ならないのだ。


「……そこでは毎晩刃傷沙汰が起り、悲劇が起り、本当の恋の鞘当、本当の情熱、――ええ、
どんな俗悪な情熱でも、あなたがたの物知り顔よりは高級ですもの、――さういふ本当の情熱、
本当の憎しみ、本当の涙、本当の血が流れなくちやいけませんの」


男の精神的天才が決して女に理解されないやうに、男の肉体的天才も、女に理解されない
やうにできてゐる。

三島由紀夫「鏡子の家」より

39 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:14:57 ID:???
ひどい暮しをしながら、生きてゐるだけでも仕合せだと思ふなんて、奴隷の考へね。
一方では、人並な安楽な暮しをして、生きてゐるのが仕合せだと思つてゐるのは、動物の
感じ方ね。世の中が、人間らしい感じ方、人間らしい考へ方をさせないように、みんなを
盲らにしてしまつたんです。
真暗か壁の前をうろうろして、せいぜい電気洗濯機やテレヴィジョンを買ふ夢を見る。
明日は何もないのに明日をたのしみにする。


通例、愛されない人間が、自ら進んで、ますます愛されない人間にならうとするのには
至当の理由がある。それは自分が愛されない根本原因から、できるだけ遠くまで逃げようと
するのである。


金でたのしみが買へないと思つてゐるのは、センチメンタルな金持だけです。

三島由紀夫「鏡子の家」より

40 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:15:14 ID:???
天才とは美そのものの感受性をわがものにして、その類推から美を造型する人であつた。
かういふ手がかりが正にあの喜悦であつて、美にとつては、世界喪失は苦悩ではなくて
生誕の讃歌のやうなものなのだ。そこでは美がやさしい手で規定の存在を押しのけて、
その空席に腰を下ろすことに、何のためらひもありはしないのだ。いひかへれば天才の
感受性とは、人目にいかほど感じ易くみえようと、決して悲劇に到達しない特質を荷つて
ゐるのである。


『一人ぐらしの女が何の感情にも溺れないで生きてゐるといふのは大したことだわ』
と鏡子は自讃する。それといふのも、彼女はあらゆる情念と感覚を野放しにしておいて、
一切の軛を課さないでゐるからである。


ああ、他人こそ、犠(にへ)であり、かけがへのない実在なのだ。


『僕は死ぬだらう。血はどこまで高く吹き上がるだらう? 自分の血の噴水を、僕ははつきり
この目でたしかめることができるだらうか』

三島由紀夫「鏡子の家」より

41 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:15:40 ID:???
他人の情念にしろ、希望にしろ、他人にあんまり興味を持ちすぎることは危険です。それは
こちらが考へもせず、想像もしないところへまで引きずつてゆき、つひには『他人の希望』の
代りに、『他人の運命』を背負ひ込む羽目になります。私たちは想像力と空想力だけで
我慢したはうがよささうですわ。それから先は宿命の領地なんです。


美しい者にならうといふ男の意志は、同じことをねがふ女の意志とはちがつて、必ず
『死の意志』なのだ。これはいかにも青年にふさはしいことだが、ふだんは青年自身が
恥ぢてゐてその秘密を明さない。


男の断末魔の手がつかむものが、星に充ちたがらんとした夜空や、荘厳な重い塩水に充ちた
海ではなくて、腰紐だの、長襦袢だの、まとはりつく髪だの、なよやかなパンティだので
あるといふことは、男の生涯のひとりぽつちの永い戦ひの記憶をすつかり台無しにして
しまふだけだ。

三島由紀夫「鏡子の家」より

42 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:15:55 ID:???
鏡子は大袈裟に、一つの時代が終つたと考へることがある。終る筈のない一つの時代が。
学校にゐたころ、休暇の終るときにはこんな気持がした。充ち足りた休暇の終りといふものが
あらう筈はない。それは必ず挫折と尽きせぬ不満の裡に終る。――再び真面目な時代が来る。
大真面目の、優等生たちの、点取虫たちの陰惨な時代。再び世界に対する全幅的な同意。
人間だの、愛だの、希望だの、理想だの、……これらのがらくたな諸々の価値の復活。
徹底的な改宗。そして何よりも辛いのは、あれほど愛して来た廃墟を完全に否認すること。
目に見える廃墟ばかりか、目に見えない廃墟までも!


峻吉は不幸や不運を明るく眺め変へたり、一旦挫折した力の方向をやすやすと他へ転じようと
したりする、あの人生相談的な解決を憎んだ。決して悔悟しない人間になることが必要だ。
ちつぽけな希望に妥協して、この世界が、その希望の形のままに見えて来たらおしまひだ。

三島由紀夫「鏡子の家」より

43 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:18:36 ID:???
健康な青年にとつて、おそらく一等緊急な必要は『死』の思想だ。


青年にとつて反抗は生で、忠実は死だ。これはもう言ひ古されたことだ。ところで
青年にとつて、反抗が必要なのと同じくらい、忠実も必要で、美味しくて、甘い果実なんだ。


人間は自分の運命を選ぶものであつて、自分に似合ふ着物を着、自分に似合ふ悲劇を招来する。


死は常態であり、破滅は必ず来るのだ。


一つの思想が死ぬやうに見えても必ずよみがへり、一つの理想主義が死に絶えて又
新らしい形でよみがへる。しかも思想と思想は、殺し合ふことしか考へないのである。
が、清一郎は感じてゐた。これら再生の神話そのもの、復活の秘義そのものが、まぎれもない
世界崩壊の兆候なのだ、と。


人生といふ邪教、それは飛切りの邪教だわ。私はそれを信じることにしたの。生きようと
しないで生きること、現在といふ首なしの馬にまたがつて走ること、……そんなことは
怖ろしいことのやうに思へたけれど、邪教を信じてみればわけもないのよ。

三島由紀夫「鏡子の家」より

44 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:18:53 ID:???
神秘が一度心に抱かれると、われわれは、人間界の、人間精神の外れの外れまで、一息に
歩いて来てしまふ。そこの景観は独自なもので、すべての人間的なものは自分の背後に、
遠い都会の眺めのやうに一纏めの結晶にかがやいて見え、一方、自分の前には、目の
くらむやうな空無が屹立してゐる。(中略)
一度かういふ世界の果て、精神の辺境に立つたものなら、探検家や登山家もおそらく
さうだらうが、きはめて自然に、自分を人間の代表だと感じるだらう。神秘家たちの確信も
それと似たものだ。なぜならその場所で目に映る人間の姿とては、自分以外にはないからだ。
僕は画家だから、その地点を、魂などとは呼ばず、人間の縁と呼んでゐた。もし魂といふものが
あるなら、霊魂が存在するなら、それは人間の内部に奥深くひそむものではなくて、
人間の外部へ延ばした触手の先端、人間の一等外側の縁でなければならない。その輪郭、
その外縁をはみ出したら、もはや人間ではなくなるやうな、ぎりぎりの縁でなければならない。

三島由紀夫「鏡子の家」より

45 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:19:09 ID:???
僕はありありと目に見える外界へ進んで行つた。その道をまつすぐ歩いてゆく。すると
当然のやうに、僕は神秘にぶつかつた。外部へ外部へと歩いて行つて、いつのまにか、
僕は人間の縁のところまで来てゐたのだ。
神秘家と知性の人とが、ここで背中合せになる。知性の人は、ここまで歩いてきて、
急に人間界のはうへ振向く。すると彼の目には人間界のすべてが小さな模型のやうに、
解釈しやすい数式のやうに見える。世界政治の動向も、経済の帰趨も、青年層の不平不満も、
芸術の行き詰りも、およそ人間精神の関与するものなら、彼には、簡単な数式のやうに
解けてしまひ、あいまいな謎はすこしも残さず、言葉は過度に明晰になる。……しかし
神秘家はここで決定的に人間界へ背を向けてしまひ、世界の解釈を放棄し、その言葉は
すみずみまでおどろな謎に充たされてしまふ。

三島由紀夫「鏡子の家」より

46 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:19:26 ID:???
でも今になつてよく考へると、僕は結局、知性の人でもなく、神秘家でもなく、やはり
画家だつたのだと思ふ。過度の明晰も、暗い謎も、どちらも僕のものではなかつた。
人間の縁のところまで来たとき、僕は人間界へ背を向けることもできず、又人間界へ皮肉な
冷たい親和の微笑を以て振返つて君臨することもできず、ひたすら世界喪失の感情のなかに、
浮び漂つてゐたのだと思ふ。
僕の目は鎮魂玉に集中することはできず、おそるおそる周囲の闇のなかを見まはした。
するとそこには、同じ死と闇のなかに、世界喪失の感情に打ち砕かれて、漂つてゐる多くの
若者たちの顔が見えた。ここまで歩いてきたのは僕一人ではなかつた。そのなかには
血みどろな死顔も見え、傷ついた顔も、必死に目をみひらいてゐる顔も見えた。……

三島由紀夫「鏡子の家」より

47 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:19:43 ID:???
花は実に清冽な姿をしてゐた。一点のけがれもなく、花弁の一枚一枚が今生まれたやうに
匂ひやかで、今まで蕾の中に固く畳まれてゐたあとは、旭をうけて微妙な起伏する線を、
花弁のおもてに正確にゑがいてゐた。(中略)
僕は飽かず水仙の花を眺めつづけた。花は徐々に僕の心に沁み渡り、そのみじんも
あいまいなところのない形態は、弦楽器の弾奏のやうに心に響き渡つた。
そのうちに僕は何だか、自分を裏切つてゐるやうな気がした。これは果して霊界の贈り物だらうか。
霊界のものが、これほど疑ひのない形象の完全さで、目の前に迫ることがあるだらうか。
すべて虚無に属する物事は、ああも思はれかうも思はれるといふ、心象のたよりなさによつて
世界が動揺する、その只中に現はれるものではないだらうか。僕の目が水仙を見、これが
疑ひもなく一茎の水仙であり、見る僕と見られる水仙とが、堅固な一つの世界に属してゐると
感じられる、これこそ現実の特徴ではないだらうか。するとこの水仙の花は、正しく
現実の花なのではないか。

三島由紀夫「鏡子の家」より

48 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:21:48 ID:???
さう考へた僕は、一瞬言はうやうない気味のわるさにかられて、花を寝床の上に放り出さうと
したくらゐだ。僕にはその花が急に生きてゐるやうに感じられたのである。
……僕にはその花が急に生きてゐるやうに感じられた。それはただの物象でもなく、ただの
形態でもなかつた。おそらく中橋先生に言はせたら、僕はその瞬間、清らかな白い水仙の花を
透視して、透明になつた花の只中に花の霊魂を見たのだつたらう。永い艱苦の果てに先生が
竜を見たやうに、僕は水仙の霊魂を見たのだ、と先生は言つただらう。
しかし、僕の心はそのときはつきり、こんな考へから遠ざかつてゐた。もしこの水仙の花が
現実の花でなかつたら、僕がそもそもかうして存在して呼吸してゐる筈はないと考へられた。
僕は片手に水仙を持つたまま寝床から立つて、久しくあけない窓をあけに行つた。(中略)
風の加減で、雑多な物音もまじつてきこえる。すべてが今朝は洗はれてゐるやうに見える。

三島由紀夫「鏡子の家」より

49 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:22:07 ID:???
僕は君に哲学を語つてゐるのでもなければ、譬へ話を語つてゐるのではない。世間の人は、
現実とは卓上電話だの電光ニュースだの月給袋だの、さもなければ目にも見えない遠い国々で
展開されてゐる民族運動だの、政界の角逐だの、……さういふものばかりから成り立つて
ゐると考へがちだ。しかし画家の僕はその朝から、新調の現実を創り出し、いはば現実を
再編成したのだ。われわれの住むこの世界の現実を、大本のところで支配してゐるのは、
他でもないこの一茎の水仙なのだ。
この白い傷つきやすい、霊魂そのもののやうに精神的に裸体の花、固いすつきりした緑の葉に
守られて身を正してゐる清冽な早春の花、これがすべての現実の中心であり、いはば
現実の核だといふことに僕は気づいた。世界はこの花のまはりにまはつてをり、人間の集団や
人間の都市はこの花のまはりに、規則正しく配列されてゐる。世界の果てで起るどんな現象も、
この花弁のかすかな戦(そよ)ぎから起り、波及して、やがて還つて来て、この花蕊に
ひつそりと再び静まるのだ。

三島由紀夫「鏡子の家」より

50 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:25:05 ID:???
『俺には何か、特別の運命がそなはつてゐる筈だ。きらきらした、別誂への、そこらの
並の男には決して許されないやうな運命が』

僕たちにできないことは、大人たちにはもつとできないのだ。この世界には不可能といふ
巨きな封印が貼られてゐる。それを最終的に剥がすことができるのは僕たちだけだといふことを
忘れないでもらひたい。


彼らは危険の定義がわかつてゐないんだ。危険とは、実体的な世界がちよつと傷つき、
ちよつと血が流れ、新聞が大さわぎで書き立てることだと思つてゐる。それが何だといふんだ。
本当の危険とは、生きてゐるといふそのことの他にはありやしない。生きてゐるといふことは
存在の単なる混乱なんだけど、存在を一瞬毎にもともとの無秩序にまで解体し、その不安を
餌にして、一瞬毎に存在を造り変へようといふ本当にイカれた仕事なんだからな。こんな
危険な仕事はどこにもないよ。存在自体の不安といふものはないのに、生きることがそれを
作り出すんだ。


大義とは? それはただ、熱帯の太陽の別名だつたかもしれないのだ。

三島由紀夫「午後の曳航」より

51 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:25:22 ID:???
ところでこの塚崎竜二といふ男は、僕たちみんなにとつては大した存在ぢやなかつたが、
三号にとつては、一かどの存在だつた。少くとも彼は三号の目に、僕がつねづね言ふ世界の
内的関聯の光輝ある証拠を見せた、といふ功績がある。だけど、そのあとで彼は三号を
手ひどく裏切つた。地上で一番わるいもの、つまり父親になつた。これはいけない。
はじめから何の役にも立たなかつたのよりもずつと悪い。
いつも言ふやうに、世界は単純な記号と決定で出来上つてゐる。竜二は自分では知らなかつた
かもしれないが、その記号の一つだつた。少くとも、三号の証言によれば、その記号の
一つだつたらしいのだ。
僕たちの義務はわかつてゐるね。ころがり落ちた歯車は、又もとのところへ、無理矢理
はめ込まなくちやいけない。さうしなくちや世界の秩序が保てない。僕たちは世界が
空つぽだといふことを知つてるんだから、大切なのは、その空つぽの秩序を何とか保つて
行くことにしかない。僕たちはそのための見張り人だし、そのための執行人なんだからね。

三島由紀夫「午後の曳航」より

52 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:25:46 ID:???
血が必要なんだ! 人間の血が! さうしなくちや、この空つぽの世界は蒼ざめて枯れ果てて
しまふんだ。僕たちはあの男の生きのいい血を絞り取つて、死にかけてゐる宇宙、
死にかけてゐる空、死にかけてゐる森、死にかけてゐる大地に輸血してやらなくちや
いけないんだ。


あの海の潮の暗い情念、沖から寄せる海嘯(つなみ)の叫び声、高まつて高まつて砕ける
波の挫折……暗い沖からいつも彼を呼んでゐた未知の栄光は、死と、又、女とまざり合つて、
彼の運命を別誂へのものに仕立ててゐた筈だつた。世界の闇の奥底に一点の光りがあつて、
それが彼のためにだけ用意されてをり、彼を照らすためにだけ近づいてくることを、
二十歳の彼は頑なに信じてゐた。
夢想の中では、栄光と死と女は、つねに三位一体だつた。しかし女が獲られると、あとの
二つは沖の彼方へ遠ざかり、あの鯨のやうな悲しげな咆哮で、彼の名を呼ぶことはなくなつた。
自分が拒んだものを、竜二は今や、それから拒まれてゐるかのやうに感じた。

三島由紀夫「午後の曳航」より

53 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:26:04 ID:???
彼はもう危険な死からさへ拒まれてゐる。栄光はむろんのこと、感情の悪酔。身をつらぬく
やうな悲哀。晴れやかな別離。南の太陽の別名である大義の叫び声。女たちのけなげな涙。
いつも胸をさいなむ暗い憧れ。自分を男らしさの極致へ追ひつめてきたあの重い甘美な力。
……さういふものはすべて終つたのだ。


灼けるやうな憂愁と倦怠とに湧き立ち、禿鷹と鸚鵡にあふれ、そしてどこにも椰子! 
帝王椰子、孔雀椰子。死が海の輝やきの中から、入道雲のやうにひろがり押し寄せて来てゐた。
彼はもはや自分にとつて永久に機会の失はれた、荘厳な、万人の目の前の、壮烈無比な死を
恍惚として夢みた。世界がそもそも、このやうな光輝にあふれた死のために準備されて
ゐたものならは、世界は同時に、そのために滅んでもふしぎはない。
血のやうに生あたたかい環礁のなかの潮、真鍮の喇叭の響きのやうに鳴りわたる熱帯の太陽。
五色の海。鯨。……


誰も知るやうに、栄光の味は苦い。

三島由紀夫「午後の曳航」より

54 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:29:01 ID:???
進み出る次郎の足取に、さはやかな覇気のあふれてゐるのを木内は読みとる。次郎の紺の袴は
風を孕み、擦り足の正しい波動を伝へて、まつすぐに動いてくる。
木内はかうして自分に立ち向つてくる若さを愛する。若さは礼儀正しく、しかも兇暴に
撃ちかかつて来て、老年はこちらにゐて、微笑しながら、じつと自信を以て身を衛る。
青年の、暴力を伴はない礼儀正しさはいやらしい。それは礼儀を伴はない暴力よりももつと悪い。


この同じ時間の枠のなかで、白髪を面に隠した老いと、赤い頬を面に隠した若さとが、
寓話的な簡素のうちに、はつきりと相手を敵とみとめる。それはまるで、こんぐらかつた、
余計な夾雑物にみちた人生を、将棋の簡浄な盤面に変へてしまつたかのやうだ。何もかも
漉(こ)してしまつたあとには、これだけが残る筈だ。すなはち或る日、はげしい夕陽のなかで、
老年と青年がきつぱり刃先を合せて対し合ふといふこと。

三島由紀夫「剣」より

55 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:29:33 ID:???
木内は何の支点にも支へられずに、ほとんど空中に浮んでゐる。
「ヤア!」
と次郎は烈しい気合をかけた。ぢりぢりと右へまはつた。
木内はどの角度から見ても同じ面をあらはす透明な角錐みたいに見える。そこにも入口がない。
さらに右へまはる。それから急激に左へまはる。そこにも入口がない。次郎は自分の
透明さに対する屈辱を感じる。
木内は彼のその焦燥のむかうでゆつたりと寝そべつてゐる。昼寝をしてゐる大きな藍いろの
猫みたいに。
次郎は隙をみつけることを断念する。自分の焦燥が相手の隙を自分の目に見せないのだらうと
感じる。相手の完璧さは完璧さの仮装であり、完璧さに化けてゐるのだ。この世に
完璧なものなんぞあらう筈はない。
次郎は次第に、身のまはりに薄氷(うすらひ)がはりつめてきて、それがいつかは身動きも
できなくなるほど、肩を肱を、しつかりと氷に閉ざしてしまふやうな
気がする。時を移せば移すほどさうなる。全身の力を爆発させて、その氷を破らなければならぬ。

三島由紀夫「剣」より

56 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:30:17 ID:???
次郎の面紐の紫が、あでやかに舞ひ上る。彼の力が伸びる。躍動と掛け声とが、
放鳩(はうきう)のやうに、押しこめられてゐた籠から、突然羽撃いて立つ。
そのすばらしい速度を縫つて、次郎の竹刀は一瞬のうちに摺り上げられ、彼の頭上には、
赤く灼けた鉄を撃ち下ろすやうに、木内の竹刀の物打がしたたかに落ちる。


反抗したり、軽蔑したり、時には自己嫌悪にかられたりする、柔かい心、感じ易い心は
みな捨てる。廉恥の心は持ちつづけてゐるべきだが、うぢうぢした羞恥心などはみな捨てる。
「……したい」などといふ心はみな捨てる。その代りに、「……すべきだ」といふことを
自分の基本原理にする。さうだ、本当にさうすべきだ。
生活のあらゆるものを剣に集中する。剣はひとつの、集中した澄んだ力の鋭い結晶だ。
精神と肉体が、とぎすまされて、光りの束をなして凝つたときに、それはおのづから
剣の形をとるのだ。

三島由紀夫「剣」より

57 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:30:56 ID:???
強く正しい者になることが、少年時代からの彼の一等大切な課題である。
少年のころ、一度、太陽と睨めつこをしようとしたことがある。見るか見ぬかの一瞬のうちの
変化だが、はじめそれは灼熱した赤い玉だつた。それが渦巻きはじめた。ぴたりと静まつた。
するとそれは蒼黒い、平べつたい、冷たい鉄の円盤になつた。彼は太陽の本質を見たと思つた。
……しばらくはいたるところに、太陽の白い残影を見た。叢にも。木立のかげにも。
目を移す青空のどの一隅にも。
それは正義だつた。眩しくてとても正視できないもの。そして、目に一度宿つたのちは、
そこかしこに見える光りの斑は、正義の残影だつた。
彼は強さを身につけ、正義を身に浴びたいと思つた。そんなことを考へてゐるのは、
世界中で自分一人のやうな気がした。それはすばらしく斬新な思想であつた。

三島由紀夫「剣」より

58 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:31:29 ID:???
「又かといふだらうが」と木内は、肘掛椅子に身を埋めたまま、両手で手拭を絞るやうな
所作をしながら、「剣は結局、手の内にはじまつて手の内に終るな。俺が三十五年、
剣道から学んだことはそれだけだつた。人間が本当に学んで会得することといふのは、
一生にたつた一つ、どんな小さいことでもいい。たつた一つあればいいんだ。
この手の内一つで、あんな竹細工のヤハな刀が、本当に生きもし、死にもする。これは
実にふしぎな面白いことだ。しかし一面から見れば、地球を廻転させる秘法を会得したのも
同じことだ、と俺は思ふんだよ。
むかしから、左手の握り具合は唐傘をさしたときと同じ、右手は丁度鷄卵を握つた気持、
といふんだが、いかなるときも左手に唐傘をさして右手に卵を握つてゐられるかね。
まあ実際にさうしてみてごらん。三十分もたてば、傘は放り出す、卵は握り潰す、といふのが
オチだらうからね」


幸福なんて男の持つべき考へぢやない。

三島由紀夫「剣」より

59 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:41:16 ID:???
現代においては、何の野心も持たぬといふことだけで、すでに優雅と呼んでもよからうから、
節子は優雅であつた。女にとつて優雅であることは、立派に美の代用をなすものである。
なぜなら男が憧れるのは、裏長屋の美女よりも、それほど美しくなくても、優雅な女のはうで
あるから。


あふれるばかりの精力を事業や理想の実現に向けてゐる肥つた醜い男などは何といふ滑稽な
代物であらう。みすぼらしい風采の世界的学者などは何といふ珍物であらう。仕事に
熱中してゐる男は美しく見えるとよく云はれるが、もともと美しくもない男が仕事に
熱中したつて何になるだらう。


女に友情がないといふのは嘘であつて、女は恋愛のやうに、友情をもひた隠しにして
しまふのである。その結果、女の友情は必ず共犯関係をひそめてゐる。


どんな邪悪な心も心にとどまる限りは、美徳の領域に属してゐる。

どんな驚天動地の大計画も、一旦心が決り準備が整ふと、それにとりかかる前に、或る休息に
似た気持が来るものである。


個性を愛することのできるのはむしろ友情の特権だ。

三島由紀夫「美徳のよろめき」より

60 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:41:33 ID:???
嫉妬の孤立感、その焦燥、そのあてどもない怒りを鎮める方法は一つしかなく、それは
嫉妬の当の対象、憎しみの当面の敵にむかつて、哀訴の手をさしのべることなのである。
はじめから、唯一の癒やし手はその当の敵のほかにはないことがわかつてゐる。自分に
傷を与へる敵の剣にすがつて、薬餌を求めるほかはないのである。


われわれが未来を怖れるのは、概して過去の堆積に照らして怖れるのである。恋が本当に
自由になるのは、たとへ一瞬でも思ひ出の絆から脱したときだ。


節子は考へはじめた。考へること、自己分析をすること、かういふことはみんな必要から
生れるのだ。


この世で一等強力なのは愛さない人間だね。


肉体の仕業はみんな嘘だと思つてしまへば簡単だが、それが習慣になつてしまへば、
習慣といふものには嘘も本当もない。精神を凌駕することのできるのは習慣といふ怪物だけ
なのだ。あなたも男も、この怪物の餌食なんだよ。

三島由紀夫「美徳のよろめき」より

61 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:41:50 ID:???
道徳は、習慣からの逃避もみとめないが、同時に、習慣への逃避も、それ以上にみとめて
ゐないのだ。道徳とは、人間と世界のこの悪循環を絶ち切つて、すべてのもの、あらゆる瞬間を、
決してくりかへされない一回きりのものにしようとする力なのだ。檻は二の次だ。ただ
人間は弱いから、こんな力をわがものとするために、どうしても檻を必要とするのだが、
世間ではこの檻だけを見て、檻の別名を道徳だと思つたりしてゐる。
習慣のおのおのの瞬間を、一回きりのものにすること、……ああ、倉越さん、私はことさら
あなたに難題を吹きかけてゐるのぢやない。ただ、この世界がいつまでもつづき、今日には
明日が、明日には明後日が永遠につづき、晴れたあとには雨が来、雨のあとには太陽が
照りかがやくといふ、自然の物理的法則からすつかり身を背けることが大切なのだ。
自然の法則になまじ目移りして、人間は人間であることを忘れ、習慣の奴隷になるか
逃避の王者になるかしてしまふ。自然はくりかへしてゐる。一回きりといふのは、人間の
唯一の特権なのだ。

三島由紀夫「美徳のよろめき」より

62 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:42:16 ID:???
快楽はたしかにすばらしいものだ。思ふ存分しつくし、味はひつくすべきものだ。
さういふ快楽を知つてゐるとあなたはお言ひだらうが、明日を怖れてゐる快楽などは、
贋物でもあり、恥づべきものではないだらうか。


習慣からのがれようとする思案は、陰惨で、人を卑屈にするばかりだが、快楽を捨てようと
する意志は、人の矜りに媚び、自尊心に受け容れられやすい。


男は、一度高い精神の領域へ飛び去つてしまふと、もう存在であることをやめてしまへる!


女が一等惚れる羽目になるのは、自分に一等苦手な男相手でございますね。あなたばかりでは
ありません。誰もさうしたものです。そのおかげで私たちは自分の欠点、自分といふ人間の
足りないところを、よくよく知るやうになるのでございます。女は女の鑑(かがみ)には
なれません。いつも殿方が女の鑑になつてくれるのですね。それもつれない殿方が。

三島由紀夫「美徳のよろめき」より

63 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:42:33 ID:???
情に負けるといふことが、結局女の最後の武器、もつとも手強い武器になります。情に
逆らつてはなりません。ことさら理を立てようとしてはなりません。情に負け、情に溺れて、
もう死ぬほかないと思ふときに、はじめて女には本来の智恵が湧いてまゐります。


一等怖れなければならないのは女たちのひそひそ話で、それに女は女の悩みを尊敬して
をりませんから、あなたのどんなまじめなお悩みも、お笑ひ草にされてしまひます。
それに奥様、女は恋に敗れた女に同情しながら、さういふ敗北者の噂をひろげるのが
大そう好きで、恋に勝つてばかりゐる女のことは、『不道徳な人』といふ一言で片附ける
だけなのでございます。いはば、さういふ勝利者は抽象的な不名誉だけで事がすみ、
細目にわたる具体的な不名誉は、お気の毒にも、不幸な敗北者の女が蒙ることになるのです。


世間を味方につけるといふことは奥様、とりもなほさず、世間に決して同情の涙を求めない
といふことなのです。

三島由紀夫「美徳のよろめき」より

64 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:43:59 ID:???
秘密といふものはたのしいもので、悩みであらうが喜びであらうが、同じ色に塗りたくつて
しまひます。それに国家の機密なぞは平気で洩らしませうが、自分の秘密を大事に固く
守ることは、女にとつてはそれほど難事ではありません。


惚れすぎて苦しくなり、相手をむりにも軽蔑することで、その恋から逃げようとするのは、
拙ない初歩のやり方です。万に一つも巧くはまゐりません。ひたすらその方をうやまひ、
尊敬するやうになさいまし。お相手がどんなに卑劣な振舞をしても、なほかつ尊敬するやうに
なさいまし。さうしてゐれば、とたんにお相手はあなたの目に、つまらない人物に見えて
まゐります。


ただ盲目であるときはまだ救はれ易い。本当に危険なのは、われわれが自分の盲目を
意識しはじめて、それを楯に使ひだす場合である。


苦痛の明晰さには、何か魂に有益なものがある。どんな思想も、またどんな感覚も、
烈しい苦痛ほどの明晰さに達することはできない。よかれあしかれ、それは世界を直視させる。

三島由紀夫「美徳のよろめき」より

65 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:46:39 ID:???
……今、四海必ずしも波穏やかならねど、
日の本のやまとの国は
鼓腹撃壌(こふくげきじやう)の世をば現じ
御仁徳の下(もと)、平和は世にみちみち
人ら泰平のゆるき微笑みに顔見交はし
利害は錯綜し、敵味方も相結び、
外国(とつくに)の金銭は人らを走らせ
もはや戦ひを欲せざる者は卑劣をも愛し、
邪まなる戦(いくさ)のみ陰にはびこり
夫婦朋友も信ずる能(あた)はず
いつはりの人間主義をたつきの糧となし
偽善の団欒は世をおほひ
力は貶(へん)せられ、肉は蔑(なみ)され、
若人らは咽喉元をしめつけられつつ
怠惰と麻薬と闘争に
かつまた望みなき小志の道へ
羊のごとく歩みを揃へ、
快楽もその実を失ひ、信義もその力を喪ひ、
魂は悉(ことごと)く腐蝕せられ
年老いたる者は卑しき自己肯定と保全をば、
道徳の名の下に天下にひろげ
真実はおほひかくされ、真情は病み、
道ゆく人の足は希望に躍ることかつてなく
なべてに痴呆の笑ひは浸潤し
魂の死は行人の顔に透かし見られ、
よろこびも悲しみも須臾(しゆゆ)にして去り

三島由紀夫「英霊の声」より

66 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:46:57 ID:???
清純は商はれ、淫蕩は衰へ、
ただ金(かね)よ金よと思ひめぐらせば
人の値打は金よりも卑しくなりゆき、
世に背く者は背く者の流派に、
生(なま)かしこげの安住の宿りを営み、
世に時めく者は自己満足の
いぎたなき鼻孔をふくらませ、
ふたたび衰へたる美は天下を風靡し
陋劣(ろうれつ)なる真実のみ真実と呼ばれ、
車は繁殖し、愚かしき速度は魂を寸断し、
大ビルは建てども大義は崩壊し
その窓々は欲求不満の蛍光灯に輝き渡り、
朝な朝な昇る日はスモッグに曇り
感情は鈍磨し、鋭角は磨滅し、
烈しきもの、雄々しき魂は地を払ふ。
血潮はことごとく汚れて平和に澱み
ほとばしる清き血潮は涸れ果てぬ。
天翔(あまが)けるものは翼を折られ
不朽の栄光をば白蟻どもは嘲笑(あざわら)ふ。
かかる日に、
などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし

三島由紀夫「英霊の声」より

67 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:47:14 ID:???
この日本をめぐる海には、なほ血が経めぐつてゐる。かつて無数の若者の流した血が海の
潮(うしほ)の核心をなしてゐる。それを見たことがあるか。月夜の海上に、われらは
ありありと見る。徒(あだ)に流された血がそのとき黒潮を血の色に変へ、赤い潮は唸り、
喚(おら)び、猛き獣のごとくこの小さい島国のまはりを彷徨し、悲しげに吼える姿を。
それを見ることがわれらの神遊びなのだ。手を束(つか)ねてただ見守ることがわれらの
遊びなのだ。かなた、日本本土は、夜も尽きぬ灯火の集団のいくつかを海上に泛(うか)ばせ、
熔鉱炉の焔は夜空を舐めてゐる。あそこには一億の民が寝息を立て、あるひはわれらの
知らなかつた、冷たい飽き果てた快楽に褥(しとね)を濡らしてゐる。
あれが見えるか。
われらがその真姿を顕現しようとした国体はすでに踏みにじられ、国体なき日本は、
かしこに浮標(ブイ)のやうに心もとなげに浮んでゐる。
あれが見えるか。

三島由紀夫「英霊の声」より

68 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:47:41 ID:???
われらには、死んですべてがわかつた。死んで今や、われらの言葉を禁(とど)める力は
何一つない。われらはすべてを言ふ資格がある。何故ならわれらは、まごころの血を
流したからだ。
今ふたたび、刑場へ赴く途中、一大尉が叫んだ言葉が胸によみがへる。
『皆死んだら血のついたまま、天皇陛下のところに行くぞ。而(しかう)して死んでも
大君の為に尽すんだぞ。天皇陛下万歳。大日本帝国万歳』
そして死んだわれらは天皇陛下のところへ行つたか? われらの語らうと思ふことは
そのことだ。すべてを知つた今、神語りに語らうと思ふのはそのことだ。
しかしまづ、われらは恋について語るだらう。あの恋のはげしさと、あの恋の至純について
語るだらう。


大演習の黄塵のかなた、天皇旗のひらめく下に、白馬に跨られた大元帥陛下の御姿は、遠く
小さく、われらがそのために死すべき現人神のおん形として、われらが心に焼きつけられた。
神は遠く、小さく、美しく、清らかに光つてゐた。われらが賜はつた軍帽の徴章の星を
そのままに。

三島由紀夫「英霊の声」より

69 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:48:15 ID:???
われらが国体とは心と血のつながり、片恋のありえぬ恋闕(れんけつ)の劇烈なよろこび
なのだ。さればわれらの目に、はるか陛下は、醜き怪獣どもに幽閉されておはします、
清らにも淋しい囚はれの御身と映つた。


われらはつひに義兵を挙げた。思ひみよ。その雪の日に、わが歴史の奥底にひそむ維新の力は、
大君と民草、神と人、十善の御位にましますおん方と忠勇の若者との、稀なる対話を
用意してゐた。
思ひみよ。
そのとき玉穂なす瑞穂の国は荒蕪の地と化し、民は餓ゑに泣き、女児は売られ、大君の
しろしめす王土は死に充ちてゐた。神々は神謀りに謀りたまひ、わが歴史の井戸のもつとも
清らかな水を汲み上げ、それをわれらが頭(かうべ)に注いで、荒地に身を伏して泣く
蒼氓に代らしめ、現人神との対話をひそかに用意された。そのときこそ神国は顕現し、
狭蠅なすまがつびどもは吹き払はれ、わが国体は水晶のごとく澄み渡り、国には至福が
漲る筈だつた。

三島由紀夫「英霊の声」より

70 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:51:20 ID:???
われらは陛下が、われらをかくも憎みたまうたことを、お咎めする術とてない。
しかし叛逆の徒とは! 叛乱とは! 国体を明らかにせんための義軍をば、叛乱軍と呼ばせて
死なしむる、その大御心に御仁慈はつゆほどもなかりしか。
こは神としてのみ心ならず、
人として暴を憎みたまひしなり。
鳳輦(ほうれん)に侍するはことごとく賢者にして
道のべにひれ伏す愚かしき者の
血の叫びにこもる神への呼びかけは
つひに天聴に達することなく、
陛下は人として見捨てたまへり、
かの暗澹たる広大なる貧困と
青年士官らの愚かなる赤心を。
わが古き神話のむかしより
大地の精の血の叫び声を凝り成したる
素戔嗚尊(すさのをのみこと)は容れられず、
聖域に馬の生皮を投げ込みしとき
神のみ怒りに触れて国を逐(お)はれき。
このいと醇乎たる荒魂より
人として陛下は面をそむけ玉ひぬ。
などてすめろぎは人間となりたまひし

三島由紀夫「英霊の声」より

71 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:51:37 ID:???
われらは最後の神風たらんと望んだ。神風とは誰が名付けたのか。それは人の世の仕組が
破局にをはり、望みはことごとく絶え、滅亡の兆はすでに軒の燕のやうに、わがもの顔に
人々のあひだをすりぬけて飛び交はし、頭上には、ただこの近づく滅尽争を見守るための
精麗な青空の目がひろがつてゐるとき、……突然、さうだ、考へられるかぎり非合理に、
人間の思考や精神、それら人間的なもの一切をさはやかに侮蔑して、吹き起つてくる救済の
風なのだ。わかるか。それこそは神風なのだ。


われらは兄神のやうな、死の恋の熱情の焔は持たぬ。われらはそもそも絶望から生れ、
死は確実に予定され、その死こそ『御馬前の討死』に他ならず、陛下は畏れ多くも、
おん悲しみと共にわれらの死を喜納される。それはもう決まつてゐる。われらには恋の
飢渇はなかつた。
われらの熱情は技術者の冷静と組み合はされ、われら自身の死の有効度のための、精密な
計算に費やされてゐた。われらは自分の死を秤にかけ、あらゆる偶然の生を排して、その
こまかい数値をも、あらかじめ確実に知らうとしてゐた。

三島由紀夫「英霊の声」より

72 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:52:05 ID:???
われらはもはや神秘を信じない。自ら神風となること、自ら神秘となることとは、さういふ
ことだ。人をしてわれらの中に、何ものかを祈念させ、何ものかを信じさせることだ。
その具現がわれらの死なのだ。
しかしわれら自身が神秘であり、われら自身が生ける神であるならば、陛下こそ神であらねば
ならぬ。神の階梯のいと高いところに、神としての陛下が輝いてゐて下さらなくてはならぬ。
そこにわれらの不滅の根源があり、われらの死の栄光の根源があり、われらと歴史とを
つなぐ唯一条の糸があるからだ。そして陛下は決して、人の情と涙によつて、われらの死を
救はうとなさつたり、われらの死を妨げようとなさつてはならぬ。神のみが、このやうな
非合理な死、青春のこのやうな壮麗な屠殺によつて、われらの生粋の悲劇を成就させて
くれるであらうからだ。さうでなければ、われらの死は、愚かな犠牲にすぎなくなるだらう。
われらは戦士ではなく、闘技場の剣士に成り下るだらう。神の死ではなくて、奴隷の死を
死ぬことになるだらう。……

三島由紀夫「英霊の声」より

73 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:52:21 ID:???
……かくてわれらは死後、祖国の敗北を霊界からまざまざと眺めてゐた。
今こそわれらは、兄神たちの嘆きを、我が身によそへて、深く感ることができた。兄神たちが
あのとき、吹かせようと切に望んだものも亦、神風であつたことを。
あのとき、至純の心が吹かせようとした神風は吹かなかつた。何故だらう。あのときこそ、
神風が吹き、草木はなびき、血は浄められ、水晶のやうな国体が出現する筈だつた。
又われらが、絶望的な状況において、身をなげうつて、吹かせようとした神風も吹かなかつた。
何故だらう。
日本の現代において、もし神風が吹くとすれば、兄神たちのあの蹶起の時と、われらの
あの進撃の時と、二つの時しかなかつた。その二度の時を措いて、まことに神風が吹き起り、
この国が神国であることを、自ら証する時はなかつた。そして、二度とも、実に二度とも、
神風はつひに吹かなかつた。
何故だらう。
われらは神界に住むこと新らしく、なほその謎が解けなかつた。

三島由紀夫「英霊の声」より

74 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:52:36 ID:???
月の押し照る海上を眺め、わが肉体がみぢんに砕け散つたあたりをつらつら見ても、なぜ
あのとき、あのやうな人間の至純の力が、神風を呼ばなかつたかはわからなかつた。
曇り空の一角がほのかに破れて、青空の片鱗が顔をのぞかすやうに、たしかにこの暗い人間の
歴史のうちにたつた二度だけ、神の厳(いつく)しきお顔が地上をのぞかれたことがある。
しかし、神風は吹かなかつた。そして一群の若者は十字架に縛されて射たれ、一群の若者は
たちまち玩具に堕する勲章で墓標を飾られた。何故だらう。


兄神たちも、われらも、一つの、おそろしい、むなしい、みぢんに砕ける大きな玻璃(はり)の
器の終末を意味してゐた。われらがのぞんだ栄光の代りに、われらは一つの終末として
記憶された。われらこそ暁、われらこそ曙光、われらこそ端緒であることを切望したのに。
何故だらう。
何故われらは、この若さを以て、この力を以て、この至純を以て、不吉な終末の神に
なつたのだらう。曙光でありたいと冀(ねが)ひながら、荒野のはてに、黄ばんだ一線に
なつて横たはる、夕日の最後の残光になつたのだらう。

三島由紀夫「英霊の声」より

75 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:56:05 ID:???
かくて幣原は、改めて陛下の御内意を伺ひ、陛下御自身の御意志によつて、それが
出されることになつた。
幣原は、自ら言ふやうに『日本よりもむしろ外国の人達に印象を与へたいといふ気持が
強かつたものだから、まづ英文で起草』したのである。


……今われらは強ひて怒りを抑へて物語らう。
われらは神界から逐一を見守つてゐたが、この『人間宣言』には、明らかに天皇御自身の
御意志が含まれてゐた。天皇御自身に、
『実は朕は人間である』
と仰せ出されたいお気持が、積年に亘つて、ふりつもる雪のやうに重みを加へてゐた。
それが大御心であつたのである。
忠勇たる将兵が、神の下された開戦の詔勅によつて死に、さしもの戦ひも、神の下された
終戦の詔勅によつて、一瞬にして静まつたわづか半歳あとに、陛下は、
『実は朕は人間であつた』
と仰せ出されたのである。われらが神なる天皇のために、身を弾丸となして敵艦に命中させた、
そのわづか一年あとに……。
あの『何故か』が、われらには徐々にわかつてきた。

三島由紀夫「英霊の声」より

76 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:56:22 ID:???
陛下の御誠実は疑ひがない。陛下御自身が、実は人間であつたと仰せ出される以上、その
お言葉にいつはりのあらう筈はない。高御座にのぼりましてこのかた、陛下はずつと人間で
あらせられた。あの暗い世に、一つかみの老臣どものほかには友とてなく、たつた
お孤(ひと)りで、あらゆる辛苦をお忍びになりつつ、陛下は人間であらせられた。
清らかに、小さく光る人間であらせられた。
それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう。
だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。何と云はうか、
人間としての義務(つとめ)において、神であらせられるべきだつた。この二度だけは、
陛下は人間であらせられるその深度のきはみにおいて、正に、神であらせられるべきだつた。
それを二度とも陛下は逸したまうた。もつとも神であらせられるべき時に、人間に
ましましたのだ。

三島由紀夫「英霊の声」より

77 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:56:47 ID:???
一度は兄神たちの蹶起の時、一度はわれらの死のあと、国の敗れたあとの時である。
歴史に『もし』は愚かしい。しかし、もしこの二度のときに、陛下が決然と神にましましたら、
あのやうな虚しい悲劇は防がれ、このやうな虚しい幸福は防がれたであらう。
この二度のとき、この二度のとき、陛下は人間であらせられることにより、一度は軍の魂を
失はせ玉ひ、二度目は国の魂を失はせ玉うた。
御聖代は二つの色に染め分けられ、血みどろの色は敗戦に終り、ものうき灰いろはその日から
はじまつてゐる。御聖代が真に血にまみれたるは、兄神たちの至誠を見捨てたまうたその日に
はじまり、御聖代がうつろなる灰に充たされたるは、人間宣言を下されし日にはじまつた。
すべて過ぎ来しことを『架空なる観念』と呼びなし玉うた日にはじまつた。
われらの死の不滅は涜された。……

三島由紀夫「英霊の声」より

78 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:57:03 ID:???
「ああ、ああ、嘆かはし、憤ろし」
「ああ」
「ああ」
「そもそも、綸言(りんげん)汗のごとし、とは、いづこの言葉でありますか」
「神なれば勅により死に、神なれば勅により軍を納める。そのお力は天皇おん個人の
お力にあらず、皇祖皇宗のお力でありますぞ」
「ああ」
「ああ」
「もしすぎし世が架空であり、今の世が現実であるならば、死したる者のため、何ゆゑ
陛下ただ御一人は、辛く苦しき架空を護らせ玉はざりしか」
「陛下がただ人間(ひと)と仰せ出されしとき
神のために死したる霊は名を剥脱せられ
祭らるべき社(やしろ)もなく
今もなほうつろなる胸より血潮を流し
神界にありながら安らひはあらず」

三島由紀夫「英霊の声」より

79 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 11:57:17 ID:???
日本の敗れたるはよし
農地の改革せられたるはよし
社会主義的改革も行はるるがよし
わが祖国は敗れたれば
敗れたる負目を悉く肩に荷ふはよし
わが国民はよく負荷に耐へ
試練をくぐりてなほ力あり。
屈辱を嘗めしはよし、
抗すべからざる要求を潔く受け容れしはよし、
されど、ただ一つ、ただ一つ、
いかなる強制、いかなる弾圧、
いかなる死の脅迫ありとても、
陛下は人間(ひと)なりと仰せらるべからざりし。
世のそしり、人の侮りを受けつつ、
ただ陛下御一人(ごいちにん)、神として御身を保たせ玉ひ、
そを架空、そをいつはりとはゆめ宣(のたま)はず、
(たとひみ心の裡深く、さなりと思すとも)
祭服に玉体を包み、夜昼おぼろげに
宮中賢所のなほ奥深く
皇祖皇宗のおんみたまの前にぬかづき、
神のおんために死したる者らの霊を祭りて
ただ斎き、ただ祈りてましまさば、
何ほどか尊かりしならん。
などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。
 などてすめろぎは人間となりたまひし。
  などてすめろぎは人間となりたまひし。

三島由紀夫「英霊の声」より

80 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 12:21:20 ID:???
私にとつては、美はいつも後退りをする。かつて在つた、あるひはかつて在るべきであつた
姿しか、私にとつては重要でない。鉄塊は、その微妙な変化に富んだ操作によつて、
肉体のうちに失はれかかつてゐた古典的均衡を蘇らせ、肉体をあるべきであつた姿に
押し戻す働らきをした。


あらゆる英雄主義を滑稽なものとみなすシニシズムには、必ず肉体的劣等感の影がある。
英雄に対する嘲笑は、肉体的に自分が英雄たるにふさはしくないと考へる男の口から出るに
決まつてゐる。


私はかつて、彼自身も英雄と呼ばれてをかしくない肉体的資格を持つた男の口から、
英雄主義に対する嘲笑がひびくのをきいたことがない。シニシズムは必ず、薄弱な筋肉か
過剰な脂肪に関係があり、英雄主義と強大なニヒリズムは、鍛へられた筋肉と関係あるのだ。
なぜなら英雄主義とは、畢竟するに、肉体の原理であり、又、肉体の強壮と死の破壊との
コントラストに帰するからであつた。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

81 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 12:21:38 ID:???
敵とは、「見返す実在」とは、究極的には死に他ならない。誰も死に打ち克つことが
できないとすれば、勝利の栄光とは、純現世的な栄光の極致にすぎない。


私の文体は対句に富み、古風な堂々たる重味を備へ、気品にも欠けてゐなかつたが、
どこまで行つても式典風な壮重な歩行を保ち、他人の寝室をもその同じ歩調で通り抜けた。
私の文体はつねに軍人のやうに胸を張つてゐた。そして、背をかがめたり、身を斜めにしたり、
膝を曲げたり、甚だしいのは腰を振つたりしてゐる他人の文体を軽蔑した。
姿勢を崩さなければ見えない真実がこの世にはあることを、私とて知らぬではない。
しかしそれは他人に委せておけばすむことだつた。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

82 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 12:21:53 ID:???
私が求めるのは、勝つにせよ、負けるにせよ、戦ひそのものであり、戦はずして敗れることも、
ましてや、戦はずして勝つことも、私の意中にはなかつた。一方では、私は、あらゆる
戦ひといふものの、芸術における虚偽の性質を知悉してゐた。もしどうしても私が戦ひを
欲するなら、芸術においては砦を防衛し、芸術外において攻撃に出なければならぬ。
芸術においてはよき守備兵であり、芸術外においてはよき戦士でなければならぬ。


「武」とは花と散ることであり、「文」とは不朽の花を育てることだ、と。そして不朽の
花とはすなはち造花である。
かくて「文武両道」とは、散る花と散らぬ花とを兼ねることであり、人間性の最も相反する
二つの欲求、およびその欲求の実現の二つの夢を、一身に兼ねることであつた。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

83 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 12:22:23 ID:???
かつて向う岸にゐたと思はれた人々は、もはや私と同じ岸にゐるやうになつた。すでに
謎はなく、謎は死だけになつた。


私が幸福と呼ぶところのものは、もしかしたら、人が危機と呼ぶところのものと同じ地点に
あるのかもしれない。言葉を介さずに私が融合し、そのことによつて私が幸福を感じる
世界とは、とりもなほさず、悲劇的世界であつたからである。


われわれは「絶対」を待つ間の、つねに現在進行の虚無に直面するときに、何を試みるかの
選択の自由だけが残されてゐる。いづれにせよ、われわれは準備せねばならぬ。この準備が
向上と呼ばれるのは、多かれ少なかれ、人間の中には、やがて来るべき未見の「絶対」の絵姿に、
少しでも自分が似つかはしくなりたいといふ哀切な望みがひそんでゐるからであらう。
もつとも自然で公明な欲望は、自分の肉体も精神も、ひさしくその絶対の似姿に近づきたいと
のぞむことであらう。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

84 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 12:22:38 ID:???
七生報国や必敵撃滅や死生一如や悠久の大義のやうに、言葉すくなに誌された簡素な遺書は、
明らかに幾多の既成概念のうちからもつとも壮大なもつとも高貴なものを選び取り、
心理に類するものはすべて抹殺して、ひたすら自分をその壮麗な言葉に同一化させようとする
矜りと決心をあらはしてゐた。
もちろんかうして書かれた四字の成句は、あらゆる意味で「言葉」であつた。しかし
既成の言葉とはいへ、それは並大抵の行為では達しえない高みに、日頃から飾られてゐる
格別の言葉だつた。今は失つたけれども、かつてわれわれはそのやうな言葉を持つてゐたのである。


私の幼時の直感、集団といふものは肉体の原理にちがひないといふ直感は正しかつた。


肉体は集団により、その同苦によつて、はじめて個人によつては達しえない或る肉の高い
水位に達する筈であつた。そこで神聖が垣間見られる水位にまで溢れるためには、個性の
液化が必要だつた。のみならず、たえず安逸と放埒と怠惰へ沈みがちな集団を引き上げて、
ますます募る同苦と、苦痛の極限の死へみちびくところの、集団の悲劇性が必要だつた。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

85 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 12:25:40 ID:???
私には地球を取り巻く巨きな巨きな蛇の環が見えはじめた。すべての対極性を、われとわが尾を
嚥(の)みつづけることによつて鎮める蛇。すべての相反性に対する嘲笑をひびかせてゐる
最終の巨大な蛇。私にはその姿が見えはじめた。
相反するものはその極致において似通ひ、お互ひにもつとも遠く隔たつたものは、ますます
遠ざかることによつて相近づく。蛇の環はこの秘義を説いてゐた。


私は肉体の縁(へり)と精神の縁、肉体の辺境と精神の辺境だけに、いつも興味を
寄せてきた人間だ。深淵には興味がなかつた。深淵は他人に委せよう。なぜなら深淵は
浅薄だからだ。深淵は凡庸だからだ。
縁の縁、そこには何があるのか。虚無へ向つて垂れた縁飾りがあるだけなのか。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

86 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 12:25:56 ID:???
地球は死に包まれてゐる。空気のない上空には、はるか地上に、物理的条件に縛められて
歩き回る人間を眺め下ろしながら、他ならぬその物理的条件によつてここまでは気楽に昇れず、
したがつて物理的に人を死なすこときはめて稀な、純潔な死がひしめいてゐる。人が素面で
宇宙に接すればそれは死だ。宇宙に接してなほ生きるためには、仮面をかぶらねばならない。
酸素マスクといふあの仮面を。
精神や知性がすでに通ひ馴れてゐるあの息苦しい高空へ、肉体を率いて行けば、そこで
会ふのは死かもしれない。精神や知性だけが昇つて行つても、死ははつきりした顔を
あらはさない。そこで精神はいつも満ち足りぬ思ひで、しぶしぶと、地上の肉体の棲家へ
舞ひ戻つて来る。彼だけが昇つて行つたのでは、つひに統一原理は顔をあらはさない。
二人揃つて来なくては受け容れられぬ。


ほんのつかのまでも、われわれの脳裡に浮んだことは存在する。現に存在しなくても、
かつてどこかに存在したか、あるひはいつか存在するであらう。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

87 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 12:26:12 ID:???
私はそもそも天に属するのか?
さうでなければ何故天は
かくも絶えざる青の注視を私へ投げ
私をいざなひ心もそらに
もつと高くもつと高く
人間的なものよりもはるか高みへ
たえず私をおびき寄せる?
均衡は厳密に考究され
飛翔は合理的に計算され
何一つ狂ほしいものはない筈なのに
何故かくも昇天の欲望は
それ自体が狂気に似てゐるのか?
私を満ち足らはせるものは何一つなく
地上のいかなる新も忽ち倦(あ)かれ
より高くより高くより不安定に
より太陽の光輝に近くおびき寄せられ
何故その理性の光源は私を灼き
何故その理性の光源は私を滅ぼす?

三島由紀夫「イカロス」より

88 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 12:26:28 ID:???
眼下はるか村落や川の迂回は
近くにあるよりもずつと耐へやすく
かくも遠くからならば
人間的なものを愛することもできようと
何故それは弁疏(べんそ)し是認し誘惑したのか?
その愛が目的であつた筈もないのに?
もしさうならば私が
そもそも天に属する筈もない道理なのに?
鳥の自由はかつてねがはず
自然の安逸はかつて思はず
ただ上昇と接近への
不可解な胸苦しさにのみ駆られて来て
空の青のなかに身をひたすのが
有機的な喜びにかくも反し
優越のたのしみからもかくも遠いのに
もつと高くもつと高く
翼の蝋の眩暈と灼熱におもねつたのか?

三島由紀夫「イカロス」より

89 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 12:26:44 ID:???
されば
そもそも私は地に属するのか?
さうでなければ何故地は
かくも急速に私の下降を促し
思考も感情もその暇を与へられず
何故かくもあの柔らかなものうい地は
鉄板の一打で私に応へたのか?
私の柔らかさを思ひ知らせるためにのみ
柔らかな大地は鉄と化したのか?
堕落は飛翔よりもはるかに自然で
あの不可解な情熱よりもはるかに自然だと
自然が私に思ひ知らせるために?
空の青は一つの仮想であり
すべてははじめから翼の蝋の
つかのまの灼熱の陶酔のために
私の属する地が仕組み
かつは天がひそかにその企図を助け
私に懲罰を下したのか?
私が私といふものを信ぜず
あるひは私が私といふものを信じすぎ
自分が何に属するかを性急に知りたがり
あるひはすべてを知つたと傲(おご)り
未知へ
あるひは既知へ
いづれも一点の青い表象へ
私が飛び翔たうとした罪の懲罰に?

三島由紀夫「イカロス」より

90 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 12:42:54 ID:???
修一はこんなに明るい女たちのざわめきをはじめてきいたやうな気がした。それは彼の家庭では
決してきかれない明るい花束のやうな笑ひ声で、きいてゐるだけで体がほてるやうな気がした。
女たちの笑ひさざめく声といふのは、どうしてこんなにたのしいのだらう。湖の上に洩れて
映る大きな旅館の宴会の灯のやうだ。そこでは地上の快楽が、一堂に集まつてゐるやうに
見えるのだ。


小説家の考へなんて、現実には必ず足をすくはれるもんだ。


四十歳を越すと、どうしても人間は、他人に自分の夢を寄せるやうになる。


俺は猛烈な嫉妬を感じた。自分の小説の登場人物に嫉妬を感じる小説家とは、まことに
奇妙な存在だ。


こんなときに限つてバスはなかなか来ず、寒気は靴下にしみ入り、美代は修一に会ふ前は
つひぞ感じたことのない孤独に包まれた。はじめて彼を見たのも、この停留所だつた。
その白いスウェーターの腕。……恋をすると、人間は一そう一人ぼつちになるものだらうか。

三島由紀夫「愛の疾走」より

91 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 12:43:12 ID:???
寒い川岸に立つて見てゐた美代は、こんな荒つぽい男たちの友情に充ちたやりとりのなかで、
修一がみんなに愛されていきいきと働らいてゐる、決して暗くない生活の実感を、この手に
つかんだやうな気がした。ひよつとすると、あんなに近代的な明るい自分の職場のはうに、
機械にふりまはされて暮さなければならぬ現代の暗さが、顔をのぞけてゐるやうな気がした。
生活の幸福とはどういふことだらうか。


美代は、丁度その時間にそこで作業が行はれてゐず、魚の腹から卵をしぼり出す残酷な仕事を
見ないですんだのを喜んだ。
『でも、卵……卵……卵……。男たちがこんな仕事をしてゐる!』
彼女は何だか自分が魚になつたやうな、ひどく恥かしい感じがした。自分も一人の女として、
冬からやがて春へと動いてゆく、自然の大きな目に見えない流れに、否応なしに押し流されて
ゆくのだと思ふと、しらない間に野球帽も手拭もとつて、寒さのために赤い活気のある
頬をした修一の横顔を、じつと眺めてゐるのが、何だか眩しくなつた。

三島由紀夫「愛の疾走」より

92 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 12:43:28 ID:???
『信じられないやうな幸福だ。僕があの人に愛されてゐる。湖のむかうの美しい娘に』
彼は夢うつつの中で、結氷した湖が向う岸とこちらの岸とをつなぎ、夢がそのまま結氷して
堅固な現実の姿をとつた様を思ひゑがいた。彼があんなに切なく考へた距離は、見かけの
ものにすぎなかつた。それから彼があんなに怖れた、美しい娘とぶざまな自分との対比も、
心配したほどのものでもなかつた。二つの決して触れ合はなかつた世界が溶けあつて、
接吻を交はしたのだ。
『実際この世界には何てふしぎなことがあるものだらう』
闇の中に美代の美しい唇だけが、氷つた湖を駈けてくる一点の炎のやうに近づいた。
『あれは僕におやすみを言ふために駈けて来るんだ。あの小さな炎の近づいてくる速さ。
スケートよりも速い』
炎はたうとう近づいて彼の唇を灼いた。
『おやすみ』
幸福な若者は眠りに落ちた。

三島由紀夫「愛の疾走」より

93 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 12:43:44 ID:???
本当に愛し合つてゐる同士は、「すれちがひ」どころか、却つて、ふしぎな糸に引かれて
偶然の出会をするもので、愛する者を心に描いてふらふらと家を出た青年が、思ひがけない辻で
パッタリその女に会つた経験を、ゲエテもエッカーマンに話してゐるほどだ。


クライマックスといふものは、いづれにせよ、人をさんざんじらせ、待たせるものだ。
第一の御柱は崖のすぐ上辺まで来てゐるのに、ゆつくり一服してゐて、なかなか「坂落し」は
はじまらなかつた。


女といふものはな、頭から信じてしまふか、頭から疑つてかかるか、どつちかしかないものだな。
どつちつかずだと、こつちが悩んで往生する。漁も同じだ。『今日はとれるかな、
とれないかな』……これではいかん。必ず大漁と思つて出ると大漁、からきしダメだらうと
思つて出ると大漁、全くヘンなものだ。こつちが中途半端な気持だと、向うも中途半端に
なるものらしい。全くヘンなものだ。

三島由紀夫「愛の疾走」より

94 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 12:44:08 ID:???
美代はされるままになつてゐて、決して起き上らうとしなかつた。修一はだんだん心配に
なつてきた。
しかし突然、美代は両手で自分の顔をおほひ、体を斜めにして、修一の腕をのがれた。
修一はおどろいてその顔を眺め下ろした。美代は泣いてゐた。
声は立てなかつたが、美代は永久に泣きつづけてゐるやうで、その指の間から、涙が嘘のやうに
絶え間なくこぼれおちた。顔をおほつてゐる美代の指は、華奢な美しい女の指とは言へなかつた。
意識してかしないでか、美代は自分の一等自信のない部分へ、男の注視を惹きつづけて
ゐたことになる。
それは農村で育つたのちに、キー・パンチャーとして鍛えられた指で、右手の人差し指と
中指と薬指、なかんづく一等使はれる薬指は、扁平に節くれ立つて、どんな優雅な指輪も
似合ひさうではなかつた。
しみじみとその指を眺めてゐた修一は、労働をする者だけにわかる共感でいつぱいになつて、
その薬指が、いとほしくてたまらなくなり、思はず、唇をそれにそつと触れた。

三島由紀夫「愛の疾走」より

95 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 12:50:17 ID:???
はるか富士の山頂が、遠く霞んで山峡に顔をのぞけてゐる。……
美代はいつのまにか泣きやんでゐたが、まだ手を顔から離さず、さつきのままの姿勢で、
微動もしなかつた。ときどきブラウスの胸が大きく波打つた。
もともと口下手の修一は、こんなときに余計なことを言ひ出して、事壊しになるやうな羽目には
陥らなかつた。彼は子供が好奇心にかられて菓子の箱をむりやりあけてみるやうに、
かなり強引な力で、美代のしつかりと顔をおほつてゐる指を左右にひらいた。
涙に濡れた美しい顔が現はれた。しかし崩れた泣き顔ではなくて、涙のために、一そう
剥き立ての果物のやうな風情を増してゐた。修一はいとしさに耐へかねて、顔を近づけた。
するとその泣いてゐた美代の口もとが、あるかなきかに綻んで、ほんの少し微笑したやうに
思はれた。
それに力を得て、修一は強く、美代の唇に接吻した。

三島由紀夫「愛の疾走」より

96 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 12:50:34 ID:???
……美代はこの唇こそ、永らく待ちこがれてゐた唇だと、半ば夢心地のうちに考へた。
もう何も考へないやうにしよう。考へることから禍が起つたのだ。何も考へないやうにしよう。
……こんな場合の心に浮ぶ羞恥心や恐怖や、果てしのない躊躇逡巡や、あとで飽きられたら
どうしようといふ思惑や、さういふものはすべて、女の体に無意識のうちにこもつてゐる
醜い打算だとさへ、彼女は考へることができた。純粋になり、透明にならう。決して
過去のことも、未来のことも考へまい。……自然の与へてくれるものに何一つ逆らはず、
みどり児のやうに大人しくすべてを受け容れよう。世間が何だ。世間の考へに少しでも
味方したことから、不幸が起つたのだ。……何も考へずに、この虹のやうなものに全身を
委せよう。……水にうかぶ水蓮の花のやうに、漣(さざなみ)のままに揺れてゐよう。
……どうしてこの世の中に醜いことなどがあるだらうか。考へることから醜さが生れる。
心の隙間から醜さが生れる。心が充実してゐるときに、どうして、この世界に醜さの
入つてくる余地があるだらうか。

三島由紀夫「愛の疾走」より

97 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 12:50:51 ID:???
……今まで誰にも触れさせたことのない乳房を、修一の大きな固い掌が触つた。この人は
怖れてゐる。慄へてゐる。どうして悪いことをするやうに慄へてゐるのだらう。……
この太陽の下、花々の間、遠い山々に囲まれて、悪いことを人間ができるだらうか。……
美代の心からは、人に見られる心配さへみんな消え失せてゐた。世界中の人に見られてゐても、
今の自分の姿には、恥づべきことは何一つないやうな気がした。……
それでゐて、美代の体が、やさしく羞恥心にあふれてゐるのを、修一は誤りなく見てゐた。
丈の高い夏草の底に埋もれて、彼女はそのまま恥らひのあまり、夏の驟雨のやうに地面に
融け込んでしまひさうだつた。
二人とも人生ではじめての経験だつたのに、これだけ感情の昂揚してゐたことで、すべては
流れるやうに進んで、短かい間に、空もゆらめくやうな思ひは終り、修一は美代の純潔の
しるしを見て、歓びの叫びをあげたい気持になつた。

三島由紀夫「愛の疾走」より

98 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 12:51:17 ID:???
美代ちやん、恋愛と結婚を写真機にたとへると、かういふことだ。シャッターを押すだけなら
誰にもできる。しかしいい写真が出来上るには、はじめの構図の決め方、距離や絞りの
合はせ方、光線の加減、又あとには現像密着の技術も要る。それも何度もやつてみて
馴れられるものならいいが、ズブの素人を連れて来て、一ぺんコッキリの勝負をさせるのだから
危ないものだ。そこでシャッターを押す前に、できるだけ念入りに、絞りを合はせたり、
光線の具合をしらべたり、距離を測つたりする必要があるんだよ。このごろみたいに
オートマばやりだと、それはそれでいいかもしれないが、それだつて構図だけはオートマぢや
行かないからね。


俺が二人の仲を割いたやうな形になつたのも、結局二人のためを思つたからだ。もしさうでなくて、
初恋がすらすらと結ばれたら、そんな夫婦の一生は、箸にも棒にもかからないものになる。
人間は怠け者の動物で、苦しめてやらなくては決して自分を発見しない。自分を発見しないと
いふことは、要するに、本当の幸福を発見しないといふことだ。

三島由紀夫「愛の疾走」より

99 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 12:54:55 ID:???
当の娘の父親にとつては、この世に一般論などといふものはあるべきではなかつた。心の奥底で
娘を手離したくないと思つてゐる父親の気持から、オールド・ミスにならぬうちに誰かに
早く呉れてやりたいと思つてゐる父親の気持まで、無数のニュアンスの連鎖があつて、
どこからが一般論で、どこからがさうでないとは云へなかつた。又、見様によつては、
世の父親のすべての心には、右の両極端の二つの気持が、それぞれの程度の差こそあれ、
混在してゐる筈であつた。


怖ろしい巨犬には、正面から向つて行けばいいのである。


あまり完璧に見える幸福に対して、人は恐怖を抱かずにはいられないものなのであらうか?


僕はね、君を百パーセント幸福にして上げたいと思ふと、いろんなことを考へだして、
気むづかしくなつてしまふんだ。一種の完璧主義者なんだな。……人間の心といふ奴は、
とにかく、善意だけではどうにもならん。善意だけでは、……人生を煩はしくするばかりだと
わかつてゐてもね。

三島由紀夫「夜会服」より

100 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 12:55:14 ID:???
人間は誰でも、(殊に男は)自然にこれこれの人物になるといふものではない。目標があり、
理想像があればこそ、それに近づかうとするのである。


幸福といふものは、そんなに独創的であつてはいけないものだ。幸福といふ感情はそもそも
排他的ではないのだから、みんなと同じ制服を着ていけないといふ道理はないし、同じ種類の
他人の幸福が、こちらの幸福を映す鏡にもなるのだ。


隔意を抱くといふことは淋しいことである。しかも、愛情のために隔意を抱くといふことは、
まるで愛するために他人行儀になるやうなもので、はじめから矛盾してゐる。


結婚とは、人生の虚偽を教へる学校なのであらうか。


現代では万能の人間なんか、金と余裕の演じるフィクションにすぎないんだ。


人間つて誰でも、自分の持つてゐるものは大切にしないのぢやないかしら。
…誰でも、手に入れたものは大したものだと思はなくなる傾きがあるのぢやないかしら。

三島由紀夫「夜会服」より

101 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 12:55:56 ID:???
あなたは女がたつた一人でコーヒーを呑む時の味を知つてゐて?
今に知るやうになるわ。お茶でもない、紅茶でもない、イギリス人はあまり呑まないけれど、
やはりそれはコーヒーでなくてはいけないの。それはね、自分を助けてくれる人はもう
誰もゐない、何とか一人で生きて行かなければ、といふ味なのよ。
黒い、甘い、味はひ、何だかムウーッとする、それでゐて香ばしい味、しつこい、
諦めの悪い味。……それだわ、私が本当にコーヒーの味を知つたのは、俊男が結婚してから
はじめてだつたの。それまではコーヒーの味がわからなかつた。主人が亡くなつたあとでもね。
一人で生きなければ、とたえず背中から圧迫されたり激励されたりしてゐるやうな感じつて
わかつて? 誰かの手がいつも自分の背中を、はげますやうに叩いてゐる。あんまり
うるさいから、背中へ手をのばしてつかまへてやると、それが何と自分の手なんだわ。

三島由紀夫「夜会服」より

102 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 12:56:15 ID:???
さびしさ、といふのはね、絢子さん、今日急にここへ顔を出すといふものではないのよ。
ずうーつと、前から用意されてゐる、きつと潜伏期の大そう長い、癌みたいな病気なんだわ。
そして一旦それが顔を出したら、もう手術ぐらゐでは片附かないの。
私、何で自分がさびしいのか、その理由を探さなくては気がちがひさうだつた。あなた方の
結婚が、はつきりその理由を与へてくれたやうに思ひ込んでしまつた。でも、私つてバカなのね。
さびしさの本当の深い根は自分の中にしかないことに気がつかなかつたの。
鳥のゐない鳥籠は、さびしいでせう。でも、それを鳥籠のせゐにするのはばかげてゐるわね。
鳥籠をゴミ箱へ捨ててもムダといふものね。鳥がゐないことには変りがないんですから。

三島由紀夫「夜会服」より

103 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 12:56:31 ID:???
でも、何十年も先、あなたもきつと同じさびしさを味はふだらうと思ふと、少しは埋め合せが
つく気がする。それは女といふものの引きずつてゐる影みたいなものなんですよ。女は、
いつかそのさびしさに面と向かはなければならないの。男の人とちがつて、女は人のゐない
野原みたいなものを自分の中に持つてゐる。男は、その野原の上を歩いて、悲壮がつて、
孤独だ孤独だなんて言つてゐるにすぎない、と思ふのよ。
いつか、あなたも、私の言つたことを思ひ出すことがあると思ふわ。たとへば、障害を
跳び越えてほつとしたあと、うれしいと思ふ気持のあひだにも、ずつとさびしさが、
一本の道のやうに、向かうへずつとつづいてゐるのを見ることがあると思ふわ。
はじめ、それは幻みたいに見えるの。でもいづれその幻が現実になるのよ。

三島由紀夫「夜会服」より

104 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 14:38:13 ID:???
かけまくもあやにかしこき
すめらみことに伏して奏(まを)さく
今、四海必ずしも波穏やかならねど
日の本のやまとの国は
鼓腹撃壌(こふくげきじやう)の世を現じ
御仁徳の下(もと)、平和は世にみちみち、
人ら泰平のゆるき微笑みに顔見交はし
利害は錯綜し、敵味方も相結び、
外国(とつくに)の金銭は人らを走らせ、
もはや戦ひを欲せざる者は卑劣をも愛し、
邪まなる戦ひのみ陰にはびこり
夫婦朋友も信ずる能(あた)はず
いつはりの人間主義をなりはひの糧となし
偽善の茶の間の団欒は世をおほひ
力は貶(へん)せられ、肉は蔑(なみ)され
若人らは咽喉元をしめつけられつつ
怠惰と麻薬と闘争に、
かつまた望みなき小志の道へ
羊のごとく歩みを揃へ
快楽もその実を失ひ
信義もその力を喪ひ、魂は悉く腐蝕せられ、
年老いたる者は卑しき自己肯定と保全をば、
道徳の名の下に天下にひろげ
真実はおほひかくされ
道ゆく人の足は希望に躍ることかつてなく
なべてに痴呆の笑ひは浸潤し、
魂の死は行人の顔に透かし見られ、
よろこびも悲しみも須臾(しゆゆ)にして去り、

三島由紀夫「悪臣の歌」より

105 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 14:38:37 ID:???
清純は商(あきな)はれ、淫蕩は衰へ、
ただ金(かね)よ金よと思ひめぐらせば
金を以てはからるる人の値打も、
金よりもはるかに卑しきものとなりゆき、
世に背く者は背く者の流派に、
生(なま)かしこげの安住の宿りを営み、
世に時めく者は自己満足の
いぎたなき鼻孔をふくらませ、
ふたたび衰弱せる美学は天下を風靡し、
陋劣(ろうれつ)なる真実のみがもてはやされ、
人ら四畳半を改造して
そのせまき心情をキッチンに磨き込み
車は繁殖し、無意味なる速力は魂を寸断し、
大ビルは建てども大義は崩壊し
窓々は欲球不満の蛍光灯にかがやき渡り、
人々レジャーへといそぎのがるれど
その生活の快楽には病菌つのり
朝な朝な昇る日はスモッグに曇り、
感情は鈍磨し、鋭角は磨滅し、
烈しきもの、雄々しき魂は地を払ふ。
血潮はことごとく汚れて平和に温存せられ
ほとばしる清き血潮はすでになし。
天翔(あまが)けるもの、不滅の大義はいづくにもなし。
不朽への日常の日々の
たえざる研磨も忘れられ、
人みな不朽を信ぜざることもぐらの如し。かかる日に、
――などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。

三島由紀夫「悪臣の歌」より

106 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 14:39:02 ID:???
かけまくもあやにかしこき
すめらみことに伏して奏(まを)さく。
かかる世に大君こそは唯御一人
人のつかさ、人の鑑(かがみ)にてましませり。
すでに敗戦の折軍将マッカーサーを、
その威丈高なる通常軍装の非礼をものともせず
訪れたまひしわが大君は、
よろづの責われにあり、われを罰せと
のたまひしなり。
この大御心(おほみこころ)、敵将を搏(う)ちその卑賤なる尊大を搏ち
洵(まこと)の高貴に触れし思ひは
さすがの傲岸をもまつろはせたり。
げに無力のきはみに於て人を高貴にて搏つ
その御けだかさはほめたたふべく、
わが大君は終始一貫、
暴力と威武とに屈したまはざりき。
和魂(にぎみたま)のきはみをおん身にそなへ
生物学の御研究にいそしまれ、
その御心は寛厚仁慈、
なべてを光被したまひしなり。
民の前にお姿をあらはしたまふときも
いささかのつくろひなく、
いささかの覇者のいやしき装飾もなく
すべて無私淡々の御心にて
あまねく人の心に触れ、

三島由紀夫「悪臣の歌」より

107 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 14:39:27 ID:???
戦ひのをはりしのちに、
にせものの平和主義者ばつこせる折も
陛下は真の人の亀鑑、
静かなる御生活を愛され、
怒りも激情にもおん身を委(ゆだ)ねず、
静穏のうちに威大にましまし
御不自由のうちに自由にましまし
世の範となりぬべき真の美しき人間を、
世の小さき凹凸に拘泥なく
終始一貫示したまひき。
つねに陛下は自由と平和の友にましまし、
仁慈を垂れたまひ、諸人の愛敬を受けられ
もつとも下劣なる批判をも
春の雪の如くあはあはと融かしたまへり。
政治の中心ならず、経済の中心ならず、
文化の中心ならず、ただ人ごころの、
静止せる重心の如くおはし給へり。
かかる乱れし濁世(ぢよくせ)に陛下の
白菊の如き御人柄は、
まことに人間の鑑にして人間天皇の御名にそむきたまはず、
そこに真のうるはしき人間ありと感ぜらる。
されどこはすべて人の性(さが)の美なるもの、
人のきはみ、人の中の人、人の絶巓(ぜつてん)、
清き雪に包まれたる山頂なれど
なほ天には属したまはず。すべてこれ、
人の徳の最上なるものを身に具(そな)はせたまふ。
――などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。

三島由紀夫「悪臣の歌」より

108 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 14:39:43 ID:???
かへりみれば陛下はかの
人間宣言をあそばせしとき、
はじめて人とならせたまひしに非ず。
悪しき世に生(あ)れましつつ、
陛下は人としておはしませり。
陛下の御徳は終始一貫、人の徳の頂きに立たせたまひしが、
なほ人としてこの悪しき世をすぐさせ給ひ、
人の中の人として振舞ひたまへり。
陛下の善き御意志、陛下の御仁慈は、
御治世においていつも疑ふべからず。
逆臣佞臣(ねいしん)囲りにつどひ、
陛下をお退(さが)らせ申せしともいふべからず。
大事の時、大事の場合に、
人として最良の決断を下したまひ、
信義を貫ぬき、暴を憎みたまひ
世にたぐひなき明天子としてましましたり。
これなくて、何故にかの戦ひは
かくも一瞬に平静に止まりしか。
されどあへて臣は奏す。
――などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。

三島由紀夫「悪臣の歌」より

109 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 14:43:59 ID:???
陛下の大御代(おおみよ)はすでに二十年の平和、
明治以来かくも長き平和はあらず、
敗れてのちの栄えといへど、
近代日本にかほどの栄えはあらず。
されど陛下の大御代ほど
さはなる血が流されし御代もなかりしや。
その流血の記憶も癒え
民草の傷も癒えたる今、
臣今こそあへて奏すべき時と信ず。
かほどさはなる血の流されし
大御代もあらざりしと。
そは大八洲(おほやしま)のみにあらず
北溟(ほくめい)の果て南海の果て、
流されし若者の血は海を紅(くれな)ゐに染め
山脈を染め、大河を染め、平野を染め、
水漬(みづ)く屍は海をおほひ
草生(くさむ)す屍は原をおほへり。
血ぬられし死のまぎはに御名を呼びたる者
その霊は未だあらはれず。
いまだその霊は彼方此方(かなたこなた)に
むなしく見捨てられて鬼哭(きこく)をあぐ。
神なりし御代は血潮に充ち
人とまします御代は平和に充つ。
されば人となりませしこそ善き世といへど
――などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。

三島由紀夫「悪臣の歌」より

110 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 14:44:27 ID:???
御代は血の色と、
安き心の淡き灰色とに、
鮮やかに二段に染め分けられたり。
今にして奏す、陛下が人間(ひと)にましまし、
人間として行ひたまひし時二度ありき、
そは昭和の歴史の転回点にて、
今もとに戻すすべもなけれど、
人間としてもつとも信実、
人間としてもつとも良識、
人間としてもつとも穏健、
自由と平和と人間性に則つて行ひたまひし
陛下の二くさの御行蔵あり。
(されどこの二度とも陛下は、
民草を見捨てたまへるなり)
一度はかの二、二六事件のとき、
青年将校ども蹶起(けつき)して
重臣を衂(ちぬ)りそののちひたすらに静まりて、
御聖旨御聖断を仰ぎしとき、
陛下ははじめよりこれを叛臣とみとめ
朕の股肱(ここう)の臣を衂りし者、
朕自ら馬を進めて討たんと仰せたまひき。
重臣は二三の者、民草は億とあり、
陛下はこの重臣らの深き忠誠と忠実を愛でたまひ
未だ顔も知らぬ若者どもの赤心のうしろに
ひろがり悩める民草のかげ、
かの暗澹たる広大な貧困と
青年士官らの愚かなる赤心を見捨て玉へり。
こは神としてのみ心ならず、
人として暴を憎みたまひしなり。

三島由紀夫「悪臣の歌」より

111 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 14:45:29 ID:???
されど、陛下は賢者に囲まれ、
愚かなる者の血の叫びをききたまはず
自由と平和と人間性を重んぜられ、
その民草の血の叫びにこもる
神への呼びかけをききたまはず、
玉穂なすみづほの国の
荒れ果てし荒蕪(くわうぶ)の地より、
若き者、無名の者の肉身を貫きたりし
死の叫びをききたまはざりき。
かのとき、正に広大な御領の全てより、
死の顔は若々しく猛々しき兵士の顔にて、
たぎり、あふれ、対面しまゐらせんとはかりしなり。
直接の対面、神への直面、神の理解、神の直観を待ちてあるに、
陛下は人の世界に住みたまへり。
かのときこそ日本の歴史において、
深き魂の底より出づるもの、
冥人の内よりうかみ出で、
明るき神に直面し、神人の対話をはかりし也。
死は遍満し、欺瞞をうちやぶり、
純潔と熱血のみ、若さのみ、青春のみをとほして
陛下に対晤せんと求めたるなり。
されど陛下は賢き老人どもに囲まれてゐたまひし。
日本の古き歴史の底より、すさのをの尊は
理解せられず、聖域に生皮を投げ込めど、
荒魂は、大地の精の血の叫びを代表せり。
このもつとも醇乎たる荒魂より
陛下が面をそむけたまひしは
祭りを怠りたまひしに非ずや。
――などてすめろぎは人間(ひと)となり玉ひし。

三島由紀夫「悪臣の歌」より

112 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 14:45:58 ID:???
二度は特攻隊の攻撃ののち、
原爆の投下ののち終戦となり、
又も、人間宣言によりて、
陛下は赤子を見捨てたまへり。
若きいのちは人のために散らしたるに非ず。
神風とその名を誇り、
神国のため神のため死したるを、
又も顔知らぬ若きもの共を見捨てたまひ、
その若きおびただしき血潮を徒にしたまへり。
今、陛下、人間(ひと)と仰せらるれば、
神のために死にしものの御霊はいかに?
その霊は忽ち名を糾明せられ、
祭らるべき社もなく
神の御名は貶せられ、
ただ人のために死せることになれり。
人なりと仰せらるるとき、
神なりと思ひし者共の迷蒙はさむべけれど、
神と人とのダブル・イメーヂのために生き
死にたる者の魂はいかにならん。
このおびただしき霊たちのため
このさはなる若き血潮のため
陛下はいかなる強制ありとも、
人なりと仰せらるべからざりし也。
して、のち、陛下は神として
宮中賢所の奥深く、
日夜祭りにいつき、霊をいつき、
神のおんために死したる者らの霊を祭りておはしませば、
いかほどか尊かりしならん、
――などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。

三島由紀夫「悪臣の歌」より

113 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 14:46:15 ID:???
陛下は帽を振りて全国を遊行しし玉ひ、
これ今日の皇室の安寧のもととなり
身に寸鉄を帯びず思想の戦ひに勝ちたまひし、
陛下の御勇気はほめたたふべけれど、
もし祭服に玉体を包み夜昼おぼろげなる
皇祖皇宗御霊の前にぬかづき、
神のために死せる者らをいつきたまへば、
何ほどか尊かりしならん。
今再軍備の声高けれど、
人の軍、人の兵(つはもの)は用ふべからず。
神の軍、神の兵士こそやがて神なるに、
――などてすめろぎは人間(ひと)となり玉ひし。

三島由紀夫「悪臣の歌」より

114 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 17:37:03 ID:???
外で威張つてゐる女ほど、どこかに肉体的劣等感を持つてゐる。


外人の男たちの、鶏みたいな、半透明な血の色の透けてみえる、ひどく老化の早い、
汚ならしい肌が、妙子はきらひであつた。背も高く、体力もあり、鼻も高く、横顔も
立派なのに、西洋人の男から受ける妙子の感じは、へんに無力な、生命力の稀薄な感じであつた。
だから妙子は、西洋人の誘惑には決して乗らなかつた。


『動物的といふ見地から言つたら』と妙子は、美男と云へなくもないその男の顔をつらつら
眺めながら考へてゐた。『こんな西洋人より、日本の若い男のはうが、ずつと動物的な
美しさを持つてゐる。つまり動物的なしなやかさと、弾力と、無表情な美しさとを』


男にしろ女にしろ「愛される」といふことは、よほど「愛する」といふこととちがふのだ。


愛される人間の自己冒涜の激烈なよろこびは、どこまで行くかはかり知れない。愛する人間は、
どんな地獄の底までもそれを追つかけて行かなければならないのだ。

三島由紀夫「肉体の学校」より

115 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 17:37:24 ID:???
本当の男なら、本当の男の塊りなら、立たうが坐らうが、上にならうが下にならうが、
逆立ちしようが引つくりかへらうが、男自体の輝やきにおいて、ますます男らしくなるだけ
ではないか。
たとへばつまらない機能上の男らしさにこだはつてゐる男のうち、性的魅力のこれつぽちもない
哀れな情ない男が、心の中では彼を少しも愛してゐない女の上に立つて、どんな男性的行動に
いそしまうが、それが一体何だらうか。
男にしろ、女にしろ、肉体上の男らしさ女らしさとは、肉体そのものの性のかがやき、
存在全体のかがやきから生れる筈のものである。それは部分的な機能上の、見栄坊な
男らしさとは何の関係もない。そこにゐるだけで、そこにただ存在してゐるだけで、
男の塊りであるやうな男は、どんなことをしたつて、男なのである。

三島由紀夫「肉体の学校」より

116 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 17:37:42 ID:???
人間が或る限度以上に物事を究めようとするときに、つひにはその人間と対象とのあひだに
一種の相互転換が起り、人間は異形に化するのかもしれない。


時代がどうあらうと、社会がどうあらうと、美しい景色を見て美しい歌を作れ、といふ考へを
支へるには、女なら門院のやうな富と権勢、男なら梃でも動かない強い思想、といふものが
必要なのではないだらうか。


人間の醜い慾の争ひをこえてまで顕現する美は、あるひは勝利者の側にはあらはれず、
敗北者や滅びゆく者の側にだけこつそりと姿を現はすのかもしれない。


誰の身の上にも、その人間にふさはしい事件しか起らない。

三島由紀夫「三熊野詣」より


大体無教育な人間にむかつても、相手に準じて程度を下げた会話をしないといふ私の流儀は、
人から厭味に思はれたことも屡々だが、私は私で自分の流儀の正しさを信じてゐる。
それは却つて相手の胸襟を容易に披かせ、その中に思ひがけない共通の知識を発見させて
喜ばせることもできるのだ。

三島由紀夫「月澹荘綺譚」より

117 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 17:39:11 ID:???
蘭陵王は必ずしも自分の優にやさしい顔立ちを恥ぢてはゐなかつたにちがひない。むしろ
自らひそかにそれを矜つてゐたかもしれない。しかし戦ひが、是非なく獰猛な仮面を
着けることを強ひたのである。
しかし又、蘭陵王はそれを少しも悲しまなかつたかもしれない。或ひは心ひそかに喜びとして
ゐたかもしれない。なぜなら敵の畏怖は、仮面と武勇にかかはり、それだけ彼のやさしい
美しい顔は、傷一つ負はずに永遠に護られることになつたからである。


私は、横笛の音楽が、何一つ発展せずに流れるのを知つた。何ら発展しないこと、これが重要だ。
音楽が真に生の持続に忠実であるならば、(笛がこれほど人間の息に忠実であるやうに!)、
決して発展しないといふこと以上に純粋なことがあるだらうか。


何時間もつづけて横笛を練習すると、吐く息ばかりになるためであらうか、幽霊を見るさうだ。

三島由紀夫「蘭陵王」より

118 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 17:41:34 ID:???
小説を書いて世に売るといふのは、いかにも異様な、危険な職業だといふことを、私は時折
感ぜずにはゐられない。私は言葉を通じて、何を人の心へ放射してゐるのであらうか? 
芸術家にはたしかに、酒を売る人に似たところがある。彼の作品には酒精分が必要であり、
酒精分を含まぬ飲料を売ることは、彼の職業を自ら冒涜するやうなものである。つまり
酩酊を売るのである。正常な人間は、それが酒であることを知つて買ひ、一夜の酔をたのしみ、
酔が醒めれば我に返る。しかし、かういふことがありうる。酒と知らずに、有益な飲料だと
思つて買つて、その結果、馴れない酒のために悪酔をするといふこと。あるひは、はじめから、
正常でない人間がこれを買つて、一定の酒精分からは思ひもかけないほどの怖ろしい結果を
惹き起すこと。……


小説を読むことは孤独な作業であり、小説を書くことも孤独な作業である。活字を介して、
われわれの孤独が、見も知らぬ他人の孤独の中へしみ入つてゆく。

三島由紀夫「荒野より」より

119 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 17:41:52 ID:???
あいつが机の抽斗(ひきだし)をあければ、そこからも孤独がすぐ顔をのぞかせた。そして
孤独と共に、そこにはいつも私がゐたのだ。
――一体、あいつはどこから来たのだらう。警官はもちろん私にあいつの住所などを
告げなかつた。
しかし、だんだんに私には、あいつがどこから来たのか、その方角がわかるやうな気が
しはじめた。あいつは私の心から来たのである。私の観念の世界から来たのである。
あいつが私の影であり、私の谺(こだま)であるのは確かなことだが、私の心はといへば、
あいつの考へるほど一色ではなかつた。小説家の心は広大で、飛行場もあれば、中央停車場も
ある。中央駅を囲んで道路は四通八達し、ビル街もあれば、商店街もある。並木路もあれば、
住宅地域もある。郊外電車もあれば、団地もある。野球場もあれば、劇場もある。そして
その片隅のどんな細径も私は諳んじてをり、私の心の地図はつねづね丹念に折り畳まれて
しまつてゐる。

三島由紀夫「荒野より」より

120 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 17:42:10 ID:???
しかしその地図は、私がふだん閑却してゐる広大な地域について、何ら誌すところがない。
私はその地域を閑却し、そこへ目を向けないやうにして暮してゐるが、その所在は否定できない。
それは私の心の都会を取り囲んでゐる広大な荒野である。私の心の一部にはちがひないが、
地図には誌されぬ未開拓の荒れ果てた地方である。そこは見渡すかぎり荒涼としてをり、
繁る樹木もなければ生ひ立つ草花もない。ところどころに露出した岩の上を風が吹きすぎ、
砂でかすかに岩のおもてをまぶして、又運び去る。私はその荒野の所在を知りながら、
つひぞ足を向けずにゐるが、いつかそこを訪れたことがあり、又いつか再び、訪れなければ
ならぬことを知つてゐる。
明らかに、あいつはその荒野から来たのである。……
その意味は解せぬが、あいつは私に、本当のことを話せ、と言つた。そこで私は、
本当のことを話した。

三島由紀夫「荒野より」より

121 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 17:44:52 ID:???
知れば知るほど、人間の性の世界は広大無辺であり、一筋縄では行かないものだといふ感を
深くする。性の世界では、万人向きの幸福といふものはないのである。


無関心を装ふつつぱり合ひ、女同士の牽制などは、却つて特殊な感情を育てやすい。


柔らかな、むしろ仄暗い光線のなかで、何事かを語りだす麗子の唇。それを見るたびに、
私は人間のふしぎといふものを思はずにはゐられない。それは色彩の少ない部屋の中に、
小さな鮮やかな花のやうに浮んでゐるが、それが語りだす言葉の底には、広漠たる大地の
記憶がすべて含まれをり、かうした一輪の花を咲かすにも、人間の歴史と精神の全問題が、
ほんの微量づつでも、ひしめき合ひ、力を貸し合つてゐるのがわかるのである。


嘘つきの常習犯ほど却つて、自分の喋つてゐることが嘘か本当か知らないのではあるまいか?


一瞬の直感から、女が攻撃態勢をとるときには、男の論理なんかほとんど役に立たないと
言つていい。

三島由紀夫「音楽」より

122 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 17:45:09 ID:???
このごろは民主主義の世の中で、何でも子供の意志を尊重することになつてるが、いくら
成人式をやつたつて、二十代はまだ人生や人間に対して盲らなのさ。大人がしつかりした判断で
決めてやつたはうが、結局当人の倖せになるんだ。むかしは、お婿さんの顔も知らずに
嫁入りした娘が一杯ゐるのに、それで結構愛し合つて幸福にやつて行けたもんだ。今は
女のはうから何だかんだと難癖をつけて、親のはうもそれに同調し、結局それで娘の幸福を
とりにがしてしまふ。


それは偶然といふよりは必然の出会である。海風と、幸福な人たちの笑ひさざめく声と、
ふくらむ波のみどりとの中で、ただ一つたしかなことは、不幸が不幸を見分け、欠如が欠如を
嗅ぎ分けるといふことである。いや、いつもそのやうにして、人間同士は出会ふのだ。

三島由紀夫「音楽」より

123 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 17:45:26 ID:???
精神分析学は、日本の伝統的文化を破壊するものである。欲求不満(フラストレーション)
などといふ陰性な仮定は、素朴なよき日本人の精神生活を冒涜するものである。人の心に
立入りすぎることを、日本文化のつつましさは忌避して来たのに、すべての人の行動に
性的原因を探し出して、それによつて抑圧を解放してやるなどといふ不潔で下品な教理は、
西洋のもつとも堕落した下賤な頭から生まれた思想である。特にお前は、ユダヤ的思想の
とりことなつた軽薄な御用学者で、高く清い人間性に汚らしい卵を生みつける銀蠅のごとき男だ。
くたばつてしまへ!


「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」といふ諺が、実は誤訳であつて、原典のローマ詩人
ユウェナーリスの句は、「健全なる肉体には健全なる精神よ宿れかし」といふ願望の意を
秘めたものであることは、まことに意味が深いと言はねばならない。


精神分析学者には文学に関する豊富な知識も必要だ。

三島由紀夫「音楽」より

124 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 17:46:02 ID:???
精神分析がはやつてゐる理由がよくわかりますね。それはつまり、多様で豊富な人間性を
限局して、迷へる羊を一匹一匹連れ戻して、劃一主義(コンフォーミズム)の檻の中へ
入れてやるための、俗人の欲求におもねつた流行なんですね。


人間は、どんなバカでも『お前を盲らにしてやるぞ』と言はれれば反撥する程度の自尊心は
あるから、テレビのコマーシャルをきらふけれど、『お前の目をさまさせてやる』と
言はれて不安にならぬほどの自尊心は持たないから、精神分析を歓迎するわけですね。


男性の不能の治療は、無意識のものを意識化するといふ作業よりも、過度に意識的なものを
除去して、正常な反射神経の機能を回復するといふ作業のはうが、より重要であり、より
効果的であると思はれる。


見かけは恵まれた金持の息子でありながら、人生は貧乏人さへ知らない奇怪な不幸を
与へることがある。

三島由紀夫「音楽」より

125 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 17:46:17 ID:???
女の肉体はいろんな点で大都会に似てゐる。とりわけ夜の、灯火燦然とした大都会に似てゐる。
私はアメリカへ行つて羽田へ夜かへつてくるたびに、この不細工な東京といふ大都会も、
夜の天空から眺めれば、ものうげに横たはる女体に他ならないことを知つた。体全体に
きらめく汗の滴を宿した……。
目の前に横たはる麗子の姿が、私にはどうしてもそんな風に見える。そこにはあらゆる美徳、
あらゆる悪徳が蔵(かく)されてゐる。そして一人一人の男はそれについて部分的に探りを
入れることはできるだらう。しかしつひにその全貌と、その真の秘密を知ることはできないのだ。


われわれは誰が何と言はうと、愛が人間の心にひらめかす稲妻と、瞥見させる夜の青空とを、
知つてをり、見てゐるのである。


どんな不まじめな嘘の裏にも、怖ろしい人間性の問題が顔をのぞかせてゐる。


神聖さと徹底的な猥雑さとは、いづれも「手をふれることができない」といふ意味で似てゐる。


強度のヒステリー性格は、受動的に潜在意識に動かされるだけではなく、無意識のうちに
識閾下の象徴を積極的に利用する。

三島由紀夫「音楽」より

126 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 17:47:53 ID:???
精神分析を待つまでもなく、人間のつく嘘のうちで、「一度も嘘をついたことがない」
といふのは、おそらく最大の嘘である。


ひとたび実存主義的見地に立てば、「正常な」人間の実存も、異常な人間の実存も、
「愛の全体性への到達」の欲求においては等価であるから、フロイトのやうに、一方に
正常の基準を置き、一方に要治療の退行現象を置くやうな、アコギな真似はできない筈である。
つまりそれはあまりにも、科学的実証主義のものわかりのわるさを捨てすぎたのである。

社会構造の最下部には、あたかも個人個人の心の無意識の部分のやうに、おもてむきの
社会では決して口に出されることのない欲望が大つぴらに表明され、法律や社会規範に
とらはれない人間のもつとも奔放な夢が、あらはな顔をさし出してゐる。


神聖さとは、ヒステリー患者にとつては、多く、復讐の観念を隠してゐる。

三島由紀夫「音楽」より

127 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 17:50:52 ID:???
『仏教といふのは妙なもんだ』と岡野は考へてゐた。『慈眼で見張れば、湖上の船も難から
救はれるといふ考へなんだ。こんな死んだ金いろの目で』
見るといふことは岡野にとつて、本来、残酷さの一部だつたが、
「遠くひろがる湖面には、
帆影に起る喜悦の波。
払暁の町はかなたに
今花ひらき明るみかける」
などといふ彼の好きなヘルダアリンの詩句も、この千体仏の暗い金の重圧、慈悲による、
見ることによる湖の支配の前に置かれては、たちまち力を喪ふやうに思はれた。


ハイデッガーのいはゆる「実存(エクジステンツ)」の本質は時間性にあり、それは本来
「脱自的」であつて、実存は時間性の「脱自(エクスターゼ)」の中にある、と説かれてゐるが、
エクスターゼは本来、ギリシア語のエクスタテイコン(自己から外へ出てゐる)に発し、
この概念こそ、実存の概念と見合ふものである。つまり実存は、自己から外へ漂ひ出して、
世界へひらかれて現実化され、そこの根源的時間性と一体化するのである。

三島由紀夫「絹と明察」より

128 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 17:51:08 ID:???
全然愛してゐないといふことが、情熱の純粋さの保証になる場合があるのだ。


善意や慈善は、必ず人の心に届くのだ。あるときは日光のやうにまつすぐに、あるときは
蜜蜂に運ばれる花粉のやうに、さまざまの迂路をゑがいて。


ヨーロッパの個人主義は悲惨を極め、パリの街頭を、助ける人もなく、よろめき歩く老人の
数の夥しさは彼を怒らせた。『嫁はんは一体何をしとるんや』黒衣の老婆が片手に杖をつき、
片手は建物の壁に縋(すが)つて、口のなかで何事か呟きながら、一歩一歩、定かならぬ歩を
運ぶ有様は、彼には人間世界の終焉と感じられ、その呟く言葉はきつと経文にちがひないと
思はれた。


若さが幸福を求めるなどといふのは衰退である。若さはすべてを補ふから、どんな不自由も
労苦も忍ぶことができ、かりにも若さがおのれの安楽を求めるときは、若さ自体の価値を
ないがしろにしてゐるのである。そして若くして年齢のこの逆説を知ることが、人間に必須な
教養といふものだつた。

三島由紀夫「絹と明察」より

129 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 17:51:33 ID:???
その理法を司る駒沢の立場は、時には日照りが望まれてゐるときに雨を降らせ、雨が
乞はれてゐるときは日照りをつづけたりせねばならず、目先だけでは理解されやうもないが、
いつも遠い調和へ目を放つて、そのときの理解をたのしみに暮すほかはなかつた。
サークル活動は風紀を紊(みだ)し、文化的なたのしみは青年を腑抜けにし、その害毒は
いづれも年配になればわかることだが、彼は自由の意味もわからぬ年ごろに自由を与へたり
することが、自然に反する行ひだと知つてゐた。


彼は無知を弾劾し、忘恩をののしり、この世に正義が行はれなくなつたことを大声で
慨(なげ)いた。いやらしい黴菌が若い者の心に巣喰ひ、美しい情誼を足蹴にかけさせ、
腐敗と怠惰が世界中にはびこり、謙虚が色褪せ、女の股倉が真黒になり、懐疑と反抗が
男の叡智を曇らせ、喰つたものはみんな洟汁と精液になり、勤勉は嘲られ、誠意はそしられ、
嘘の屁と欺瞞のげつぷをところかまはずひり出し、ために健全な母親の乳房も爛れてしまふ。
さういふペストが、つひに駒沢紡績をも犯したのだ。

三島由紀夫「絹と明察」より

130 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 17:51:51 ID:???
あんたらは、はいはいと女子(おなご)の言ふなりになつたわけか。わしはやるべきものと
やらいでええものとを弁へてをつたが、あんたらにはその弁へがつかんのや。自由やと? 
平和やと? そないなこと皆女子の考へや。女子の嚔(くさめ)と一緒や。男まで嚔をして、
風邪を引かんかつてええのや。


駒沢の考へる家族とは、愛などを要せずに、そこに既に在るものだつた。はじめから
一続きの紙に、どうして愛などといふ糊が要るだらうか。


男が自由や平等や平和について語るのは、自らを卑しめるもので、すべて女の原理の借用に
すぎぬといふこと。少しでも自尊心のある男なら、自由や平等や平和の反対物、すなはち
服従や権威や戦ひについて語るべきだといふこと。男があんなことを言ひ出したとたんに、
女にしてやられ、女の代弁者として利用されるやうになるといふこと。……

三島由紀夫「絹と明察」より

131 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 17:52:06 ID:???
かれらも亦、かれらなりの報いを受けてゐる。今かれらは、克ち得た幸福に雀躍(こをどり)して
ゐるけれど、やがてそれが贋ものの宝石であることに気づく時が来るのだ。折角自分の力で
考へるなどといふ怖ろしい負荷を駒沢が代りに負つてやつてゐたのに、今度はかれらが肩に
荷はねばならないのだ。大きな美しい家族から離れ離れになり、孤独と猜疑の苦しみの裡に
生きてゆかなければならない。幸福とはあたかも顔のやうに、人の目からしか正確に
見えないものなのに、そしてそれを保証するために駒沢がゐたのに、かれらはもう自分で
幸福を味はうとして狂気になつた。さうして自分で見るために、ぶつかるのは鏡だけだ。
血の気のない、心のない、冷たい鏡だけ、際限もない鏡、鏡……それだけだ。
『それもええやらう。苦労するだけ苦労したらええ。その先に又、おのづから道がひらけて
来るのや』
そして存分に、悲しさうに吠えるがよい! 人間どもは昔からさうして吠えてきたし、
今後もそのやうに吠えつづけるだらう。だから駒沢は、自分をも含めて、かれらをみな恕す。

三島由紀夫「絹と明察」より

132 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 17:54:17 ID:???
彼は米国で見た北斎を思ひ浮べたが、北斎は風景ばかりか人間まで怖ろしいほどよく知つてゐた。
それを存分に描いて後世に伝へ、外国人にまで愛された。何といふ相違だらう。駒沢はそれを
知つてゐるといふことを、北斎同様、公然と示したのであるが、一人は栄光にかがやき、
一人はそのために悲境に陥つた。駒沢は画家ではなかつたのだから、その秘密を公言すべきでは
なかつたのだ。北斎にしろ広重にしろ、あんなに逆巻く波や噴火する山や横なぐりの雨を描き、
そこに小さく点綴される人間の貧しい重い労働を描き、それをすべて世にも幸福な色彩で
彩つたのだが、駒沢のやつたことも同じで、
『結局お前らはみんな幸福なんや』
と言ひつづけて来たのだつた。色彩は罰せられず、言葉は罰せられるのは何故だらう。
だが今、彼を嘘つきと言ひ、不正直と言ひ、狂人と言ひ、悪徳資本家と言ひ、企業を
私物化した時代おくれの石頭と言つた、すべての人を彼は恕す。

三島由紀夫「絹と明察」より

133 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 17:54:32 ID:???
かれらの憎悪と、それに触発された駒沢の憎悪が、今はからずも、一会社の枠をこえて、
『四海みな我子やさかいに……』
といふ心境に彼を辿りつかせた。それこそは正に、彼が彦根の署長室から立ち去つてゆく
大槻の白いシャツの背に見出したものだつた。
やがてかれらも、自分で考へ自分で行動することに疲れて、いつの日か駒沢の樹てた美しい
大きな家族のもとへ帰つて来るにちがひない。そここそは故郷であり、そこで死ぬことが
人間の幸福だと気づくだらう。再び人間全部の家長が必要になるだらう。……


駒沢の伝染(うつ)す死は、必ずしも肉体的な死ばかりではあるまい。岡野の心のほんの
一小部分でもそれに犯されたら、彼の得る利得はただ永久に退屈な利得につらなり、
彼の思想はただ永久に暗い深所の呟きにをはつて、二度とその二つが輝やかしく手を握ることは
ないだらう。……
へんな、いつはりのよみがへりの時代がはじまつてゐた。

三島由紀夫「絹と明察」より

134 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 20:29:30 ID:???
すべては孔雀のせゐなのだつた! あれは実に無意味な豪奢を具へた鳥で、その羽根の
きらめく緑が、熱帯の陽に映える森の輝きに対する保護色だなどといふ生物学的説明は、
何ものをも説き明しはしない。孔雀といふ鳥の創造は自然の虚栄心であつて、こんなに無用に
きらびやかなものは、自然にとつて本来必要であつた筈はない。創造の倦怠のはてに、
目的もあり効用もある生物の種々さまざまな発明のはてに、孔雀はおそらく、一個の
もつとも無益な観念が形をとつてあらはれたものにちがひない。そのやうな豪奢は、多分
創造の最後の日、空いつぱいの多彩な夕映えの中で創り出され、虚無に耐へ、来るべき闇に
耐へるために、闇の無意味をあらかじめ色彩と光輝に翻訳して鏤(ちりば)めておいた
ものなのだ。だから孔雀の輝く羽根の紋様の一つ一つは、夜の濃い闇を構成する諸要素と
厳密に照合してゐる筈だ。

三島由紀夫「孔雀」より

135 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 20:29:47 ID:???
上尾筒には灰と茶の貝殻のやうな紋様が重なつてをり、それはあたかも、多くの貝を
引きずつた長い海藻を束ねたかに見えた。しなやかでこんもりした体躯。すべてが尾へ向つて
流れる羽毛の、一分の隙もない秩序。……それらが孔雀に、緑光を放つてふくらむ川を
断ち切つたやうな形を与へてゐたが、いふまでもなく、その川は、エメラルドの河床を
流れる瀬が日を浴びた姿であつて、煌く川面は日光の激しい圧迫と河床の緑柱石の烈しい
矜持との間に立ち、その燦たる緑の表面自体が、はかりしれぬ財産の反映であり、又、
反映にすぎなかつた。


『俺の美は、何といふひつそりとした速度で、何といふ不気味なのろさで、俺の指の間から
辷り落ちてしまつたことだらう。俺は一体何の罪を犯してかうなつたのか。自分も知らない
罪といふものがあるのだらうか。たとへば、さめると同時に忘れられる、夢のなかの
罪のほかには』

三島由紀夫「孔雀」より

136 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 20:42:54 ID:???
「文は人なり」とは、まことに怖ろしい格言です。


五十歳にもなれば、人生は、性欲とお金だけで、「純粋な心の問題」は、それが満たされた
あとでなくては現はれるはずもないのです。


ところどころ、何のことかわからないことを入れるのが、ファン・レターの秘訣です。


本当に「おはやう」といふのにふさはしい唇を持つた若い女性は、人の目をさまさせますよ。


私は結婚しても、あの手紙だけはとつておきたいやうな気がするの。
「おはなはん」ぢやないけれど、三十年たち、四十年たつて、自分の若いころの魅力的な姿を
思ひ出すには、やつぱりどんなよく撮れた写真よりも、他人の言葉のはうがリアリティが
あるにちがひないから。


そもそも、助け合ひなどといふことは貧乏人のすることで、その結果生まれる裏切りや
背信行為も、金持ちの世界とはまるでちがひます。金持ちの裏切りは、助け合ひなどといふ
バカな動機からは決して起りません。

三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より

137 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 20:43:10 ID:???
毅然としてゐる。青年らしい。ちつとも女々しいところがない。ちつともメソメソした
ところがない。――これが借金申し込みの大切な要素です。人は他人のジメジメした心持ちに
対してお金を上げるほど寛大ではありません。


女の子から、「ちよつとイカスわね」と言はれれば、うれしいにきまつてゐるが、男は
軽率に自分の男性的魅力を信じるわけにはいきません。
女の子といふものは、妙に、男の非男性的魅力に惹かれがちなものだからです。


女は自分のことばかりにかまけて、男をほめたたへる、といふ最高の技巧を忘れ、あるひは
怠けてゐる。


大ていの女は、年をとり、魅力を失へば失ふほど、相手への思ひやりや賛美を忘れ、しやにむに
自分を売りこまうとして失敗するのです。もうカスになつた自分をね。


あらゆる男は己惚れ屋である。

三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より

138 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 20:43:44 ID:???
脅迫状は事務的で、冷たく、簡潔であればあるだけ凄味があります。
第一、感情で脅迫状を書くといふのはプロのやることではありません。卑劣に徹し、
下賤に徹し、冷血に徹し、人間からズリ落ちた人間のやる仕事ですから、こちらの血が
さわいでゐては、脅迫状など書けません。
便せんをすかしてみて、そこに少しでも人間の血の色がすいて見えるやうでは、脅迫状は
落第なのです。


この世に生命を生み出す女つて、何てふしぎなものでせう。世の中でいちばん平凡なことが、
いちばん奇跡的なのだ。


女の人は、肉体的なことしかわからないのではありませんか?


西洋人はすべて社交馴れしてゐますから、社交は、建て前が大切だといふ第一原則を守ります。
招待を断わるには、「のがれがたい先約があつて」といふ理由だけで十分で、その内容を
説明する必要はありません。たとひ、ひと月前、ふた月前の招待であつても、さういふ理由で
かまひません。

三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より

139 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 20:44:04 ID:???
男が「結婚してくれ」と言ふときには、彼のはうに、彼女を迎へ入れるに足る精神的物質的
社会的準備が十分整つてゐるのが理想的です。


人生は一つの惰性なのかもしれません。


恋愛にとつて、最強で最後の武器は「若さ」だと昔から決まつてゐます。
ともすると、恋愛といふものは「若さ」と「バカさ」をあはせもつた年齢の特技で、
「若さ」も「バカさ」も失つた時に、恋愛の資格を失ふのかもしれませんわ。


人間はいくつになつても感傷を心の底に秘めてゐるものですが、感傷といふのは
Gパンみたいなもので、十代の子にしか似合はないから、年をとると、はく勇気がなくなる
だけのことです。


本当に死ななくても、愛しあふ恋人同士は毎晩心中してゐるのだと思ひます。


僕は演劇は民衆の心に訴へかけ、民衆の魂に火をつけるのでなくては意味がないと思ひます。

三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より

140 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 20:44:19 ID:???
あらゆる投書狂、身の上相談狂は自分の告白し、あるひは主張してゐることについて、
内心は、本当の解決など求めてゐはしませんし、また何かの解決を暗示されても、それを
心から承服したりはしません。


この身の上相談の女性もさうですが、世間の人はだれでも、彼女のことに関心を持つて
くれるのが当たり前だ、といふ錯覚におちいつてゐます。
私たちには、何もそんな関心を持つ義務はないのだし、未知の人が死んでも生きても、
別に興味はないのですが、彼女は、自分に対する熱烈な興味は、他人も彼女に対して
同じやうに持つはずだと信じてゐる。


身の上相談の手紙は一見、内容がどれほど妥当でも、全部がこのまちがつた思ひ込みの上に
築かれたお城なのですから、もし彼女がこの基本的な思ひちがひに気がつけば、ほかの
あらゆる人生問題は片づくかもしれないのに、永遠にそこに気がつかないといふところに、
大悲劇があるのです。
つまり、見知らぬ他人に身の上相談なんかするといふ行動それ自体に、彼女の人生を
悩み多くする根本原因がひそんでゐるといへませう。

三島由紀夫「三島由紀夫のレター教室」より

141 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 20:47:35 ID:???
ヒステリーの女は絶対に、自分のヒステリーは自分のせゐぢやないと信じてゐるわ。


子供を重荷と感じて、自分たちの自由と快楽をいつまでも追はうとするのは、末期資本主義的
享楽主義に毒された哀れな奴隷的感情だと思ふんだ。


だれでも、自分とまつたく同じ種類の人間を愛することはできませんものね。


罪もない相手を悲境に陥れるといふのは、一見、悪魔的ふるまひとも思へますが、もともと
恋に善悪はない。


自分の感情にそむいては、何ごとも成功するものではありません。

テレビでいちばん美しいのは、やつぱり色彩漫画で、宇宙物なんかの色のすばらしさは、
ディズニー・ランドそつくりですが、ディズニーはなんで死んだのでせう。


こんなことを言つてるとキチガヒみたいだけど、テレビばつかり見てると、どうしても
世界中のことがみんな関係があるやうな気がしてきます。テレビの前で食べてる甘栗は、
中共から輸入されたものだらうし、君の妊娠だつて、思はぬことで、何か世界情勢と
関係があるかもしれません。

三島由紀夫「三島由紀夫のレター教室」より

142 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 20:47:54 ID:???
大体、頭のいい友だちを求める人たちは、よほど頭がわるい連中なんだわ。心を打ち明け合つて
安心なのは、それによつて相手が、はじめてバランスがとれたと感じるやうな友だちなのだわ。
といふのは、頭のよい友だちはふだんから頭で優越感を持つてゐるところへ、そんな告白を
きかされて、感情でも優越感を持つてしまふでせうに、頭のわるい友だちなら、ふだんの
知的な劣等感を感情の優越感で補はれたと思つて、うれしがるでせう。うれしがつて本当に
心からの親切を尽くすでせう。さういふ友だちが大切なのだわ。


恋は愉しいものではなくて、病気だわ。いやな、暗い発作のたびたびある、陰気な慢性の
病気だわ。恋が生きがひだなんていふ人がゐるけれど、とんでもないまちがひで、悪だくみの
はうが、ずつと生きがひを与へてくれます。恋が愉しいなんて言つてゐる人は、きつと
ひどく鈍感な人なのでせう。

三島由紀夫「三島由紀夫のレター教室」より

143 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 20:48:09 ID:???
何かほしいときだけ甘つたれてくる猫たちの媚態は、あまりにも無邪気な打算がはつきり
してゐて、かはいらしい。
男は別に人格者の女を求めるわけではなく、人間のもろもろの悪徳が、小さな、かはいらしい
ガラス張りの箱の中に、ちんまりと納まつてゐるのを見るのが、安心であり、うれしくもあり、
かはいらしくもある。そこが男の愛の特徴です。


他人の幸福なんて、絶対にだれにもわかりつこないのです。


私は手紙の第一要件だけを言つておきたい。
それは、あて名をまちがひなく書くことです。これをまちがへたら、ていねいな言葉を
千万言並べても、帳消しになつてしまひます。

姓名を書きまちがへられるほど、神経にさはることはありません。

三島由紀夫「三島由紀夫のレター教室」より

144 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 20:48:25 ID:???
手紙を書くときには、相手はまつたくこちらに関心がない、といふ前提で書きはじめ
なければいけません。これがいちばん大切なところです。
世の中を知る、といふことは、他人は決して他人に深い関心を持ちえない、もし持ち得ると
すれば自分の利害にからんだ時だけだ、といふニガいニガい哲学を、腹の底からよく
知ることです。


手紙の受け取り人が、受け取つた手紙を重要視する理由は、
一、大金
二、名誉
三、性欲
四、感情
以外には、一つもないと考へてよろしい。このうち、第三までははつきりしてゐるが、
第四は内容がひろい。感情といふからには喜怒哀楽すべて入つてゐる。ユーモアも入つてゐる。
打算でない手紙で、人の心を搏つものは、すべて四に入ります。


世の中の人間は、みんな自分勝手の目的へ向かつて邁進してをり、他人に関心を持つのは
よほど例外的だ、とわかつたときに、はじめてあなたの書く手紙にはいきいきとした力が
そなはり、人の心をゆすぶる手紙が書けるやうになるのです。

三島由紀夫「三島由紀夫のレター教室」より

145 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 21:00:12 ID:???
雅子の涙の豊富なことは、本当に愕くのほかはない。どの瞬間も、同じ水圧、同じ水量を
割ることがないのである。明男は疲れて、目を落して、椅子に立てかけた自分の雨傘の末を見た。
古風なタイルのモザイクの床に、傘の末から黒つぽい雨水が小さな水溜りを作つてゐた。
明男はそれも、雅子の涙のやうな気がした。
彼は突然、勘定書をつかんで立上つた。


一見、大噴柱は、水の作り成した彫塑のやうに、きちんと身じまひを正して、静止して
ゐるかのやうである。しかし目を凝らすと、その柱のなかに、たえず下方から上方へ
馳せ昇つてゆく透明な運動の霊が見える。それは一つの棒状の空間を、下から上へ凄い速度で
順々に充たしてゆき、一瞬毎に、今欠けたものを補つて、たえず同じ充実を保つてゐる。
それは結局天の高みで挫折することがわかつてゐるのだが、こんなにたえまのない挫折を
支へてゐる力の持続は、すばらしい。

三島由紀夫「雨のなかの噴水」より

146 :名無しさん@また挑戦:2011/01/29(土) 00:45:48 ID:???
過ちといふものは、美しいものが期待に反して犯す醜行のことである。


美貌といふものは、停車場や博物館と同様に共有物であり公的な存在なのである。それを
私することは公的の福祉に反することであり、停車場を買ひ占めようとするやうなものである。


各界の名士といふ人種が一堂に会する眺めは、一種奇怪である。彼らは要するに、
カメラマンに「自然な姿態」をとられるのに馴れた人種であるから、その言はうやうない
「自然な」態度には、どうすれば見物人から餌をもらへるかをよく知つてゐる動物園の
熊に似た超然ぶりが見られるのである。見物人を意識してゐない動物が、一匹でも動物園に
ゐたらお目にかかりたい。


名士は大抵「殿下」とか「閣下」とか「先生」とかいふ源氏名のついた娼婦であつて、
莫迦に忙しい口ぶりの男は二流であり、莫迦にゆつくりした喋り方をする男は一流である。
彼らは日常の多忙のために生理的な速度に変調を来して、道を歩くやうな歩度の喋り方は
出来なくなつてゐるので、彼らのお喋りは、自動車に乗つてゐるか、それとも興に乗つて
ゐるかどちらかであつた。

三島由紀夫「家庭裁判」より

147 :名無しさん@また挑戦:2011/01/29(土) 00:46:08 ID:???
美人の定義は沢山着れば着るほどますます裸かにみえる女のことである。


女の涙といふものは世間で最もやりきれないものの一つであるが、小鳥がとまつたかと
見る間に生む美しい空いろの卵のやうに、こんな風に涙がこぼれるのをみると、右近の心は
甚だ痛んだ。


良人は大ていのことを座興と思つてゐてよい特権をもつものである。

三島由紀夫26歳「家庭裁判」より


久一にとつて馬ほど愛すべき安全な玩具はなかつた。やさしい動物である。傷つきやすい
心を持ち、果敢な勇気を持ち、同時に怠けものの心と臆病さとを持つた動物である。
血走つた目はたまには、敵意や蔑みをあらはしこそすれ、一度忠誠を誓つた乗手のためには、
人間も及ばなぬ献身のまことを示した。
よく云はれることだが、サラブレッドの名馬は宛然一個の美術品である。

三島由紀夫24歳「鴛鴦」より


不道徳も清潔な限り美しいものである。

三島由紀夫25歳「修学旅行」より

148 :名無しさん@また挑戦:2011/02/03(木) 20:22:24 ID:???
いくら乱れた世の中でも、一本筋の通つたまじめな努力家の青年はゐるもんだよ。
結婚といふものは長い事業だからね。地道に着々と幸福を築いてゆける相手を探さなくちやいかん。


よくこんな経験があるものだ。十年も二十年も前に、たとへばピクニックに行つて、一人だけ
群を離れて、小滝や野の花の茂みのある静かな一劃に出てしまふ。そのとき何となく、
意味もなく口をついて出た言葉が、十年後、二十年後になつて、何かの瞬間に、再びふつと
口をついて出てくるのだ。すると永年小さな謎の蕾として眠つてゐたその言葉が、今度は
急速に花をひらき、意味を帯び、人生のその瞬間を決定する、とりかへしのつかない重要な
言葉になつてしまふのだ。


結婚して一ヶ月もたてば、大した苦労を嘗めなくても、女は十分現実を知つたといふ自信を
持つやうになる。


一等怖ろしいのは人間の言葉の魔力である。証拠らしい証拠がなくても、耳に注がれる言葉の
毒は、たちまち全身に廻つてしまふ。

三島由紀夫「お嬢さん」より

149 :名無しさん@また挑戦:2011/02/03(木) 20:24:16 ID:???
玉のやうな男の児。「玉のやうな」とは何と巧い形容だらうと一太郎は思つてゐた。
明るい薔薇いろをした堅固な玉。弾む玉。野球のボールのやうに力強く飛びまはる玉。
それは飛び出して、ころころ転がつて、両親や祖父母の膝の上へ跳ね上り、笑ふ玉、喜ぶ玉、
きらきらした国旗の旗竿の玉のやうに青空に浮び上り……、それを見るだけでみんなに
幸福な気持を起させるのだ。


人の心といふものは、一定の分量しか入らない箱のやうなものである。


あなたはお嬢さんだわ。本当に困つたお嬢さん、私の妹だつたら、お尻にお灸をすゑてやるわ。
どうしてあなたは叫ばないの? 泣かないの? 吼えないの? 思ひ切つて、景ちやんの顔に
オムレツでもぶつけてやらないの? 花瓶を叩き割らないの? お宅の硝子窓だつて、
ずいぶん割り甲斐があるぢやない? あなたのヤキモチは小細工ばかりで醜いわ。そんなの、
ほんとに女の滓だわ。

三島由紀夫35歳「お嬢さん」より

150 :名無しさん@また挑戦:2011/02/05(土) 16:02:37 ID:???
アメリカのミュージカルも数多く、中には新派悲劇を歌入り芝居にしたやうなものもあるけれど、
「マイ・フェア・レディ」とこの「ウエストサイド物語」とは、文句なしに傑作であつて、日生劇場の初日は、
興奮の渦に巻き込まれたといつても過言ではない。もともと舞台のものであるし、乱闘シーンなど映画よりずつと
迫力があり、生きのいい魚市場で魚がはねあがつてゐるやうな趣があつて、刺し身好きの日本人には、この生の風味は
こたへられないものがあるにちがひない。
わたくしは一九五七年の初演も見てゐるし、一九六〇年にも見てゐるし、これで三度目だが、少しも飽きなかつた。
のみならず、つぎでどういふ曲どういふ歌どういふダンスが出てくるかわかつてゐながら、それがたのしみで
道具代はりのたびにワクワクした。これで見てもわかるとほり、なん年にわたるながい続演のシステムでも、
好きな人はなん度でも見にくるだらうことが想像される。

三島由紀夫「迫力ある『ウエストサイド物語』――初日を見て」より

151 :名無しさん@また挑戦:2011/02/05(土) 16:06:21 ID:???
(中略)
わたくしの好みでは、このミュージカルでもつとも小気味のいいのは、第一場の乱闘シーンやジムのダンス・
パーティーのシーンなどの群舞の場面と、女ばかりの「アメリカ」と男ばかりの「ジー・オフィサー・クラプキ」の
二つの歌である。とくにジー・オフィサー・クラプキのおもしろさは全編の白眉であつて、大宅壮一氏の社会時評の
最良のものを、歌と踊りで表現したやうなものだ。わたくしにはかういふ風刺的要素が、全編を貫流してゐないのが
ものたりないが、それはインテリの偏屈好みといふもので、恋物語の糖衣がなければ、ここまで成功しなかつたに
ちがひない。しかしなんとなく恋物語がよけいだといふ印象はおほひがたく、このミュージカルにかぎつて、
主役ふたりはいつも割りを食ふことになる。
現代の若者を扱つたミュージカルを作らうと思へば、共産中国を除いて、ほとんどの国の青年層は、アメリカ風の服装、
風習、言語動作に染つてゐるわけであるから、だれがどこでなにを作らうと、この本家本元の「ウエストサイド物語」に
かなふわけはない。

三島由紀夫「迫力ある『ウエストサイド物語』――初日を見て」より

152 :名無しさん@また挑戦:2011/02/08(火) 12:45:26 ID:???
日沼氏と私は、ほとんど死についてしか語り合はなかつたやうな気がする。氏は、今から考へれば死の近い人特有の
鋭い洞察力で、私の文学の目ざす方向の危険について、掌(たなごころ)を斥すやうによく承知してゐた。
氏は会ふたびに、私に即刻自殺することをすすめてゐたのである。もちろん買被りに決つてゐるが、氏は私が
今すぐ自殺すれば、それはキリーロフのやうな論理的自殺であつて、私の文学はそれによつてのみ完成する、と
主張し、勧告するのであつた。その当人に突然死なれた私の愕きは云ふまでもあるまい。電話で訃音に接したとき、
咄嗟にその死を、私が自殺と思ひちがへたのも無理はあるまい。しかし病死であればあるほど、生きてゐる同士なら
酒間の冗談でも済ませられるものが、済ませられなくなつたといふ重荷は私の肩に残る。いかなる意味でも、
それは冗談ではなくなつたのである。

三島由紀夫「日沼氏と死」より

153 :名無しさん@また挑戦:2011/02/08(火) 12:47:52 ID:???
氏といへども、もちろん私について誤解はしてゐた。私が文学者として自殺なんか決してしない人間であることは、
夙に自ら公言してきた通りである。私の理窟は簡単であつて、文学には最終的な責任といふものがないから、
文学者は自殺の真のモラーリッシュな契機を見出すことはできない。私はモラーリッシュな自殺しかみとめない。
すなはち、武士の自刃しかみとめない。そんな男に、文学者としての「論理的自殺」をすすめてやまなかつた氏は、
あるひは私を誤解してゐたのかもしれないが、あるひは実は、私なんか眼中になく、私に託して、自らの夢を
語つてゐたのかもしれないのである。人からきいた話だが、ある雑誌の「私のなりたい職業」といふ問ひに、
「隠亡」と答へた氏であつたさうである。

三島由紀夫「日沼氏と死」より

154 :名無しさん@また挑戦:2011/02/12(土) 11:08:46 ID:???
最近東京空港で、米国務長官を襲つて未遂に終つた一青年のことが報道された。日本のあらゆる新聞がこの
青年について罵詈ざんばうを浴せ、袋叩きにし、足蹴にせんばかりの勢ひであつた。(中略)
私はテロリズムやこの青年の表白に無条件に賛成するのではない。ただあらゆる新聞が無名の一青年をこれほど
口をそろへて罵倒し、判で捺したやうな全く同じヒステリカルな反応を示したといふことに興味を持つたのである。
左派系の新聞も中立系の新聞も右派系の新聞も同時に全く同じヒステリー症状を呈した。かういふヒステリー症状は、
ふつう何かを大いそぎで隠すときの症候行為である。この怒り、この罵倒の下に、かれらは何を隠さうとしたので
あらうか。
日本は西欧的文明国と西欧から思はれたい一心でこの百年をすごしてきたが、この無理なポーズからは何度も
ボロが出た。最大のボロは第二次世界対戦で出し切つたと考へられたが、戦後の日本は工業的先進国の列に入つて、
もうボロを出す心配はなく、外国人には外務官僚を通じて茶道や華道の平和愛好文化こそ日本文化であると
宣伝してゐればよかつた。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より

155 :名無しさん@また挑戦:2011/02/12(土) 11:13:05 ID:???
昭和三十六年、私がパリにゐたとき、たまたま日本で浅沼稲次郎の暗殺事件が起つた。浅沼氏は右翼の十七歳の
少年山口二矢によつて短剣で刺殺され、少年は直後獄中で自殺した。このとき丁度パリのムーラン・ルージュでは
Revue Japonais といふ日本人のレビューが上演されてをり、その一景に、日本の短剣の乱闘場面があつた。
在仏日本大使館は誤解をおそれて、大あわてで、その景のカットをレビュー団に勧告したのである。
誤解をおそれる、とは、ある場合は、正解をおそれるといふことの隠蔽である。私がいつも思ひ出すのは、
今から九十年前、明治九年に起つた神風連の事件で、これは今にいたるもファナティックな非合理な事件として
インテリの間に評判がわるく、外国人に知られなくない一種の恥と考へられてゐる。
約百名の元サムラヒの頑固な保守派のショービニストが起した叛乱であるが、彼らはあらゆる西洋的なものを憎み、
明治の新政府を西欧化の見本として敵視した。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より

156 :名無しさん@また挑戦:2011/02/12(土) 11:17:48 ID:???
電線の下を通るときは、西洋の魔法で頭がけがれると云つて、頭上に白扇をかざして通り、あらゆる西欧化に
反抗した末、新政府が廃刀令を施行して、武士の魂である刀をとりあげるに及び、すでにその地方に配置された
西欧化された近代的日本軍隊の兵営を、百名が日本刀と槍のみで襲ひ、結果は西洋製の小銃で撃ち倒され、敗残の
同志は悉く切腹して果てたのである。
トインビーの「西欧とアジア」に、十九世紀のアジアにとつては、西欧化に屈服してこれを受け入れることによつて
西欧に対抗するか、これに反抗して亡びるか、二つの道しかなかつたと記されてゐる。正にその通りで、一つの
例外もない。日本は西欧化近代化を自ら受け入れることによつて、近代的統一国家を作つたが、その際起つた
もつとも目ざましい純粋な反抗はこの神風連の乱のみであつた。他の叛乱は、もつと政治的色彩が濃厚であり、
このやうに純思想的文化的叛乱ではない。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より

157 :名無しさん@また挑戦:2011/02/12(土) 11:21:09 ID:???
日本の近代化が大いに讃えられ、狡猾なほどに日本の自己革新の能力が、他の怠惰なアジア民族に比して
賞讃されるかげに、いかなる犠牲が払はれたかについて、西欧人はおそらく知ることが少ない。それについて
探究することよりも、西欧人はアジア人の魂の奥底に、何か暗い不吉なものを直感して、黄禍論を固執するはうを
選ぶだらう。しかし一民族の文化のもつとも精妙なものは、おそらくもつともおぞましいものと固く結びついて
ゐるのである。エリザベス朝時代の幾多の悲劇がさうであるやうに。……日本はその足早な、無理な近代化の歩みと
共に、いつも月のやうに、その片面だけを西欧に対して示さうと努力して来たのであつた。そして日本の近代ほど、
光りと影を等分に包含した文化の全体性をいつも犠牲に供してきた時代はなかつた。私の四十年の歴史の中でも、
前半の二十年は、軍国主義の下で、不自然なピューリタニズムが文化を統制し、戦後の二十年は、平和主義の下で、
あらゆる武士的なもの、激し易い日本のスペイン風な魂が抑圧されて来たのである。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より

158 :名無しさん@また挑戦:2011/02/12(土) 11:28:03 ID:???
そこではいつも支配者側の偽善が大衆一般にしみ込み、抑圧されたものは何ら突破口を見出さなかつた。そして、
失はれた文化の全体性が、均衛をとりもどさうとするときには、必ず非合理な、ほとんど狂的な事件が起るのであつた。
これを人々は、火山のマグマが、割れ目から噴火するやうに、日本のナショナリズムの底流が、関歇的に
奔出するのだと見てゐる。ところが、東京空港の一青年のやうに見易い過激行動は、この言葉で片附けられるとしても、
あらゆる国際主義的仮面の下に、ナショナリズムが左右両翼から利用され、引張り凧になつてゐることは、
気づかれない。反ヴィエトナム戦争の運動は、左翼側がこのナショナリズムに最大限に訴へ、そして成功した事例で
あつた。それはアナロジーとしてのナショナリズムだが、戦争がはじまるまで、日本国民のほとんどは、
ヴィエトナムがどこにあるかさへ知らなかつたのである。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より

159 :名無しさん@また挑戦:2011/02/12(土) 11:29:44 ID:???
ナショナリズムがかくも盛大に政治的に利用されてゐる結果、人々は、それが根本的には文化の問題であることに
気づかない。九十年前、近代的武器を装備した近代的兵営へ、日本刀だけで斬り込んだ百人のサムラヒたちは、
そのやうな無謀な行動と、当然の敗北とが、或る固有の精神の存在証明として必要だ、といふことを知つてゐた
のである。これはきはめて難解な思想であるが、文化の全体性が犯されるといふ日本の近代化の中にひそむ危険の、
最初の過激な予言になつた。われわれが現在感じてゐる日本文化の危機的状況は、当時の日本人の漠とした予感の中に
あつたものの、みごとな開花であり結実なのであつた。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より

160 :名無しさん@また挑戦:2011/02/12(土) 13:35:18 ID:???
日本の軍備の制約下では、核兵器は保有を許されてゐないから、安保条約が当然必要になり、自民党のいはゆる
「核の傘の下」に入ることを余儀なくされてゐるわけである。全く現実的な見地でいへば、アメリカの強大な軍備に
守られてこそ、やうやく日本の自主防衛ですらも可能になるといふやうな情況にあることを否定することはできない。
しかし、果たしてこれをもつて日本人は満足するであらうか。ごく素朴な見方をしても、日本人は久しく、自衛隊が
果たして我々自身の軍隊であるかといふことに疑惑を表はしてきた。もし日本が代理戦争のやうなものに巻き
込まれて、自衛隊が出勤し、あるひは国連警察軍の名目の下に、アメリカが出勤するやうなことがあつた場合、
その自衛隊の最高指揮権は名目上、日本の総理大臣になつてゐるけれども、米軍との共同動作がどの段階でなされ、
且つ、その日本軍と米軍との戦略的な観点の相異がどこで調整されて、どこで最終的にコントロールされるかと
いふ問題になれば、人はそれをアメリカ大統領ではないかといふ疑惑を禁じることはできないのである。

三島由紀夫「自衛隊二分論」より

161 :名無しさん@また挑戦:2011/02/12(土) 13:36:15 ID:???
(中略)
自衛隊法第三条にも明記されてゐる通り、いまや我々が自衛隊は間接侵略の対処及び、通常兵器による局地的な
侵略については、安保条約の力を借りずに全くの自分の力でこれに対処するやうに規定されてゐる。旧安保条約では、
たとへ間接侵略に対しても、米軍の協力ないし、米軍の責任分担範囲が、大幅に認められてゐたのであつた。
なぜこのやうな変化があつたのかといふと、これは日本の自主防衛力が多く認められてきたことばかりとはいへない。
すなはち、間接侵略といふものは、高度に政治的な戦争形態であり、高度にイデオロギッシュな性質なものであり、
またその範囲はきはめて広く思想戦、心理戦、言論戦から実際のゲリラ戦や、いはゆる遊撃戦活動から社会主義
革命に至るまで、あらゆる段階を含んで進行することは自明であるから、このやうな国内問題に類する間接侵略に
対して、外国軍隊が直ちに第一段階で介入することは内政干渉と受けとられる恐れが充分あるので、したがつて
アメリカとしても間接侵略に対する対処を早く自衛隊自らの手にゆだねようとしたわけであらう。

三島由紀夫「自衛隊二分論」より

162 :名無しさん@また挑戦:2011/02/12(土) 13:38:28 ID:???
そしてこの対間接侵略事態とははつきりいつていま問題になつてゐる治安出勤である。
日本の周囲の情勢を見渡すのに、直接侵略事態はむしろ可能性が薄く、間接侵略事態がある程度進行した場合に
はじめて直接侵略事態が起こるであらうといふことが常識として考へられる。一例がソビエトはいはゆる熟柿作戦と
いはれてゐるやうに、昔からいつたん相手を安心させてから、例へば一国が両面作戦を恐れてソビエトと手を
握つた時に、ソビエトは一旦これと手を握つて相手を安心させた後に、相手がソビエトに背をむけて敵と戦つて
ゐる留守を狙つて背後から、その条約を破つてこれを打ちのめし、占拠し、あるひは自分の手に収めるといふ時機を
狙ふ戦略に甚だ老練であり、甚だ狡猾である。

三島由紀夫「自衛隊二分論」より

163 :名無しさん@また挑戦:2011/02/12(土) 13:40:00 ID:???
ソビエトが現下のやうな政治情勢で、日本に直接侵攻してくることは、すぐには考へられないけれども、
ソビエトなり北鮮なり中共なりのそれぞれ色彩も形態も異なつた共産主義諸国が、もし日本に政治的影響を及ぼして、
間接侵略事態を醸成するのに成功した場合、そしてそれが日本全国の治安状態を攪乱せしめ、国内の経済も崩壊し、
革命の成功が目の前に迫つた場合、このやうな場合にはソビエトが、あるひは新潟方面に陽動作戦を伴ひつつ
北海道に直接侵攻してくる危険がないとは決していへない。決していへないけれども、このやうな直接侵略事態を
考へる前に、最も我々が問題にすべきものは、これを最終目的として狙つてくる、間接侵略事態の進行である。

三島由紀夫「自衛隊二分論」より

164 :名無しさん@また挑戦:2011/02/12(土) 13:43:53 ID:???
(中略)
自衛隊が間接侵略事態に我々の味方であるといふことは心強いことではあるけれども、同時に自衛隊のそれぞれの
使命を我々の目の前に平時からはつきり分けておき、それによつて我々と自衛隊との間の大きな国民的な紐帯を
確保しておかなければ、いつたん緩急ある時には甚だ危険であるといはなければならない。なぜならば間接侵略事態に
対処する国民の努力と、治安出勤に出た自衛隊との間にすこしでも齟齬ができれば、自衛隊は支配階級あるひは
権力機構あるひは外国勢力の傀儡であるといふ宣伝がたちまちなされて、国民感情の間にヒビが入れられ、その
国民と自衛隊との間の間隙、齟齬、亀裂にこそまさに革命勢力の狙ひが生かされてくるのであらうからである。
したがつて私は平時から自衛隊と国民との間の緊密な紐帯が必要であると考へる者であり、そのためには単なる
自衛隊のファンであつたり支持者であるだけでは足りず、国民が何らかの形で自衛隊の内部に接触し、且つ
自衛隊の訓練を国民的訓練の一部として受けるべきであるといふ考へさへ持つてゐる。

三島由紀夫「自衛隊二分論」より

165 :名無しさん@また挑戦:2011/02/12(土) 13:50:09 ID:???
私はしかしここでいま徴兵制度の復活を唱へるのではなく、もつとさまざまな形の自衛隊と国民との間の軍事訓練を
結び目とした接触が考へられてもよいと思ふわけである。(中略)
現下日本は細説したやうに安保条約を通しての集団安全保障体制も捨てることはできない。また同時に、日本の
経済的復興によつて高揚してきたナショナリズムに立脚してきたところの国民精神の復興と、国民が自らの手で
国を守らうとする自主独立の精神をも無視することはできない。いかにしてこの二つを結合し、いかにして
この二つに所あらしめるかといふことが私の発想である。すなはち陸上自衛隊の主任務が間接侵略対処であるなら
これこそ国民の軍として適切なものである。ことにこの複雑な政治的状況下における間接侵略事態対処においては、
国民が真に軍隊を我々のための軍隊であると考へ、且つ局部的には日本人が日本人を殺すやうな悲惨な状態が
生じてもなほ且つ自衛隊を信頼して、それこそ国民の最終的な幸福のための軍事行動であると納得するためには、
これを最終的に我々自身の軍隊と考へなければならない。

三島由紀夫「自衛隊二分論」より

166 :名無しさん@また挑戦:2011/02/13(日) 12:21:04 ID:???
十年前の東京では、左翼と右翼の分れ目ははつきりしてゐた。平和憲法を守れ、といふスローガンを人生の
何ものよりも大切にし、政府のやることはすべて戦争へ一歩一歩国民を狩り立てることだと主張し、子供に戦車や
軍用機の玩具を買つてやることを拒否し、横文字の本をよく読みこなし、岩波書店と何らかの関係があり、
すこし甲高いなめらかな声で話し、にこやかで紳士的で、いささか植物的で、暴力には一ぺんで砕かれてしまふ
やうな肉体、ひどく肥つてゐるか、ひどく痩せてゐるかした肉体を持ち、眼鏡をかけ、ベレエ帽をかぶり、
その両わきから白髪が耳の上に垂れ、軽井沢に小さい別荘を持ち、決して冷静を失はないやうに見える紳士は、
みな左翼だつた。(中略)
右の如き左翼人は、多くは国立大学の教授たちで、一流新聞や一流出版社の論説欄を支配し、政府から月給を
もらひながら、一方ではその反政府的論説によつて、左派のジャーナリズムから稿料を支払はれ、しかも大学の
中では、封建的君主そのままで、権力主義を押し通してゐた。

三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」より

167 :名無しさん@また挑戦:2011/02/13(日) 12:23:10 ID:???
これが新左翼の攻撃するところとなり、そのもつとも喜劇的な一例としては、次のやうなのがある。或る有名な
左派の政治学者は、戦後二十年、ファシズムと軍国主義以上に悪いものはないと主張する政治学で人気を得てゐたが、
新左翼の学生に研究室を荒らされ、頭をポカリとなぐられたとき、「ファシストもこれほど暴虐でなかつた。
軍閥でさへ研究室まで荒らさなかつた」と叫んだ。二十年間彼が描きつづけた悪魔以上の悪魔が、他ならぬ彼の
学説上の弟子の間から現はれたといふわけだ。
日本民族の独立を主張し、アメリカ軍基地に反対し、安保条約に反対し、沖縄を即時返還せよ、と叫ぶ者は、
外国の常識では、ナショナリストで右翼であらう。ところが日本では、彼は左翼で共産主義者なのである。
十八番のナショナリズムをすつかり左翼に奪はれてしまつた伝統的右翼の或る一派は、アメリカの原子力空母
エンタープライズ号の寄港反対の左翼デモに対抗するため、左手にアメリカの国旗を、右手に日本の国旗を持つて
勇んで出かけた。これではまるでオペラの舞台のマダム・バタフライの子供である。

三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」より

168 :名無しさん@また挑戦:2011/02/13(日) 12:26:45 ID:???
(中略)
私は暴力の支配する大学に招かれて、ラジカル・レフティストの学生たちと論争したが、かれらは誇張した
言語表現では伝統的支那風であり、人民裁判方式の愛好者たる点では現代共産中国風であり、日本の伝統否定では
インターナショナリストであり、テロリズム肯定では日本のサムラヒ風右翼風であり、論理愛好癖では西欧風であり、
しかもすべて共産主義者を以て自認してゐた。
日本のヤクザ映画と称する特殊な映画は、伝統的アウトローの世界を描き、古い日本的メンタリティーを押し売りし、
感傷主義とヒロイズム、暴力肯定と非論理性において、もつとも右翼的日本的心情主義に愬(うつた)へるものとして、
左翼文化人が頭から軽蔑してきたものであるが、その日本型ジョン・ウェインは学生たちのアイドルになり、
左派の学生は暴力デモに出かける前夜、必ずこの種の映画を見に行つて、熱情を心に充填するのである。
次第次第に日本では、誰が右翼、誰が左翼と簡単にレッテルを貼ることがむづかしくなつてきた。

三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」より

169 :名無しさん@また挑戦:2011/02/13(日) 12:30:28 ID:???
イデオロギーの相互循環作用が起り、極端な右と極端な左が近づくかと思ふと、現在穏健な議会主義的革命を
主張してゐる偽善的な日本共産党が、大学問題などで、政府自民党と利害を等しくするやうになつたりしてゐる。(中略)
かういふややこしいイデオロギーの循環作用は、日本で百数十年前に起つた現象とよく似てゐる。明治維新前の
日本には、四つのイデオロギーが、四つ巴になつてゐた。すなはち、佐幕、開国、尊皇、攘夷である。(中略)
尊皇開国、佐幕攘夷、尊皇佐幕、(さすがに開国攘夷だけはなかつたが)、などといふ各派があらはれ、しかも
この各派を、短期間に廻りあるく人間まであらはれた。そして明治維新の大変革によつて成立した新政府は、
はつきり「尊皇開国」のイデオロギーをかかげて、統一国家を形成したのである。
(中略)しかし日本の歴史が証明するところによると、日本といふ国は決して内発的な革命を敢行しない国であつて、
必ず日本に起るのは、外発的な革命、すなはち外国の軍事的政治的経済的思想的な衝撃力によつて、やむをえず
起された革命なのである。

三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」より

170 :名無しさん@また挑戦:2011/02/14(月) 15:47:51 ID:???
一月三日(火)
しかし、何といつても、ボクシングはあの場内の興奮に包まれて、ぢかに見るべきものだ。テレビだと、
十五ラウンドが、スカスカと機械的に運ばれる感じで、興味は半減する。(中略)
解説のアナウンサーの声が全くいやらしい。ボクシングの試合なのだから、もうちよつと粗野な、ボクサー風に
鼻のつまつたカスレ声のアナウンサーを連れて来るわけには行かないのか。そのはうがずつと気分が出るぢやないか。
いやに澄んだ高い声の、中性的なアナウンサーの乙リキにすました軽薄な「客観性」、これこそ、ジャーナリズムの
いはゆる「良心的客観性」の空虚ないやらしさを象徴してゐる。

一月八日(日)
道場の冷え込み方はものすごく、むかしの寒稽古の寒さを思ひ出す。(中略)剣道の稽古も、飛び回るうちに
体はだんだん温まつてくるが、足の裏だけは寒餅みたいになつて感覚がない。そのうちやつと、その足も温まつてくる。
この日本刀で人を斬れる時代が、早くやつて来ないかなあ。

三島由紀夫「日録(昭和42年)」より

171 :名無しさん@また挑戦:2011/02/14(月) 15:55:28 ID:???
一月十日(火)
革命の機が熟したとき、文化人はあひもかはらず、女子供と同様に扱はれるであらう。それはいはばウサギの
役割なのだ。もしプラカードを持つてフラフラして、ぶち殺されれば、革命陣営は口をきはめてその「英雄的行動」を
ほめそやすであらう。しかしそれはウサギの英雄にすぎないのだ。
なぜなら、文化人知識人といふものは、老人か、女子供に類する肉体的弱者に決つてゐるから、「弱者が殺された」
といふ民衆的憤激をそそり立てるのに効果的であり、ただ弱者であるのみならず、その上、多少の知識や文化的
活動の経歴名声がプラスして、「尊敬すべき弱者が殺された」といふ政治的効果は多大なものだ。革命における
文化人の効用は、ウサギの肉の効用である。
私は外国でウサギの肉を食べたことがあるが、柔らかくて、わりに旨い。独特のクサ味を調味料で除去すれば、
うまいはうの肉に入る。ウサギにしろ、ニワトリにしろ、豚にしろ、さらに牛にしろ、概して大人しい動物の肉は
うまい部類に入る。
肉をまづくしよう。少なくとも俺一人の肉はまづくしてやらう。と私は断乎たる決意を固めたのである。

三島由紀夫「日録(昭和42年)」より

172 :名無しさん@また挑戦:2011/02/14(月) 17:27:08 ID:???
われわれ日本人は本来派手好みなのである。少くとも室町時代までは、いかに色彩と金ピカを好んだかは、
金閣寺や能楽を見てもわかる。(中略)長い鎖国時代に、さびしい寒色の趣味が上品だとされるやうになり、
けばけばしい趣味は、上は御所、下は民衆の一部に残るだけになつた。明治になつてからも、田舎者の文化が、
いよいよ日本人の趣味を窮屈にしてしまつた。
明治の開国以後、外国の趣味がとり入れられても、渋いイギリス趣味ばかりが上流階級で歓迎され、みんなが
そのマネをした。
私は生来、明るい地中海文化が好きで、ラテン的な色彩を愛し、さらに中南米(ラテン・アメリカ)の植民地建築に
心酔して、その熱帯の色彩美とメランコリーを日本に移植しようと志し、スペイン植民地風の家を建て、その中を
フランス骨董やスペイン骨董で飾り立てた。(中略)
着るものについては、私は一切流行といふものを顧慮しない。信頼のおけるテイラーで、一旦「私の型」と
いふものを決めてしまふと、それを変へず、寸法のはうは年中一定だから、生地さへ選べば、あとは簡単である。

三島由紀夫「男の美学」より

173 :名無しさん@また挑戦:2011/02/14(月) 17:32:01 ID:???
(中略)
大体私は、熱帯好きでもあるし、北方風なキチンとしたお洒落はきらひである。できるなら一年中裸でゐたいのだが、
それもならず、庭の中央に、イタリーから持つてきて据ゑた大理石のアポロ像が、春夏秋冬、まつ裸で外気に
さらされてゐる姿をうらやむばかりだ。
美的生活と云つても、十九世紀のデカダンのやうな、教養と官能に疲れた憂鬱で病的な美的生活は、私は
まつぴら御免である。
このごろの気持の変化として、剣道などをはじめてから、日本刀が好きになつたり、紋付袴を着てみたくなつたり
しはじめた。やはり日本の男には、剣道着ほど、男らしくて、すがすがしくて、よく似合ふ服装はないと思ふ。
しかし、純西洋風な部屋で、吉田茂氏みたいに、上等の和服を着て、上等の葉巻をくゆらすのも乙である。
年をとつたら、きつとさういふ風になるだらう。
(中略)
「美しく生き、美しく死ぬ」といふのは、古代ギリシア人の念願だつた。生きるはうはまだしも、どうしたら
美しく死ねるのか。

三島由紀夫「男の美学」より

174 :名無しさん@また挑戦:2011/02/14(月) 17:36:07 ID:???
古代ギリシア人の理想は、美しく生き、美しく死ぬことであつた。わが武士道の理想もそこにあつたにちがひない。
ところが、現代日本の困難な状況は、美しく生きるのもむづかしければ、美しく死ぬことはもつとむづかしいといふ
ところにある。武士的理想が途絶えた今では、金を目あてでない生き方をしてゐる人間はみなバカかトンチキになり、
金が人生の至上価値になり、又、死に方も、無意味な交通事故死でなければ、もつとも往生際のわるい病気である癌で
死ぬまで待つほかはない。
美しく生き美しく死なうとすれば、まづその条件を整へて行かねばならない。少くとも、自分の仕事に誠実に生き、
又、国や民族のためには、いさぎよく命を捨てる、といふのは美しい生き方であり死に方であるが、やりがひの
ある仕事がない、国家自体があやふやである、といふのでは、もう美しい生き方や死に方はありえないから、
わがためにも、国や民族の在り方を正して行くことが先決問題である。

三島由紀夫「美しい死」より

175 :名無しさん@また挑戦:2011/02/14(月) 17:39:37 ID:???
(中略)
武の心持がなければ、人間は自分をいくらでも弱者と考へることができ、どんな卑怯未練な行動も自己弁護する
ことができ、どんな要求にも身を屈することができる。その代り、最終的に身の安全は保証されよう。
ひとたび武を志した以上、自分の身の安全は保証されない。もはや、卑怯未練な行動は、自分に対してもゆるされず、
一か八かといふときには、戦つて死ぬか、自刃するかしか道はないからである。しかし、そのとき、はじめて人間は
美しく死ぬことができ、立派に人生を完成することができるのであるから、つくづく人間といふものは皮肉に
できてゐる。
私は自衛官にはならなかつたけれども、一旦武の道に学んだからには、予備自衛官と等しく、一旦緩急あるときは
国を護るために馳せ参じたいといふ気持になつてゐる。予備自衛官諸氏は、さういふ国民が私一人でないことを
信じていただきたいと思ふ。全国民の気持が、予備自衛官の気持と一つになつたとき、はじめて日本は、
国家としての美しい完成体になるのだと思はれる。

三島由紀夫「美しい死」より

176 :名無しさん@また挑戦:2011/02/15(火) 15:30:43 ID:???
私が同志的結合といふことについて日頃考へてゐることは、自分の同志が目前で死ぬやうな事態が起つたとしても、
その死骸に縋(すが)つて泣く事ではなく、法廷においてさへ、彼は自分の知らない他人であると、証言出来る
ことであると思ふ。それは「非情の連帯」といふやうな精神の緊張を持続することによつてのみ可能である。
しかし、私はなにも死を以つてのみ同志あるひは同志愛の象徴とは考へない。また死を以つてのみ革命的な行動の
精華、成就とも考へるものではない。ただ真に内発的な激怒や行動だけが、ある目的のもとになされた行為の
有効性を持つのであるといふ考へ方だけは、私にとつて変ることのないものである。
死が自己の戦術、行動のなかで、ある目標を達するための手段として有効に行使されるのも、革命を意識するものに
とつては、けだし当然のことである。自らの行動によつてもたらされたところの最高の瞬間に、つまり、
劇的最高潮に、効果的に死が行使出来る保証があるならば、それは犬死ではない。

三島由紀夫「わが同志観」より

177 :名無しさん@また挑戦:2011/02/15(火) 15:34:16 ID:???
(中略)
「われわれ」といふ集団の感覚の次元で行動し、同志的結合を持続する時、個人はすでに、超個人的契機を
掴んでゐることが前提になる。その超個人的契機とは、神のやうな個人に直結した形である場合と同時に、
神と個人とを繋ぐコミュニティのイメージが必要となつてくるのである。そこには、もはやニュートラルな心情は
崩壊してゐるのである。
人間は、このやうなコミュニティを媒介としてしか、つまり伝統的共同体を形づくるところの超個人的なもの――
絶対的な存在に接近することが出来ないといふ、逆説的な精神構造を持つてゐる。その個人的契機は、多様であるが、
その内的原因を探れば、遠く、古い価値と、それに繋がるところのコミュニティの投影が必ずある。この投影こそが、
内側の人間を外側の人間へ弾き出す力になるのである。
さう考へてゆくと、「われわれ」は危険ではあるが、誘惑に導く美しさが見えてきはしないか。この危険な誘ひに
私の興味は募る。しかしそれは、悲壮な自己陶酔と紙一重でなくて果して何であらうか。

三島由紀夫「わが同志観」より

178 :名無しさん@また挑戦:2011/02/15(火) 15:37:24 ID:???
私は、いやしくも盟約を交はして事を起す同志であれば、動機の深浅、運動経歴のキャリア、性格の相違等を、
ことさら問題にしようとは思はない。男と男が誓ひ、行動を起さうとする集団が、栄辱をそれぞれ等分するのは
当然である。
つまり、日常的な同志愛から出発しながら、いかにして、最終目的のために、目前の甘美な同志愛に耐へ抜く心の
強さを得られるか。同志的決起へと至る極限状況は、ある面において、倫理的憤激の最終的な責任を、自己に負ふか、
他者に負はせるか、といふ方向へ引き裂かれて行かざるを得ない。究極的に、自己に負ふとすれば、自刃があり、
他者に負はせるとすれば、制度自体の破壊に行きつくしかない。
そのやうなクオリティを見分ける判断力は、人間の弱さと強さとの問題でもある。

三島由紀夫「わが同志観」より

179 :名無しさん@また挑戦:2011/02/16(水) 12:24:00 ID:???
松陰はやはり、日本の根本的な問題、そして忙しい人たちが気がつかない問題、しかし、これをはづれたら
日本が日本でなくなるやうな問題、それだけを考へつめてゐたんだと思ふんです。それだけをあまりに強く考へ
つめたために首切られちやつたんだと思ふんです。わたくしは、精神といふものは、いますぐ役に立たんもんだと
いふことを申し上げました。
わたくしは、自分の書いたものや、いつたものが、いますぐ役に立つたら、かへつてはづかしいといふふうに
考へてをります。ですから、たとへばけふ申し上げたことが、あるひはみなさんのお心のどつかにとまつて、
それが十年後、二十年後に役に立つていただければ、それはありがたいけれども、あつ、三島のいつたことは
おもしろい、ぢや、けふ会社で利用して、つかつてみようかといふやうなことは、わたくしは申し上げたくもないし、
申し上げる立場にもゐないと思ふんです。わたくしは、その、ぢや日本の精神ていふのはなんだ。日本が日本で
あるものはなんだ。これをはづれたら、もう日本でなくなつちやふもんはなんだと。それだけを考へて生きて
いきたいです。

三島由紀夫「現代日本の思想と行動」より

180 :名無しさん@また挑戦:2011/02/16(水) 12:26:25 ID:???
(中略)
そして、いま非常な情報化社会がありますから、精神といふものはテレビに写らない。そしてテレビに写るのは
ノボリや、プラカードや、人の顔です。それからステートメントです。そして人間はみんなステートメントやる
ことによつて、なにかしたやうな気持になつてゐるんです。わたくしは、そこまでいけば、どんなことをやつた
ところで、目に見えない精神にかなはないんぢやないかといふふうに思つてゐるんです。昔のやうに爆弾三勇士、
あるひは特攻隊、ああいふやうなものがあつたときに、はじめてこれはすごい、これはテレビにも写らなかつた、
なにも出なかつたが、これはすごいといふ一点があると思ふんですが、いまテレビに写つてるものは、どんなものが
出てこようが、結局、情報化社会のなかでとかし込まれて、また忘れられ、笑はれ、そして人間の精神体系に
なにものも加へないままで消えていくんぢやないか。
わたくしは、政治自体も非常にさういふ点で危険な場所にゐると思ひますのは、政治もあらゆる場合に
ステートメントだけになつていく。

三島由紀夫「現代日本の思想と行動」より

181 :名無しさん@また挑戦:2011/02/16(水) 12:37:53 ID:???
そのステートメントが情報化社会のなかで、非常なスピードで溶解されて、ちやうどあたかも塵埃処理のやうに、
早くこれをすべて始末しなければ東京中が塵埃でうづまつてしまふ。紙くずでうづまつてしまふ。それで
情報化社会といふものは過剰な情報をどんどん、どんどん処理してゐるんです。この東京といふもの、日本といふ
ものは、近代化すればするほど巨大な塵埃焼却炉みたいになつてくる。そのなかで人間はなにをすべきかと
いふことについて、わたくしはなんとか考へていきたいと思ふんですが、その精神が、それぢや、どうして行動に
結びつくか、といひますと、わたくし、やつぱり陽明学の信者なんです。(中略)日本の知識人はいままで、
知つて行なはなかつた人間ばつかりだつた。(中略)
自分の知つてることは、小さなことですが、知つてることだけ行つてみる。行なつてみた結果、失敗するかも
しれません。さういふところで、みなさんにつながる。

三島由紀夫「現代日本の思想と行動」より

182 :名無しさん@また挑戦:2011/02/17(木) 12:17:54 ID:???
私は戦後の国際戦略の中心にあるものはいふまでもなく核だと思ひます。そして核のおかげで、世界大戦が
避けられてゐるのも事実ですが、同時に核が総力戦体制をとることをどの国家にも許さなくなりました。なぜなら、
総力戦体制をとつた戦争はただちに核戦争を誘発するからであります。そして世界戦争の危険がさけられると同時に
限定戦争と云ふ新しい戦争が始められました。(中略)ところが、限定戦争の最大の欠点は国論の分裂を必然的に
きたすといふ事であります。なぜなら総力戦体制に入つた場合にはどんな自由諸国でも国民の愛国心がおほいに
高揚されて、国民はいやでもおうでも、祖国のために戦ふといふ信念に燃え立ちます。第二次世界大戦時がさうで
ありました。ところが今は、一方で国家が国家の国際戦略に従つて、限定戦争を行なつても、国内では総力戦体制が
しかれてをりませんから、これに反対する勢力は互角の勝負で戦ふことが出来ます。従つて限定戦争があるところでは、
かならず平和運動と反戦運動が収拾出来ないやうな勢ひで燃え上ります。

三島由紀夫「武士道と軍国主義」より

183 :名無しさん@また挑戦:2011/02/17(木) 12:24:32 ID:???
(中略)しかしながら、限定戦争に対する抵抗する体質としては、自由諸国と共産諸国とではおのづから違ひます。
共産諸国は、閉鎖国家でその中で言論統制が自由であり、相互の監視が徹底してゐますから、国論の統一のためには、
どんな陰鬱な暗澹たる手段を弄することも辞さない。(中略)
そしてアメリカでは御承知のとほり反戦運動が収拾つかないやうな形になつてをり、しかもそれがブラック・パワーの
やうな一種の民族主義的なものと結びついて、ますます国論統一を妨げていく状況です。
(中略)共産圏の有利な事は、人民戦争理論といふものがありますから、自由諸国の正規軍に対して、自分らの方は
不正規軍をもつて不正規戦を戦ふことが出来る。この不正規戦はあくまで人民が主体で、女、子供もこの戦争に
参加します。そして彼等は、いはゆる工作員になつて、全くなにも知らない子供が手紙の走り使ひにつかはれても、
その手紙が重要な秘密文書である場合もある。

三島由紀夫「武士道と軍国主義」より

184 :名無しさん@また挑戦:2011/02/17(木) 12:28:35 ID:???
(中略)これで一方では、アメリカ正規軍の兵隊が十人死ぬとする。一方では人民戦争に参加した、あるひは、
ひそかに参加した女、子供が十人死んだとする、その場合にその死の与へる衝撃は女、子供の方が何十倍強い事は
御承知のとほりであります。
(中略)
今言つた事をだいたい要約しますと、共産圏の利点としては、限定戦争下における国論統一の利点、人民戦争理論に
よるヒューマニズムの徹底的利用の利点、この二つが彼等の最大の利点であります。この点については自由諸国内の
マスコミュニケイションは、むしろ共産圏に有利に働くわけであります。(中略)
かういふ点から、自由諸国は二つの最大の失点を初めから自らのうちに包含してゐるんです。これを考へないでは
世界戦略も国際戦略もないといふ事は非常に重要な問題で、これをコンピューターではじいて、物量の上で、
あるひは純戦術的な上で勝つ事が明らかな場合でも、この二つの失点によつて負けるべき事は今までしばしば
実際にあつたとほりです。

三島由紀夫「武士道と軍国主義」より

185 :名無しさん@また挑戦:2011/02/17(木) 20:28:15 ID:???
日本のことを考へますと、私は日本はやはり、あくまで忘れられたものに対する価値といふものを認識してゐないと
いふ感じがしてしやうがないのです。といふのは、日本も自由諸国の一環でありますから、私は言論統制といふ事には、
非常に反対であります。そして分断国家の場合には共産圏に対する反感、憎悪、あるひは競争意識、かういふものは、
国民に彌漫してをりますし、また、共産圏からも直接的な被害、肉親の殺戮、その他の恐ろしい体験がありますから、
これに対する言論統一はむしろ容易であります。韓国が良い例であり、いろんな分断国家ではさういふ例が見られます。
(中略)さういふ意味で(日本は)非常に言論統一といふ事がむづかしい。もしこれを強行しようとすれば、
非常に人工的な手段を使つて、益々国民の反撃をかふやうな方法でしか出来ないわけでありますから、マスコミ操作と
いふ事自体が難しくなつてくる。これはアメリカも同然であります。ところが日本人には民族精神の統一として、
その団結力の象徴といふものがあるのに、それが宝の持ち腐れになつてゐるといふのは、これは当然天皇の問題で
あります。

三島由紀夫「武士道と軍国主義」より

186 :名無しさん@また挑戦:2011/02/17(木) 20:30:57 ID:???
またもう一つは、第二のヒューマニズムの利用といふ点につきましても、我々は現代の新憲法下の国家において、
ヒューマニズム以上の国家理念といふものを持たないといふ事によつて苦しんでゐる。先のよど号事件にも
見られましたやうに、韓国や北鮮が非常に鮮明な単純なわかりやすい国家意志を表明したのに、日本政府は、つひに人命尊重以上の理念を
打ち出す事が出来なかつた。これはあくまでも敵に戦略的に負けてゐる事であると私は思ふのです。といふのは、
新憲法の制約が、あくまで人命尊重以上の理念を日本人に持たせないやうにぎりぎりに縛りつけてあるからであります。
私がこれから申し上げる防衛問題の前提としてこれを申し上げるのは、我々はヒューマニズムを乗り越えて、
人命より価値のあるもの、人間の命よりももつと尊いものがあるといふ理念を国家の中に内包しなければ
国家たり得ないからであります。これは種々利用されて欠点はありますが、我々は天皇といふものを持つてゐる。

三島由紀夫「武士道と軍国主義」より

187 :名無しさん@また挑戦:2011/02/17(木) 20:37:53 ID:???
我々がごく自然な形で団結心が生ずる時の天皇、それから、人命の尊重以上の価値としての天皇の伝統と、この
二つのものを持つてゐながら、これを常にタブーにして手をふれることが出来ないままに戦後体制を持続してきた。
ここに私は共産圏、敵方に対する最大の理論的困難があるにもかかはらず、結局この根本的な問題を是正すること
なしに、ずるずると動いてきてゐることに非常に危機感を持たざるを得ないのです。そして現在の状況は、戦争は
すぐには起りますまいが、ある暴力が発生すると、非暴力といふものが非常にいいことに見えます。(中略)
さういふ点から、左右そのものが平和的な仮面を被つた共産党系と、いろんな点で利用し合ふやうになる。
これは大きな政治の場面でも、向うが平和的な手段にくれば、これを利用することによつて自分も利得をうる。
そして中間にゐる大衆社会はどちらもニュートラルなものとして歓迎する、さういふ状況が出来上つてゐることが
戦略上、非常に私は問題点であると考へます。これは、私は日本の防衛といふものの、先づ基本的な前提として
判つていただきたいと思ふのです。

三島由紀夫「武士道と軍国主義」より

188 :名無しさん@また挑戦:2011/02/18(金) 15:03:21 ID:???
第二に今度私は国防理念の問題を申し上げたいと思ひます。それで国防理念の問題としては、我々はつまり物理的な
あるひは物量的な戦略体制といふものに非常に頭が凝り固まつてゐる。例へば中国の核の問題。この核に
対抗する手段が我々には無いわけです。ABMを持たうと思つてもABMは非常に金がかかりますから、ABMを
持つことだけでも大変なことであります。それによつて我々は、集団安全保障といふ理念の中に入つて日米安保条約に
よつてアメリカの核戦略体制の中に入るといふことを、国家の安全保障の一つの国是にしてゐるわけです。
ところが、アメリカはABMを持つてをりますが、日本はABMを持つてゐない。従つて核に対しては、我々は
アメリカの対抗手段に頼ることは出来ますが、アメリカの防衛手段から我々は疎外されてゐる訳であります。
我々は防衛手段を自分で持たなければなりませんが、その防衛手段については、あくまでも核の問題が入つて
きますから、非核三原則を原則とする現政府では、それについて核に対抗する核的な防衛手段もまた制限されて
ゐるといはなければなりません。

三島由紀夫「武士道と軍国主義」より

189 :名無しさん@また挑戦:2011/02/18(金) 15:08:20 ID:???
ところが集団安全保障と自主防衛との問題が段々出てきますにつれて、この間の矛盾が、私は、国防理念の中で
段々大きなギャップと裂目を露呈してくるのが、これから二、三年の大きな問題ではないかといふふうに考へて
をります。といふのは、沖縄の問題において、我々は自主防衛といふ問題にいやおうなく直面せざるを得ませんが、
自主防衛とは何であるかといふことについて、先づ人々が考へることは、核のことであります。我々は核が無ければ
国を守れない、しかし核は持てない、これは永遠の論理の悪循環で、核が持てないから集団安全保障に頼る外はない。
従つて我々にとつては、純然たる自主防衛といふことは有り得ないんだ。我々の自主防衛といふものは、
集団安全保障の前提付の上で、二次的に自主防衛といふものが、からうじて許されるわけである。かういふ固定観念が
私は非常に強くなつてゐると思ひます。

三島由紀夫「武士道と軍国主義」より

190 :名無しさん@また挑戦:2011/02/18(金) 15:12:39 ID:???
さういふ場合には、新憲法自体が国連憲章の上に成り立つてゐまして、国連の防衛理念といふものが第一になつて
ゐるにもかかはらず、我々は国連軍に参加することも出来ませんから、国連の防衛理念に対しては、片務的であつて、
我々は国連的な防衛理念によつて、自らの手で自らを守る、といふやうな論理矛盾を犯さざるを得ない。
(中略)我々は我々の国を守るのだ、外国の世話にならないで我々のことは、我々でやるんだ、ともかく我々の
この腕の力の限り、やるだけやるといふところが、我々の考へる自主防衛です。しかしこの理論的裏付けとしては
はつきりいつて何も無い。といふのは、もし戦略的に考へれば、そんな事は、不可能だ、だから国連軍に入れば
いいだらう。従つてもし、非常に政治的にいへば、お前はさういつてゐる段階でもうすでにアメリカの戦略的体制に
引つかかつてゐるんだ、お前はアメリカの傭兵になつてゐるんだと、いはれざるを得ないところへ自分を
追ひこむ外はない。自主防衛といふ言葉をさういふふうに使はしてしまつたのは誰の罪だ。

三島由紀夫「武士道と軍国主義」より

191 :名無しさん@また挑戦:2011/02/19(土) 10:34:38 ID:???
(中略)私はこの間、防衛研修所に行つてこの話を大分したのですが、防衛研修所の人達が十週間位にわたつて、
お互に議論してきた結論は実に簡単なことなのです。つまり魂の無い所に武器はない。これは日本の防衛体制を
考へる場合に、魂のない所に武器はないといふ、こんな簡単なことはないんです。ところが、一方では武器が
多ければ魂が無くても安全だといふ考へがある。そして一方では魂が有つても武器が無ければしやうがないのでは
ないかといふ考へがある。いまの日本のいはゆる非武装中立といふ考へが、ある程度非常に観念的ではあります
けれども、日本人のメンタリティーのどつかに訴へてゐるといふのはまさにこの点の矛盾をついてゐるからだらうと
思ひます。といふのは、魂のないやつがいくら武器をもつてもしやうがないから武器をもたんでおかう、と
いふ事になれば実際おつしやるとほり何ともいひやうがない。しかし防衛問題のキーポイントは、魂と武器とを
結合させることであります。

三島由紀夫「武士道と軍国主義」より

192 :名無しさん@また挑戦:2011/02/19(土) 10:38:27 ID:???
(中略)
ところが、核兵器が発明されましてからモラルと兵器といふものが無限に離れてしまつた。といふのは使へない
からです。我々は人間が使へない武器を持つた時に、人間の思想と道徳の問題が最大の危機に直面したといふふうに
私は考へる。といふのは、使へない武器は恫喝にすぎませんから、恫喝によつて、どんな嘘も可能になる。例へば
膨大な核基地が何処かにあるといふことが、察知されますと、敵側からスパイを派遣してこれを察知するでせう。
あらゆる方法で情報を集めてこの核基地の所在を発見しようとするでせう。ところがこの核基地の所在が本当は
無くてもいいんです。無くても絶対ここにあると信じれば充分恫喝になるのですから、核兵器といふものは、
最終的にいへば、無くてもいいんです。あるぞといつてゐるだけで嚇かされるんです。勿論昔の法科をお出に
なつた方は、秋刀魚をもつて強盗に入つた場合に、強盗に入られた方がこれを凶器だと思つて間違へて金を
出した場合、これはどうなるのだといふ問題を出されたと思ふのです。

三島由紀夫「武士道と軍国主義」より

193 :名無しさん@また挑戦:2011/02/19(土) 10:41:52 ID:???
これは刑法上昔から錯誤の問題として出される珍問題の一つですが、核とは秋刀魚と同じやうな形をもつてゐる。
持たなくても持つてゐると嚇かすだけで効果がある。この場合には、核といふものはつまり心理的な武器になり、
人間の心理に嘘をつかせる、そして嘘であつても、とにかく恫喝されるといふ目的が達せられればいいので
ありますから、証明するやうな材料が最終的に無ければ無い程有利であるわけです。
これは、沖縄問題で非常によく出たと思ふのであります。といふのは佐藤さんがアメリカにいらした時に、沖縄の
核兵器の基地を撤去するかしないかの問題を新聞記者会見でつつこまれました。この問題についてはわれわれは
両国間の暗黙の腹芸としていへないとおつしやつた。これは勿論です。いへないことが核兵器の面白いところです。
もし、これが普通の武器でしたら使ふ武器ですから、ここに日本刀が三挺あるぞ、ここに機関銃が三挺あるぞと
いつた方が有利なはずです。それなのにいへないところに核の面白さがある。

三島由紀夫「武士道と軍国主義」より

194 :名無しさん@また挑戦:2011/02/19(土) 10:46:00 ID:???
ここで私は武器と魂、武器とモラルといふものの結び付きが非常にこはれてきた、それと同時に国民精神といふものに
対する影響が核によつて非常にマイナスに働いてきたと思ひます。といふのは国民精神といふのは正直なものです。
国民が一心団結して火の玉になつて敵国にあたらう、あるひは国を守らうといふ時には、それのよりどころとして
日本には昔、日本刀があつたんです。あるひは、アメリカには、フロンティア・スピリットがあつてピストルと
いふものを彼等は持つてゐます。そこに己の存在をかけますから、おれは命をはつてもこのモラルを守るといふ
やうな気構へがある。しかし、あるかないか分からんものに対して、どうして人間はモラルをかけることが出来るか。
自分の全生涯をかけることが出来るか。そこに国民精神分裂の一つの原因とモラルの退廃が潜んできた。
そこに参りますと、コンベンショナル・ウェポンといふものの戦略上の価値をもう一つ復活すべきではないだらうか。

三島由紀夫「武士道と軍国主義」より

195 :名無しさん@また挑戦:2011/02/19(土) 10:48:47 ID:???
人民戦争理論でなくて核でなくて、日本が闘へる、しかし一歩も日本によせつけないといふものを考へますと、
これは、私は英語を使つたコンベンショナル・ウェポンでなくて、日本には日本刀といふものがあるではないか、
日本刀で充分だと云ふ考へに到達せざるを得ない。私は、かういふのは単に比喩としていつてゐるのであつて、
日本は、日本刀だけで守れるとは限りませんから、五十歩百歩と云ふことを考へれば、たとへ非核ミサイルを
持つても、地対地ミサイルを持つても、地対空ミサイルを持つても、核でないから日本刀と同じことなのです。
全く同じことなのです。それならば日本刀の原理といふものを復活しなければ、どうしたつて防衛問題の根本的な
ものは出てこないんです。(中略)使へる武器だけを持つてゐるのは日本の利点だと考へなければいけない。
(中略)そしてここにつまり武士と武器といふものを、武士と魂とを結びつけることができなければ、日本の
防衛体制は全く空虚なものになつてしまふ、といふところが私の考へてゐる最終的のところです。

三島由紀夫「武士道と軍国主義」より

196 :名無しさん@また挑戦:2011/02/19(土) 11:13:04 ID:???
さて、武士といふものはどういふものか。私は、中曾根長官が就任されたとき、又聞きですから、軽率な判断は
慎みますが、自衛隊は一種の技術者集団である、そしていはゆる武士ではない、などと仰せられた様に仄聞して
をります。私の間違ひだつたら訂正致しますが、とんでもない話である。もし自衛隊が武士道精神を忘れて、
いたづらにコンピューターに頼り、いたづらに新しい武器の開発や、新しい兵器体系といふ玩具に飛びつくことに
よつてしか日本の防衛が考へられないやうになつたら、その体質において自衛隊には超近代軍隊といふものが持つ
非常な欠点が表はれる。それは軍の官僚化といふこと、次は軍の宣伝機関化だといふことだ。そしてかういふことは、
各国の軍隊で非常に困つてゐることでありますが、さらにもう一つ、軍の技術者化。この三つが問題です。(中略)
まず軍が技術者集団と化すと、そのテクノクラットは、このテクノクラシーの社会でなんら軍人といふ意味を
もたないのです。大会社の実験をやつてゐる技術者と軍隊で一番新しい兵器を開拓した技術者と、スピリットとして
ちつとも変わらないものになる。そこに産軍合同の理念があるわけです。

三島由紀夫「武士道と軍国主義」より

197 :名無しさん@また挑戦:2011/02/19(土) 11:16:15 ID:???
さて、武士といふものはどういふものか。私は、中曾根長官が就任されたとき、又聞きですから、軽率な判断は
慎みますが、自衛隊は一種の技術者集団である、そしていはゆる武士ではない、などと仰せられた様に仄聞して
をります。私の間違ひだつたら訂正致しますが、とんでもない話である。もし自衛隊が武士道精神を忘れて、
いたづらにコンピューターに頼り、いたづらに新しい武器の開発や、新しい兵器体系といふ玩具に飛びつくことに
よつてしか日本の防衛が考へられないやうになつたら、その体質において自衛隊には超近代軍隊といふものが持つ
非常な欠点が表はれる。それは軍の官僚化といふこと、次は軍の宣伝機関化だといふことだ。そしてかういふことは、
各国の軍隊で非常に困つてゐることでありますが、さらにもう一つ、軍の技術者化。この三つが問題です。(中略)
そのテクノクラットは、このテクノクラシーの社会でなんら軍人といふ意味をもたないのです。大会社の実験を
やつてゐる技術者と軍隊で一番新しい兵器を開拓した技術者と、スピリットとしてちつとも変わらないものになる。
そこに産軍合同の理念があるわけです。

三島由紀夫「武士道と軍国主義」より

198 :名無しさん@また挑戦:2011/02/19(土) 12:43:19 ID:???
もう一つは、軍のパブリシティといふもの、軍の秘密主義からなるたけ国民にパブリサイズすることとなれば、
軍の主張は必然的に大衆社会に追随することになりますから、いつまでたつても、軍といふものは、男性理念を
復活することができなくて、益々、おふくろ原理に追随しなければならない。もう一つ軍の官僚化といふことは、
軍が戦争しないうちに、あくまで、軍の秩序維持といふことに、頭を労してゐるうちに、シビリアンコントロールが
いきすぎて、軍の体質といふものが、野戦の部隊長といふものを生まなくなる。あくまでも、この静かな奇麗な
官僚機構の中の一環になつて、これは、政府には、非常に喜ばしい傾向かもしれませんが、武士としては、野性の
欠如した、非常に上官にペコペコするやうな、全く下らない人間が出来上る。そして、単なる戦争技術者になつて
一切スピリットが無くなる。このスピリットが無くなる空隙を狙つて、先に申し上げた共産勢力といふものは
自由自在に入つてくるんです。

三島由紀夫「武士道と軍国主義」より

199 :名無しさん@また挑戦:2011/02/20(日) 19:26:11.47 ID:???
(中略)
よく外国人の記者からいはれますが、私は、小さな会などをやつてゐますから、お前は日本に軍国主義が
復活するのを鼓吹してゐるのではないか、軍国主義を鼓吹するために、さういふ事をやつてゐるのではないか、
といろいろいはれるんです。私はいつも、それについて申しますのは、武士道と軍国主義といふものを、一緒に
扱つたのがアメリカの占領政策の一番悪い処である。アメリカ人は、日本が負けた時に、武士道精神をもつて、
日本の武士道に対する敬意だけを残すといふことを遂にしなかつたではないか。彼等は、日本の武士道と日本の
末期的な軍国主義とを全く同一視した。そのために、剣道もやらせなくなつた。そして、まあ一時は歌舞伎ですら、
非常にこの復讐劇や、侍の精神を鼓吹したやうな歌舞伎はやらせなくなつた。
彼等は、外国人だから、仕方がないけれども、日本の武士道といふものは、軍国主義と如何に背反して悲劇的な
結末にいたつたかといふことを、歴史的に無視したからだといふ風にいつも説明するのです。

三島由紀夫「武士道と軍国主義」より

200 :名無しさん@また挑戦:2011/02/20(日) 19:30:29.22 ID:???
私が外人に説明しますことは、乃木大将をもつて、日本の軍における、武士道といふものは、一応終つたんだ、
といふ風に説明するんです。(中略)私は、外人に極く概略的に説明しますことは、武士道と云ふものは、
セルフ・リスペクトと、セルフ・サクリファイスといふことが、そして、もう一つ、セルフ・レスポンシビリティー、
この三つが結びついたものが武士道である。そして、この一つが欠けても、武士道ではないのだ。もしセルフ・
リスペクトと、セルフ・レスポンシビリティーだけが結合すれば、下手すると、ナチスに使はれたアウシュビッツの
収容所長の様になるかもしれない。何故なら彼としても、自分自身に対する尊敬の念を持つてゐただらう。自分の
職務に対する責任を持つてゐただらう。しかしながら上層部の命令するとほりに四十万のユダヤ人を焚殺したでは
ないか。日本の武士道の尊いところは、それにセルフ・サクリファイスといふものがつくことである。この
セルフ・サクリファイスといふものがあるからこそ武士道なので、身を殺して仁をなすといふのが、武士道の
特長である。

三島由紀夫「武士道と軍国主義」より

201 :名無しさん@また挑戦:2011/02/21(月) 11:56:52.40 ID:???
そしてこの三つが、相俟つた時に、武士道といふものが、成り立つのだ、といふことを、外人に説明するんです。
ですから侵略主義とか軍国主義といふものは、武士道とは始めから無縁のものだ。武士道は、セルフ・リスペクトを
もつた人間が、自分の行動について最終的な責任を持ち、そして、しかもその責任を持つ場合には、自己を犠牲に
すること、一命を鴻毛の軽きに比するといふ気持が、武士道の権化で、これがないときには、武士道といふものはない。
ところが戦後の自衛隊にはこのセルフ・リスペクトといふものが常になかつた。また、セルフ・レスポンシビリティーは
あるかもしれないが、これも官僚的セルフ・レスポンシビリティーに墜してしまつたかたむきがある。第三に、
セルフ・サクリファイスについては、遂に教へられることがなかつた。といふのは、あくまでも人命尊重理念が、
先に立つてきたからであります。

三島由紀夫「武士道と軍国主義」より

202 :名無しさん@また挑戦:2011/02/21(月) 12:01:09.74 ID:???
(中略)
一旦終焉した武士道は、どういふ形で生き永らへたか。私は、軍閥といふものは、一朝一夕で成つたとは思ひません。
これは、やはり山県有朋以来の権道主義の政治家と軍人とが徐々に徐々に作りあげていつたものだと思ふのです。
その中では、セルフ・サクリファイスといふ理念は完全に失はれてしまつた。そして勿論、天皇の軍隊であり
ましたから、セルフ・リスペクトの点については欠ける処がなかつた。あるひは、セルフ・レスポンシビリティーの
点についても立派だつたでありませう。しかし、軍の主流は徐々に徐々に、その権力主義と、ファシズムを
受け入れる体制になりつつあつた。そして、全くこの頑固なセルフ・サクリファイスに生きようとする武士は、
段々辺境へ追ひやられてしまつた、まあ、いい例が、ノモンハン事件ですけれども、ノモンハン事件で、
参謀本部がとつた態度は、完全に責任逃れで、現地部隊長を皆自決させて、自分達だけが、一切責任を逃れて、
出世しようとしか考へなかつた。セルフ・サクリファイスの最後の花は、いふまでもなく特攻隊でありました。

三島由紀夫「武士道と軍国主義」より

203 :名無しさん@また挑戦:2011/02/21(月) 12:05:29.36 ID:???
軍のこれに対して、私に言はせれば、二・二六事件その他の皇道派が、根本的に改革しようとして、失敗したもので
ありますが、結局勝ちをしめた統制派といふものが、一部いはゆる革新官僚と結びつき、しかもこの革新官僚は、
左翼の前歴がある人が沢山あつた。かういふものと軍のいはゆる統制派的なものと、そこに西欧派の理念としての
ファシズムが結びついて、まあ、昭和の軍国主義といふものが、昭和十二年以降に始めて出てきたんだと外人に
説明するんです。私は、日本の軍国主義といふものは、日本の近代化、日本の工業化、すべてと同じ次元のものだ、
全部外国から学んだものだ、と外国人にいふんです。純粋な日本では、さういふものはなかつた。日本の武士とは
さういふものではなかつた。君等がそれを教へたんではないか、(中略)あくまで君等、ヨーロッパ文明の中にある
過酷さが、我々日本を毒したのではないか、我々日本の純粋の武士の魂の中にさういふものはなかつたんだと
いふことを口を極めて説くのであります。

三島由紀夫「武士道と軍国主義」より

204 :名無しさん@また挑戦:2011/02/21(月) 12:08:59.70 ID:???
軍国主義といふものが、実に、日本の明治以降、動いてきた歴史の中で、非常に、皮肉なものがある。といふのは、
我々は外国からいい影響だけ受けてゐたと思つたのは、非常な間違ひであつた。明治以降の日本が今日まで
やつてきた西欧化の努力によつて、近代国家になつたのであるけれども、その全く同じ理念が、軍国主義を
もたらしたのである。ここをよく考へないと日本の近代感覚といふものの一番大きな問題点は掴めない。日本は、
西洋から、善と悪の二つ、なにもかも全部採り入れた。その結果、こんどの敗戦が招来されたと私はみるのであります。
そして、軍国主義のいはゆる進展と同時に、日本の戦略、戦術の上にアジア的な特質が失はれていつたのは大きい。
といふのは、今のベトナム戦争でも判るやうに、アジア的風土の中で、非常にアジア的な非合理な方法によつて、
ゲリラ戦を展開して、敵を悩ましてゐる。日本は、かういふことを一切しないで、正に外国から得た武器によつて、
西洋の武器をもつて、西洋と闘はうとした。

三島由紀夫「武士道と軍国主義」より

205 :名無しさん@また挑戦:2011/02/21(月) 12:12:35.79 ID:???
これがまづ戦略的に大きな問題だつたのではないか。これは、私は大東亜戦争の敗因の一つではないかとさへ
思つてゐるわけです。参謀本部の頭の中に近代化された頭脳の中にその悪が潜んでゐた。 我々は、もう一つ、
ここで民族精神に振り返つてみて、日本とはなんぞや、武器と魂といふものを日本人は如何に結びつけたか、
そこに立ち返らなければ、日本といふものの防衛の基本的なものは出てこない。そのために、私は、終始一貫した
憲法改正論者で、それが、物理的に可能であるのか、不可能であるのか、そんなことは、おかまひなしに、
一介の人間としてそれのみをいつてゐるのは、決してそれによつて、日本を軍国支配しようとするつもりはないのだ。
あくまでそれによつて日本の魂を正して、そこに日本の防衛問題にとつて最も基本的な問題、もつと大きくいへば、
日本と西洋社会との問題、日本のカルチャーと、西洋のシビライゼーションとの対決の問題、これが、底にひそんで
ゐることをいひたいんだといふことです。

三島由紀夫「武士道と軍国主義」より

206 :名無しさん@また挑戦:2011/02/23(水) 20:53:39.80 ID:???
二・二六事件によつて青年将校に裏切られたことも、北一輝は初めから覚悟してゐたことかもしれない。日蓮宗の
予言による決行日時の決定や、さまざまな神秘主義のひらめきは、フランス革命当時のジャコバン党員が、
フリー・メーソンのご託宣を仰ぐためにスコットランドの本部に参詣したのと大した変りはない。革命には
神秘主義がつきものであり、人間の心情の中で、あるパッションを呼び起こす最も激しい内的衝動は、同時に
現実打破と現実拒否の冷厳な、ある場合には冷酷きはまる精神と同居してゐるのである。
(中略)
遠くチェ・ゲバラの姿を思ひ見るまでもなく、革命家は、北一輝のやうに青年将校に裏切られ、信頼する部下に
裏切られなければならない。裏切られるといふことは、何かを改革しようとすることの、ほとんど楯の両面である。
なぜならその革命の理想像を現実が絶えず裏切つていく過程に於て、人間の裏切りは、そのやうな現実の裏切りの
一つの態様にすぎないからである。

三島由紀夫「北一輝論――『日本改造法案大綱』を中心として」より

207 :名無しさん@また挑戦:2011/02/23(水) 20:56:53.50 ID:???
革命は厳しいビジョンと現実との争ひであるが、その争ひの過程に身を投じた人間は、ほんたうの意味の人間の
信頼と繋りといふものの夢からは、覚めてゐなければならないからである。一方では、信頼と同志的結合に
生きた人間は、論理的指導と戦術的指導とを退けて、自ら最も愚かな結果に陥ることをものともせず、銃を
持つて立上り、死刑場への道を真つ直ぐに歩むべきなのであつた。もし、北一輝に悲劇があるとすれば、覚めて
ゐたことであり、覚めてゐたことそのことが、場合によつては行動の原動力になるといふことであり、これこそ
歴史と人間精神の皮肉である。そしてもし、どこかに覚めてゐる者がゐなければ、人間の最も陶酔に充ちた行動、
人間の最も盲目的行動も行なはれないといふことは、文学と人間の問題について深い示唆を与へる。その覚めて
ゐる人間のゐる場所がどこかにあるのだ。もし、時代が嵐に包まれ、血が嵐を呼び、もし、世間全部が理性を
没却したと見えるならば、それはどこかに理性が存在してゐることの、これ以上はない確かな証明でしかないのである。

三島由紀夫「北一輝論――『日本改造法案大綱』を中心として」より

208 :名無しさん@また挑戦:2011/02/25(金) 13:32:13.00 ID:???
庭はどこかで終る。庭には必ず果てがある。これは王者にとつては、たしかに不吉な予感である。
空間的支配の終末は、統治の終末に他ならないからだ。ヴェルサイユ宮の庭や、これに類似した庭を見るたびに、
私は日本の、王者の庭ですらはるかに規模の小さい圧縮された庭、例外的に壮大な修学院離宮ですら借景に
たよつてゐるやうな庭の持つ意味を、考へずにはゐられない。おそらく日本の庭の持つ秘密は、「終らない庭」
「果てしのない庭」の発明にあつて、それは時間の流れを庭に導入したことによるのではないか。
仙洞御所の庭にも、あの岬の石組ひとつですら、空間支配よりも時間の導入の味はひがあることは前に述べた。
それから何よりも、あの幾多の橋である。水と橋とは、日本の庭では、流れ来り流れ去るものの二つの要素で、
地上の径をゆく者は橋を渡らねばならず、水は又、橋の下をくぐつて流れなければならぬ。

三島由紀夫「『仙洞御所』序文」より

209 :名無しさん@また挑戦:2011/02/25(金) 13:34:31.50 ID:???
橋は、西洋式庭園でよく使はれる庭へひろびろと展開する大階段とは、いかにも対蹠的な意味を担つてゐる。
大階段は空間を命令し押しひろげるが、橋は必ず此岸から彼岸へ渡すのであり、しかも日本の庭園の橋は、
どちらが此岸でありどちらが彼岸であるとも規定しないから、庭をめぐる時間は従つて可逆性を持つことになる。
時間がとらへられると共に、時間の不可逆性が否定されるのである。すなはち、われわれはその橋を渡つて、
未来へゆくこともでき、過去へ立ち戻ることもでき、しかも橋を央にして、未来と過去とはいつでも交換可能な
ものとなるのだ。
西洋の庭にも、空間支配と空間離脱の、二つの相矛盾する傾向はあるけれど、離脱する方向は一方的であり、
憧憬は不可視のものへ向ひ、波打つバロックのリズムは、つひに到達しえないものへの憧憬を歌つて終る。
しかし日本の庭は、離脱して、又やすやすと帰つて来るのである。

三島由紀夫「『仙洞御所』序文」より

210 :名無しさん@また挑戦:2011/02/25(金) 13:41:27.83 ID:???
日本の庭をめぐつて、一つの橋にさしかかるとき、われわれはこの庭を歩みながら尋めゆくものが、何だらうかと
考へるうちに、しらぬ間に足は橋を渡つてゐて、
「ああ、自分は記憶を求めてゐるのだな」
と気がつくことがある。そのとき記憶は、橋の彼方の薮かげに、たとへば一輪の萎んだ残花のやうに、きつと
身をひそめてゐるにちがひないと感じられる。
しかし、又この喜びは裏切られる。自分はたしかに庭を奥深く進んで行つて、暗い記憶に行き当る筈であつたのに、
ひとたび橋を渡ると、そこには思ひがけない明るい展望がひらけ、自分は未来へ、未知へと踏み入つてゐることに
気づくからだ。

三島由紀夫「『仙洞御所』序文」より

211 :名無しさん@また挑戦:2011/02/25(金) 13:43:14.35 ID:???
かうして、庭は果てしのない、決して終らない庭になる。見られた庭は、見返す庭になり、観照の庭は行動の
庭になり、又、その逆転がただちにつづく。庭にひたつて、庭を一つの道行としか感じなかつた心が、いつのまにか、
ある一点で、自分はまぎれもなく外側から庭を見てゐる存在にすぎないと気がつくのである。
われわれは音楽を体験するやうに、生を体験するやうに、日本の庭を体験することができる。又、生をあざむかれる
やうに、日本の庭にあざむかれることができる。西洋の庭は決して体験できない。それはすでに個々人の体験の
余地のない隅々まで予定され解析された一体系なのである。ヴェルサイユの庭を見れば、幾何学上の定理の
美しさを知るであらう。

三島由紀夫「『仙洞御所』序文」より

212 :名無しさん@また挑戦:2011/02/25(金) 13:48:07.43 ID:???
……それにしても、仙洞御所を一時間あまり拝観して、辞去するとき、私ははなはだ畏れ多いことながら、
その庭が自分の所有に属さないことを喜んだ。いづれ又、紅葉の季節や、花の季節に、私は拝観を願ひ出て、
仙洞御所を再訪することもあるだらう。しかし、この御庭を愛すれば愛するだけ、私はそれが決して自分の所有に
属さず、訪れない間は、京都へ行けば必ずそれがそこにあるといふ、存在の確実さだけを心に保つことができる
のを喜ぶ。
それといふのも、所有といふことの不幸と味気なさを、私は我身で味はつたのは貧しい例でしかないが、人の
身の上にしみじみと見て来たからである。或るフランスの大富豪の貴族のシャトオに数日滞在してゐたときのこと、
私は次々とあらはれては去る来客を、主人夫妻が、ほぼ同じ順序でもてなすのを見た。(中略)
自分のシャトオにゐる間、主人夫妻は、いはば、案内役と司会者の役割を毎日つとめて、倦きもせずに、ただ
次々と新らしい客の讃嘆の声だけを餌にして生きてゐた。これを見てゐて、私はつくづく、所有する者の不幸と
味気なさを感じたのである。

三島由紀夫「『仙洞御所』序文」より

213 :名無しさん@また挑戦:2011/02/25(金) 13:52:58.37 ID:???
庭も亦所有を前提としてゐる。他人に思ふまま蹂躙された庭は、公園であつてもはや庭ではない。しかし
厳密に言ふと、所有者にとつても、それは徐々に「庭」であることをやめるのである。なぜなら、見倦きた庭は、
庭であることから、何かただ、習慣のやうなものになつて、われわれの存在の垢とまじり合つてしまふからである。
四季の変化からなるたけ影響を受けぬやうに作られた幾何学的な庭はもちろん日本の庭の中でも竜安寺の石庭の
やうな抽象的な庭は、所有者にとつては、忘れられた厖大な蔵書の一部のやうになつてゆくにちがひない。
ある庭を完全に所有すまいとすれば、その庭のもつ時間の永遠性が、いつも喚起的であるやうに努めねばならない。
理想的な庭とは、終らない庭、果てしのない庭であると共に、何か不断に遁走してゆく庭であることが必要であらう。
われわれの所有をいつもすりぬけようとして、たえず彼方へと遁れ去つてゆく庭、蝶のやうに一瞬の影を宿して
飛び去つてゆくやうな庭、しかもそこに必ず存在することがどこかで保証されてゐるやうな庭、……さういふ庭とは
何であらうか。

三島由紀夫「『仙洞御所』序文」より

214 :名無しさん@また挑戦:2011/02/25(金) 13:56:15.75 ID:???
私はここで又、仙洞御所の庭に思ひ当る。なぜならその御庭は、私の所有でないと同時に、今はどなたの住家でも
ないからである。しかもそれは確実に所有されてをり、決して万人の公園ではない。もしわれわれが理想的な庭を
持たうとするならば、それを終らない庭、果てしのない庭、しかも不断に遁走する庭、蝶のやうに飛び去る庭に
しようとするならば、われわれにできる最上の事、もつとも賢明な方法は、所有者がある日姿を消してしまふ
ことではないだらうか。庭に飛び去る蝶の特徴を与へようとするならば、所有者がむしろ、飛び去る蝶に化身すれば
よいのではないか。生はつかのまであり、庭は永遠になる。そして又、庭はつかのまであり、生は永遠になる。……
そのとき仙洞御所の焼亡は、この御庭にとつて、何かきはめて象徴的な事件のやうに思はれるのである。

三島由紀夫「『仙洞御所』序文」より

215 :名無しさん@また挑戦:2011/02/25(金) 13:59:53.21 ID:???
生きてゐる芸術家とは、どういふ姿になることが、もつとも好ましく望ましいか。
私は或る作家の作品を決して読まない。それは、その作家がきらひだからではない。その作家の作品を軽んずる
からではない。それとは反対に、私は彼の作家としての良心を敬重してをり、作品を書く態度のきびしさを
尊敬し、作品の示す芸のこまやかさと芸格の高さにいつも感服してゐる。それなのに、私は彼の作品を読まうと
しないのである。
何故かといふのに、私が読まなくても、彼は円熟した立派な作品を書きつづけてゐることがわかりきつてゐる
からである。さういふ作品が彼を囲んで、ますます彼の芸境を高めてゐることを知つてゐるからである。
さうなつた作家は、すでに名園である。いはば仙洞御所の御庭である。行かなくても、そこへ行けば、その美に
搏たれることがわかつてをり、見なくても、そこにその疑ひやうのない美が存在してゐることがわかつてゐるからだ。
だが、私は、自分の作品の、未完成、雑駁を百も承知でゐながら、生きてゐるあひだは、決してさういふ千古の
名園のやうな作家になりたいとは望まないのである。

三島由紀夫「『仙洞御所』序文」より

216 :名無しさん@また挑戦:2011/02/28(月) 12:47:16.93 ID:???
映画「憂国」を見た人、いや、それよりも、見ない人が、一様に抱く疑問は、なぜ作者自身が主演したのか、
といふことであるらしい。これが最大の謎のやうに思つてゐる人もあるらしい。そこで考へられるのは、作者の
ナルシシズムだとか、マゾヒズムだとか、ぼろぼろに使ひ古された精神分析用語を持ち出して、もののみごとに
謎を解明したつもりになることである。しかしこれでは何も謎は解明されない。精神分析学の発明以来、
精神分析学を手段として利用しない芸術ジャンルは、ほとんどないと云つても過言ではないのであるから、
上のやうな言ひ方は、単なる芸術の同義反復にすぎない。
(中略)
さて、私は俳優、殊に映画俳優といふもののふしぎに魅せられてゐた。正直に言つて、これは俳優芸術のうちでも、
もつとも自発性の薄い分野である。ある意味では、影の影、幻の幻である。しかし、自発性、意志性が薄くなるに
従つて、存在性が重要性を増してくる。彼が影であることと、彼が確乎とした存在であることは、毫も矛盾しない。

三島由紀夫「『憂国』の謎」より

217 :名無しさん@また挑戦:2011/02/28(月) 12:50:18.01 ID:???
まづ彼が、目に見えるモノとしての存在感と「それらしさ」に充ちあふれてゐなければ、影の影、幻の幻としての、
自律性を持ちえないのである。演技はその先の問題であつて、映画ではミス・キャストがいかに致命的であるかを
考へれば、思ひ半ばにすぎるものがあらう。
一方、私は小説家であり、劇作家である。小説家や劇作家は、精神、意志、知性、その他の自発性を第一条件とする。
もちろんこれには感受性が二次的に必要であるが、彼の仕事には、何よりもまづ、そこにモノを存在せしめるといふ
意志の自発性が必要である。
しかし、人間といふものは奇妙なもので、自発性、意志性が濃くなるに従つて、単なる存在性は稀薄になつてくる。
もちろん、私が、一般論として、人間の自発性、意志性が濃くなるにつれて、存在性が薄くなると云はうとして
ゐるのではない。たとへば、政治家の場合は、ナポレオンやヒトラーなど、その自発性、意志性の濃度に従つて、
存在性も濃くなつてゐた、といへるであらう。

三島由紀夫「『憂国』の謎」より

218 :名無しさん@また挑戦:2011/02/28(月) 12:54:44.44 ID:???
が、芸術家の場合には、作品といふものがある。芸術家は、ペリカンが自分の血で子を養ふと云はれるやうに、
自分の血で作品の存在性をあがなふ。彼が作品といふモノを存在せしめるにつれて、彼は実は、自分の存在性を
作品へ委譲してゐるのである。
ここに芸術家の存在性への飢渇がはじまる。私は心魂にしみて、この飢渇を味はつた人間だと思つてゐる。
さういふ私が、存在性だけに、その八十パーセントがかかつてゐる映画俳優といふふしぎなモノに、なり代らうと
する欲求は自然であらう。
いはば私は、不在証明(アリバイ)を作らうとしたのではなく、その逆の、存在証明をしたい、といふ欲求に
かられたのである。だから映画「憂国」は、私の不在証明を証明しようとしたものの如く見えるだらうが、実は、
その逆、私の存在証明をしようとしたものだ。そして、さういふときの「私」とは、世間の既成概念にとぢこめ
られてゐる小説家としての「私」ではなく、もつと原質的な、もつと始源的な「私」であることは、いふまでもない。

三島由紀夫「『憂国』の謎」より

219 :名無しさん@また挑戦:2011/02/28(月) 13:00:44.48 ID:???
ところで、映画俳優とは、選ばれる存在である。自分で自分を選ぶとはどういふことか? そこには論理的矛盾は
ないか?
選ぶ者と選ばれる者とを一身に兼ねることは、ボオドレエルではないが、「死刑囚と死刑執行人を一身に兼ねる」
ことに等しい。その成否は一に、画面の「私」が、作中人物としての自明の存在感を持ちうるか否かにかかつてゐる。
それは危険な賭である。自己を客観的に見ようとするときに起りがちな誤算は、誰しも免かれないにしても、
この場合は、それが最小限でなければならない。
画面の「武山信二中尉」の存在に、ほんの少しでも「小説家三島由紀夫」の影が射してゐたら、私の企図はすべて
失敗であり、物語の仮構性は崩れ、作品の世界は、床へ落ちたコップのやうに粉々になつてしまふだらう。
この危険が私に与へた魅惑、スリム、サスペンスは限りがなかつた。私が、影の影、幻の幻としての存在感を
持ちうるか否かは、私にとつての、人生の究極の夢に関はつてゐた。
しかも、この賭において、世間はすべて私の敵へ賭けてゐるのである。
さて、あとは、御覧になつた観客各位が判定を下して下さるのみである。

三島由紀夫「『憂国』の謎」より

220 :名無しさん@また挑戦:2011/03/01(火) 13:05:27.72 ID:???
私はごく最近、「諸君!」七月号で、貴兄と高坂正尭氏の対談「自民党ははたして政党なのか」を読みました。
そして、はたと、これは士道にもとるのではないかといふ印象が私を搏ちました。私は何も自民党の一員では
ありませんし、この政党には根本的疑問を抱いてゐます。しかし社会党だらうと、民社党だらうと、士道といふ
点では同じだといふのが私の考へです。
実はこの対談の内容、殊に貴兄の政治的意見については、自民党のあいまいな欺瞞的性格、フランス人の記者が
いみじくも言つたやうに「単独政権ではなくそれ自体が連立政権」に他ならない性格、又、核防条約に対する態度、
等、ほとんど同感の意を表せざるをえないことばかりです。
貴兄に言はせれば、三島が士道だなどと何を言ふか、士道がないからこそ多数を擁して存立してゐる自民党なのだ、
といふことになるかもしれません。しかし、「ウエスト・サイド・ストーリイ」の不良少年の歌ではないが、
すべてを社会の罪とし、自分らの非行をも社会学的病気だと定義するとき、個人の責任と決断は無限に融解してしまふ。

三島由紀夫「士道について――石原慎太郎氏への公開状」より

221 :名無しさん@また挑戦:2011/03/01(火) 13:11:40.62 ID:???
現代社会自体が、自民党のこの無性格と照応してゐることは、そこにこそ自民党の存立の条件があるといへるで
せうし、坂本二郎氏などはそんな意見のやうです。
しかし、貴兄が自民党に入られたのは、そのやうな性格を破砕するためだつた筈です。私はこの対談を二度読み
返してみて、貴兄がさういふ反党的(!)言辞を弄されること自体が、中共使節の古井氏のおどろくべき反党的
言辞までも、事もなげに併呑する自民党的体質のお蔭を蒙つてゐる、といふ喜劇的事実に気づかざるをえませんでした。
貴兄が自民党の参院議員でありながら、ここまで自民党をボロクソに仰言る、ああ石原も偉いものだ、一方それを
笑つて眺めてゐる佐藤総理も偉いものだ。いやはや。これこそ正に、貴兄が攻撃される自民党の、「政党といふ
ものの本体は、欺瞞でしかないといふことを、政党としての出発点から自分にいひ聞かせてゐるやうなところ」
そのものではありませんか。

三島由紀夫「士道について――石原慎太郎氏への公開状」より

222 :名無しさん@また挑戦:2011/03/01(火) 13:15:20.34 ID:???
私の言ひたいのは、内部批判といふことをする精神の姿勢の問題なのです。この点では磯田光一氏のいふやうに、
少々スターリニスト的側面を持つ私は、小うるさいことを言ひます。党派に属するといふことは、(それが
どんなに堕落した党派であらうと)、わが身に一つのケヂメをつけ、自分の自由の一部をはつきり放棄することだ
と私は考へます。
なるほど言論は自由です。行動に移されない言論なら、無差別に容認され、しかも大衆社会化のおかげで、
赤も黒も等しなみにかきまぜられ、結局、あらゆる言論は、無害無効無益なものとなつてゐるのが現況です。
ジャーナリズムの舞台で颯爽たる発言をして、一夕の興を添へることは、何も政治家にならなくても、われわれで
十分できることです。もちろん貴兄が政治の実際面になかなか携はれぬ欲求不満から、言論の世界で憂さ晴らしを
されてゐるといふ心情もわからぬではありません。

三島由紀夫「士道について――石原慎太郎氏への公開状」より

223 :名無しさん@また挑戦:2011/03/01(火) 13:47:53.02 ID:???
では、何のために貴兄は政界へ入られたか? 貴兄を都知事候補にすることに、ほとんどの自民党議員が反対し、
年功序列が狂ふのを心配してゐる、と貴兄は言はれるが、もともと文壇のやうな陰湿な女性的世界をぬけ出して、
権力争奪と憎悪と復讐が露骨に横行する政界に足を踏み入れた貴兄にとつては、そんなことは覚悟の前であつた
筈です。
私は貴兄のみでなく、世間全般に漂ふ風潮、内部批判といふことをあたかも手柄のやうにのびやかにやる風潮に
怒つてゐるのです。貴兄の言葉にも苦渋がなさすぎます。男子の言としては軽すぎます。
昔の武士は、藩に不平があれば諫死しました。さもなければ黙つて耐へました。何ものかに属する、とはさういふ
ことです。もともと自由な人間が、何ものかに属して、美しくなるか醜くなるかの境目は、この危ない一点にしか
ありません。
私は政治のダイナミズムとは、政治的権威と道徳的権威の闘争だと考へる者です。これは力と道理の闘争だと
考へてもよいでせう。

三島由紀夫「士道について――石原慎太郎氏への公開状」より

224 :名無しさん@また挑戦:2011/03/01(火) 13:51:55.64 ID:???
この二つはめつたに一致することがないから相争ふのだし、争つた結果は後者の敗北に決つてゐますが、歴史が
永い歳月をかけてその勝敗を逆転させるのだ、と信ずる者です。もちろん楽天的な貴兄の理想は、この力と道理を
自らの手で一致させるところにあるのでせうし、悲観的な小生の行蔵は、道理の開顕にしかありません。しかし
今のところ貴兄の言説には、悲しいかな、その政治的権威も道徳的権威も、二つながら欠けてゐます。貴兄に
言はせれば、すべては自民党が悪いのでせうが、どうもこの欠如は、貴兄のケヂメを軽んずる姿勢に由来する
やうに思へてなりません。W・H・オーデンは、「第二の世界」の中で、「文学者が真実を言うために一身を
危険にさらしているという事実が、彼に道徳的権威を与える」と言つてゐますが、これは政治家でも同じことです。
「士道すでにみちたる上は、節によるこそよけれ」と、斎藤正謙が「士道要論」で言つてゐる「士節」とは、
この道徳的権威の裏附をなすものでもありませう。

三島由紀夫「士道について――石原慎太郎氏への公開状」より

225 :名無しさん@また挑戦:2011/03/01(火) 19:45:51.97 ID:???
柳田国男氏の「遠野物語」は、明治四十三年に世に出た、日本民俗学の発祥の記念塔ともいふべき名高い名著で
あるが、私は永年これを文学として読んできた。殊に何回よみ返したかわからないのは、その序文である。
名文であるのみではなく、氏の若き日の抒情と哀傷がにじんでゐる。魂の故郷へ人々の心を拉し去る詩的な力に
あふれてゐる。
(中略)
この一章の、
「茲にのみは軽く塵たち紅き物聊(いささ)かひらめきて……」
といふ、旅人の旅情の目に映じた天神山の祭りの遠景は、ある不測の静けさで読者の心を充たす。不測とは、
そのとき、われわれの目に、思ひもかけぬ過去世の一断面が垣間見られ、遠い祭りを見る目と、われわれ自身の
深層の集合的無意識をのぞく目とが、――一定の空間と無限の時間とが――、交叉し結ばれる像が現出するからである。
(中略)
柳田氏の学問的良心は疑ひやうがないから、ここに収められた無数の挿話は、ファクトとしての客観性に於て、
間然するところがない。これがこの本のふしぎなところである。

三島由紀夫「柳田国男『遠野物語』――名著再発見」より

226 :名無しさん@また挑戦:2011/03/01(火) 19:49:50.82 ID:???
著者は採訪された話について何らの解釈を加へない。従つて、これはいはば、民俗学の原料集積所であり、
材木置き場である。しかしその材木の切り方、揃へ方、重ね方は、絶妙な熟練した木こりの手に成つたものである。
データそのものであるが、同時に文学だといふふしぎな事情が生ずる。すなはち、どの話も、真実性、信憑性の
保証はないのに、そのやうに語られたことはたしかであるから、語り口、語られ方、その恐怖の態様、その感受性、
それらすべてがファクトになるのである。ファクトである限りでは学問の対象である。しかし、これらの原材料は、
一面から見れば、言葉以外の何ものでもない。言葉以外に何らたよるべきものはない。遠野といふ山村が
実在するのと同じ程度に、日本語といふものが実在し、伝承の手段として用ひられるのが言葉のみであれば、
すでに「文学」がそこに、軽く塵を立て、紅い物をいささかひらめかせて、それを一村の緑に映してゐるのである。

三島由紀夫「柳田国男『遠野物語』――名著再発見」より

227 :名無しさん@また挑戦:2011/03/01(火) 19:53:36.31 ID:???
さて私は、最近、吉本隆明氏の「共同幻想論」(河出書房新社)を読んで、「遠野物語」の新しい読み方を
教へられた。氏はこの著書の拠るべき原典を、「遠野物語」と「古事記」の二冊に限つてゐるのである。近代の
民間伝承と、古代のいはば壮麗化された民間伝承とを両端に据ゑ、人間の「自己幻想」と「対幻想」と「共同幻想」の
三つの柱を立てて、社会構成論の新体系を樹ててゐるのである。(中略)
さういへば、「遠野物語」には、無数の死がそつけなく語られてゐる。民俗学はその発祥からして屍臭の漂ふ
学問であつた。死と共同体をぬきにして、伝承を語ることはできない。このことは、近代現代文学の本質的孤立に
深い衝撃を与へるのである。
しかし、私はやはり「遠野物語」を、いつまでも学問的素人として、一つの文学として玩味することのはうを
選ぶであらう。ここには幾多の怖ろしい話が語られてゐる。これ以上はないほど簡潔に、真実の刃物が無造作に
抜き身で置かれてゐる。

三島由紀夫「柳田国男『遠野物語』――名著再発見」より

228 :名無しさん@また挑戦:2011/03/02(水) 11:49:59.97 ID:???
僕はどこにゐてもその場に相応しくない人間であるやうに思はれる。どこへ出掛けても僕といふ人間が、あるべきで
ない処にゐる存在のやうに思はれる。(中略)これは驕つた嘆きといふものだらうか。かういふ嘆きに低迷して
ゐるのは、僕の心構へが甘いからだらうか。真の芸術家は招かれざる客の嘆きを繰り返すべきではあるまい。
彼はむしろ自ら客を招くべきであらう。自分の立脚点をわきまへ、そこに立つて主人役たるべきであらう。
とはいへ、この居心地のわるさが多くの場合僕の作品の生れる契機となつてゐる。僕は偶々口に入つた異物に
対する不快よりも先に、口に入れられた異物自身の不快を知つてゐる。このことは却つて、ある時代に生きる
人々の不幸を知るより先に、ある時代それ自身の持つ不幸を直感せしめる捷径である。少くとも僕はさう信じたい。
――僕を招かれざる客として遇する時間と場所の更に奥・更に彼方に存するものと僕は不幸を頒ち合ひ、頒ち
合ふことによつて親近感を得ようと欲しもする。

平岡公威(三島由紀夫)22歳「招かれざる客」より

229 :名無しさん@また挑戦:2011/03/02(水) 11:55:29.69 ID:???
今我々がそれと対決を迫られてゐる戦後の茫々たる無秩序は、我々の好悪・理論・道徳的信念のよく左右しうる
ところではない。解釈は可能であり、依然として解決は不可能である。たゞ僕は招かれざる客としてかう直感する
自由をもつてゐる。「無秩序自身にとつて無秩序は不幸であるに相違ない」と。僕は時代が自身に不幸を
課したのだと思ふ。
そしてまた人間がこの期に及んでも抱いて離さないナルチスムスの凄惨さを考へる。人間は己が病毒を指摘される
ことによつても容易に己惚れる。この弱味につけこむ者が喝采を博するのは当然なことである。人間を人間から
放逐すること以外に、よき治療法は残されてゐないのではないかとさへ思はれる。それといふのも僕は戦争時代に
人間が人間を見失つたとは考へてゐないからだ。戦争時代には人は今よりももつと切なく、人間といふ最愛の者の
消息にひたすら耳を澄ましてゐたと知つてゐるからだ。

平岡公威(三島由紀夫)22歳「招かれざる客」より

230 :名無しさん@また挑戦:2011/03/02(水) 11:59:45.11 ID:???
然しナルチスムスの昂進は、地上に嘗てないほど孤独が繁殖してゆくのと正比例するやうである。ナルチスムスの
考察は孤独の考察に帰着するやうである。そのためにも僕は招かれざる客の冷め果てた目が自分に備はつてくるまで
待ちたいと念(ねが)ふ。その目を養ひ育てることが当為ではなくて義務だと感ずる。僕はその時人間関係を
フラスコの中、真空状態の中にとぢこめてみたい。心理の化学変化をしらべ、元素の周期律表のやうな、心理の
様式化と象徴化を完成したい。人間を一旦孤独といふ元素に還元し、いかに複雑微妙な結合を示す時も、その
元素の姿を見失はぬやうにしたい。かうして抽象化された熱情が、熱情本来の属性を悉く備へながら、たとへば
乾板の上に定着された焔の一瞬の姿のやうな、もはや身動きならぬ形をとるのが見たい。定着は、いひかへれば
表現は、瞬時の出来事であるべきである。何ものもとらへぬ瞬間と凡てをとらへる瞬間とは、同一の瞬間である筈だ。
物そのものでもなく固化した標本でもない生(芸術の対象としての)は、かうしてとらへられる他はない。

平岡公威(三島由紀夫)22歳「招かれざる客」より

231 :名無しさん@また挑戦:2011/03/02(水) 12:03:43.28 ID:???
(中略)(僕が好んで戯曲を読むのも)人間の孤独と、対話の絶望的な不可能とをあれほど直截に感じさせる型式は
ないからである。言葉による表現といふ行為もかくて一の戯曲的行為に他ならないとすれば文学は戯曲にその一つの
典型を見出すことができる。偉大なる戯曲がさうであるやうに、偉大な文学も亦、独白に他ならぬ。ゲエテが
「諸々の山頂に、安息ぞ在る」といふあの詩句をキッケルハーンの頂に書きしるした時、彼は独白者の運命を
予覚したのであつたらう。
しかしいかに孤独が深くとも、表現の力は自分の作品ひいては自分の存在が何ものかに叶つてゐると信ずることから
生れて来る。自由そのものの使命感である。では僕の使命は何か。僕を強ひて死にまで引摺つてゆくものが
それだとしか僕には言へない。そのものに対して僕がつねに無力でありただそれを待つことが出来るだけだとすれば、
その待つこと、その心設(こころまう)け自体が僕の使命だと言ふ外はあるまい。僕の使命は用意することである。

平岡公威(三島由紀夫)22歳「招かれざる客」より

232 :名無しさん@また挑戦:2011/03/02(水) 17:46:35.65 ID:???
○ あるところまでは共感が、そこからはおそろしい差別感、おそろしいエゴイズムが支配するのだつた。
私は悲しみのために色さへ蒼ざめ乍ら、自分の人との間に介在する塀の内側へ来て了ふのだつた。わたしは
その塀をどんなに悲しみ深くながめたらう。
しかしこのやうな、塀への愛情や憤怒や情熱は、君らの言葉では、それに当るものがない。君らはたゞ僕を
情熱なき人間と云つた。僕のマスクは君らの注文に応じてますます硬化した。僕の身悶えするやうな青春の苦悩が
君たちにはコレッポチもわからなかつた。
もし僕に子供が出来て、彼が天才の名にあこがれたら僕はどう云つて叱り、またいさめよう。彼にこんな暗い、
寂寞たる青春は与へたくない。
○ 天才がたゞその作物によつてのみ天才といはれるなら僕は明らかに天才でないだらう。天才がたゞ彼の
夭折によつてのみ天才といはれるなら、僕は尚天才ではないだろう。
しかし天才はたしかにある。それは僕である。それは凡人のあづかりしれぬ苦悩に昼となく夜となく悩みつゞける魂だ。
それは生れ乍ら悲劇の子だ。それは神の私生児だ。
○ 天才とは青春の虐殺者である。

平岡公威(三島由紀夫)推定20〜22歳「わが愛する人々への果し状」より

233 :名無しさん@また挑戦:2011/03/02(水) 17:50:25.01 ID:???
○ 私は悲しみのために色さへ蒼ざめ乍ら、自分の人との間に介在する塀の内側へ来て了ふのだつた。わたしは
その塀をどんなに悲しみ深くながめたらう。
しかしこのやうな、塀への愛情や憤怒や情熱は、君らの言葉では、それに当るものがない。君らはたゞ僕を
情熱なき人間と云つた。僕のマスクは君らの注文に応じてますます硬化した。僕の身悶えするやうな青春の苦悩が
君たちにはコレッポチもわからなかつた。
もし僕に子供が出来て、彼が天才の名にあこがれたら僕はどう云つて叱り、またいさめよう。彼にこんな暗い、
寂寞たる青春は与へたくない。
○ 天才がたゞその作物によつてのみ天才といはれるなら僕は明らかに天才でないだらう。天才がたゞ彼の
夭折によつてのみ天才といはれるなら、僕は尚天才ではないだろう。
しかし天才はたしかにある。それは僕である。それは凡人のあづかりしれぬ苦悩に昼となく夜となく悩みつゞける魂だ。
それは生れ乍ら悲劇の子だ。それは神の私生児だ。
○ 天才とは青春の虐殺者である。

平岡公威(三島由紀夫)推定20〜22歳「わが愛する人々への果し状」より

234 :名無しさん@また挑戦:2011/03/02(水) 19:58:44.96 ID:???
八十年の生涯を通じて、氏がほとんど自己の資質を見誤らなかつたといふことはおどろくべきことである。
横光利一氏のやうに、すぐれた才能と感受性に恵まれながら、自己の資質を何度か見誤つた作家のかたはらに置くと、
谷崎氏の明敏は、ほとんど神のやうに見える。
もし天才といふ言葉を、芸術的完成のみを基準にして定義するなら、「決して自己の資質を見誤らず、それを
信じつづけることのできる人」と定義できるであらうが、実は、この定義には循環論法が含まれてゐる。といふのは
それは、「天才とは自ら天才なりと信じ得る人である」といふのと同じことになつてしまふからである。コクトオが
面白いことを言つてゐる。「ヴィクトル・ユーゴオは、自分をヴィクトル・ユーゴオと信じた狂人だつた」
初期の作品「神童」(大正五年)において、谷崎氏はすでに、あらゆる知的教養に対する不信を表明したが、
この発見こそ、氏の思想の中軸をなすものの発見だつた。それは同時に、自己の資質の発見とそのマニフェストで
あつた。

三島由紀夫「谷崎潤一郎について」より

235 :名無しさん@また挑戦:2011/03/02(水) 20:11:54.99 ID:???
(中略)
氏は、自由の根拠にエロスを持つて来た。自分が縛られないといふことの根拠に、最も協力に自分が縛られるものを
持つて来た。ここに於て、断念すなはち自由の放棄と、解放すなはち自由の獲得とは、終局的に同一の意味を持ち、
かたがた、芸術制作上の倫理ともなるのである。芸術制作における言葉と文体の厳格性において、氏は稀に見る
精進を生涯つづけた。
エロス自体の性質といふものもある。サディスティックなエロスは批評に向いてゐるが、マゾヒスティックな
エロスは、つるつるした芸術的磨き上げに適してゐる。そして前者は束縛を厭うて形式を破壊し、感受性を
涸渇させる危険があるけれど、後者は愛する対象による束縛を愛して、感受性の永遠の潤沢を保障しうる。
理想的な作家は両者の混淆にあるのだらうが、どちらかに偏するなら、後者に偏したはうがいい。それにしても
谷崎氏のエロスの傾向は、前述の自由の問題の解決にもつとも好都合のものであつた。自己批評の達人であつた氏が、
このやうな自己の資質を、芸術制作に十二分に利用しなかつた筈はないのである。

三島由紀夫「谷崎潤一郎について」より

236 :名無しさん@また挑戦:2011/03/02(水) 20:17:34.37 ID:???
(中略)
仔細に見ると、これら(谷崎文学)の女性の悪は、女性が本来持つてゐる悪といふよりは、男によつて要請され
賦与された悪であり、ともすると、その悪とは、「男性の肉慾の投影」にすぎないのではないかと思はれるのである。
これを更につきつめると、(おそらく考へ過ぎの感を免かれまいが)、谷崎文学は見かけほど官能性の全的是認と
解放の文学でなく、谷崎氏の無意識の深所では、なほ古いストイックな心情が生きのびてゐて、それがすべての
肉慾を悪と見なし、その悪を、肉慾の対象である女の性格に投影させ、それによつて女をして、不必要に意地悪、
不必要に残酷たらしめ、以て主体たる男の肉慾の自罰の欲求を果さしめるといふメカニズムが働いてゐるやうに
さへ思はれる。すべてはこのメカニズムを円滑に運用し、所期の目的たる自罰を成功させるために、仕組まれた
ドラマではないのか? 女は単なるこのドラマの道具ではないのか?
しかし、道具であればあるほど、いよいよ美しく、いよいよ崇拝の対象であるべきで、少くともそのドラマの上では、
氏は女の肉体を崇拝することによつて、自分の肉慾を、自分の悪を崇拝し、以て「神童」の主題に対する永遠の
忠実を誓ふことになる。

三島由紀夫「谷崎潤一郎について」より

237 :名無しさん@また挑戦:2011/03/02(水) 20:22:35.29 ID:???
(中略)
「春琴抄」における佐助が自らの目を刺す行為は、微妙に「去勢」を暗示してゐるが、はじめから性の三昧境は、
そのやうな絶対的不能の愛の拝跪の裡に夢みられてゐた傾きがある。それなら老いは、それほど悲劇的な事態ではなく、
むしろ老い=死=ニルヴァナにこそ、性の三昧境への接近の道程があつたと考へられる。小説家としての谷崎氏の
長寿は、まことに芸術的必然性のある長寿であつた。この神童ははじめから、知的極北における夭折への道と、
反対の道を歩きだしてゐたからである。
(中略)
氏のエロス構造においては、性愛の主体は、おのれの目を突き、肉体をゼロへ近づければ近づけるほど、陶酔と
恍惚も増し、対象の美と豊盈と無情もいや増すのだつた。言ひかへれば、性愛の主体が、肉体を捨てて、性愛の
観念そのものに化身すればするほど、現前する美の純粋性は高まるのだつた。晩年の作品「鍵」にあらはれた
老いの主題は、佐助の行為の自然な延長線上にある。

三島由紀夫「谷崎潤一郎について」より

238 :名無しさん@また挑戦:2011/03/02(水) 20:25:59.47 ID:???
そして「瘋癩老人日記」において、この主題は絶頂に至るのであり、肉慾は仏足石の夢想の恍惚のうちに死へ
参入し、肉体は医師の冷厳な分析の下にゼロに立ちいたる。あの小説の結末の医師の記録を蛇足と考へる人は、
氏の肉体観念について誤解をしてゐるやうに思はれる。
女体を崇拝し、女の我儘を崇拝し、その反知性的な要素のすべてを崇拝することは、実は微妙に侮蔑と結びついてゐる。
氏の文学ほど、婦人解放の思想から遠いものはないのである。氏はもちろん婦人解放を否定する者ではない。
しかし氏にとつての関心は、婦人解放の結果、発達し、いきいきとした美をそなへるにいたつた女体だけだ。
エロスの言葉では、おそらく崇拝と侮蔑は同義語なのであらう。しかし氏の場合、この侮蔑の根拠である氏自身の
矜持は、いかなる性質のものであらうか。それは知的人間、見る人間、非肉体の矜りであらうか。それともただ、
男の矜りなのか。あるひは又、天才の矜りなのであらうか。

三島由紀夫「谷崎潤一郎について」より

239 :名無しさん@また挑戦:2011/03/02(水) 20:29:15.54 ID:???
(中略)
ここ(「蓼喰ふ虫」)には、性的関心がたとへ侮蔑と崇拝のアンビヴァレンツをゆれうごいてゐるとしても、
ひとたび性的無関心にとらはれたときの男は、どのやうな冷酷さに到達しうるかといふ見本がある。(中略)
世界の何ものも、このやうな性的冷淡の地獄に比べれば、歓びならぬものはなく、お祭ならぬものはない。
どうしても女は、谷崎氏にあの侮蔑と崇拝のドラマを作らせる要因として、活き、動き、笑つてゐなければならない。
さうでなければ、女一般などは何の意味もないのである。
女ならどんな女でも、そこに微妙な女性的世界を発見して、喜び、たのしんだ室生犀星のやうな作家に比較すると、
谷崎氏は決して、いはゆる女好きの作家ではない。一般的抽象的な女、かつ女一般、女全体は、氏に何ものも
夢みさせはしないし、女がただ女なるが故に、氏の幻想を培ふのではない。氏にとつては、女はあくまで、氏の好みに従つて美しく、
極度に性的関心を喚起しなければならず、そのとき正に、その女をめぐるあらゆるものがフェティッシュな光輝に
みちあふれ、そこに浄土を実現するのだ。

三島由紀夫「谷崎潤一郎について」より

240 :名無しさん@また挑戦:2011/03/05(土) 11:52:00.18 ID:???
女がひとり鏡に向つて、永々とお化粧をし、いい洋服を着て、いいアクセサリーをつけて、いよいよお出ましとなる。
そこで又仕上りを鏡で丹念にしらべる。……世間では、かういふのを、女のナルシシズムと呼んでをり、女の
第二の天性と信じてゐる。
しかし彼女は本当に、鏡の中に自分の顔を見てゐるのであらうか? 彼女が鏡の中に見てゐるのは、本当に
自分の姿なのであらうか? 私にはどうもそのへんがよくわからないのである。
私の見るところでは、「自然」は女に、彼女の本当の顔を見せないやうに見せないやうにと配慮してゐる。
その用意周到はおどろくばかりで、ここには定めし、自然がさうせざるをえなかつた理由がひそんでゐるに
ちがひない。さうとしか考へやうがないのである。

三島由紀夫「ナルシシズム論」より

241 :名無しさん@また挑戦:2011/03/05(土) 11:58:35.21 ID:???
女がひとり鏡に向つて、永々とお化粧をし、いい洋服を着て、いいアクセサリーをつけて、いよいよお出ましとなる。
そこで又仕上りを鏡で丹念にしらべる。……世間では、かういふのを、女のナルシシズムと呼んでをり、女の
第二の天性と信じてゐる。
しかし彼女は本当に、鏡の中に自分の顔を見てゐるのであらうか? 彼女が鏡の中に見てゐるのは、本当に
自分の姿なのであらうか? 私にはどうもそのへんがよくわからないのである。
私の見るところでは、「自然」は女に、彼女の本当の顔を見せないやうに見せないやうにと配慮してゐる。
その用意周到はおどろくばかりで、ここには定めし、自然がさうせざるをえなかつた理由がひそんでゐるに
ちがひない。さうとしか考へやうがないのである。
自意識といふものは全然男性的なもので、そこには精神と肉体の乖離が前提とされ、精神が肉体を離れてフラフラと
浮かれ出し、その浮かれ出した地点から、自分の肉体を客観的に眺め、又、自分の精神を以て自分の精神自体をも、
客観的に眺めるといふ離れ業を演じるのが、すなはち自意識である。

三島由紀夫「ナルシシズム論」より

242 :名無しさん@また挑戦:2011/03/05(土) 12:02:28.58 ID:???
ちろんこんな離れ業は、いつも巧く行くと限つたわけではないが、自意識とは、さういふ離れ業をともすると
演じようとする、精神の不可思議な衝動である、と定義してよからう。
しかるに、女の精神は、子宮が引きとどめる力によつて、男の精神ほど自由にふらふらと肉体を離れることが
できない。男には上部構造である頭脳と、下部構造である生殖器とが、全然関係のない別行動をとることも
できるけれど、女にはどうも、古代の爬虫類のやうに、頭と下半身と両方に脳があるらしいのである。脳と言つて
わるければ、女の精神を支配する中枢は二つあつて、一つは頭脳であり、もう一つは子宮であつて、この二つが
実に密接に共同して働くから、精神はいつも、この二つに両方から引つぱられてゐて、肉体から離脱できない。
ヒストリーの語源が子宮にあることは周知のとほりである。
簡単に言ふと、男性の精神構造は、一つの中心点をもつ円であり、女性の精神構造は二つの中心点をもつ楕円で
あるらしい。

三島由紀夫「ナルシシズム論」より

243 :名無しさん@また挑戦:2011/03/05(土) 12:06:08.56 ID:???
女の精神はかくて存在に帰着し、男の精神はともすると非在に帰着するが、自意識とは、非在に関する精神の、
もつとも生粋な、もつとも非在的なものである。
女の精神とて、もちろん自意識に似たものは持つことができる。しかし、自意識が自意識を生み、みるみる無数の
合せ鏡の生む鏡像のやうに増殖する、自意識の自己生殖は、決して女性のものではない。自意識が彼女を本当に
喰ひつぶすまでに行かないならば、それは結局、「擬自意識」の部類に属するだらう。女のもつ「自意識めいたもの」
には、肉体(子宮)といふ安全弁がついてをり、男の自意識のやうに、ブレーキが利かなくなつて暴走して、
崖から真逆様に顛落するといふやうな事態は起りえない。(さういふとき、奇妙にも、その男の自意識の暴走車は、
彼自身の自意識の海の中へ顛落するのであるが……)。

三島由紀夫「ナルシシズム論」より

244 :名無しさん@また挑戦:2011/03/05(土) 12:10:30.01 ID:???
ここではじめて、私には、自然が、女に対して、彼女の本当の顔を見せまい見せまいとしてゐるその配慮の理由が
呑み込めるやうに思ふ。それは明らかに生物学的要請であり、女の妊娠の責務を守るためであらう。
鏡とあんなにしよつちゆう深く附合つてゐる女が、みんな鏡の中へ投身して破滅してしまつたのでは、人類は
絶滅してしまふ。そこへ行くと、妊娠のつとめを持たない男はさうなつても一向構はない。水鏡に映るおのが
美貌に惚れ抜いて、水へ身を投げて死ぬナルシスが、決して女でなくて、男であることは、ギリシア人の知恵と
言へるであらう。ナルシスは、どうしても男でなければならないのである。
かくて、女たちが、鏡の中に見つめてゐる像が、彼女自身の姿でないことは、ほぼ確実になつた。自分でないものの
姿に見とれることを、ナルシシズムと呼ぶのは、言葉の誤用である。私見によれば、女にはナルシシズムは
存在しえないのである。

三島由紀夫「ナルシシズム論」より

245 :名無しさん@また挑戦:2011/03/05(土) 16:55:21.60 ID:???
女が自分のことを語るときの拙劣さには定評があり、どんなにえらい女でも、彼女が自分の正確な像をつかんで
ゐると感じられることはめつたにない。どんなに苦労し、どんなに世間智を積んでも、女は自分のこととなると
概して盲目で、不可避の愚かしさが、背中の糸屑みたいに必ずついてゐる。そして知的な女ほど、己惚れも
ひがみも病的にひどくなつてゐる場合が多い。彼女の理性にはえてして混濁したものがつきまとひ、論理は決して
泉の水のやうに明らかに澄み渡ることがない。どうしてであらうか? 私が女と議論することが死ぬほどきらひ
なのはそのためなのだ。
(中略)
精神が肉体から分離されなければ、そこに客観性といふものも生じえず、従つていかなる意味の自己批評も
生じえない。そして自己批評こそ、他に対する批評の唯一の基準であるから、そこには真の公正な批評が
成立しないことになる。女性の盲点はこのやうな自己批評の永遠の欠如であり、又、他に対する永遠の不公正な
批評癖である。

三島由紀夫「ナルシシズム論 二」より

246 :名無しさん@また挑戦:2011/03/05(土) 16:58:19.53 ID:???
「A子さんつて、自分のバカさにどうしても気がついてゐないのね」
といふ批評が成立するためには、さういふ御本人が自分のバカさに気がついてゐなければならない。しかし女が、
「ええ、どうせ私はバカだわよ」
と言ふときには、彼女は決して自分のバカさをみとめてゐないのである。それは、すなはち、「あなたのやうな
不公正な目から見れば、どうせ私はバカに見えるでせうけれど」といふ意味である。
「私つて目が小さいでせう」
と女に言はれて、
「ああ、小さいね」
と答へる男は、完全に嫌はれる。
もう少し思ひやりに富んだ男でも、同様に嫌はれる。それは、
「私つて鼻ペチャだから」
と言はれて、
「でも、とんがつた鼻より魅力があるよ」
と答へるやうな男である。
私がかうして徐々に、女性の内面的な顔から外面的な顔へと移行してゆくところに、注意していただきたい。
思ふにそこには確たる境界線がないのである。

三島由紀夫「ナルシシズム論 二」より

247 :名無しさん@また挑戦:2011/03/05(土) 17:03:44.47 ID:???
「私つてどうせバカだわよ」といふ言葉と「私つてどうせ不美人よ」といふ言葉との間の懸隔を、たとへば、
男の同じやうな発言、「俺はどうせバカなのさ」と「俺は二枚目ぢやないからな」といふ二つの言葉の間の懸隔と
比べてみれば、前者の懸隔はほとんどゼロに等しくなるであらう。つまり、男の発言には、自嘲のなかに必ず
アイロニーと批評が含まれるのが通例で、それが自意識の表徴なのである。
さつきも言つたやうに、女が「どうせ私つてバカだわよ」といふ場合、「あなたのやうな不公正な目から見れば、
どうせ私はバカに見えるでせうけれど」といふ風に、判断の主体が故意にぼやかされてゐる。判断の主体及び
基準が自分にあるかのやうに一応装はれてゐるが、実は、相手に半ば判断の主体が預けられてゐる。男が
「俺はどうせバカなのさ」といふときは、自分の判断によつて自分のバカさ加減が痛烈に意識されてゐるのと同時に、
自らがその判断の主体であつて、他人の判断はゆるさないといふ強烈な自負がある。

三島由紀夫「ナルシシズム論 二」より

248 :名無しさん@また挑戦:2011/03/05(土) 17:08:09.82 ID:???
次に、女が「私つてどうせ不美人よ」といふ場合は、判断の主体が故意にぼかされてゐる点において、「私つて
どうせバカだわよ」といふ場合と、ほとんど径庭がないが、男が「俺は二枚目ぢやないからな」といふときには、
明らかに、判断の主体は、痛恨を以て、遠い遠い、見えざる第三者の手に全的に預けられてゐるのである。
なぜなら男は、人間の顔、容姿等の外観は、もともと社会的な価値であつて、他人の判断によつてしか評価されない
といふ苦い知恵を、(自意識の鍛練によつて)、夙(はや)くから自得してゐるからである。ここに男の、
劣等感や優越感の早い形成が見られるので、男は比較対照による客観的価値判断を早くから身につけてしまふのである。

三島由紀夫「ナルシシズム論 二」より

249 :名無しさん@また挑戦:2011/03/05(土) 17:11:09.38 ID:???
もちろん男といへども、少女が最初の男に愛されてはじめて自分の美に目ざめるやうに、最初の女に愛されて
はじめて自分の魅力を知ることも多い。しかし、彼の内面性は、それによつて鼓舞され、あるひはそれによつて
歪められることがあつても、決して彼の外面性と一直線につながらないのである。
かくて、男が鏡を見てゐるとき、何を見てゐるかが明らかになる。すなはちそこに見てゐるものは、彼の顔、
彼の純粋な外面に他ならない。女のやうに、内面から外面へ、さらに、化粧によつて変容した第二の外面へ、
一つながりにつながる複雑なイマジネーションの複合としての顔ではない。彼は髭は剃るが、化粧をする必要はない。
このやうに、純粋な外面としての顔が鏡面に出現し、こちらから見る主体は、純粋自意識として作用するとき、
そこにはじめてナルシシズムが、ナルシスの神話の恋が成立するのである。

三島由紀夫「ナルシシズム論 二」より

250 :名無しさん@また挑戦:2011/03/05(土) 20:48:48.93 ID:???
鏡はそもそも、客観に奉仕するものなのであらうか? それとも主観に奉仕するものなのであらうか?
世にはさまざまな鏡がある。純粋客観としての鏡は、自意識の鏡であり、男の鏡である。純粋主観としての鏡は、
自意識の欠如した鏡であり、女の鏡である。前者はナルシシズムの鏡であり、後者は、化粧のための、変容の
ための鏡である。
自分の外面が自分であるといふ発見は、まづ一種の社会的発見であつた。そこに映つてゐる像こそ、正しく
自分自身でありながら、自意識とは劃然と分離された純粋存在であるといふ発見が、ナルシスの恋の端緒であつた。
もし鏡像と精神との間に、このやうに隔然たる分離がないならば、鏡像と意識、外面と内面とは一つながりの
ものとなり、そこには容易に妥協が生れ、馴れ合ひが生れ、つひには不自然な化粧が必要となるであらう。女の
友である鏡とはこのやうなものであり、鏡は女にとつては本質的に「油断ならない友」であり、男にとつては、
「敵あるひは恋人」である。

三島由紀夫「ナルシシズム論 三」より

251 :名無しさん@また挑戦:2011/03/05(土) 20:54:13.85 ID:???
鏡を敵として、一日中その顔を見ずにゐたければ、男にはそれも可能である。朝は、手さぐりで電気髭剃り器で
髭を剃り、鏡を見ずに顔を洗ひ、手さぐりでネクタイを締め、出勤の電車に乗ればよいのだ。
それではさういふ男が男らしい男かといへば、さうとも言ひきれないのである。自分の写真を見るのをきらひ、
鏡を見るのをきらひな男たちには、深いニューロティック(神経症的)な劣等感を持つた人間が多く、又その多くは、
別の知的優越感や社会的優越感で補償されてゐる。そしてこれらの優越感へのどんな些細な批評にも、ヒステリックな
反応を呈する場合が多い。鏡をきらふ男を、バンカラで豪傑肌の男と勘違ひすると、とんでもないまちがひに陥る。
彼らは、ただ、鏡を怖れてゐるのである。
もともと鏡は、純男性的世界の必需品であつた。むかしの海軍兵学校や機関学校には、階段の下に必ず大鏡があつて、
軍装の威儀を正すために用ひられた。ラフなプルオーヴァーのスウェーターをひつかぶるのとちがつて、端正な
軍装の、四角四面な外観を維持するためには、どうしても鏡が必要とされる。

三島由紀夫「ナルシシズム論 三」より

252 :名無しさん@また挑戦:2011/03/05(土) 20:59:34.10 ID:???
軍人の世界は、男性的外観が厳密に規定され、その外観によつて、内面の自意識を規正し、自意識の暴走を抑圧し、
以て、劃一化され単純化された自意識のエネルギーを、超自我(スーパー・エゴ)に従属せしめる世界である。
従つてそこは男にとつては、自意識の永遠の休暇が約束される世界なのだ。
しかし、外部から軍人の世界へあこがれる少年の心理には、明らかにナルシシズムが含まれてゐたことを、私は
戦時中の経験によつてよく知つてゐる。海軍士官の軍服と短剣にあこがれて、海軍兵学校へ入つた少年は数知れぬ
ほどをり、それによつて戦死した若者は、ナルシスの死を死んだのだつた。(中略)
そしてこの種の少年のナルシシズムは、英雄類型への同一化の傾向を強く持つてをり、ひいては彼自身が英雄と
なるための原動力となる。アレキサンダー大王は、少年時代から叙事詩中のアキレスにあこがれ、アキレスとの
同一化を策して、アレキサンダー大王その人になつたのであるが、彼のナルシシズムは後年まで色濃く残つてゐて、
決して自分の三十歳以上の肖像彫刻は作らせなかつた。

三島由紀夫「ナルシシズム論 三」より

253 :名無しさん@また挑戦:2011/03/06(日) 11:33:03.82 ID:???
私はナルシシズムが、決して偏奇な知的一傾向ではなく、おどろくほど普遍的な衝動であることを、ボディ・
ビルディングのジムで学んだ。そこには多くの鏡があるが、鏡の前は大てい混雑してをり首をさし出してネクタイを
結ぶのも容易ではなかつた。(中略)青年たちが、自分の育成した二頭膊筋や大胸筋を鏡に映して、その光り
かがやく新しい筋肉に、時の移るのも忘れて見とれてゐるのを見て、私はナルシシズムが、男のもつとも本源的な
衝動であり、今まで社会的羞恥心から隠蔽されてゐたにすぎないのではないか、といふ考へをいよいよ強めた。
ボディ・ビルディングは、いかにもナルシシズムの範例的形態である。その自己完結性にはあらゆる逆説が
ひそんでゐて、鏡に映る自分の新しい逞しい筋肉は、自分でありながら純粋な「他者」であり、考へられるかぎりの
純粋な外面であるのと同時に、しかもそれは自分の意志とエネルギーによつて創造したものなのである。

三島由紀夫「ナルシシズム論 三」より

254 :名無しさん@また挑戦:2011/03/06(日) 11:38:40.97 ID:???
鏡に映るその筋肉ほど、ナルシシズムにとつて、といふのは、男性の自意識にとつて、恰好な対象はあるまい。
しかし、そこには同時に、ナルシシズムの重要な一要素が欠如してゐる。ここには自意識が自意識を喰ひ、鏡が鏡を
蝕むところの、あの不可思議な自己生殖の運動と、それによつて起るナルシスの投身、すなはち自己破壊の衝動が、
ふしぎなほど欠けてゐる。ボディ・ビルダーたちは、大好きな家畜をいたわるやうに自分の逞しい肉体をいたはり、
ヴィタミンやカロリーの摂取に余念がない。男のナルシシズムには、死の衝動へ促す行動性が必要なのである。
そしてこのやうな行動的ナルシシズムは、鏡への投身による鏡の破壊をめざして、拳闘、レスリング、柔道、
剣道等の格技や、自動車レース、モーター・サイクルなどのスピードへ向ふのである。

三島由紀夫「ナルシシズム論 三」より

255 :名無しさん@また挑戦:2011/03/06(日) 11:43:09.54 ID:???
純粋ナルシシズムの本当の姿は、他人の賞讃を必要としないことであるが、ここには美のきはめて微妙できはめて
難しい問題がひそんでゐる。
なるほどナルシスは美しい。他人の目から見て美しいのである。そしてナルシスが、他人の目から見て客観的に
美しくなければ、あの神話の美しさ自体が成立しないのであるが、一方ナルシスが絶対に排他的であり、彼が
他人の賞讃を一切必要としないほど、自意識の客観性に絶大の自信を持つてゐなければ、同様に、あの神話は
意味がなくなつてしまふ。ナルシスは己れを知つてゐなければならず、自己批評の達人でなければならず、
そしていかなる容赦ない自己批評も破砕できぬほどに美しくなければならないのである。してみるとこの神話の
恋には、二つの、いづれ劣らぬ大切な要素があることがわかる。一つは彼の絶対的美貌であり、一つは彼の
自意識の絶対的客観性である。この二つが揃はなければ、ナルシスの恋は成立しない。

三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より

256 :名無しさん@また挑戦:2011/03/06(日) 11:48:17.28 ID:???
しかし、いかにして自意識はそのやうな絶対的客観性に到達するであらうか? 決して他人の賞讃を必要と
せぬほどの境地に達しうるであらうか? 自意識の構造自体が、このやうな客観性を常に志向してゐることは
前にも述べたが、純粋ナルシシズムが、「他人の賞讃を必要としない」からと言つて、その逆は必ずしも真ではない。
ナルシスが他人を排斥するのは、他人を全く必要としないほど美しいからだが、醜い者も、同じやうに他人を
排斥する。(中略)
もとより他人の賞讃を全く必要としないほどの純粋ナルシシズムとは、絶対真空と同様に、一つの仮定としての
絶対値にすぎず、一つの究極の観念、一つの神話にすぎぬ。誰しも他人の賞讃を必要とするが、それは他人こそ
「物言ふ鏡」であり、その賞讃こそ、肉体を離脱した非在の観念としての自意識の、何ら目に見え手にとることの
できない絶対的客観性を、傍証してくれるからである。
ナルシスの水鏡を、ナルシシズムの純粋な無言の鏡とすれば、「他人」こそは、二次的でありながらはなはだ
力強い、物言ふ鏡と言へるであらう。

三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より

257 :名無しさん@また挑戦:2011/03/06(日) 11:53:28.34 ID:???
自意識がその客観性を確認するために、どうしても他人の賞讃を必要とするのは、ナルシシズムの客観的要件を、
できるだけ多く自分のはうへ引寄せようとする自然な志向である。すなはち、すでに水鏡をではなく、「他人の
鏡」を相手にするときには、嘲笑が返つてくるか、賞讃が返つてくるかに、彼の自意識の客観性が賭けられてをり、
思ひどほり賞讃が返つて来たところで、彼の客観的要件は、本来減りもせず増しもしない筈であるけれど、
その結果、自意識の客観性は他人の賞讃によつて保証されること多大であるから、そこであたかも、彼の客観的
要件自体が増しでもしたやうな外見を呈する。それはあくまで一つの擬制であるが、水鏡ではなく「他人の鏡」を
相手にした以上、ナルシシズムは悉く相対主義に陥り、いはば相対性の地獄に落ちることが避けられない。
純粋ナルシシズム以外のあらゆるナルシシズムにとつて、かくて本質的な様態は「不安」Sorge なのである。

三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より

258 :名無しさん@また挑戦:2011/03/06(日) 11:57:51.04 ID:???
さてこの際どい賭に勝つために、彼が自分の最良のものを賭けようとすることは自然であらう。肉体的ナルシシズムに
よつてこの賭に勝つ自信がなければ、知的精神的ナルシシズムによつて勝たうとするのは当然であらう。ナルシスの
神話は、あのやうに素朴に、人間の肉体的ナルシシズムの純粋性、絶対性を謳ひ、自意識の純粋形態を象徴して
ゐるのに、古代ギリシアにすら、やがてソクラテスの近代がしのび込み、知的精神的ナルシシズムが覇を制する。
知的精神的ナルシシズムは、純粋ナルシシズムの見地からすれば明らかに倒錯であるが、二つの絶対の利点を
持つてゐる。一つはそのナルシシズムが不可見のもの(知性・精神)に関はつてゐることであり、もう一つは、
従つて、普遍妥当性において、純粋ナルシシズムをはるかに凌駕してをり、ごく稀な天然真珠よりも、はるかに
一般的な養殖真珠に相当するからである。

三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より

259 :名無しさん@また挑戦:2011/03/06(日) 12:06:23.90 ID:???
のみならず、人々は安心してこのやうなナルシシズムを許容することができる。誰にも機会は均等に与へられてをり、
努力によつてそれに達することができ、しかも不可見であるからごく秘密裡に、男性全般のナルシシズム的衝動を
満足させることができる。
かくて男の世界における肉体蔑視がはじまり、近代社会の多くの知的弊害がそこから生れてきた。
男は不可見の価値に隠れ、女は可見の世界へ押し出された。男は見る側になり、女は見られる側へ廻つた。
男女の服装を見ればわかることだが、男は渋い色の劃一的な背広に身を包み、もはやきらびやかな緋縅の鎧を
着ることはなくなつた一方、女はますます肌をあらはに、さまざまなファッションに身をやつすやうになつた。
女のナルシシズムといふ観念は、男性から移植され注入された観念のやうに思はれるが、もし女にとつて、
一般的普遍的に肉体的ナルシシズムが許容されるとなれば、そこに自意識の規制が働かないことは明らかであるから、
別な方法が案出されなければならない。それが化粧である。

三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より

260 :名無しさん@また挑戦:2011/03/06(日) 12:13:08.25 ID:???
化粧こそ、一般的肉体的ナルシシズムを、滑稽さから救ふ唯一の方法である。この方法が特に女に普及したのは、
女の自意識の欠如の代償作用であつて、顔に白粉や紅を塗つて美しく作りかへることによつて、肉体的ナルシシズムは、
はじめからまつしぐらに、その不純性へ飛び込むのである。純粋ナルシシズムには、決して化粧の原理を
導入することはできない。
女がひとり鏡に向つて、永々とお化粧をする習慣は、美女と醜女を問はないが、それが醜女だからと言つて、
人は決して笑はうとはしない。そこで問はれてゐるのは、自意識の客観性の問題ではなく、いかに美しくなるか
といふ問題だけであつて、化粧をしない醜女よりも、化粧をした醜女のはうが幾分でも美しく見えれば、それは
社会の志向するところと一致してゐるからである。

三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より

261 :名無しさん@また挑戦:2011/03/06(日) 12:15:37.20 ID:???
他人の賞讃が、しかし、女の場合には、肉体的賞讃にとどまるやうに、女自身も要請し、社会も亦これを要請して
ゐるのは、男の世界が守つてゐる知的精神的ナルシシズムの縄張りを、女に犯されないための用心であらう。
そのためにこそ、男は、古代の男の肉体的ナルシシズムの不安(ゾルゲ)の地獄を、女のために開け渡したのである。
しかし、さうして開放された世界が、女に果して不安(ゾルゲ)を与へたかどうかは疑はしい。鏡の前にゐるとき、
女は明らかに幸福に見える。その幸福を見て、男は又しても不可解なものにぶつかるのである。
どうして化粧をしてゐるときの女は、そんなにも幸福なのであらうか? ナルシシズムが幸福であらう筈がない。
それならば、それはきつと、何かわからぬ、何か別のものにちがひない。とまれかくまれ、「幸福」とは、
男にとつてもつとも理解しがたい観念であり、あらゆる観念の中で、もつとも女性的なものである。

三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より

262 :名無しさん@また挑戦:2011/03/06(日) 12:36:06.47 ID:???
>>256訂正追加
しかし、いかにして自意識はそのやうな絶対的客観性に到達するであらうか? 決して他人の賞讃を必要と
せぬほどの境地に達しうるであらうか? 自意識の構造自体が、このやうな客観性を常に志向してゐることは
前にも述べたが、純粋ナルシシズムが、「他人の賞讃を必要としない」からと言つて、その逆は必ずしも真ではない。
ナルシスが他人を排斥するのは、他人を全く必要としないほど美しいからだが、醜い者も、同じやうに他人を
排斥する。彼は他人の賞讃を得る自信がないからである。世間でナルシシズムといふ言葉を口にするときに、
多くの嘲笑が含まれるのは、たとへば、アラン・ドロンがナルシストであつても少しも滑稽ではないが、客観的に
見て全然美しくないものがナルシシズムに陥つてゐるのは滑稽に見えるからで、このことは、男性一般の本源的
衝動であるナルシシズムの普遍性と、微妙に噛み合つてゐる。

三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より

263 :名無しさん@また挑戦:2011/03/06(日) 12:38:19.37 ID:???
そこで他人の賞讃を期待できぬナルシシズムは、滑稽に見えることをおそれて地下に沈潜し、そこに「秘密の
ナルシシズム」「抑圧されたナルシシズム」が鞏固に形成される。これが、他人のナルシシズムへの嘲笑の
大きな原動力になるのである。
一方、嘲笑される側は、その醜さのためではなく、自意識の絶対的客観性の不足乃至欠如のために、笑はれるのだ。
このことが、社会全般におけるナルシシズムの捕捉を実に困難にする。
もとより他人の賞讃を全く必要としないほどの純粋ナルシシズムとは、絶対真空と同様に、一つの仮定としての
絶対値にすぎず、一つの究極の観念、一つの神話にすぎぬ。誰しも他人の賞讃を必要とするが、それは他人こそ
「物言ふ鏡」であり、その賞讃こそ、肉体を離脱した非在の観念としての自意識の、何ら目に見え手にとることの
できない絶対的客観性を、傍証してくれるからである。
ナルシスの水鏡を、ナルシシズムの純粋な無言の鏡とすれば、「他人」こそは、二次的でありながらはなはだ
力強い、物言ふ鏡と言へるであらう。

三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より

264 :名無しさん@また挑戦:2011/03/07(月) 20:15:14.94 ID:???
どうしても心の憂悶の晴れぬときは、むかしから酒にたよらずに映画を見るたちの私は、自分の周囲の現実を
しばしが間、完全に除去してくれるといふ作用を、映画のもつとも大きな作用と考へてきた。大スクリーンで
立体音響なら申し分がないがそれは形式上のこと、それで退屈な映画では何にもならぬ。(中略)これを一概に
「娯楽」といふ名で呼ぶのは当を得てゐない。私の映画に求めてゐるのは「忘我」であつて、娯楽といふ名で
括られるのは不本意である。私はただの一度も、映画で「目ざめさせて」もらつた経験もなく、又目ざめさせて
もらふために、映画館の闇の中へ入つてゆくといふ、ばからしい欲求を持つたこともないのである。
官能の助けを借りながら、知的探究をさせてもらふ、といふ、怠け者の欲張りが、いはゆる芸術映画の観客の
大半なのであらう。目に見えるものはいやでも官能に愬へ、しかも音が加はり、色彩が加はりすれば、どんな
知的な映画でも、その複合的効果を免かれることはできないのである。

三島由紀夫「忘我」より

265 :名無しさん@また挑戦:2011/03/07(月) 20:18:48.26 ID:???
そして忘我とはこれ又複雑な要素を含み、エロティシズムや恐怖といふ感覚的衝撃も十分忘我の材料になりうる
けれども(因みに、笑ひはたえず人を目ざめさせるから、忘我のたのしみには適しない)、知的なパズルも亦、
しばし自分の頭脳を他人のなかなか隅におけない頭脳の支配に委ねるといふ快感において、忘我のよすがになる
わけであるから、私が喜んで見る映画は、おのづから限られてくる。そしてこれらすべての条件を具備したものが、
他ならぬヒチコック映画なのであるが、今度の「トパーズ」を含めて、ヒチコックの近作に、往年の色艶が褪せて
来たことは淋しい。
美しい人間が出てくる、といふことも映画の与へる忘我の大切な要素であり、「トパーズ」にもやはりキューバの
地下組織の代表者として、目もあやな美人(カリン・ドール)が現はれ、その死までも華麗を極めてゐる。
美しい人間といふものは映画にしか出て来ない、といふのがわれわれの年齢の人間の、幼時から温めてきた信仰で
あつた。逆も真なりで、映画に出る人なら美しい人間に決つてゐた筈であつた。

三島由紀夫「忘我」より

266 :名無しさん@また挑戦:2011/03/07(月) 20:22:28.49 ID:???
ところが人間の肉体に対する信仰がどこかで崩れ、肉体の「偉大さ」が信じられなくなつてしまつた。これが
スター・システムの崩壊につながつたことは言ふまでもないが、美貌のみによつて偉大である、といふシンボル賦与の
役割を映画がすでに果さなくなつたことと照応してゐる。
その代りにタブーが取り去られ、「性」が映画の中央にしやしやり出てきて、どんな無気力な性を描いても、
性が主人公である映画が続出するやうになつた。現在氾濫してゐる二流映画の中で、私が感心したのはギリシアの
「猫の舌」ぐらゐのものであるが、面白いことには、性が前面に出てくればくるほど、スターは不要になり、
この面からもスター・システムの崩壊は推し進められてゐることである。
スターは性的シンボルであつたが、それは覆はれた性的シンボルであり、性の無名性の逆説であつた。

三島由紀夫「忘我」より

267 :名無しさん@また挑戦:2011/03/07(月) 20:25:56.46 ID:???
すなはち性的対象が一つで、こちらが不特定多数人だとすれば、たつた一つの性的対象に対してできるだけ多数の
不特定人が集まれば集まるほど、経済的効率は上るわけであるから、そのためには宣伝が必要になり、宣伝の
公共性がスターをいやが上にも有名にすると共に、性の無名性(性的独占の条件)はますます薄れ、人々は共有の
法則に従はざるをえなくなる。そこに神聖化が行はれ、幾多の処女伝説が発生した。しかしブルー・フィルムでは、
この事情は逆になる。俳優は無名であればあるほど、性的独占の対象として直接性を帯び、それはいかにも任意の
対象といふ風情をそなへ、観客と俳優は一対一で映像の性関係に入ることが容易になる。そのためには、公共性を
必然的に持つ宣伝は、すべてを阻害することになる。
未来の映画は、すべてブルー・フィルムになるであらう。そして公認されたブルー・フィルムの最上の媒体は、
ヴィデオ・カセットになるであらう。なぜならそれは映像の性的独占を可能にするからだ。

三島由紀夫「忘我」より

268 :名無しさん@また挑戦:2011/03/07(月) 20:30:53.26 ID:???
これはもう予期された結末であるが、それといふのも、映画は性を扱ふ時に圧倒的な効果を発揮するにもかかはらず、
劇場映画に要する厖大な制作費の条件は、性を無名性と個人的独占から遠ざけるやうにしか働らかないからである。
かういふことをうすうす感じてゐるからこそ、若い監督たちはあのやうな難解な映画を次々と作るのであらう。
どんな形而上学的主題も、或る巨大な性の影に包まれてゐるといふのが映画の本質であるのに、性を前面に扱へば
扱ふほど、かつてのやうなスターといふ存在のシンボル操作による、あの性の万能性・公共性・象徴性・神聖性は
失はれたのである。従つて、映画は或る巨大な性の影の庇護下にあらゆることを語りうる媒体であることを自ら
諦らめねばならず、一方では文学的演劇的な形而上学的主題へ逃げ、一方では芸術映画に特有な、汚ならしい
男女優による汚ならしい性的シーンの氾濫になつたのであらう。
かくも忘我から遠いものはないために、私は、これを見定めて、忘我を与へてくれさうな映画を見るとき以外に、
映画館へ足を運ばなくなつたのであつた。

三島由紀夫「忘我」より

269 :名無しさん@また挑戦:2011/03/09(水) 13:49:12.80 ID:???
「子供らしくない部分」を除いたら「子供らしさ」もまた存在しえないことを、先生方は考へてみたことが
あるのかと思ふ。大人が真似ることのできるのはいはゆる「子供らしさ」だけであり、子供の中の「子供らしくない
部分」は決して大人には真似られない部分であると私には思はれるが、もしそれが事実なら、大人のいふ「童心」は
大人の自己陶酔にすぎないであらう。子供は先生たちとちぐはぐな場所で、小悪魔のやうに跳んだりはねたりして
ゐるだらう。


私は私自身を押し流さうとする少年期の羞恥から身を守るために、共にその羞恥に責め立てられる人を師として
求めた。しかるに学校の先生たちには羞恥なんかなかつた。彼らは少年たちの羞恥に、医師の態度で接しようと
身構へるのだつた。ところが羞恥を治すためにこれほど拙ない方法は考へられない。生理的には羞恥の、心理的には
自己嫌悪の少年期における目ざめは、それ自身病気ではなくて、自己が自己自身の医師であることの自覚に
他ならないからだ。

三島由紀夫「師弟」より

270 :名無しさん@また挑戦:2011/03/09(水) 19:25:54.35 ID:???
新しい人間と新しい倫理とは別のものではないのである。倫理とは彼の翼にすぎぬ。倫理とは彼の生きる方法だ。
方法なしに生きる場合に無倫理と云はれる。しかし厳密な意味での無倫理といふものはない。生そのものが内在的に
一つの方法を負うてゐるからだ。生きようとする時、彼の智慧は既に生きる方法を知つてゐるからである。しかし
単なる「生きようとする意志」――これだけはどうにもならぬ。方法喪失症が意志の美名でよばれてゐる。
これこそ無倫理だ。そして生の擬態にすぎぬそれが、今でも生そのものと間違へられてゐる。
      *
新しい人間と倫理の模索は、或る「原型」の模索を意味してゐるらしい。ゲエテにおいては、それは宇宙の内在
といふやうな原型の模索であつた。それは自我を小宇宙(ミクロコスモス)とする欲求だつた。日本の中世に
おいては、彼の芸術のひろがりに直に接する地点として、もつとも星空に近い場所が、隠者の草庵が選ばれた。
作家が企業家を兼業しようと、大学教授を兼ねようと、この事情にはかはりはない。

三島由紀夫「反時代的な芸術家」より

271 :名無しさん@また挑戦:2011/03/09(水) 19:31:41.08 ID:???
作家がとりうる「新しい道」といふものはなく、彼がなりうる「新しい人間」といふものはない。彼が意図するのは
原型だけだ。原型の模索が芸術家にとつての凡てである。原型の能ふかぎり正確な能ふかぎり忠実な再現、
それが彼のもつ倫理の新しさに他ならぬ。
「新しい人間と新しい倫理」は芸術作品の中にしかありえないのである。しかも作品の中にあらはれた新しい
人間像は、きはめて正確な程度にまで到達された作者の原型の模写に他ならず、各人各様のその到達の方法は、
人間の歴史と共に古いのである。
原型とは芸術家のもつとも非芸術的な欲求の象徴と言つてよいかもしれぬ。原型における芸術家は完全な意味での
「被造物」に化身する。そこには、古代の壁面や紙草に書かれた稚拙な絵画が、その芸術的衝動の源泉を、
「死」に見出だしたのと相似た消息が見られるのである。あらゆる創らうとする欲求の根底の力が、創らうと
する欲求と反対の力なのである。いかなる鋳像も鋳型を求めるのだ。それなしには彼の再生と繁殖はありえず、
しかもそれとの合一の瞬間に彼の存在も亦失はれるところのあの鋳型を。

三島由紀夫「反時代的な芸術家」より

272 :名無しさん@また挑戦:2011/03/09(水) 19:39:35.16 ID:???
(中略)
      *
単に金儲けの目的で文学をはじめようとする青年たちがゐる。これは全く新しい型だ。君たちの動機の純粋を
私は嘉(よみ)する。「金のため」――ああ何といふ美しい金科玉条、何といふ見事な大義名分だ。私たちの
動機はそれほど純粋ではない。もつと気恥かしい、口に出すのも面伏せな欲求がこんがらかつて私たちを文学へ
駆り立てた。だが私たちだけに言へる種類の皮肉もあるのである。
「金のためだつて! そんな美しい目的のためには文学なんて勿体ない。私たちは原稿の代償として金を受取るとき、
いつも不当な好遇と敬意とを居心地わるく感じなければならないのです。蹴飛ばされる覚悟でゐたのがやさしく
撫でられた狂犬のやうにして」
      *
こいつをうまく両手に捌かうといふ人たちがゐる。一方で出版業その他、一方で芸術。――これも一つの新しい
型だ。しかしその時彼の生活の投影する場所がなくなつてしまふ。両方から等分の照明で照らされた板のやうに。
そこで彼の二重性はその架空の(影なき)二重性のなかで(中略)彼にあの「原型」への意慾(非芸術的な
意慾)が失はれる。彼は「芸術愛好家」になる。

三島由紀夫「反時代的な芸術家」より

273 :名無しさん@また挑戦:2011/03/09(水) 19:42:57.99 ID:???
      *
単に金儲けの目的で文学をはじめようとする青年たちがゐる。これは全く新しい型だ。君たちの動機の純粋を
私は嘉する。「金のため」――ああ何といふ美しい金科玉条、何といふ見事な大義名分だ。私たちの動機は
それほど純粋ではない。もつと気恥かしい、口に出すのも面伏せな欲求がこんがらかつて私たちを文学へ駆り
立てた。だが私たちだけに言へる種類の皮肉もあるのである。
「金のためだつて! そんな美しい目的のためには文学なんて勿体ない。私たちは原稿の代償として金を受取るとき、
いつも不当な好遇と敬意とを居心地わるく感じなければならないのです。蹴飛ばされる覚悟でゐたのがやさしく
撫でられた狂犬のやうにして」
      *
こいつをうまく両手に捌かうといふ人たちがゐる。一方で出版業その他、一方で芸術。――これも一つの新しい
型だ。しかしその時彼の生活の投影する場所がなくなつてしまふ。両方から等分の照明で照らされた板のやうに。
そこで彼の二重性はその架空の(影なき)二重性のなかで(中略)彼にあの「原型」への意慾(非芸術的な
意慾)が失はれる。彼は「芸術愛好家」になる。

三島由紀夫「反時代的な芸術家」より

274 :名無しさん@また挑戦:2011/03/10(木) 16:07:03.70 ID:???
人間は結局、前以て自分を選ぶものだ。(中略)批評といふものが本質的に自己を選択する能力だと考へると、
批評こそ創造だと言ひ出したワイルドは、彼自身の運命を創造した人間のやうに思はれる。
逆説はその場のがれにこそなれ、本当の言ひのがれにはなりえない。逆説家は逆説で自分を追ひつめ、どどの
つまりは自分自身から言ひのがれの権利をのこらず剥奪してしまふのである。逆説家がしばしばいちばん誠実な
人間であるのはこのためだ。逆説家がいちばん神に触れやすいのもこの地点だ。神は人間の最後の言ひのがれであり、
逆説とは、もしかすると神への捷径だ。(中略)
さまざまな論者がワイルドの逆説のいづれかに引つかかつてゐる。ジイドでさへが。
  大作家ではない、併し大生活家だ。
ジイドはワイルドの回想の主題をここに置いたが、その根拠は、ワイルド自身の苦々しい自己弁護にみちた逆説、
「私は自分の天才のすべてを生活に注いだが、作品には自分の才能しか用ひなかつた」といふ逆説に係つてゐる。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より

275 :名無しさん@また挑戦:2011/03/10(木) 16:11:11.26 ID:???
天才(ジェニー)。才能(タラン)。誰がそれを分割することができよう。ジイドは勿論そのことをよく知つてゐた。
そこでワイルドが用法の錯誤と言ひくるめるこの二つの薬品を、ジイドは本質の錯誤と考へて分類した。ジイドは
正直にワイルドの作品に才能をしか見なかつた。しかし私は思ふのだが、ワイルドの悲劇は、この逆説のうちなる
逆説の誠実さにあるのではなからうか。分割したとたんにそのいづれでもなくなるやうな精妙な化合物を、
切れ味みごとに分割しようとして果さなかつた悲劇が。
才能とは決して不完全な天才のことではない。才能と天才は別の元素だ。それにもかかはらず、われわれは
ワイルドの作品のいたるところに不完全な天才を見出だすのである。いはば「ドリアン・グレイの画像」は才能の
足跡で踏みくたされた泥濘だ。しかしその足跡のなかの一対が、天使の足跡でないと誰が言へよう。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より

276 :名無しさん@また挑戦:2011/03/10(木) 16:15:10.33 ID:???
(中略)
苦痛は一種のドラマである。人がその欲しないものへ赴くためには、丁度子供が歯医者へゆく御褒美に菓子を
せびるやうに、虚栄心をせびらずにはゐられない。虚栄心はこのドラマの舞台であつて、ワイルドにとつては、
彼の道徳の苗床でもあつたやうに思はれる。
つくづく思ふのだが、ワイルドは悲劇役者として上の部でななかつた。生活の信条としての彼の悲劇への志向は、
浪漫主義詩人のボヘミアン・ライフの卵の殻を背負つてゐた。悲劇の節度も礼譲も、悲劇をして壮麗ならしめる
抑制の苦悩もなかつた。をかしなことだ。彼は数ある苦痛のうち、「抑制の苦痛」だけを知らなかつたのである。
牢獄がはじめて外部からそれを彼に教へた。
「彼の耽美主義はなにか痙攣のやうなものであつた」とホフマンスタールが書いてゐる。ホフマンスタールは
ワイルドの悲壮な戦慄を、現実の復讐を挑戦しつづける男の現実からうける脅威と見てゐる。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より

277 :名無しさん@また挑戦:2011/03/10(木) 16:18:38.77 ID:???
(中略)
オスカア・ワイルドはまづもつて卑俗(と謂つてもよからう)な成功の毒に中(あた)つた。それが彼をして
半ばは虚栄心、半ばは持ち前の真摯誠実から、(この二つは彼にとつては同じものだ)、すすんで嫌はれ者の
光栄に憧れさせた。社会はある男を葬り去らうとまで激昂する瞬間に、もつともその男を愛してゐるもので、
これは嫉妬ぶかい女と社会とがよく似てゐる点である。軽業師は観客の興味を要求することに飽き、つひには
恐怖を要求することに苦心を重ねて、死とすれすれな場所に身を挺する。彼が死ぬ。それはもはや椿事だ。
綱渡り師の墜死は、芸当から単なる事件への、おそろしい失墜である。イギリス社会にはとりわけイギリス特産の、
醜聞といふ「死」の一つの様式があつたので、綱渡り師がこの危険に誘惑を感じない筈はないのであつた。
ボオドレエルがカソリシズムの苦悩の教義に照らして眺めた「醜の美」を、すでに人々は何らの痛痒を感ぜずに
炉辺で享楽しはじめてゐたために、人々に嫌はれるためには、むしろ身自ら癩病に罹患する必要があつた。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より

278 :名無しさん@また挑戦:2011/03/10(木) 16:21:58.95 ID:???
(中略)
生活とは決して独創的でありえない何ものかだ。ホフマンスタールの忠告にもかかはらず、しかし運命のみが
独創的でありうる。キリストが独創的だつたのは、彼の生活のためではなく、磔刑といふ運命のためだ。もうひとつ
立入つた言ひ方をすると、生活に独創的な外見を与へるのは運命といふものの排列の独創性にすぎない。
(中略)
虚栄心を軽蔑してはならない。世の中には壮烈きはまる虚栄心もあるのである。ワイルドの虚栄心は、受難劇の
民衆が、血が流れるまで胸を叩きつづけるあの受苦の虚栄に似てゐたやうに思はれる。何故さうするか。それが
その男にとつての、ともかく最高度と考へられる表現だからである。ワイルドが彼の詩に、彼の戯曲に、彼の
小説に選択する言葉は、かうした最高度の虚栄であつた。人間の心が通じ合ふための唯一の言葉である音楽を、
師ウォルタア・ペイタアにならつて、芸術の形式上の典型と呼んだワイルドは、また芸術の感情上の典型を俳優に
見出だした。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より

279 :名無しさん@また挑戦:2011/03/10(木) 16:24:27.73 ID:???
音楽は詐術ではない。しかし俳優は最高の詐術であり、アーティフィシャルなものの最上である。それは人間の
言葉である台詞が無上の信頼の友を見出だす分野である。
文学者の簡明な定義を私は考へるのだが、それは人間の言葉が絶対に通じ合はぬといふ確信をもちながら、
しかも人間の言葉に一生を託する人種である。この脆弱な観念を信じなければならぬ以上、文学者は懐疑主義者に
なりきれない天分をもつてゐる。
(中略)
ワイルドはその逆説によつて近代をとびこえて中世の悲哀に達した。イロニカルな作家はバネをもつてゐる人形の
やうに、あの世紀末の近代から跳躍することができた。彼は十九世紀と二十世紀の二つの扇をつなぐ要の年に
世を去つた。彼は今も異邦人だ。だから今も新しい。ただワイルドの悪ふざけは一向気にならないのに、彼の
生まじめは、もう律儀でなくなつた世界からうるさがられる。誰ももう生まじめなワイルドは相手にすまい。
あんなに自分にこだはりすぎた男の生涯を見物する暇がもう世界にはない。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より

280 :名無しさん@また挑戦:2011/03/10(木) 21:14:27.82 ID:???
感じやすさといふものには、或る卑しさがある。多くの感じやすさは、自分が他人に感じるほどのことを、他人は
自分に感じないといふ認識で軽癒する。(中略)
世間の人はわれわれの肉親の死を毫も悲しまない。少なくともわれわれの悲しむやうには悲しまない。われわれの
痛みはそれがどんなに激しくても、われわれの肉体の範囲を出ない。
感じやすさのもつてゐる卑しさは、われわれに対する他人の感情に、物乞ひをする卑しさである。自分と同じ
程度の感じやすさを他人の内に想像し、想像することによつて期待する卑しさである。感じやすさは往々人を
シャルラタンにする。シャルラタニスムは往々感じやすさの企てた復讐である。
私はまづ自分の文体から感じやすい部分を駆逐しようと試みた。感受性に腐蝕された部分を剪除した。ついで
私の生活に感じやすさから加へられてゐるさまざまの剰余物、こつてりとかけられたホワイト・ソースの如きものを
取り去らうと試みた。私の理想とした徳は剛毅であつた。それ以外の徳は私には価値のないもののやうに思はれた。

三島由紀夫「アポロの杯 航海日記」より

281 :名無しさん@また挑戦:2011/03/10(木) 21:21:08.67 ID:???
ここでは表情自体はあらはで、苦痛の歪みは極度に達してゐる。その苦痛の総和が静けさを生み出してゐるのである。
「ゲルニカ」は苦痛の詩といふよりは、苦痛の不可能の領域がその画面の詩を生み出してゐる。一定量以上の苦痛が
表現不可能のものであること、どんな表情の最大限の歪みも、どんな阿鼻叫喚も、どんな訴へも、どんな涙も、
どんな狂的な笑ひも、その苦痛を表現するに足りないこと、人間の能力には限りがあるのに、苦痛の能力ばかりは
限りもしらないものに思はれること、……かういふ苦痛の不可能な領域、つまり感覚や感情の表現としての苦痛の
不可能な領域にひろがつてゐる苦痛の静けさが「ゲルニカ」の静けさなのである。この領域にむかつて、画面の
あらゆる種類の苦痛は、その最大限の表現を試みてゐる。その苦痛の触手を伸ばしてゐる。しかし一つとして苦痛の
高みにまで達してゐない。一人一人の苦痛は失敗してゐる。少なくとも失敗を予感してゐる。その失敗の瞬間を
ピカソは悉くとらへ、集大成し、あのやうな静けさに達したものらしい。

三島由紀夫「アポロの杯 ニューヨーク」より

282 :名無しさん@また挑戦:2011/03/11(金) 11:44:29.46 ID:???
ここでは表情自体はあらはで、苦痛の歪みは極度に達してゐる。その苦痛の総和が静けさを生み出してゐるのである。
「ゲルニカ」は苦痛の詩といふよりは、苦痛の不可能の領域がその画面の詩を生み出してゐる。一定量以上の苦痛が
表現不可能のものであること、どんな表情の最大限の歪みも、どんな阿鼻叫喚も、どんな訴へも、どんな涙も、
どんな狂的な笑ひも、その苦痛を表現するに足りないこと、人間の能力には限りがあるのに、苦痛の能力ばかりは
限りもしらないものに思はれること、……かういふ苦痛の不可能な領域、つまり感覚や感情の表現としての苦痛の
不可能な領域にひろがつてゐる苦痛の静けさが「ゲルニカ」の静けさなのである。この領域にむかつて、画面の
あらゆる種類の苦痛は、その最大限の表現を試みてゐる。その苦痛の触手を伸ばしてゐる。しかし一つとして苦痛の
高みにまで達してゐない。一人一人の苦痛は失敗してゐる。少なくとも失敗を予感してゐる。その失敗の瞬間を
ピカソは悉くとらへ、集大成し、あのやうな静けさに達したものらしい。

三島由紀夫「アポロの杯 北米紀行 ニューヨーク」より

283 :名無しさん@また挑戦:2011/03/11(金) 11:55:28.21 ID:???
或る種の瞬間の脆い純粋な美の印象は、凡庸な形容にしか身を委さないものである。美は自分の秘密をさとられ
ないために、力めて凡庸さと親しくする。その結果、われわれは本当の美を凡庸だと眺めたり、たゞの凡庸さを
美しいと思つたりするのである。
(中略)
記憶はすべて等質だから、夢の中の記憶も現実の記憶と等質のものでしかないこと、その記憶の瞬間において、
私の観念はまた何度でもリオを訪れリオに存在するかもしれないが、私の肉体は同時に地上の二点を占めることは
できないこと、もはや死者が私の中に住むやうにしてリオは私の中に住むにすぎまいが、もう一度現実にリオを
訪れても、この最初の瞬間は二度と甦らぬであらうといふこと、その点では時がわれわれの存在のすべてであつて、
空間はわれわれの観念の架空の実質といふやうなものにすぎないこと、そして地上の秩序は空間の秩序に
すぎないこと、……私はこれらのことをつかのまに雑然と考へ、荘子の胡蝶の譬や、謡曲邯鄲の主題をあれこれと
思ひうかべた。

三島由紀夫「アポロの杯 南米紀行―ブラジル リオ―転身―幼年時代の再現」より

284 :名無しさん@また挑戦:2011/03/11(金) 11:58:01.75 ID:???
荘子の譬は、転身の可能について語つてゐる。われわれは事実、ある瞬間、胡蝶になるのだ。われわれはさまざまな
ものになる。輪廻は刻々のうちに行はれる。大きな永い輪廻と、小さな刹那々々の輪廻とがある。小さな輪廻と
大きな輪廻とは、お互ひを映してゐる鏡影のやうなものである。ひとりわれわれの意識が、われわれをあらゆる
転身の危険から護り、空間にとぢこめられた肉体の存在を思ひ出させてくれるのである。さもなければわれわれは
二度と人間に立戻らないで、その瞬間から胡蝶になつてしまふことであらう。

三島由紀夫「アポロの杯 南米紀行―ブラジル リオ―転身―幼年時代の再現」より


時々、窓のなかは舞台に似てゐる。多分その思はせぶりな照明のせゐである。

「アポロの杯 南米紀行―ブラジル サン・パウロ」より

285 :名無しさん@また挑戦:2011/03/12(土) 12:11:07.86 ID:???
曲馬はこれを見るごとに、およそ平衡を失はなければ、どんな危険を冒しても安全だと語つてゐるやうに私には
思はれ、また、どんな不可能事の実現と見えるもののなかにも、厳然と平衡が住んでゐることを教へられるのである。
われわれは肉体の危険にもまして、たびたび精神の危険を冒す。そのときわれわれは曲芸師のやうにかくも平衡に
忠実であらうか。曲芸師が綱から落ち、曲芸師の額から皿が落ちるときに、われわれは彼等があやまつて肉体の
平衡を冒したことを如実に見るが、われわれが自ら精神の平衡を失ふさまは、これほど如実に見ることはできない
ので、それだけ危険は多く且つ重大である。
曲芸師は肉体の平衡を極限まで追ひつめて見せる。しかしかれらはそのすれすれの限界を知つてをり、そこで
かれらは引返して来て、微笑を含んで観衆の喝采に答へるのである。かれらは決して人間を踏み越えない。しかし
われわれの精神は、曲芸師同様の危険を冒しながら、それと知らずにやすやすと人間を踏み越えてゐる場合がある
かもしれない。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 パリ」より

286 :名無しさん@また挑戦:2011/03/12(土) 12:15:48.60 ID:???
思惟が人間を超えうるかどうかは、困難な問題である。超えうるといふ仮定が宗教をつくり、哲学を生んだので
あつたが、宗教家や哲学者は正気の埒内にある限り曲芸師の生活智をわれしらず保つてゐるのかもしれない。
もし平衡が破られたとき実は失墜がすでに起つてをり、精神は曲馬の円い舞台に落ちて、すでに息絶えてゐるかも
しれないが、そののち肉体が永く生きつづけるままに、人々は彼の死を信じないにちがひない。
狂気や死にちかい芸術家の作品が一そう平静なのは、そこに追ひつめられた平衡が、破局とすれすれの状態で
保たれてゐるからである。そこではむしろ、平衡がふだんよりも一そう露はなのだ。たとへばわれわれは歩行の
場合に平衡を意識しないが、綱渡りの場合には意識せざるをえないのと同じである。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 パリ シルク・メドラノ」より

287 :名無しさん@また挑戦:2011/03/12(土) 12:20:36.71 ID:???
オリンピアの非均斉の美は、芸術家の意識によつて生れたものではない。
しかし竜安寺の石庭の非均斉は、芸術家の意識の限りを尽したものである。それを意識と呼ぶよりは、執拗な
直感とでも呼んだはうが正確であらう。日本の芸術家はかつて方法に頼らなかつた。かれらの考へた美は普遍的な
ものではなく一回的(einmalig)なものであり、その結果が動かしがたいものである点では西欧の美と変りがないが、
その結果を生み出す努力は、方法的であるよりは行動的である。つまり執拗な直感の鍛錬と、そのたえざる試みとが
すべてである。各々の行動だけがとらへることのできる美は、敷衍されえない。抽象化されえない。日本の美は、
おそらくもつとも具体的な或るものである。
かうした直感の探りあてた究極の美の姿が、廃墟の美に似てゐるのはふしぎなことだ。芸術家の抱くイメーヂは、
いつも創造にかかはると同時に、破滅にかかはつてゐるのである。芸術家は創造にだけ携はるのではない。
破壊にも携はるのだ。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 アテネ」より

288 :名無しさん@また挑戦:2011/03/12(土) 12:23:57.30 ID:???
その創造は、しばしば破滅の予感の中に生れ、何か究極の形のなかの美を思ひゑがくときに、ゑがかれた美の
完全性は、破滅に対処した完全さ、破壊に対抗するために破壊の完全さを模したやうな完全さである場合がある。
そこでは創造はほとんど形を失ふ。なぜかといふと、不死の神は死すべき生物を創るときに、その鳥の美しい歌声が、
鳥の肉体の死と共に終ることを以て足れりとしたが、芸術家がもし同じ歌声を創るときは、その歌声が鳥の死の
あとにまで残るために、鳥の死すべき肉体を創らずに、見えざる不死の鳥を創らうと考へたにちがひない。
それが音楽であり、音楽の美は形象の死にはじまつてゐる。
希臘人は美の不死を信じた。かれらは完全な人体の美を石に刻んだ。日本人は美の不死を信じたかどうか疑問である。
かれらは具体的な美が、肉体のやうに滅びる日を慮つて、いつも死の空寂の形象を真似たのである。石庭の不均斉の
美は、死そのものの不死を暗示してゐるやうに思はれる。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 アテネ」より

289 :名無しさん@また挑戦:2011/03/12(土) 12:28:04.11 ID:???
希臘人は外面を信じた。それは偉大な思想である。キリスト教が「精神」を発明するまで、人間は「精神」なんぞを
必要としないで、矜らしく生きてゐたのである。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 アテネ」より

私は器楽よりも人間の肉声に、一層深く感動させられ、抽象的な美よりも人体を象つた美に一層強く打たれるといふ、
素朴な感性に固執せざるをえない。私にとつては、それらのもう一つ奥に、自然の美しさに対する感性が根強く
そなはつてをり、彫像や美しい歌声の与へる感動は、いつもこの感性と照応を保つてゐる。私には夢みられ、
象られ、さうすることによつて正確的確に見られ、分析せられ、かくて発見されるにいたつた自然の美だけが、
感動を与へるのである。思ふに、真に人間的な作品とは「見られたる」自然である。
希臘の彫刻の佳いものに接すると、ますますこの感を深められる。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 ローマ」より

290 :名無しさん@また挑戦:2011/03/12(土) 12:31:55.98 ID:???
このうら若いアビシニヤ人は、極めて短い生涯のうちに、奴隷から神にまで陞(のぼ)つたのであつたが、それは
智力のためでも才能のためでもなく、ただ儔(たぐ)ひない外面の美しさのためであり、彼はこの移ろひやすい
ものを損なふことなく、自殺とも過失ともつかぬふしぎな動機によつて、ナイルに溺れるにいたるのである。
私はこの死の理由をたづねようとするハドリアーヌス皇帝の執拗な追求に対して、死せるアンティノウスをして、
ただ「わかりません」といふ返事を繰り返させ、われわれの生に理由がないのに、死にどうして理由があらうか、
といふ単純な主題を暗示させよう。
一説には厭世自殺ともいはれてゐるその死を思ふと、私には目前の彫像の、かくも若々しく、かくも完全で、
かくも香ばしく、かくも健やかな肉体のどこかに、云ひがたい暗い思想がひそむにいたつた経路を、医師のやうな
情熱を以て想像せずにはゐられない。ともするとその少年の容貌と肉体が日光のやうに輝かしかつたので、
それだけ濃い影が踵に添うて従つただけのことかもしれない。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 ローマ」より

291 :名無しさん@また挑戦:2011/03/12(土) 12:45:23.26 ID:???
(中略)
アンティノウスの像には、必ず青春の憂鬱がひそんでをり、その眉のあひだには必ず不吉の翳がある。それは
あの物語によつて、われわれがわれわれ自身の感情を移入して、これらを見るためばかりではない。これらの作品が、
よしアンティノウスの生前に作られたものであつたとしても、すぐれた芸術家が、どうして対象の運命を予感し
なかつた筈があらう。
(中略)
希臘人の考へたのは、精神的救済ではなかつた。かれらの彫像が自然の諸力を模したやうに、かれらの救済も
自然の機構を模し、それを「運命」と呼びなした。しかしかうした救済と解放は、基督教がその欠陥を補ふために
のちにその地位にとつて代つたやうに、われわれを生から生へ、生の深い淵から生の明るい外面へ救ふにすぎない。
生は永遠にくりかへされ、死後もわれわれはその生を罷(や)めることができないのである。あの夥しい希臘の
彫刻群が、解放による縛しめ、自由による運命、生の果てしない絆によつて縛しめられてゐるのを、われわれは
見るのである。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 ローマ」より

292 :名無しさん@また挑戦:2011/03/12(土) 12:49:10.58 ID:???
彫像が作られたとき、何ものかが終る。さうだ、たしかに何ものかが終るのだ。一刻一刻がわれらの人生の終末の
時刻(とき)であり、死もその単なる一点にすぎぬとすれば、われわれはいつか終るべきものを現前に終らせ、
一旦終つたものをまた別の一点からはじめることができる。希臘彫刻はそれを企てた。そしてこの永遠の「生」の
持続の模倣が、あのやうに優れた作品の数々を生み出した。
生の茫洋たるものが堰き止められるにはあまりに豊富な生に充ちてゐる若者たちが、
さうした彫像の素材になつたのには、希臘人がモニュメンタールと考へたものの中に潜む、悲劇的理念を暗示する。
アンティノウスは、基督教の洗礼をうけなかつた希臘の最後の花であり、羅馬が頽廃期に向ふ日を予言してゐる
希臘的なものの最後の名残である。私が今日再び美しいアンティノウスを前にして、ニイチェのあの「強さの
悲観主義」「豊饒そのものによる一の苦悩」生の充溢から直ちに来るところの希臘の厭世主義を思ひうかべたと
しても不思議ではあるまい。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 ローマ」より

293 :名無しさん@また挑戦:2011/03/13(日) 21:47:51.17 ID:???
それがたとへどのやうな黄金時代であつても、その時代に住む人間は一様に、自分の生きてゐる時代を
「悪時代」と呼ぶ権利をもつてゐると私には考へられる。その呼びかけは、時代の理想主義的な思想と対蹠的な
ものとなるところの、いはば「もう一つの・暗黒の理想主義」から発せられる叫びである。あらゆる改革者には
深い絶望がつきまとふ。しかし改革者は絶望を言はないのである。絶望は彼らの理想主義的情熱の根源的な力で
あるにもかかはらず、彼らの理想はその力の根絶に向けられてゐるからである。一方、暗黒の理想主義から
発せられる「悪時代」といふ呼びかけも絶望をいはない。絶望はおそらく自明の理、当然の前提で、いふに値ひ
しないからである。この一点で両者は、第三者には理解しえないフリー・メイソン的な親密な目くばせをする。
より良き時代を用意するための準備段階として、現代は理想主義者にとつては完全な悪時代ではありえない。
何らかの意味で上昇しつゝある段階である。しかしかういふ可能性において一時代を見てゐる人間は、その時代を
全的に生きてゐるとはいへない。

三島由紀夫「美しき時代」より

294 :名無しさん@また挑戦:2011/03/13(日) 21:53:22.27 ID:???
是認は非歴史的な見地で行はれる。この種の是認が一種の生の放棄を意味することは見易い道理である。また一方、
現代を悪時代と規定する人間は、否定を通しての生き方においてもなほ、その時代を全的に生きてゐるとはいへない。
なぜならこの否定は、「悪時代」と呼びかける根拠それ自身を否定することはなく、当然の前提である絶望は、
その実決して否定によつて現実的なものにまで持ち来されないからである。ここにもまた放棄がありそれは
前者の放棄と同種のものである。
この間にあつて、「絶望する者」のみが現代を全的に生きてゐる。絶望は彼らにとつて時代を全的に生きようと
する欲求であり、しかもこの絶望は生れながらに当然の前提として賦与へられたものではなく、偶発的なものである。
なればこそかれらは「絶望」を口叫びつづける。しかもこのやうな何ら必然性をもたない絶望が、彼らを在るが如く
必然的に生きさせるのである。彼らにとつては、偶発的な絶望によつて現代が必然化されてをり、いひかへれば、
絶望の対象である現代は、彼らにとつて偶然の環境ではない。

三島由紀夫「美しき時代」より

295 :名無しさん@また挑戦:2011/03/13(日) 21:58:08.93 ID:???
この偶然的な絶望は、それが時代を全的に生きようとする欲求であることを通じて、生の一面である。決定論的な
前提を全く控除した生の把握がそこにみられる。ここではどのやうな意味でも生の放棄はありえない。
終戦後の思想界のおほよその傾向は、以上の三つに分類されるやうである。理想主義はヒューマニズムの立場であり、
絶望主義はその偶然性によつてヒューマニズムを乗り越えようとする立場であり、あとに残る一つのものは
純然たる反ヒューマニズムの立場である。第一のものが宗教的傾向との間に次第に協調をみせ、第二のものが
「生の哲学」に由来してゐることはとうに興味を惹く事実である。第三のものはまだ確乎たる立場を持つてゐるとは
いへない。私は現在の最も若い青年層の間にある漠たる虚無的な傾向といはれるものをこれに包括したのである。
私自身の思考も最もこれに隣接してゐるにちがひない。

三島由紀夫「美しき時代」より

296 :名無しさん@また挑戦:2011/03/13(日) 22:01:19.11 ID:???
それは理想主義がさうであるやうな意味において、すなはち生の放棄といふ意味において、虚無的であるにすぎない。
この暗黒の理想主義は、一定の理想像を信ぜぬほどに純粋なのである。しかも彼は懐疑に逃避するでもない。
懐疑の偶発的な構造が、彼の置かれた環境の偶発性に溶解されてしまふ懐疑がないために、普通いはれる意味での
信仰もありえない。すこぶる日常的な、生理的ですらある絶望が彼を支配し、彼の偶発的な環境が、彼の生を
運命化するのである。今自ら生きつつある時代を「悪時代」と呼ぶこと、それは彼のうちの何ものをもジャスティファイするわけではない。
彼には現代が良くなりつつある時代であるといふ理念的な確信に生きることができず、さりとて当然の前提で
ある絶望を偶然化してそれによつて没理想的に生きようとすることもできないので、彼は自己の生のただ一つの
確証として「悪い時代だ」と呟きを洩らすのである。

三島由紀夫「美しき時代」より

297 :名無しさん@また挑戦:2011/03/15(火) 14:06:04.50 ID:???
お伽噺のなかで犬が歌ひ茶碗が物語り草木や花が物を言ふやうに、芸術とは物言はぬものをして物言はしめる
腹話術に他ならぬ。この意味でまた、芸術とは比喩であるのである。物言はんとして物言ひうるものは物言はして
おけばよい。そこへ芸術は手を出すに及ばぬ。それはそもそも芸術の領分ではなく、神が掌(つかさど)る所与の
世界の相(すがた)であるから。――しかし処女は物言はぬ。一凡人の平坦な生涯は物言はぬ。そこに宿つた
平凡な幸福は物言はぬ。ありふれた幸福な夫婦生活は物言はぬ。ありふれた恋人同志は物言はぬ。要するに
類型それ自体は決して物言はない。すぐれた芸術は類型それ自体をゑがかずして、しかもその背後にはもつとも
あり来りの凡々たる類型が物言はしめられてゐることを注意すべきだ。幸福は類型的なるものの代表である。
それゆゑにこそわれわれは過去の芸術のなかに、喜劇と比べて量に於ても質に於てもはるかにすぐれた悲劇を
持つてゐる。してみればロマンティスムの象徴せんとするものは生れ生き恋し結婚し子をまうけ凡々たるノルマルな
生活それ自体に他ならないかもしれない。

三島由紀夫「川端康成論の一方法――『作品』について」より

298 :名無しさん@また挑戦:2011/03/15(火) 14:12:20.08 ID:???
――物言はぬものをして物言はしめる意慾は、自ら物言はぬものとなつては果されぬ。物言はぬもの、それが作品の
素材である。川端康成の生活にはこの素材の部分が全く欠如してゐる。書かれる自我はない。彼の書く手の周囲、
彼の書く存在の周囲に、物言はぬもの、即ち処女や恋人同志や夫婦や、踊子たちがむらがつた。彼らはやさしい
媚びるやうな目でこの詩人的作家をみつめてゐる。彼らは処女が「自ら歌へぬ」存在であることを誰よりも切なく
知悉してゐるこの不幸な作家をみつめてゐる。その限りで、彼らはお伽噺のなかの犬や茶碗に等しい。処女たちは、
踊子たちは禽獣であつた。ここに川端康成の孤独がはじまる。自己の中に存する物言はぬもの(即ち書かれるもの)と、
外界の物言はぬものたちとの、共感や友愛やはたまた馴れ合ひや共謀やは、彼の場合はじめからありえぬことだつた。

三島由紀夫「川端康成論の一方法――『作品』について」より

299 :名無しさん@また挑戦:2011/03/15(火) 14:17:11.77 ID:???
(中略)
作品を読むことによつてその内容が読者の内的経験に加はるやうに、一人の女の肉体を知ることはまた一瞬の裡に
その女の生涯を夢みその女の運命を生きることでもある。作品が存在した故に作品の内容が内的体験となつて再び
生の実在に導き入れられるのではなく、生をして夢みさしめ数刻を第二の生のうちに生かしめたが為に芸術作品は
存在しはじめるのかもしれない。してみれば女が先づ在つて運命が存在しはじめるのではなく、われわれが生を
運命として感じ歌ひ描き夢みること、その行為の象徴として女が存在しはじめたのかもしれないのだ。その時
われわれが自らの自我の周囲におびただしい物言はぬ存在を――つまりはわれわれ自身の孤独の投影を――
感じることは、やがて芸術の始源を通して芸術を見、一つの決定された作品としての運命を蝕知することだ。
少くともその瞬間、われわれは川端康成と共に、自己の存在が一つの作品に他ならないことを感じるであらう。
彼の文学を知る道も、この他にはないのである。

三島由紀夫「川端康成論の一方法――『作品』について」より

300 :名無しさん@また挑戦:2011/03/18(金) 14:08:46.95 ID:???
心中といふ形式は、一つの人工的な形式でありまして、云ひかへれば、天然自然の模倣の形式、人間生活を
模倣する一形式にすぎないのです。(中略)時と所をことにして生れた男女が、偶然のめぐみによつて出会ひ、
結合し、夫婦生活を営み、いつかは死んでゆく、といふ人生の模倣の形式です。たゞ自殺とちがふことは、ふつうの
人生においては男女が同瞬間に死ぬことはまづありえないのに、情死は時を同じうして男と女が手をとりあつて
死ぬといふ点で、何ほどか独創的であるわけです。この点で、彼らは単なる模倣ではない人工の行為を通じて、
(つまり人生とは別の道をたどつて)、別様の天然自然に到達します。ここに於て、心中は芸術的行為であり
創造的行為であります。芸術といひ創造と言ひますのも、人工が自然の模倣に了らず、一つの新らしい自然の
創造に関与することに他ならないからです。すぐれた芸術作品はすべて自然の一部をなし、新らしく創られた
自然に他ならないからです。

三島由紀夫「情死について――やゝ矯激な議論」より

301 :名無しさん@また挑戦:2011/03/18(金) 14:12:59.81 ID:???
かくて「同時性」が心中の本質であります。そのとき二人は自分たちが創造した未知の一点に立つてゐるのです。
人生に於て決してありえぬことがそこに起らうとしてゐる。彼らがみちびき、彼らが選択し、彼らが創造した
天然自然の現象が起らうとしてゐる。その瞬間、心中は全くの自然現象でありまして、星の運行や、日蝕現象と
同じものなのです。たとへば夫婦が同時に病気にかかり全く同時に死ぬといふことは殆ど絶無でありませう。
しかし二人の人間が時間と空間を共有してゐる以上、絶対にありえぬ現象とはいへません。二つの事象の同時に
起るといふ蓋然性は、いつも内に保たれ、秘められてゐる筈です。この蓋然性を人工の行為によつて実現するとき、
もはやそれが人工の行為であることは何ほどの意味ももたず、たゞ「ありうべきことがありえた」といふ、現象を
みちびきだす一条件にすぎなくなります。こゝに於て情死者同志の死は、実人生においてさへ殆どありえぬやうな
完全無欠な自然死となります。

三島由紀夫「情死について――やゝ矯激な議論」より

302 :名無しさん@また挑戦:2011/03/18(金) 14:18:17.24 ID:???
この自然死によつて彼らは完全に「人生の模倣」を乗り超えることができ、却つて人生をして彼らを模倣させるに
足る影響力をさへもつやうになるのです。
かうして情死は、自然の一つの新らしい発見であり、自然に対する人間の理解を深めるよすがともなるでせう。
心中によつて創造された死の同時性が、何人(なんぴと)にとつても神秘でなくなるやうな、そんな一つの効用を
与へることになるのです。と言ひますのは、地球上の人類は、全く未知の人同志が同じ瞬間に必ず息を引き取つて
ゐるといふ当然すぎるほど当然な現象を、見て見ぬふりをしてをります。日本の東京の某町に住むA氏が
六月廿五日午後八時十五分廿五秒に息を引取つたとしませう。そのときたとへばオーストラリヤの田舎町の少女Aも
息を引取つたにちがひないし、コペンハーゲンの老婦人Aもスマトラの土人Aも息を引取つたにちがひありません。
次の瞬間にもさうであり、第三の瞬間にもさうであります。誰もそれを告げ合ひません。告げ合ふ術を知らない
からです。ここでは言葉といふ手段も何と貧寒で無力なものでせう。

三島由紀夫「情死について――やゝ矯激な議論」より

303 :名無しさん@また挑戦:2011/03/18(金) 14:23:08.88 ID:???
人々は地球の上でたえず起つてゐるこのやうな奇蹟(その実奇蹟でも何でもないのですが)から完全に目をおほはれ、
盲目にされてゐるのです。そして一つの瞬間のためにえらばれた一群の人間が、お互に決して知り合ふことなく、
しかも兵卒の行進のやうに一糸乱れぬ同じ歩調で死へと歩みつゝあるのであります。このたぐひない同じ運命に
結ばれた同志が地上でお互に全く知りえないといふことほどいたましい事実があるでせうか。仮りに六月廿五日
午後八時十五分廿五秒に死ぬ人間ばかりで構成されてゐる世界を考へ、次の瞬間に死ぬ人間ばかりで成立つて
ゐる世界を考へると、この世界は一瞬間づゝのズレを持つた無数の世界の重なりとも見られるのですが、その
一つの世界の中では誰もお互に知らず完全な暗黒が支配し社会も国家も何もなくたゞ原始的な時間があるだけです。
さういふ世界の仮定こそは正に絶望的なものであり、さういふ世界の仮定を誰もが心の底ふかく秘めてゐるところに、
人間の底しれぬ暗さが兆して来るのであります。

三島由紀夫「情死について――やゝ矯激な議論」より

304 :名無しさん@また挑戦:2011/03/18(金) 14:26:54.00 ID:???
人間の奥底の暗さは「同時性の不可知」をその源としてをります。この点に於て凡ては暗黒であり、希望は
ありません。この暗黒がしらずしらず人を動かして、芸術的な衝動や宗教的な衝動に駆り立てるのです。
ところで人間の力がこの真暗闇の天井のどこかに小さな亀裂を与へ光をみちびき入れることはできないでせうか。
人間があるがままの人間であることを止め、少くとも人間らしい人間になることはできないでせうか。不可知を、
暴力によつてでもよいから、可知に変へることはできないでせうか。
かういふ声にこたへるものが心中であつたのです。自然死にひとしい彼らの同時の死は、この暗黒をやぶる一条の
光りのやうに思はれ、運命に対する的確な智恵を人々の心に与へました。たとへばエドガア・ポオの「諜し合ひ」
といふ小説は、ただ場所を異にしただけで同時性は失はない情死をゑがいて、それを右のやうな不可知の神秘の
神聖な解明の歓びにまで高めてゐます。この小説は全く、さうした的確な智恵の発見に対する讃美の歌だとしか
思はれません。

三島由紀夫「情死について――やゝ矯激な議論」より

305 :名無しさん@また挑戦:2011/03/18(金) 14:33:09.11 ID:???
(中略)
人工的に招来された「同時の死」は、人々の心におのづと理想化の欲求をめざめさせずには措きません。彼らは
それを自然死と感じ且つ、同時に死んだ二人の愛の世界を、あの絶対に音信不通の絶対に暗黒の世界に対比させ
ました。同時に死すべき人間が生前に愛し合つてゐたといふこの奇蹟(もとはといへば人工の奇蹟)は、
われわれの世界の不可知の暗さにとつて何といふ救ひでせう。情死者は運命の智恵にあふれた神であるかのやうに
理想化されます。彼らの愛は彼らの死の原因であつたわけですが、そのうちに彼らの死の運命が彼らの愛の原因で
あつたかのやうに思はれだしてもふしぎはありません。かういふ運命的な愛こそは、人々の社会や国家や
民族相互の愛の母胎をなし象徴をなすものであり、そんなひろい愛の大空にめざめるために、どうしても情死者の
美しい泉のやうな愛が必要だつたのです。ここでもはや私が心中を形式にすぎぬと言つた意味がおわかりでせう。

三島由紀夫「情死について――やゝ矯激な議論」より

306 :名無しさん@また挑戦:2011/03/18(金) 19:16:20.03 ID:???
菊五郎が創造したのは一種の近代歌舞伎であり、写実主義歌舞伎であつた。しかしその写実主義は根本的に
伝統的な物真似芸の深化あるひは象徴化であつて、大根(おおね)は近代的でも何でもない。こんなことを言ふと
インテリ歌舞伎俳優から抗議が出さうだが、歌舞伎役者の近代性などタカが知れてゐるのだ。近代趣味の
インテリ集団の文壇からだつて、本当の近代文学など出てゐやしない。安心していい。
おそれるのは若手俳優が企てる歌舞伎の浅墓な近代化だ。菊五郎の近代歌舞伎は、歌舞伎に適しない彼の容姿の
ハンディキャップから生れたといつてもいいのだ。菊五郎が育つて来た時代にはまだ本物の歌舞伎・本物の
錦絵役者が生きてゐた。この対抗手段として聡明な六代目は芸を心理の内面へ向けた。しかし歌舞伎の本質は
様式美を措いてはない。彼は心理の裏附けに物真似芸を広め深めて、様式を今一歩普遍化し内面化したのである。
だから六代目の芸と新劇の演技との間には、量の差ではない、範疇の差があるのである。

三島由紀夫「歌舞伎評 歌舞伎の近代性とは?」より

307 :名無しさん@また挑戦:2011/03/18(金) 19:20:03.31 ID:???
今や若手(といつたつて四十代も何人かゐるのだが)俳優諸君は、抵抗を感じるべき対象をもつてゐない。
錦絵役者は死に絶え、歌舞伎の古色は滅びてしまつた。ここで諸君が六代目の道を行くならそれは坦々たる
アスファルトで目をつぶつてゐてもドライヴができる。菊五郎が切り拓いたやうな抵抗がないのだ。ここに至つて
諸君の道は一層困難だ。
要は諸君がルネッサンス人になることである。諸君自身が歌舞伎のオルソドックスになつて、諸君自身に対立する
ことだ。この対立に血路を見出だして、その上で本当の新らしさを発見することだ。まづ歌舞伎のあらゆる
愚かしさを諸君自身に課することだ。
歌舞伎の近代化といふはたやすい。しかし浅墓な古典の近代的解釈にだまされるやうなお客は却つて近代人ですら
ないのだ。そんなのはもう古い。イヤサ、古いわえ。

三島由紀夫「歌舞伎評 歌舞伎の近代性とは?」より

308 :名無しさん@また挑戦:2011/03/18(金) 19:25:01.13 ID:???
いま歌舞伎役者でいちばんブロマイドの売れるのは海老蔵ださうだ。
或る時ごつたがへしの地下鉄の中で、偶々銀座から乗つて来た海老蔵と顔をつき合はせた。色は浅黒く、中折帽が
よく似合ふ。この変装ではあまり人に気づかれない。ただこの人の暗い沈鬱な目が舞台のままだつた。大きな目で、
白眼(にら)めば映えもする。隈取にも負けない目である。この目の暗さが舞台に翳を与へるのだ。
出てくると舞台がぱつと明るくなるといふ先代羽左衛門の天賦に似たものを、若い海老蔵にも発見されたのは
岡鬼太郎氏である。成程この九月の彼の富樫はたしかに颯爽たるものだつた。しかし目が容姿の明るさを
裏切つてゐる。ニヒリスティックな目だ。
九月の「忠臣蔵」の勘平では、この暗い目が芝居にリアリティーを与へた。張りのない澱んだ目が勘平の絶望感の
端的な表現となつた。悪戯小僧みたいな松緑の目とは丁度正反対だ。

三島由紀夫「歌舞伎評 市川海老蔵論」より

309 :名無しさん@また挑戦:2011/03/18(金) 19:28:02.21 ID:???
仄聞するところによると、海老蔵は家庭生活に恵まれない人のやうである。立入つた見方をすれば、生活の虚ろさが
目に現はれたやうな感じを受ける。匿名子はむしろこの失礼な予測が当ることを欲する。芸の無気力から来る目の
無気力だと思ひたくないのだ。
美は犠牲の上に成立ち、犠牲を踏まへた生活の必死の肯定によつて維持され育くまれる。もちろんこんな理窟は、
極楽蜻蛉的生涯を送ることのできた古い役者たちには適用しない。しかしこれからの歌舞伎役者は、ある意味で
自分たちの生涯が美の犠牲だといふことを強く意識する必要があると思ふ、芸術家たるの自覚を、六代目みたいに
単に対社会的にばかりでなく自覚する必要がある。この自覚が強烈になれば、海老蔵の目も光りを放ち、清澄な
力あるものになるであらう。

三島由紀夫「歌舞伎評 市川海老蔵論」より

310 :名無しさん@また挑戦:2011/03/19(土) 11:18:08.41 ID:???
「合邦」前半の玉手御前や、「御殿」の八汐は、浄瑠璃作者が創造した性格といふよりは、人形の機巧が必要上
生み出したデスペレエトな怪物であるが、それはもちろん義太夫節の怪物的性格にも懸つてゐる。しかし何といふ
情熱的なエネルギッシュな怪物であらう。類型的であることは、ある場合、個性的であることよりも強烈である。
儒教道徳やカソリック道徳の支配下においては、悪は今日よりも、もつと類型的でさうして強烈であつた。それは
反道徳的なもの一切の代表者であつて、人間の完全な1/2であつた。戦後の道徳混乱期の芸術が甚だ弱力なのは、
悪のエネルギーも亦分散して、悪人もまた単に個性の限界を出ないからである。歌舞伎や人形芝居は目もあやな
悪を創造した。「暫」の公家悪の美しさ、「妹背山御殿」の入鹿の美しさを見るがいい。この力がある限り、
歌舞伎や文楽は決して滅びない。

三島由紀夫「歌舞伎評 悪のエネルギー」より

311 :名無しさん@また挑戦:2011/03/19(土) 13:11:45.64 ID:???
そもそも推理小説とは欧米でも売れて売れて困るもので、売れない推理小説は、そもそも推理小説の資格がない
やうなものだ。


純文学には、作者が何か危険なものを扱つてゐる、ふつうの奴なら怖気をふるつて手も出さないやうな、取扱の
きはめて危険なものを作者が敢て扱つてゐる、といふ感じがなければならない、と思ひます。つまり純文学の
作者には、原子力を扱ふ研究所員のやうなところがなければならないのです。(中略)小説の中に、ピストルや
ドスや機関銃があらはれても、何十人の連続殺人事件が起つても、作者自身が何ら身の危険を冒して『危険物』を
扱つてゐないといふ感じの作品は、純文学ではないのでせう。


純文学は、と云つても、芸術は、と云つても同じことだが、究極的には、そこに幸福感が漂つてゐなければ
ならぬと思ふ。それは表現の幸福であり、制作の幸福である。どんな危険な怖ろしい作業であつても、いや、
危険で怖ろしい作業であればあるほど、その達成のあとには、大きな幸福感がある筈で、書き上げられたとき
その幸福感は遡及して、作品のすべてを包んでしまふのだ。

三島由紀夫「『純文学とは?』その他」より

312 :名無しさん@また挑戦:2011/03/19(土) 13:16:06.83 ID:???
(中略)
人間、四十歳になれば、もう美しく死ぬ夢は絶望的で、どんな死に方をしたつて醜悪なだけである。それなら、
もう、しやにむに生きるほかはない。
室生犀星氏の晩年は立派で、実に艶に美しかつたが、その点では日本に生れて日本人たることは倖せである。
老いの美学を発見したのは、おそらく中世の日本人だけではないだろうか。殊に肉体芸術やスポーツの分野では、
東西の差が顕著で、先代坂東三津五郎丈は老齢にいたるまで見事な舞台姿を見せたが、セルジュ・リファールは
もうすでに舞台姿は見るに堪へぬ。(中略)スポーツでも、五十歳の野球選手といふものは考へらないが、
七十歳の剣道八段は、ちやんと現役の実力を持つてゐる。
肉体の領域でもこれだから、精神の領域では、日本人ほど「老い」に強い国民はないだらう。室生氏などは
世阿弥のいはゆる「珍しき花にて勝」つた人であらう。

三島由紀夫「『純文学とは?』その他」より

313 :名無しさん@また挑戦:2011/03/19(土) 13:24:55.50 ID:???
このごろは町で想像もつかないことにいろいろぶつかる。小説家の想像力も、こんなことに一々おどろいてゐる
やうでは貧寒なものだ。
旧文春ビルのTといふ老舗の菓子屋で買物をしたら、私の目の前で、男の店員が、私の買物を包んでゐる女の店員に、
「領収書は要らないんだろ。もう金もらつた?」
ときいてゐた。
客の前で、大声で「もう金もらつた?」ときく心理は、どういふのだらう。
やはり銀座の五丁目のMデパートで、菓子売場の女店員に、
「舶来のビスケットある?」
ときいたら、
「チョコレートならありますけど、ビスケットは舶来はありません」
と言下に答へた。売場を一まはりして、さつきの女店員の立つてゐる飾棚を見たら、ちやんと英国製ビスケットが
二缶並んでゐる。

三島由紀夫「『純文学とは?』その他」より

314 :名無しさん@また挑戦:2011/03/19(土) 13:25:59.18 ID:???
「ここにあるぢやないか」
と言つたら、
「あら」とゲラゲラ笑つてゐた。
この二種類だけかときいたら、二種類だけです、と答へ、別の女の子が、他にも二種類あります、と持つて
来たはいいが、値段をきくと、全然同じ缶を二つ並べて、片方を八百円、片方を千五百円といふ無責任さ。
そのあひだゲラゲラ笑ひどほしで、奥の売場主任も我関せず焉で知らん顔をしてゐた。
(中略)
――かういふいろんな不条理か事例は、小説に使つたら、みんな嘘と思はれるだらう。もし今忠実な風俗小説といふ
ものが書かれたら、超現実主義風な作品になるのではないかと思はれる。

三島由紀夫「『純文学とは?』その他」より

315 :名無しさん@また挑戦:2011/03/19(土) 13:55:27.60 ID:???
川端さんは、暗黒時代に生きる名人で、川端さんにとつて「よい時代」などといふのはなかつたにちがひない。
「葬式の名人」とは、川端さんにとつて、「生きることの名人」の同義語に他ならなかつた。この世は巨大な
火葬場だ。それなら、地獄の火にも涼しい顔をして生きなければならないが、現代はどうもそればかりではないらしい。
地獄の焔が、つかんでも、スルスル逃げてしまふのである。そして頬に当るのは生あたたかい風ばかりである。
これには川端さんも少し閉口されたらしい。「眠れる美女」は、そのやうな精神の窒息状態のギリギリの舞踏の
姿である。あの作品の、二度と浮ぶ見込のなくなつた潜水艦の内部のやうな、閉塞状況の胸苦しさは比類がない。
そこで川端さんの睡眠薬の濫用がはじまり、濫用だけに終つてゐればよかつたが、その突然の停止が、あたかも、
潜水夫が急に海面に引き上げられたやうな、怖ろしい潜水病に似た発作を起した。精神を海底に沈下させたまま、
肉体だけ急速に浮き上らうとした結果と思はれる。――医学的に云へば、何のことはない、睡眠薬中毒の禁断
症状である。

三島由紀夫「最近の川端さん」より

316 :名無しさん@また挑戦:2011/03/19(土) 13:59:43.33 ID:???
(中略)
―さて、川端さんは間もなく無事退院され、健康も旧に復されたが、(中略)或る文学全集に私の巻が出て、
口上代りに冒頭の文句に、「葉隠」から引用して、
「定家卿伝授に歌道の至極は身養生に極り候由」
と禿筆をのたくつたのが、川端さんのお目にとまつたらしい。
(中略)定家のこの言葉には、妙な暗い秘儀がひそんでゐるやうな気が私にはしてゐる。
なぜなら、幼少のころ病弱で、このごろになつてバカに健康第一になつた私などには、殊に健康の有難味が
わかる一方、生れつき健康な人の知らない、肉体的健康の云ひしれぬ不健全さもわかるのである。
健康といふものの不気味さ、たえず健康に留意するといふことの病的な関心、各種の運動の裡にひそむ奇怪な
官能的魅力、外面と内面とのおそろしい乖離、あらゆる精神と神経のデカダンスに青空と黄金の麦の色を与へる
傲慢、……これらのものは、ヒロポンも阿片も、マリワーナ煙草も、ハシシュも、睡眠薬も、決して与へない
奇怪な症状である。
私に悪筆の書を要求された川端さんは、夙にその秘密を見抜いてをられたのかもしれないのである。

三島由紀夫「最近の川端さん」より

317 :名無しさん@また挑戦:2011/03/22(火) 12:19:50.48 ID:???
アメリカでは古ぼけた前衛芸術家をからかつて、
「ありやあ後衛(リヤー・ガード)だ」
なんぞといふ。前衛芸術の歴史が古くなれば、前衛の骨董が現はれるのは当然で、日本でもそろそろ現はれて
来る頃である。
ただ日本の前衛芸術が困ることは外国の前衛の行きつくところが、結局東洋的なものだといふことであらう。
さうすると、日本では外国渡来のモダン・ジャズをやつてる連中より、歌舞伎役者のはうが、ずつとモダンで
新しくて先端的なことになつてしまふ。
たとへば舞台へ生首を持ち出したところで、日本のお客は少しも前衛的だなどとは思はず、歌舞伎の真似だと
思ふだけである。こんなことを考へると、日本の前衛芸術家はバックで動く自動車に乗つてるやうなもので、
自分が前窓だと思つてゐたものが実は後窓になつてしまふわけだ。
それならいつそ、前衛は前衛なりに早く古びて、後衛の権威を確立したはうが本筋かもしれぬ。私は先頃、或る
前衛舞踊の会で、有名なシュール・レアリストの美しい白髪を見て、日本のシュールもいい具合に苔が生えて
きたなと思つた。

三島由紀夫「Four rooms 後衛芸術」より

318 :名無しさん@また挑戦:2011/03/22(火) 12:24:03.15 ID:???
お客を怒らすことは必要だがナメることは禁物だ、といふのが、すべてのショウ・ビジネス(古典から前衛に
いたる)の鉄則だらうと思ふ。
しかし、このケヂメは実にむつかしい。
だから商業主義のプロデューサーは、お客を怒らせては大変だと、そればかり心配して、却つてお客をナメる
結果になつてしまふ。一方、青くさい実験家は、お客を怒らすことに熱中しすぎて、つひにはお客をナメるのと同様になつてしまふので、
アチャラカのつまらなさと、実験演劇のつまらなさは、観客的観点から見れば同種のものである。
われわれは劇場へゆくときに、舞台からの猫撫で声も罵詈雑言も、どちらもききたくないのであつて、こちらが
ジワジワと怒らされれば怒らされるほど、却つて自分の愛着と昂奮を白状させられる形になるやうな、さういふ
ものを与へられたいのである。
六代目菊五郎が喜多村緑郎と芝居をしたとき、二人とも声が小さすぎ、六代目が、きこえないといふ客の抗議に
対して、
「きこえざァ、五側目より前で見な」と言つたのは、傲岸不遜、貴族的な暴言で人を怒らせるが、六代目は
決して客をナメたのではなかつた。

三島由紀夫「Four Rooms お客をナメるべきか?」より

319 :名無しさん@また挑戦:2011/03/22(火) 12:28:49.38 ID:???
羽田のインタビューが感じがわるかつたとしても、(事実相当に感じがわるかつたと想像されるが)、新聞記者の
心証をよくするといふことが、太平洋横断といふ達成された事実と何の関係があるのか。太平洋横断をした青年が、
何で英雄気取りになつてはいけないのか。かういふことをした青年が、凡庸な世間の要求するイメージに従つて、
頬をポッと赤らめて頭を掻いたりする「謙虚な好青年」でなければならぬ義務がどこにあるのか。又世間が
どうしてそんなものを彼に要求する権利があるのか。……考へれば考へるほど、腑に落ちないことだらけである。
大体、青年の冒険を、人格的表徴とくつつけて考へる誤解ほど、ばかばかしいものはない。ヨットで九十日間、
死を賭けた冒険ををして、それでいはゆる「人間ができる」ものなら、教育の問題などは簡単で、堀江青年は
この冒険で太平洋の大きさは知つたらうが、人間や人生のふしぎさについて新たに知ることはなかつたらう。
そんなことは当たり前のことで、期待するはうがまちがつてゐる。

三島由紀夫「堀江青年について」より

320 :名無しさん@また挑戦:2011/03/22(火) 12:34:01.68 ID:???
のみならず堀江青年に、テレビや映画のまやかしものの主人公のやうな、出来合ひの「好青年」を期待するはうが
まちがつてゐる。そんな好青年は、決してたつた一人で小さなヨットで太平洋を渡らうなどとはしないだらう。
かういふ孤独な妄執は、平均的な「好青年」などから芽生える筈もない。たとへばこのごろの「カッコいい
若者たち」の六尺ゆたかの背丈と、五尺そこそこといはれる堀江青年の背丈とを比べてみるだけでもいい。
ラスウェルは「政治」の中で、リンカーンの情緒的不安定や、ナポレオンの肉体的劣等感について詳さに述べてゐる。
今度のジャーナリズムの態度は、大衆社会化の一等わるい例を、又一つわれわれに示した。それは社会的イメージの
強制であり、そのイメージは凡庸な平均的情操から生れ、無害有益なものとして、大衆社会からすでに承認された
ものである。これは一堀江青年のみならず、芸術に対する大衆社会化反応の進みゆくおぞましい時代をも暗示する。

三島由紀夫「堀江青年について」より

321 :名無しさん@また挑戦:2011/03/22(火) 17:09:44.79 ID:???
氏ほど秘密を持たない精神に触れたことがないと私が言つても、おそらく誇張にはなるまいと思ふ。秘密とは何か? 
一体、人間に重大な秘密なんてものがありうるのか? われわれに向つてすぐさまかう問ひかけてくるのが、
氏の精神なのである。これは破壊的な質問であるが、氏は決して論理を以て追究することはない。問ひかけただけで
相手が凍つてしまふことが確実であるとき、どうして論理が要るだらう。
氏自身はダリの画中の人物のやうに、風とほしのよい透明きはまる存在であるのに、私は氏に接してゐると、
氏が自分の外部世界のお気に入りの事物へ秘密を賦与してゆく精妙な手つきが見えるのであつた。そこで氏が
世間の目に半ば謎のやうにみえてゐる理由も判然とする。氏自身の精神には毫も秘密がないのに、氏は自ら与へた
秘密の事物に充ちた森に囲まれてゐるからだ。その森には禽獣が住んでゐる。美しい少女たちが眠つてゐる。
眠つてゐる存在が秘密であるとは、秘密は人間の外面にしかないといふ思想に拠つてゐる。その存在を揺り
起してはならない。

三島由紀夫「川端康成読本序説」より

322 :名無しさん@また挑戦:2011/03/22(火) 17:18:13.27 ID:???
揺り起せば、とたんに秘密は破れ、口をきく少女や口をきく禽獣は、たちまち凡庸な事物に堕するのだ。なぜなら
そこから、心が覗けてしまふからだ。そして心には美も秘密もない。川端文学が、多くの日本の近代小説家が
陥つた心理主義の羂(わな)に、つひに落ちずにすんできたのには、こんな事情がある。――これは存在に対する
軽蔑だらうか? 軽蔑から生れた愛だらうか? それとも存在に対する礼儀正しさと賢明な節度だらうか? 
そこに保たれる情熱だらうか?……この二つの見方で、川端文学に対する見方はおそらく劃然と分れる。
前者の見方を固執すれば、氏の文学は反人間主義の文学で、厭世哲学の美的な画解きのやうに思はれてくる。
また後者の見方を敷衍すれば、「川端先生の小説つて素敵だわ」と言ふ若いセンチメンタルな女性読者の、
「清潔好き」の嗜好までも含めることになる。氏の文学の読者層の広汎なことは、かういふさまざまな誤解を
ゆるすところにあるのであらう。それはそれでいいので、いささかの誤解も生まないやうな芸術は、はじめから
二流品である。

三島由紀夫「川端康成読本序説」より

323 :名無しさん@また挑戦:2011/03/22(火) 17:22:04.20 ID:???
私の考へでは、氏の文学の本質は、相反するかのやうにみえるこの二つの見方、二つの態度の、作品の中でだけ
可能になるやうな一致と綜合であらうと思ふ。もしわれわれが畏敬すべきものだけを美とみとめるなら、美の世界は
どんなに貧弱になるだらう。のみならず、畏敬そのものに世間の既成の価値判断がまざつてゐるならば、美の世界は
どんなに不純なものになるだらう。それならむしろ、やさしい軽蔑で接したはうが、美は素直にその裸の姿を
あらはすだらう。しかし軽蔑が破壊に結びつき、美の存在の形へづかづかと土足で踏み込むやうなことをしたら、
この語らない美は瞬時にして崩壊するだらう。われわれは美の縁(へり)のところで賢明に立ちどまること以外に、
美を保ち、それから受ける快楽を保つ方法を知らないのである。こんなことは人間の自明の宿命であるが、現実の
世界では、盲目の人間たちがたえずこの宿命を無視し、宿命からしつぺ返しを喰はされてゐる。川端氏は作品の
中でだけ、この宿命そのものを平静に描いてみせるのである。

三島由紀夫「川端康成読本序説」より

324 :名無しさん@また挑戦:2011/03/23(水) 10:31:37.13 ID:???
赤ん坊のときは、怪物的であつて、あんまり可愛らしくないので、これなら溺愛しないでもすみさうだ、と少し
安心した。しかし少し大きくなつてくると、私はそろそろ不安を感じた。これは並々ならぬ可愛いものである。
しかし他人様から見てそんなに可愛い筈はないから、こんな気持は全く主観的な感情にちがひない。私といへども、
小説家のハシクレであるから、「感情に溺れる」とか、「感情に負ける」とかいふことは大の恥である。小説家は
あらゆる事物が客観視できなくてはならない。人から見て可愛くも何ともないものが可愛くみえるといふことは、
すでに錯覚である。困つたことになつたものだと私は思つた。
それに、子供が可愛くなつてくると、男子として、一か八かの決断を下し、命を捨ててかからねばならぬときに、
その決断が鈍り、臆病風を吹かせ、卑怯未練な振舞をするやうになるのではないかといふ恐怖がある。そこまで
行かなくても、男が自分の主義を守るために、あらゆる妥協を排さねばならぬとき、子供可愛さのために、妥協を
余儀なくされることがあるのではないか、といふ恐怖も起る。

三島由紀夫「子供について」より

325 :名無しさん@また挑戦:2011/03/23(水) 10:36:19.01 ID:???
主義を守りとほすためには、まづ有り余る金があればいいのだが、その有り余る金を稼ぐには、主義の妥協が要る。
といふ悪循環は、子供のおかげで倍加するであらう。
――私は行末を考へていろいろと憂鬱になつたが、こんなことは、そもそもはじめからわかつてゐる筈のことで
あつた。
子供が手を引いてヨチヨチ歩きができるやうになつたころ、ある晩夏の宵、家人と散歩に出たことがある。
すると静かな道の外灯のあかりに、影法師が出た。これを見て、私はギョッとした。家人と私との間に、ちやんと
両方から手を引かれた小さな影法師が歩いてゐる。
いかにして、両側の大きい影法師から、まんなかの小さい影法師があらはれたか、動物的必然とはいひながら、
正に人間と人生のふしぎである。小さい影法師は平然とその存在を主張し、ちやんと二本の足で、大地を
踏みしめて歩いてゐる。
私は、何ともいへぬ重圧的な感動に押しひしがれ、もう観念しなければならぬと思つた。

三島由紀夫「子供について」より

326 :名無しさん@また挑戦:2011/03/23(水) 10:42:29.15 ID:???
――このごろでは、私は、客人の前で、かつての先生のみつともない振舞を再演してゐる。
「文字自体が象徴的機能を持つてゐるんだから文学も、……あつ、いけません、その椅子に乗つちや、あぶないから、
……文学もね、現実の直叙といふことは、そもそも方法的に不可能で、……今、いけないと云つたらう、飴を
あげるからおとなしくなさい……方法的に不可能で、ミュージック・コンクレートみたいに、現実音自体の構成で
音楽を作るはうが、リアリズムの正統だね、しかし……歌なんか歌ふんぢやない、お客様とお話してるときに
……リアリズムが内包してゐる矛盾は……エ? オシッコがしたいのかい? さうぢやない? そんならいいが
……そもそもリアリズムが内包してゐる矛盾は……又その椅子に乗つた。ほら引つくりかへる。いけないと云つたら
いけない。言ふことがきけないのか」

三島由紀夫「子供について」より

327 :名無しさん@また挑戦:2011/03/23(水) 11:05:25.51 ID:???
尾崎紅葉の「金色夜叉」の箕輪家の歌留多会の場面は大へん有名で、お正月といふと、近代文学の中では、まづ
この場面が思ひだされるほどです。
(中略)
三十人あまりの若い男女が、二手にわかれて、歌留多遊びに熱中してゐるありさまは、場内の温気に顔が赤くなつて
ゐるばかりでなく、白粉がうすく剥げたり、髪がほつれたり、男もシャツの腋の裂けたのも知らないでチョッキ姿に
なつてゐるのやら、羽織を脱いで帯の解けた尻をつき出してゐるのやら、さまざまですが、
「喜びて罵り喚く声」
「笑頽(わらひくづ)るゝ声」
「捩合(ねぢあ)ひ、踏破(ふみしだ)く犇(ひしめ)き」
「一斉に揚ぐる響動(どよみ)」
など、大へんなスパルタ的遊戯で、ダイヤモンドの指輪をはめた金満家のキザ男富山は、手の甲は引つかかれて
血を出す、頭は二つばかり打たれる。はふはふのていで、この「文明ならざる遊戯」から、居間のはうへ逃げ出します。

三島由紀夫「『日本的な』お正月」より

328 :名無しさん@また挑戦:2011/03/23(水) 11:07:54.57 ID:???
――むかしの日本には、今のやうなアメリカ的な男女の交際がなかつた代りに、この歌留多会のやうな、まるで
ツイスト大会もそこのけの、若い男女が十分に精力を発散して取つ組み合ひをする機会がないわけではありません
でした。
紅葉がいみじくも「非文明的」と言つてゐるやうに、かういふ伝統は、武家の固苦しい儒教的伝統や、明治に
なつて入つてきた田舎くさい清教徒のキリスト教的影響などと別なところから、すなはち、「源氏物語」以来の
みやびの伝統、男女の恋愛感情を大つぴらに肯定する日本古来の伝統に直につながるものでありました。百人一首の
歌の詩句は、古語ですから柔らげられてゐるやうだが、どれもこれも、良家の子女にはふさはしくない、露骨な
恋愛感情を歌つたものばかりでした。

三島由紀夫「『日本的な』お正月」より

329 :名無しさん@また挑戦:2011/03/23(水) 11:10:19.44 ID:???
お正月といふと、日ごろスラックスでとびまはつてゐるはねつかへり娘まで、急に和服を着て、おしとやかに
なるのは面白い風俗ですが、今のお嬢さんは和服を着馴れないので、たまに着ると、鎧兜を身に着けたごとく
コチンコチンになつてしまふ。必要以上におしとやかにも、猫ッかぶりにも見えてしまふわけです。
私はさういふ気の毒な姿を見ると、ちかごろの日本人は、「日本的」といふ言葉をどうやら外国人風に考へて、
何でも、日ごろやつてゐるアメリカ的風俗と反対なもの、花やかに装ひながらお人形のやうにしとやかなもの、
ととつてゐるのではないかといふ気がします。
「日本的」といふ言葉のなかには、十分、ツイスト的要素、マッシュド・ポテト的要素、ロックンロール的要素も
あるのです。たださういふ要素が今では忘れられて、いたづらに、静的で類型的なものが、「日本的」と称されて
ゐるにすぎません。

三島由紀夫「『日本的な』お正月」より

330 :名無しさん@また挑戦:2011/03/23(水) 11:13:14.43 ID:???
実際、地球上どこでも、人間が大ぜい集まつて住んでゐるところで、やつてみたいことや、言つてみたいことに、
そんなにちがひがあるわけはなく、たまたま日本が鎖国のおかげで孤立的な文化を育て、右のやうな要素までも
すべて日本的な形に特殊化して、表現してきたのは事実ですが、今日のやうに、世界のどこへでもジェット機で
二十四時間以内に行けるほどになると、「日本的なもの」の中の、ツイスト的要素はアメリカ製で間に合はせ、
シャンソン的要素はフランス製で間に合はせ、……といふ具合に、分業ができてきて、どうにも外国製品では
間に合はない純日本的要素だけを日本製の「日本趣味」で固める、といふ風になつてくる。
それでは、一例がお正月の振袖みたいな、わづかに残されたものだけが、純にして純なる本当の「日本的なもの」で
あるか、といふと、それはちがふ。そんなに純粋化されたものは、すでに衰弱してゐるわけで、本来の
「日本的なもの」とは、もつと雑然とした、もつと逞ましいものの筈なのです。

三島由紀夫「『日本的な』お正月」より

331 :名無しさん@また挑戦:2011/03/23(水) 13:02:01.61 ID:???
(中略)
今年はいよいよオリンピックの年ですが、今から私がおそれてゐるのは、外人に向つての「日本趣味」の押売りが、
どこまでひどくなるか、といふことです。振袖姿の美しいお嬢さんが、シャナリシャナリ、花束を抱へて飛行機へ
迎へに出ること自体は、私はあへて非難しませんが、一例が次のやうな例はどうでせうか?
日本の服飾美学の伝統はすばらしいもので、江戸の小袖の大胆なデザイン、配色など、今のわれわれから見ても、
超モダンに感じられます。日本人の色彩感覚はすばらしく、それ自体で、みごとな色の配合のセンスを完成して
ゐます。この感覚の高さは、決してフランス人にも劣るものではありません。しかし一方、先年、フランスから
コメディー・フランセエズの一行が来たとき、舞台衣裳の配色の趣味のよさ、調和のよさ、(中略)カーテン・
コールで、登場人物一同が手をつないで舞台にあらはれたときは、その美しさに息を呑むくらゐでした。しかし、
突然、日本のお嬢さん方の花束贈呈がはじまり、色彩の城はとたんに、見るもむざんなほど崩壊しました。

三島由紀夫「『日本的な』お正月」より

332 :名無しさん@また挑戦:2011/03/23(水) 13:07:18.23 ID:???
色とりどりの振袖姿、色とりどりの花、わけても花束につけた俗悪な赤いリボンの色、……これで、今まで
保たれてゐた寒色系統の色の調和は、一瞬のうちにめちやくちやにされ、劇の感興まで消え失せてしまひました。
かういふのを「日本的」歓迎と思ひ込んでゐる無神経さ、私はこれをオリンピックに当つてもおそれます。本当に
「日本的な」心とは、フランスの衣裳美にすなほに感嘆し、この感嘆を純粋に保つために、かりにも舞台上へ
ほかの色彩などを一片でも持ち込まない心づかひを示すことなのです。そこにこそ「日本的な」すぐれた色彩感覚が
証明されるのです。右のやうな仕打は、決して「日本的」なのではありません。
「日本的なもの」についていろいろと心を向ける機会の多いお正月に、今年こそ、ぜひ、本当の「日本的なもの」を
発見していただきたいと思ひます。

三島由紀夫「『日本的な』お正月」より

333 :名無しさん@また挑戦:2011/03/23(水) 21:01:44.54 ID:???
処女も小鳥も犬も、自らは語り出さない、絶対に受身の存在の純粋さを帯びて現はれる。精神的交流によつて
エロティシズムが減退するのは、多少とも会話が交されるとき、そこには主体が出現するからである。到達不可能な
ものをたえず求めてゐるエロティシズムの論理が、対象の内面へ入つてゆくよりも、対象の肉体の肌のところで
きつぱり止まらうと意志するのは面白いことだ。真のエロティシズムにとつては、内面よりも外面のはうが、
はるかに到達不可能なものであり、謎に充ちたものである。処女膜とは、かくてエロティシズムにとつては、
もつとも神秘的な「外面」の象徴であつて、それは決して女性の内面には属さない。
川端文学においては、かくて、もつともエロティックなものは処女であり、しかも眠つてゐて、言葉を発せず、
そこに一糸まとはず横たはつてゐながら、水平線のやうに永久に到達不可能な存在である。「眠れる美女」たちは、
かういふ欲求の論理的帰結なのだ。

三島由紀夫「解説(『日本の文学38川端康成集』)」より

334 :名無しさん@また挑戦:2011/03/24(木) 11:16:27.54 ID:???
日本の歴史で、と言つてわるければ、日本人の心の歴史で、最初の意想外な事件がおこつたのはいつだらうか。
古事記をひろげてみよう。(中略)
神話の世界では、背理と奇蹟は日常茶飯事だ。朝おきてなぜ「おはやう」と言ふのかと訊ねても甲斐がないやうに、
なぜ高天原から独神がうまれ男女の神があらはれ、なぜ天の沼矛で海の塩をかきまはしたら島ができたか、と
たづねても意味のないことである。現代人はそれを凡て生殖の比喩として理解する。天の沼矛とはもちろん、
バッカスの祭に必要なあるもののことだと信じて疑はない。それはそれでよい。意想外の事件でないといふことが
わかればそれでよい。だが古代人は、おそらくかういふ背理を比喩だとして合理化することはなかつたであらう。
背理は背理のままで自然だつたであらう。さうでなければ、なぜかういふ天の沼矛その他の奇蹟が語られたあとで、
その奇蹟と同じ内容である一行為を、男女の最初の交はりとして、露はに語つてゐるのかわからなくなる。

三島由紀夫「相聞歌の源流」より

335 :名無しさん@また挑戦:2011/03/24(木) 11:22:07.26 ID:???
それはただ強調するために伏線を引くといふ近代的手法のみなもとではあるまい。神話の最初の一節として、
ある異常な、非人間的な静けさが必要だつたのである。どんな奇蹟もそこでは意想外でないやうな、真昼の静謐が
必要だつたのである。そのためには聴き手の心にも、あらゆる奇蹟を奇蹟のまま、(比喩としてでなく)、何ら
意想外なものを感じずにうけとる能力がなければならない。逆説めくが、天の沼矛は賜物の比喩ではないのである。
現代人にはこの最初の二節を読む能力がなくなつてゐるのかもしれない。
(中略)
日本人の心の歴史で最初の意想外な事件がおこつたのはそのあとだつた。それは奇蹟ではなかつた。奇蹟なら
すでに意想外ではない。何かまちがひらしく見えるものだつた。ともすれば妖神のいたづららしく思はれるもの
だつた。しかし妖神のいたづらといふやうなものではない。それは人間から来た最初の蹉跌であつたのである。
神の力がすこしもまじつてゐない最初の事件がおこつたのである。人間がはじめてその「あやまち」によつて
神に与つたのである。これを意想外と言はなくて何と言はう。

三島由紀夫「相聞歌の源流」より

336 :名無しさん@また挑戦:2011/03/24(木) 11:28:18.35 ID:???
(中略)
人も知るやうに、最初の合歓からは水蛭子といふ不具がうまれた。二神は天上に一旦かへつて天つ神の命をうけ
占ひをする。すると「女が先に言つたのがよくなかつた、又降りて、やりなほせ」と神示がある。二神は再び
天の御柱をめぐりなほし、今度は男神から先に「あなにやしえをとめを」と言つたあとで夫婦の交はりがなされた
ために、次々と健やかな島々神々が生れたのであつた。
少くともこの挿話は神話的にどんな意味があるのだらう。私は学説がそれをどう説いてゐるかしらない。しかし
古事記のどこを見ても、(それをよくなかつたと神示がいふだけで)、このふとしたあやまちが神か魔神かの
しわざであつたとは書いてない。神がそれをとめることができたとも書いてない。神はただ暗に非難めいたものを
人間になげかけるだけである。「やりなほせ」と言ふだけだ。人間のこのあやまちの動機には何もふれてゐない。
まるでそれにふれることを怖れてでもゐるかのやうに。
神の間でもタブウがあつたのかもしれない。人間らしいものの奥底にそのタブウがひそむのを神は見たにちがひない。

三島由紀夫「相聞歌の源流」より

337 :名無しさん@また挑戦:2011/03/24(木) 11:32:20.59 ID:???
(中略)最初の言葉は上気した花嫁の古代の桃のやうな唇からさきに洩れた。「あなにやしえをとこを」と。
――何故こんなことになつたのだらう。何故こんなありうべからざることが起つたのだらう。(とにかく
「ありうべからざること」に人間性の最初のあらはれが見られたといふこの神話は甚だ象徴的で且つ皮肉である)
――天つ神たちは一方ならず動揺したにちがひない。信仰といふものがあつたとすれば、その信仰が深い地鳴りを
伴つてゆれ出すのを感じたにちがひない。しかし彼らがおぼえたのは愕きや憤りばかりではけつしてなかつた。
彼らは畏怖を感じた。人間が人間のままで神に与つたこのへんな瞬間に対する故しれぬ畏怖を。人間がこれからも
永遠にこんな妙な方法で瞬時に神に与つてしまふことをくりかへすであらうといふ畏怖を。――それは天つ神たちに
むずかゆいやうな痛みを与へたであらう。彼らはこの得体のしれぬ胸の痛みをもてあましたであらう。人間が
繁殖しつづけるかぎり神の胸からとり去られることのないこの痛みを。

三島由紀夫「相聞歌の源流」より

338 :名無しさん@また挑戦:2011/03/24(木) 11:37:38.99 ID:???
神はいくたびか、おそらくは数千回・数万回も、このそこはかとない痛みの復活に出会はねばならなかつた。
地上で相聞の交はされるたびごとに出会はねばならなかつた。
その最初の機会であつたところの「人間から来た最初の蹉跌」に、日本の詩歌のひめやかな源流を見ることは
不当だらうか。相聞歌の発祥を見ることはあやまりだらうか。「あなにやしえをとこを」「あなにやしえをとめを」
といふ至上の呼び交はしが、偶々人間から来た最初のあやまちであつたといふこの神話ほど、相聞の世界の妙諦に
触れ、その世界の豊饒と溢美を暗示し、その世界の悲劇を隈なく物語つてゐるものがあるだらうか。数千年に
わたつて相聞歌が人々の心にもたらした不安・をののき・よろこび・悲哀・苦悩のことごとくは、この一瞬の
不吉で美しい呼び交はしから流れて来てゐはしないだらうか。
相聞歌は永久に同じモチーフのくりかへしである。鶯が鶯をよぶのである。夜の薔薇のしげみのなかで、一ト声
愛らしく、二羽の小鳥がよびかはすのである。この最初の発声が過ちであつたとは、何といふ例へやうのない
美しさだらう。

三島由紀夫「相聞歌の源流」より

339 :名無しさん@また挑戦:2011/03/24(木) 11:42:02.54 ID:???
いざなみの命・日本の最初の花嫁は、倫理も思想も悲哀さへも知らなかつた。彼女はただ神のまにまに自在に
行動しうる筈であつた。さういふ少女の口からほとばしつた意想外な喜びの呼び声が、天地の秩序をかへるほどの
力をもつてゐたことは想像にかたくない。神話によれば、花婿にはいくらか思想に似たものがあつたやうに
記されてゐる。事後になつて、「女人を言先だちてふさはず」と愚痴をこぼしたのは、花婿のはうであつたから
である。しかしその花婿にしてからが、「あなにやしえをとこを」といふ呼び声に接したとき、一語もさし
はさまずに、「あなにやしえをとめを」と即座に呼びかへした。この呼び交はしは一つの言葉のやうであつた。
片々でとぎれることはできなかつた。第一の言葉がをはるかをはらぬかに、谺よりもはやく、第二の言葉が
つづけられたのである。丁度西洋中世の古拙な絵画中の人物が口からその発した言葉のしるされてゐる白い帯を
放射してゐるやうに、二人はたちまち二人のあひだの空間に、左右から迫持になつた美しい言葉の穹窿を築いた。

三島由紀夫「相聞歌の源流」より

340 :名無しさん@また挑戦:2011/03/24(木) 11:46:28.67 ID:???
その刹那から、言葉はもはや二人だけのものではなく、世界のものとなつた。その時から二人は言葉を失つて、
ただ顔を見合はせてゐるほかはなかつたのだ。なるほど花嫁の目にうつつてゐる花婿は、ただ一人のますらを、
ただ一人の美しい男性であり、花婿が目のあたり見てゐる新妻は、この世にただ一人の美しい女性であつたであらう。
しかし無残にも、二人は人間の真率な歌ひ交はしをはじめたあとでは、もはや天上の曇りない至福の生活から
別れねばならなかつた。あたかもその証しのやうに、二人の合歓のゆくてには、人間の最初の非運、「不具の子を
生むこと」が待ちかまへてゐたのである。その後の歴史にかずしれずくりかへされた相聞歌のやりとりで、これに
似なかつたものが一つでもあつたらうか。この人間に作りうるもつともうつくしいものである魂の呼びあふ歌が、
うたはれると同時に失はれるのを人々は見なかつたらうか。

三島由紀夫「相聞歌の源流」より

341 :名無しさん@また挑戦:2011/03/24(木) 11:50:22.33 ID:???
人間同志、愛する者同志がこんなにはげしく呼び合つてはならないらしい。そんな風にして呼び合ふのは何か
不吉なことにちがひない。神の胸にそれほどしげしげと痛みを与へてはならなかつた。この美しい最初のあやまちに
人間は人間最初の「不具の児」を賭けさせられたが、それ以後、相聞歌のために払はれた多くの精神のいけにへは
ますます数をましますます人の肩に重くのしかかつた。人は相聞のためにおそろしい代価を払はねばならなかつた。
ある限りの不幸を予知せねばならなかつた。この単純な使ひ古されたモチーフを歌ひ交はす、唯その事のために。
相聞歌は人間が突端に立つときのもつともはげしい危機の歌となつたのである。そのあとでかならず二人は
言葉を失ひ顔見合はせ、二人の最美の刹那が二人の顔のうへにもえつき、一握の黒い灰を残して消え去るのを
見たのである。それでもなほこりずまに、男女は呼び合はねばならなかつた。

三島由紀夫「相聞歌の源流」より

342 :名無しさん@また挑戦:2011/03/26(土) 13:40:38.68 ID:???
宝塚滞在のための目算は立つてゐたが、大阪へ到着当夜の宿に困つた私は、親戚のものの紹介状をさし出して、
一夜の宿の世話を駅長に懇望した。(中略)
ホテルは土地に不案内の私にもすぐに見つかつた。四階建の小ぢんまりしたビルである。
入口は日本映画に出てくるセットの安ホテルによくあるやうな奴である。入るとすぐ右にフロントがある。
靴のまま上らうとした私はたしなめられた。
「靴はね、御自分でもつて上つて下さい」
破れたスリッパが、海老いろの絨氈とは、一応不似合である。
私はうけとつた鍵をポケットに入れ、二つの鞄と一足の靴を持余して三階へゆく階段の途中で一休みした。
『靴つて奴は、手に持つとなると、何て不便な恰好をしてゐるんだらう』
私はかう考へて、靴紐を解いて一緒に結んで、その結び目の輪を指にかけた。

三島由紀夫「大阪の連込宿――『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より

343 :名無しさん@また挑戦:2011/03/26(土) 13:45:03.10 ID:???
空のビール罎と残肴の皿を盆にのせて下りて来た女中が、私にぶつかりさうになつて、アレエといふ古風な悲鳴を
口の中で叫んだ。私はひがみではないが、この女中の目つきにも、何となく自分が客扱ひをされてゐないのを感じる。
故なくしてダブルベッドを一人で占領する私のやうな客は、汽車の坐席に横になつて二人分の空間を占領する
乗客のやうに社会的擯斥に会ふものらしい。私は昇りがけに、上から盆を見下ろしたが、不味さうに残つた
メンチボールらしいものの皿は二つある。そのちぎれて残つたメンチボールは、何かとてもいやらしい喰べ物の
やうに思はれる。
三階の廊下は森閑としてゐた。つきあたりの窓の空が駅近傍のネオンサインのために火事のやうに紅い。
私の部屋は三一四号である。入ると、六畳にしてはひろい八畳にしては狭い殺風景な全景があらはれる。(中略)
床は安つぽい紋様の緑いろのリノリュームで張つてある。壁紙は臙脂(えんじ)と白の花もやうであるが、別段
色あせてゐるやうにも見えないのは、一日中日光の射しこまない部屋だからであらう。

三島由紀夫「大阪の連込宿――『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より

344 :名無しさん@また挑戦:2011/03/26(土) 13:49:02.76 ID:???
見上げると、天井から、裸電球が臆面もなく下つてゐて、部屋のなかで今しがた何かが動いたやうな気がしたのは、
揺れてゐる電灯のおかげで、私の影が揺れたのである。
早速顔を洗はうとすると、部屋の一方の壁をおほふ薄汚れたボイルのカーテンが目に入る。そのカーテンの
万遍ない汚れ方といふものは、人工的に汚れを染めたとしか思はれない。その片方をあけると、鏡と洗面器があり、
片方をあけると真鍮の棒から洋服掛が下つてゐる。
私はたつた一つの三等病室のやうな窓をあけた。
その硝子といふのがまた、厚い緑がかつた磨硝子の中に金網を仕込んだ奴である。
午後九時だつた。窓の下の錯雑した家の二階の窓には目かくしがない。薄暗い部屋のなかでほつれ毛をしきりに
掻き上げながら、ミシンを踏んでゐる女のすがたが見える。横顔が妙に骨ばつて、尖つてみえる。狐かもしれない。
……空の遠くには大小さまざまのネオンサインがいそがしく活動してゐる。ここからは中の島の方角が見えるの
かしらん。

三島由紀夫「大阪の連込宿――『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より

345 :名無しさん@また挑戦:2011/03/26(土) 13:58:18.82 ID:???
忽ち扉がノックされた。
女中が入つてくる。ひどくだらしのない風態で、はらわたのはみでた桃いろの草履を引きずつて歩いてゐる。
手には土瓶と茶碗をのせた盆を持つてゐるが、すすめられた茶碗から呑まうとすると、御丁寧に縁が大きく
欠けてゐる。
お茶をのむ。無言の対峙。呑みをはる。
「御勘定!」
間髪を容れずしてかう言はれては、いくら私が剛胆でも好い加減おびやかされる。
「いくらだい」
茶代の催促かと考へて私はたづねた。
「七百五十円!」
ずいぶん高い番茶もあるものである。呆気にとられてゐると、重ねてかう言つた。
「朝食とコミで七百五十円」
つまり彼女は、このホテルの合理的な慣習に従つて、宿泊料・茶代・食費を含むお会計全額を前金で請求して
ゐるのである。

女中が行つてしまふと私は退屈した。廊下へ出た。
(中略)
……私は緑いろのリノリュームの上を巡査のやうに何となく歩いた。
『案内人のないホテルといふのは洒落れたものだなあ』と私は考へた。『前金制、……案内人なし、……その他に
どんな規約があるのかしらん』

三島由紀夫「大阪の連込宿――『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より

346 :名無しさん@また挑戦:2011/03/26(土) 14:02:48.74 ID:???
私は壁に不細工に貼られてゐる注意書を丹念に読んだ。
(中略)
余談になるが、かういふ注意書に興味をもつのが私の道楽である。
学士会館の喫煙室の椅子の背には、いちいち札がぶら下つてゐて、その札にどんな馬鹿なことが書いてあつたかを
おぼえてゐるのは、この道楽のおかげである。覚えてゐる人もあるかもしれないが、椅子毎にぶら下つてゐた
木札にはかう書いてあつた。
「この椅子の位置を動かした方は、お忘れなく元の位置に戻しておいて下さい」

また余談になるが、東京大学法学部の厠には、磁器の板に刷つたこんな文句が壁にはめてあつた。
「この便所は水洗便所で、特別の装置をもつたものですから、固い紙類、異物、セルロイド等を投下すると、
パイプが梗塞状態になり故障を惹起すことになりますから、十分注意の上、使用して下さい」
六法全書をめくると、こんな法律がある。
「動物の占有者は其動物が他人に加へたる損害を賠償する責に任ず。但し動物の種類及び性質に従ひ相当の注意を
以て其保管を為したるときは此の限に在らず。占有者に代はりて動物を保管する者も亦、前項の責に任ず」

三島由紀夫「大阪の連込宿――『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より

347 :名無しさん@また挑戦:2011/03/26(土) 14:06:17.17 ID:???
……たまたまこんな馬鹿らしいことを私が思ひ出したのには理由がある。椅子に下つたあの妙な木札は、椅子の
上での安楽な休息と別物であるやうに、便所の掲示は生あたたかい糞尿と、法律の規定はよく跳びまはる元気な
フォックステリヤと、一応別物でありながら、そこには何かしら「ありうべき場合」を網羅しようとして陥つた
抽象の中に、異様に生々しいものが横たはつてゐる。生きてとびはねてゐる現実の犬よりも、もつと生々しい
抽象的な犬がそこに想定される。
ホテルの規定は、いふまでもなく馬鹿らしいものの一つである。しかしこの注意書のおかげで、この殺風景な
部屋には、妙に生々しい実質が与へられてゐるやうに思はれる。連れ込みのお客も部屋へ入つた以上、こんな
規定に則つて行動し、その限りではみんな劃一的な、身も蓋もない存在になつてしまふ。その限り……、それが生活といふものだ。
それなしには誰も実質を失つてしまふ場所で、この注意書が「生活」の教訓を垂れてゐるのだ。

三島由紀夫「大阪の連込宿――『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より

348 :名無しさん@また挑戦:2011/03/26(土) 14:10:57.62 ID:???
朝の食事には規定に従つて地下室の食堂がアベックで溢れるだらうと考へた私の目算は外れた。行つてみると、
タイル張の冷え冷えとした部屋に、タイル張の大きな柱がいくつも立つてゐる。タイルの柱はあらかた剥げてゐて
汚ならしい。配膳机のやうな長方形のテーブルが並んでをり、椅子がひつそりと並んでゐる。
「何番さん?」
と出て来たコックがたづねた。
「三一四番」
と私は答へた。私はこんな取扱には一向平気だ。
渦巻の凸凹のあるアルミニュームの丸盆に満載した朝食が運ばれて来て、盆ごと私の前に置かれた。
日向水のやうな味噌汁をすすつてゐると、疲労困憊したスリッパの足音がして、着流しの老人がやつて来て、
私の目の前のテーブルに背を向けて坐つた。
坐りかけて右方の柱のかげへ、やあ、おはやう、と嬉しさうに挨拶した。今まで見えなかつたが、そこには
もう一人食事をしてゐる人があるらしい。私のところからは依然見えにくい。
間もなく柱のかげの人は立上つて、コックに、おつさん、ごちそうさん、と声をかけてゐる。

三島由紀夫「大阪の連込宿――『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より

349 :名無しさん@また挑戦:2011/03/26(土) 14:15:39.66 ID:???
見ると、四十を越したか越さないかの荒んだ肌の女である。寝間着に伊達巻ならまだしものこと、細紐一本が
ゆるゆると浴衣の胴中を締めてゐる。細紐はぬるま湯のやうにほどけてしまひさうで、もしかするとこんな
着こなしは、寝起きに水おしろいを刷いた衿元を見せようためかもしれない。女は立つたまましばらく楊枝を
使つてゐたが、煙草に火をつけると、一吹きしては、大袈裟に指さきであたりの煙を払ふやうにしながら食堂を
出て行つた。
あとには老人の入歯の歯音が、人気のない朝の食堂できかれる唯一の音である。
『全くへんな旅行の振出しだ』と私は考へた。
『早く逃げ出さなくてはいけない』
こんな風変りな宿に永くゐたら、予測することもできない不幸に引止められて、あの老人の年まで居つづけ
なければならぬやうにならないとも限らない。朝飯をすませたら、すぐ出てしまはう』
……さうして私は地上へ向けられた地下室の天窓を見上げるが、こいつも例の金網入りの青い磨硝子である。
硝子を透して来る光は明るいけれども、その上をひつきりなしに流れてゐる淡緑色の水の影は、今朝になつて
降りだした雨らしかつた。

三島由紀夫「大阪の連込宿――『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より

350 :名無しさん@また挑戦:2011/04/01(金) 20:56:03.64 ID:???
最近、村松剛氏が浅野晃氏の「天と海」を論ずる文章を書くに当つて、私にかう問うたことがある。大東亜戦争末期に
つひに神風が吹かなかつたといふこと、情念が天を動かしえなかつたといふことは、詩にとつて大きな問題だが、
さういふ考への根源はどこにあるのだらうか、と。
私は直ちに答へて言つた。それは古今集の紀貫之の序の「力をも入れずして天地を動かし」だ、と。
私は直ちに答へた。どうして直ちに答へることができたのか。ここに私と古今集との二十年以上の結縁が
あるのだと思ふ。
二十年の歳月は、私に直ちにさう答へさせたほどに、行動の理念と詩の理念を縫合させてゐたのだつた。もし
当時を綿密にふり返つてみれば、私は決してさう答へなかつただらう。なぜなら古今集序のその一句は、少年の
私の中では、行動の世界に対する明白な対抗原理として捕へられてゐた筈であり、特攻隊の攻撃によつて神風が
吹くであらうといふ翹望と、「力をも入れずして天地を動かし」といふ宣言とは、正に反対のものを意味して
ゐた筈だからである。

三島由紀夫「古今集と新古今集」より

351 :名無しさん@また挑戦:2011/04/01(金) 20:58:42.31 ID:???
(中略)
ではなぜ、このやうな縫合が行はれ、正反対のものが一つの理念に融合し、ああして私の口から自明の即答が
出て来たのであらう。
いふまでもなく、それは、つひに神風が吹かなかつたからである。人間の至純の魂が、およそ人間として考へられる
かぎりの至上の行動の精華を示したのにもかかはらず、神風は吹かなかつたからである。
それなら、行動と言葉とは、つひに同じことだつたのではないか。力をつくして天地が動かせなかつたなら、
天地を動かすといふ比喩的表現の究極的形式としては、「力をも入れずして天地を動かし」といふ詩の宣言のはうが、
むしろその源泉をなしてゐるのではないか。
このときから私の心の中で、特攻隊は一篇の詩と化した。それはもつとも清冽な詩ではあるが、行動ではなくて
言葉になつたのだ。

三島由紀夫「古今集と新古今集」より

352 :名無しさん@また挑戦:2011/04/02(土) 13:47:27.22 ID:???
――私が今ふたたび、古今集を繙(ひもと)かうとする必要があるとすれば、それはいかなる必要だらうか。
私はこの二十年間、文学からいろんなものを一つ一つそぎ落して、今は、言葉だけしか信じられない境界へ
来たやうな心地がしてゐる。言葉だけしか信じられなくなつた私が、世間の目からは逆に、いよいよ政治的に
過激化したやうに見られてゐるのは面白い皮肉である。
それはそれとして、戦後の一時期は、言葉の有効性が信じられ、その文学理論に基づいた文学が栄えたが、これこそ
最も反古今集的風潮であつたといへる。「力をも入れずして天地を動かし」の、戦時中における反対概念は、
言葉なき行動の昂揚であつたが、戦後における反対概念は、言葉そのものの有効性の
信仰であつた。
何故なら、古今集序の一句は、言葉の有効性には何ら関はらない別次元の志を述べてゐるからである。もし
詩の言葉が、天地を動かす代りに、人心を動かして社会変革に寄与するやうに働くならば、古今集が抱擁してゐる
詩的宇宙の秩序は崩壊するの他はない。

三島由紀夫「古今集と新古今集」より

353 :名無しさん@また挑戦:2011/04/02(土) 13:50:29.66 ID:???
「鬼神をもあはれと思はせ」れ詩的感動は、古今集においては、言語による秩序形成のヴァイタルな力として
働くであらうが、それは同時に、詩的秩序をあらゆる有効性から切り離す作用である。古今集の古典主義と、
公理を定立しようとする主知的性格はすべてそこにかかつてゐる。
詩的感動と有効性とが相反するものとして提示された古今集に親しんだのち、私はすでに古今集のとりこになつて
ゐたのであらう。戦後の一時期に、私は一度も古今集を繙かなかつたが、それはすでに私の心の中で、「詩学」の
位置を占めてゐたからである。
今、私は、自分の帰つてゆくところは古今集しかないやうな気がしてゐる。その「みやび」の裡に、文学固有の
もつとも無力なものを要素とした力があり、私が言葉を信じるとは、ふたたび古今集を信じることであり、
「力をも入れずして天地を動かし」、以て詩的な神風の到来を信じることなのであらう。

三島由紀夫「古今集と新古今集」より

354 :名無しさん@また挑戦:2011/04/02(土) 15:46:10.15 ID:???
古今集の世界は、われわれがいはゆる「現実」に接触しないやうに注意ぶかく構成された世界である。プレシオジテが
つねに現実とわれわれとの間を遮断する。それは日本におけるロココ的世界であり、情念の一つ一つが絹で
包まれてゐるのである。
文化の爛熟とは、文化がこれに所属する個々人の感情に滲透し、感情を規制するにいたることなのだ。そして、
このやうな規制を成立たせる力は、優雅の見地に立つた仮借ない批評である。貫之の序が、一見のどかな文体を
採用してゐるやうに見えながら、苛酷な批評による芸術的宣言を意味してゐることからも、これは明らかである。
(中略)
古今集は「人のこころ」を三十一文字でとらへるために、言葉といふものを純然たる形式として考へ、感情といふ
ものを内容として考へた整然たる体系を夢みてゐた。これが「新古今集」との明らかな較差であつて、近代詩派が
むしろ新古今集に親しみを感じるのは、言葉自体のこの純形式的意欲がそこでは一種の象徴言語に席を譲り、
象徴において言葉と感情は融合してゐるからである。

三島由紀夫「古今集と新古今集 二 古今集」より

355 :名無しさん@また挑戦:2011/04/02(土) 15:53:06.63 ID:???
古今集ほど、詩の複合的な情緒(シュテイムンク)を欠いた歌集はめづらしい。(中略)
古今集における四季の歌に、貫之のいふ「誠」を求めるのは至難の企てであるやうに思はれる。しかし「目に見えぬ
鬼神をもあはれと思はせ」る歌の「誠」とは、古今集では、近代人の考へるやうなあからさま誠実ではないのである。
(中略)
想像力の放恣が不正確に陥り、一定の言葉にこめられた意味内容が無限にひろがり、芸術的効果が(いかに
美しくとも)何か不確定なものに依存することになるのを、古今集の四季の歌は厳密に避けてゐた。一定の効果への
集中度によつて、混沌が整理され、整頓された自然ははじめて人間的なものになるのであり、抒景歌の「感情の
真実」はそこにしかない、と考へるときに、すでにわれわれは古今集の「詩学」の裡にゐるのである。

三島由紀夫「古今集と新古今集 二 古今集」より

356 :名無しさん@また挑戦:2011/04/02(土) 15:56:01.51 ID:???
実はこの秩序の観念こそ、「みやび」の本質なのであつた。草木も王土のうちにあつて帝徳に浴し、感覚の放恣に
委ねられたいかなる美的幻想的デフォルマシオンをも免かれて、一定の位置(位階)を授けられ、梅ですら官位を
賜はり、自然は隈なく擬人化されて、それ自体のきはめて静かな植物的な存在感情を持つやうになり、そのやうな
存在感情を持つにいたつた自然だけが、古今集の世界では許容されるのであれば、四季歌における「誠」はどこに
存するか明白であらう。それは草木の誠であり、草木は王土に茂り、歌に歌はれることによつて、「みやび」に
参与するのである。
古今集における「誠」とは、デモーニッシュな破壊的な力を意味しなかつた。秩序において演ずる一定の役割に
「真実」を限定することこそ、やがて詩語と詩的宇宙を形成する必須の条件であり、言葉はそこではじめて
「形式の威厳」を獲得する。

三島由紀夫「古今集と新古今集 二 古今集」より

357 :名無しさん@また挑戦:2011/04/02(土) 16:15:41.54 ID:???
今まで私は、古今集についてばかり語つてきた。(中略)
私は、新古今集の美学に謡曲の詞藻を通じてむしろ深く親しんだのであるが、新古今集自体は、美学上の究極形態で
あるとは考へることができないからである。
古今集は何といつても極端だ。論理的にも一貫してをり、古今集の「みやび」が何を意味してゐるか、私にも
わかるやうな気がする。すなはち、この世のもつとも非力で優雅で美しいものの力、といふ点にすべてが集中してをり、
その非力が精巧に体系化されてゐる点に、「みやび」の本質を見ることができるからである。又、元の話に戻るが、
そのやうな究極の無力の力といふものを護るためならば、そのやうな脆い絶対の美を護るためならば、もののふが
命を捨てる行動も当然であり、そこに私も命を賭けることができるやうな気がする。現代における私の不平不満は、
どこにもそのやうな「究極の脆い優雅」が存立しないといふことに尽きる。

三島由紀夫「古今集と新古今集 三 新古今集」より

358 :名無しさん@また挑戦:2011/04/02(土) 16:18:23.40 ID:???
(中略)
私の新古今観は、あくまで定家の新古今集であり、しかもそのマニエリスムの美学は、むしろ後代に於て、
能楽の詞章として、もつとも適した器を見出したといふ考へであり、新古今集自体は、世にも美しい歌集ながら、
畢竟、折衷主義の産物だと考へる者である。
しかし、近代の象徴詩派がしばしば嘆息したやうに、新古今集は、古今集の持たぬ恍惚と魅惑を放つてゐる。
その中心が定家の有心体であることはいふまでもあるまい。
古今集にあつては、「みやび」に統括されてゐた古典主義的な美学は、新古今集にあつては一歌人の個性に発した
わがままな理論体系になり、古今集において普遍性のために犠牲に供されたシュティムンクは、新古今集においては、
意味のニュアンスの複合、聯想作用によるイメーヂの複合、言語の論理的つながりを無視することによる情調的複合、
および本歌取による「芸術の芸術」的複合……といふ風な、さまざまな複合形式の下に活かされてゐる。

三島由紀夫「古今集と新古今集 三 新古今集」より

359 :名無しさん@また挑戦:2011/04/03(日) 17:00:32.48 ID:???
何がきらひと云つて、私は酒席で乱れる人間ほどきらひなものはない。酒の上だと云つて、無礼を働らいたり、
厭味を言つたり、自分の劣等感をあらはに出したり、又、劣等感や嫉妬を根にもつてゐるから、いよいよ威丈高な
嵩にかかつた物言ひをしたり、……何分日本の悪習慣で「酒の上のことだ」と大目に見たり、精神鍛練の道場だ
ぐらゐに思つたりしてゐるのが、私には一切やりきれない。酒の席でもつとも私の好きな話題は、そこにゐない
第三者の悪口であるが、世の中には、それをすぐ御本人のところへ伝へにゆく人間も多いから油断がならない。
私は何度もそんな目に会つてゐる。要は、酒席へ近づかぬことが一番である。酒が呑みたかつたら、別の職業の
人間を相手に呑むに限る。
何かにつけて私がきらひなのは、節度を知らぬ人間である。一寸気をゆるすと、膝にのぼつてくる、顔に手を
かける、頬つぺたを舐めてくる、そして愛されてゐると信じ切つてゐる犬のやうな人間である。女にはよく
こんなのがゐるが、男でもめづらしくはない。

三島由紀夫「私のきらひな人」より

360 :名無しさん@また挑戦:2011/04/03(日) 17:03:33.96 ID:???
(中略)
私が好きなのは、私の尻尾を握つたとたんに、より以上の節度と礼譲を保ちうるやうな人である。さういふ人は、
人生のいかなることにかけても聰明な人だと思ふ。
親しくなればなるほど、遠慮と思ひやりは濃くなつてゆく、さういふ附合を私はしたいと思ふ。親しくなつた
とたんに、垣根を破つて飛び込んでくる人間はきらひである。
お世辞を言ふ人は、私はきらひではない。うるさい誠実より、洗練されたお世辞のはうが、いつも私の心に触れる。
世の中にいつも裸な真実ばかり求めて生きてゐる人間は、概して鈍感な人間である。
お節介な人間、お為ごかしを言ふ人間を私は嫌悪する。親しいからと云つて、言つてはならない言葉といふものが
あるものだが、お節介な人間は、善意の仮面の下に、かういふタブーを平気で犯す。善意のすぎた人間を、いつも
私は避けて通るやうにしてゐる。私はあらゆる忠告といふものを、ありがたいと思つてきいたことがない人間である。

三島由紀夫「私のきらひな人」より

361 :名無しさん@また挑戦:2011/04/03(日) 17:06:33.94 ID:???
どんなことがあつても、相手の心を傷つけてはならない、といふことが、唯一のモラルであるやうな附合を私は
愛するが、こんな人間が殿様になつたら、家来の諫言をきかぬ暗君になるにちがひない。人を傷つけまいと思ふのは、
自分が(見かけによらず)傷つき易いからでもあるが、世の中には、全然傷つかない人間もずいぶんゐることを
私は学んだ。さういふ人間に好かれたら、それこそえらいことになる。
……ここまできらひな人間を列挙してみると、それでは附合ふ人は一人もゐなくなりさうに思はれるが、世の中は
よくしたもので、私の身辺だつて、それほど淋しいとは云へない。荷風も、一時は無二の親友のやうに日記に
書いてゐる人間を、一年後には蛇蝎の如く描いてゐるが、それはあながち、荷風の人間観の浅薄さの証拠ではなく、
人間存在といふものが、固定された一個体といふよりも、お互ひに一瞬一瞬触れ合つて光り放つ、流動体に
他ならぬからであらう。好きな人間も、きらひな人間も、時と共に流れてゆくものである。

三島由紀夫「私のきらひな人」より

362 :名無しさん@また挑戦:2011/04/03(日) 17:10:35.11 ID:???
とまれ、誰それがきらひ、と公言することは、ずいぶん傲慢な振舞である。男女関係ではふつうのことであり、
宿命的なことであるのに、社会の一般の人間関係では、いろいろな利害がからまつて、かうした好悪の念はひどく
抑圧されてゐるのがふつうである。
第一、それほど、あれもきらひ、これもきらひと言ひながら、言つてゐる手前はどうなんだ、と訊かれれば、
返事に窮してしまふ。多分たしかなことは、人をきらふことが多ければ多いだけ、人からもきらはれてゐると
考へてよい、といふことである。私のやうな、いい人間をどうしてそんなにきらふのか、私にはさつぱりわからないが、
それも人の心で仕方がない。ニューヨークの或る町に住むきらはれ者がゐて、そいつは悪魔の如く忌み嫌はれ、
そいつがアパートから出てくると、近所の婆さん連がみんな道をよけて、十字を切つて見送るといふ男の話を
きいたことがあるが、きらはれ方もそこまで行けば痛快である。私も残る半生をかけて、きらはれ方の研究に
専念することにしよう。

三島由紀夫「私のきらひな人」より

363 :名無しさん@また挑戦:2011/04/03(日) 20:20:45.28 ID:???
実は白状すると、私は舞台へ背を向けて、客席を見てゐるはうがよほどおもしろかつた。何のために興奮するか
わからぬものを見てゐるのは、ちよつと不気味な感動である。私だつて、興奮が自分の身にこたへれば、エレキ
だらうと、何だらうと偏見はない。(中略)
しかし、今目の前に見てゐる光景は、原因不明で、いかにも不気味である。
私の数列うしろの席は、ビートルズ・ファンの女の子たちに占められてゐたが、その一人はときどき髪を
かきむしつて、前のはうへ垂れてきた髪のはじをかんでゐるが、アイ・ラインが流れだしてゐる恨むがごとき
目をして、舞台をじつと眺めてゐる顔は、まるでお芝居の累である。(中略)
何で泣くほどのことがあるのか、わけがわからない。もつとも女の子は、たいてい、大してわけのないことにも
泣くものである。ふとつた子が、身も世もあらぬ有様で、酸素が足りないみたいに口をパクパクさせると思ふと、
急に泣きながら、
「ジョージ!」
「リンゴ!」
などと叫びだすのを見ると、心配になつてしまふ。

三島由紀夫「ビートルズ見物記」より

364 :名無しさん@また挑戦:2011/04/03(日) 20:23:57.81 ID:???
熱狂といふものには、何か暗い要素がある。
明るい午後の野球場の熱狂でも、本質的には、何か暗い要素をはらんでゐる。そんなことは先刻承知のはずだが、
これら少女たちの熱狂の暗さには、女の産室のうめき声につながる。何かやりきれないものがあるのはたしかだ。
だからビートルズがいいの悪いの、と私は言ふのではない。また、ビートルズに熱狂するのを、別に道徳的堕落だとも
思はない。ただ、三十分の演奏がをはり、アンコールもなく、出てゆけがしに扱はれて退場する際、二人の少女が、
まだ客席に泣いてゐて、腰が抜けたやうに、どうしても立ち上がれないのを見たときには、痛切な不気味さが
私の心をうつた。そんなに泣くほどのことは、何一つなかつたのを、私は知つてゐるからである。
虚像といふものはおそろしい。

三島由紀夫「ビートルズ見物記」より

365 :名無しさん@また挑戦:2011/04/04(月) 11:24:48.64 ID:???
思へば、ボディ・ビルディングとは、もつとも日本の文化伝統に欠けてゐたものの、新しい移植であつた。
われわれは肉体文化の伝統を持たず、力に対する民族的信仰は、何か超自然的なものへの信仰の影を宿してゐて、
肉体それ自体、人間の裸体それ自体の文化的価値は、たえて認められることがなかつた。明治時代に、裸体彫刻が
猿股を穿かされかかつた逸話は、数多く知られてゐる。
(中略)
しかし、この十数年間、ひそかにバーベルを相手に黙々と汗を流し、この写真集に見られるやうな、かつての
日本人が夢想もしなかつた逞しい均整のとれた体躯を育て上げてゐた一群の青年たちがゐたのである。竹山道雄氏が
随想の中で書いてゐるやうに、日本人の青年の肉体は、かうして見ると、古代ギリシャの美学的基準に忠実な点では、
おどろくべきものがあり、ラフカディオ・ハーンが、かつて、日本人を「東洋のギリシャ人」と呼んだことも
思ひ合せられる。

三島由紀夫「序 矢頭保写真集『体道・日本のボディビルダーたち』」より

366 :名無しさん@また挑戦:2011/04/04(月) 11:28:03.59 ID:???
日本文化の特徴は、外来の文化をまづ忠実に模倣して、その極点で転回して、日本化してしまふといふ過程に
見出される。ボディ・ビルディングの日本における戦後の普及は、もちろんアメリカの影響であり、その背後には、
あの広大な光りと富に溢れた国のローマ帝国的な古代異教文化の復活が感じられるが、日本のボディ・
ビルディングには、今や、それなりに、日本の過去に欠けてゐた肉体文化の補填といふ意味以上に、何か、
肉体における日本的精神的価値の復活といふ、今まで考へられなかつた異質の観念の結合の意味が、含まれて
ゐるやうに思はれる。
もともと「葉隠」にもあるやうに、武士の倫理における外面性の重視は、武士の良心に深く関はつてゐた。
登城するときに、昨夜の二日酔がのこつて青白い顔をしてゐるよりも、元気よく見せるために、頬に紅粉を
引くことが奨励されてゐた。又、戦の門出に兜に香をたき込めたり、切腹の前に死化粧をしたりすることは、
武士のたしなみとされてゐた。

三島由紀夫「序 矢頭保写真集『体道・日本のボディビルダーたち』」より

367 :名無しさん@また挑戦:2011/04/04(月) 11:33:57.52 ID:???
あらゆる外面的礼儀が日本人から失はれた現在、日本人は、同時に自分の良心の拠り処を失つたのである。
それは武士道に永いこと育てられたわれわれの心の、ふしぎな逆説的結果である。
そのとき登場するものは何だらうか? すべての古い衣裳が失はれた今、日本人の唯一の外面的規範を代表する
ものは何だらうか? それこそ、力強い、逞しい、男らしい肉体ではなからうか? そしてその肉体に代るほど、
堅固な拠り処となる思想も観念も、われわれはもはや持つてゐないのである。そのとき、このやうな、礼節正しい、
すがすがしい力にあふれた肉体は、はじめて日本人にとつて、一つの文化的価値となるのではなからうか?
最後に、この集には、矢頭氏によつて撮られた私自身の、ボディ・ビルダーとしての写真も入つてゐる。日本の
建築には、逆柱といふものがある。あまり建築が完璧であると魔が射すといふ迷信から、わざと一本、逆さの
柱を立てて、建築の完璧性を崩すのである。私の写真を矢頭氏が入れた真意も、この逆柱にあるのだらうと私は
睨んでゐる。

三島由紀夫「序 矢頭保写真集『体道・日本のボディビルダーたち』」より

368 :名無しさん@また挑戦:2011/04/04(月) 13:52:22.76 ID:???
正月……。三階から眺めると、今朝は空も澄み、富士の白い頂きもありありと秀で、海のかなたには、いつも
見えない島影すら見える。そして眼下に密集する家々には、日の丸の旗は甚だ少ない。
一体自分はいかなる日、いかなる時代のために生れたのか、と私は考へる。私の運命は、私が生きのび、やがて老い、
波瀾のない日々のうちにたゆみなく仕事をつづけることを命じた。自分の胸の裡には、なほ癒やされぬ浪漫的な魂、
白く羽搏くものが時折感じられる。それと同時に、たえず苦いアイロニーが私の心を噛んでゐる。
二十数年前に学校の先輩が云つた「文学をやる」といふ言葉は、今、私にとつて、ますます胸の中を風の
吹き抜けるやうな言葉として感じられる。過去の作品は、いはばみんな排泄物だし、自分の過去の仕事について
嬉々として語る作家は、自分の排泄物をいぢつて喜ぶ狂人に似てゐる。

三島由紀夫「『われら』からの遁走――私の文学」より

369 :名無しさん@また挑戦:2011/04/04(月) 14:47:22.41 ID:???
オリンピックを大義と錯覚する心は、少なくともそのはげしい練習と、衰へゆく肉体に対するきびしい挑戦のうちに、
正に大義に近づいてゐたのだと考へるはうが親切である。一切の錯覚を知らぬ心は、大義に近づくことができない、
といふのが人間の宿命である。この贋物の大義を通じて真の大義を知つた青年の心は、栄光のどこにもない時代に
かつて栄光の味を知つてゐた。


現代は、死を正当化する価値の普遍化が周到に避けられ、そのやうな価値が注意深くばらばらに分散させられて
ゐる時代である。


私は円谷二尉の死に、自作の「林房雄論」のなかの、次のやうな一句を捧げたいと思ふ。
「純潔を誇示する者の徹底的な否定、外界と内心のすべての敵に対するほとんど自己破壊的な否定、……云ひ
うべくんば、青空と雲とによる地上の否定」
そして今では、地上の人間が何をほざかうが、円谷選手は、「青空と雲」だけに属してゐるのである。

三島由紀夫「円谷二尉の自刃」より

370 :名無しさん@また挑戦:2011/04/04(月) 15:08:06.45 ID:???
芝居におけるロゴスとパトスの相克が西洋演劇の根本にあることはいふまでもないが、その相克はかしやくない
セリフの決闘によつてしか、そしてセリフ自体の演技的表現力によつてしか、決して全き表現を得ることがない。
その本質的部分を、いままでの日本の新劇は、みんな写実や情緒でごまかして、もつともらしい理屈をくつつけて
来たにすぎない。

三島由紀夫「『サド侯爵夫人』の再演」より


眠りや忘却は、プルウストによつて深い小説的主題となつたが、戯曲や演劇は、覚醒と想起と再体験なしには
成立たない。

三島由紀夫「戯曲『アラビアン・ナイト』について」より


歴史劇などといふのは、本来言葉の矛盾である。芝居に現はれる現象としての事実は、はじめから入念に選び
出されたものであるのに、歴史では玉石混淆だからである。

三島由紀夫「歴史的題材と演劇」より

371 :名無しさん@また挑戦:2011/04/04(月) 15:16:51.01 ID:???
俳優がその若さの絶頂にゐて、若さの絶頂の役を演じるといふことは、芸術における例外的な恩寵である。


若さは、伝説と反対に、傷つき易い、みじめなものなのである。私自身それをよく知つてゐる。若さの年齢において
若さを演ずることは、スパルタの少年の克己をわがものにすることだ。

三島由紀夫「中山仁君について」より


青年の苦悩は、隠されるときもつとも美しい。


精神的な崇高と、蛮勇を含んだ壮烈さといふこの二種のものの結合は、前者に傾けば若々しさを失ひ、後者に
傾けば気品を失ふむつかしい画材であり、現実の青年は、目にもとまらぬ一瞬の行動のうちに、その理想的な
結合を成就することがある。

三島由紀夫「青年像」より


青年には、強力な闘志と同時に服従への意志とがあり、その魅力を二つながら兼ねそなへた組織でなければ、
真に青年の心をつかむことはできない。

三島由紀夫「本当の青年の声を(『日本学生新聞』創刊によせて)」より

372 :名無しさん@また挑戦:2011/04/04(月) 15:30:14.16 ID:???
感情だけが恋を形づくるが、恋をこはすのもまた、感情だ。それなら形だけの恋、感情を持たない恋の中にだけ、
永遠なものが宿るのではないだらうか?

三島由紀夫「鏡の中の恋」より


小説に美しいはかない抒情が求められる時代は、現実に苦痛が次第に負荷を加へてくる時代である。

三島由紀夫「中河与一全集を祝ふ」より


世の中といふものは面白いもので、非常に偉大で有名な人物に会つてみると、その人物自体はわりに平凡な
印象を与へ、却つてその蔭に、個性の強烈な別の人物がついてゐる、といふことがよくあるものだ。

三島由紀夫「テネシー・ウィリアムズのこと」より


いくらお金を費つても費つても、貧しい気分にしかならないたいへんな時代が、現代といふものである。

三島由紀夫「鳳凰台上鳳凰遊ぶ」より


エロティックといふのは、ふつうの人間が日常のなかでは自然と思つてゐる行為が、外に現はれて人の目に
ふれるときエロティックと感じる。

三島由紀夫「古典芸能の方法による政治状況と性――作家・三島由紀夫の証言」より

373 :名無しさん@また挑戦:2011/04/04(月) 15:54:53.58 ID:???
英雄とは、文学ともつとも反対側にしかない概念である。

三島由紀夫「年頭の迷ひ」より


小説家も拳闘家も同じことだが、血湧き肉をどる思ひをさせるのは処女作時代で、一家をなし、追はれる立場に
なれば、さういふ魅力は乏しくなり、代りにいはゆる「円熟した技巧」を見せはじめる。しかし、巧くなつて
不正直になるのは堕落といふもので、巧くなつてもなほ正直といふところが尊いのだ。

三島由紀夫「原田・メデル戦」より


人間は人生の当初に、何もわからず、やみくもに考へたことを基本にして、その思想から一歩も出られずに
生きてゐるといふことも亦真実であるやうに思はれる。たとへば、「反時代的な芸術家」といふのは、私が
二十二、三歳のころに書いたエッセイだが、このエッセイの言つてゐることは、二十年後の私がそのまま実行して
ゐることである。

三島由紀夫「跋(『芸術の顔』)」より

374 :名無しさん@また挑戦:2011/04/04(月) 15:58:39.15 ID:???
ものを書くといふ仕事は呪はれてゐるのである。この仕事には、生の根本的な否定が奥底にひそんでゐる。
なぜなら、それは永生を前提にしてゐるからである。そして、ひとたび筆をとつたら、日記ですら、「生そのもの」の
冒涜に他ならないと感じるときに、告白は不可能になる筈である。荷風の「日乗」は一行も告白などしてゐない。

三島由紀夫「いかにして永生を?」より


覚悟のない私に覚悟を固めさせ、勇気のない私に勇気を与へるものがあれば、それは多分、私に対する青年の
側からの教育の力であらう。そして教育といふものは、いつの場合も、幾分か非人間的なものである。

三島由紀夫「青年について」より


論敵同士などといふものは卑小な関係であり、言葉の上の敵味方なんて、女学生の寄宿舎のそねみ合ひと大差が
ありません。


剣のことを、世間ではイデオロギーとか何とか言つてゐるやうですが、それは使ふ刀の研師のちがひほどの問題で、
剣が二つあれば、二人の男がこれを執つて、戦つて、殺し合ふのは当然のことです。

三島由紀夫「野口武彦氏への公開状」より

375 :名無しさん@また挑戦:2011/04/04(月) 18:15:35.54 ID:???
母方の祖父が漢学者であつたため、私はごく稚ないころから、お正月といふと、母の実家へ年始に行つて書初めを
やらされた。それも固苦しい書初めではなく、座敷いつぱいに何枚もきいろいのや白いのや長大な紙をひろげられて、
文鎮で留められ、そのまはりを大ぜいの親戚の子がわいわい言つてゐるなかで、ごく小さな子には長い白髯の祖父が、
筆を一緒に待つて運筆を教へてくれる。
「力いつぱい! さう、さう。思ひ切つて! コセコセしてはいけない。思ひきり、勢ひよく」
と男の子は特に声援される。
大きな筆にたつぷり墨を含ませて、大きな紙に思ひ切り書くのは、一種の運動の快感があつて、子供を喜ばせる。
子供は自分の体より大きな字を自分が書いたことに、何ともいへない満足を味はふのである。
それから、それは又、度胸といふもの、決心といふやうなものを教へる。力いつぱいふくらませた風船のやうに
自分がなつて、その空気を一気に紙上にぶちまける「機」ともいふべきものを、しらずしらずに教へられる。

三島由紀夫「習字の伝承」より

376 :名無しさん@また挑戦:2011/04/04(月) 18:18:56.78 ID:???
才能や理智や感情なら、早熟といふこともあらうけれど、魂自体には、早熟も晩熟もない。

三島由紀夫「もつとも純粋な『魂』ランボオ」より


日本人の美のかたちは、微妙をきはめ洗煉を尽した果てに、いたづらな奇工におちいらず、強い単純性に還元される
ところに特色があるのは、いふまでもない。永遠とは、くりかへされる夢が、そのときどきの稔りをもたらしながら、
又自然へ還つてゆくことだ。生命の短かさはかなさに抗して、けばけばしい記念碑を建設することではなく、
自然の生命、たとへば秋の虫のすだきをも、一体の壷、一個の棗(なつめ)のうちにこめることだ。ギリシャ人は
巨大をのぞまぬ民族で、その求める美にはいつも節度があつたが、日本人もこの点では同じである。

三島由紀夫「『人間国宝新作展』推薦文」より


表現といふものは、そもそも下劣なぐらゐの「人間的関心」なのであり、クールであることは逆説にすぎない。


個人が組織を倒す、といふのは善である。

三島由紀夫「『サムライ』について」より

377 :名無しさん@また挑戦:2011/04/04(月) 20:45:31.71 ID:???
私の生活は人から見るとフシギらしいのである。何がフシギなのか、私にはわからない。人間には精神があるが、
精神の特徴は人に見えないといふことである。文学の作品といふのは、その見えないものを、目に見える、
形のあるものに移したものである。ひとたび形が問題になれば、その形は美しくなければならない。
ここに形の世界がはじめる。いやしくも作品で形が問題になつてゐるのに、作者が生活において形を問題にしない、
といふ心理は私にはわからない。なりふりかまはず美しい作品を作るといふ名人気質には、何か病的なものが
感じられる。
形といつても、手を加へることができるのは、衣・食・住の他には、武道、スポーツその他による肉体訓練に
限られてゐる。(中略)人間は、自分の内面を包むのに、礼儀正しくなければならない。文学者の内面は
サンタンたる泥沼であつて、そんな醜いものを人目にさらすべきではない。外形さへ健康な力に充ちてゐれば、
それがすなはち「礼儀正しい私」の姿である。だから、たとへ裸であつても、私は礼儀正しいのである。

三島由紀夫「無題(『フシギな男三島由紀夫』)」より

378 :名無しさん@また挑戦:2011/04/14(木) 20:54:38.94 ID:???
(谷崎)氏は今日にいたるまで、怒りを知らないやうにみえる。怒りを知らなかつたといふことは、言ひかへれば、
無力感にとらはれなかつたといふことでもある。一度怒つた作家がいかに深い無力に沈んだことか。突飛な比較だが、
怒りをしちつくどい感覚で縛り上げて、怒りを小出しにし、内燃させて、つひに今日まで無力感にとらはれないで
来た作家に、中野重治氏があり、怒りを一旦爆発させたあとで、深い無力感を極度に押しつけがましく利用した作家に、
永井荷風氏がある。谷崎氏を含めて、かれらはいづれもニヒリズムに陥ることから、それぞれの生理に適した方法で、
おのれを救つた作家である。
実は、谷崎氏ほどニヒリストになる条件を完全にそなへた作家はめづらしかつた。意地のわるいことを言ふと、
「神童」の芸術家たるの目ざめ、「異端者の悲しみ」の同じ目ざめから以後の氏の作品は、すべて動機なき犯罪に
似てゐる。動機のない犯罪にだけ、本当の宿命的な動機がある、といふ逆説を、氏は生涯を以て実証したやうに
みえる。その完全な開化が傑作「卍」である。

三島由紀夫「大谷崎」より

379 :名無しさん@また挑戦:2011/04/14(木) 21:02:18.13 ID:???
「卍」の背後に動いてゐる氏の手つきは、ニヒリストの白い指先に酷似してゐる。しかしこれはニヒリストの
作品ではないのだ。人間存在のこのやうな醜悪で悲痛な様相に直面した作家の目は、ここから身をひるがへして
脱出しようといふあがきを示してゐないからだ。ニヒリズムの兆候は、得体のしれない脱出の欲望として
あらはれる。(中略)
おそらく谷崎氏の生き方には、私の独断だが、芥川龍之介の自殺が逆の影響を与へてゐるやうに思はれる。芥川の
死の逆作用は、大正時代の作家のどこにも少しづつ影を投じてゐる。谷崎氏は、芥川の敗北を見て、持ち前の
マゾヒストの自信を以て、「俺ならもつとずつとずつとうまく敗北して、さうして永生きしてやる」と呟いたに
ちがひない。
実際、芸術家の敗北といふ、これほど自明な、これほど月並な、これほど必然的な帰結について、谷崎氏ほど
聡明に身を処した人はなかつた。戦はずして敗北し、御馳走をたべ、そして永生きすればよいのだつた。そして
あらゆる戦ひといふもののうちにひそむ、芸術にとつては虚偽の性質を、氏は人生の当初にすでに深く知悉してゐた。

三島由紀夫「大谷崎」より

380 :名無しさん@また挑戦:2011/04/15(金) 16:25:31.84 ID:???
大体明治以来の作家を、文章に於て、三大別することができる。独創的なスタイルを作つた作家と、体質的な
スタイルを身につけた作家と、人工的なスタイルの作家と三種類である。小説はスタイルばかりで値打が
決るものではないから、俄かにこの三種類の優劣を定めるわけにはゆかないが、第一類の総代が森鴎外で、
ずつと下つて、小林秀雄や堀辰雄がこの系列に入る。第二類の総代が夏目漱石で、武者小路実篤や丹羽文雄や
武田泰淳までがこの系列に入る。第三類の総代が、泉鏡花あるひは芥川龍之介で、横光・川端はほぼこの系列の
作家である。
しかし鏡花と龍之介を一緒に第三類にぶちこむには異論があるにちがひない。事実、この第三類はもつとも厄介な
問題を蔵してをり、人工的な天性をそのまま人工的文体に生かした鏡花のやうな、第二類の変種のやうな作家も
ゐれば、人工的な天性から逆の自然的なスタイルを生み出さうとして苦闘した龍之介もある、といふ風である。
横光はどちらかといふとこの龍之介型、苦闘型であり、川端は、鏡花型、人工的天性型だといへるであらう。

三島由紀夫「横光利一と川端康成」より

381 :名無しさん@また挑戦:2011/04/15(金) 16:32:07.21 ID:???
「機械」のラストの文章である。
故意に句読点と段落を極度に節約し、文脈には飜訳調を故意にとり入れてゐる。すべてが、この小説の主題の
展開にふさはしいやうに作り上げられた文章である。(中略)「機械」一篇を読了してこの結末に来ると、
実際「機械の鋭い先尖がぢりぢり」読者を狙つて来るやうに感じられるのである。
われわれは日本人である以上、日本語の文章を書くわけだが、日本語の一語一語が持つてゐる伝統的ニュアンスと
いふものは否定しがたく、多くはそのニュアンスによりかかつて文章を書くわけである。手紙の候文などは
その極端なものであらう。
横光が「機械」の文章で試みた実験は、日本語から歴史や伝統を悉く捨象して、意味だけを純粋につたへるところの
いはば無機質の文章を書くことであつた。(中略)

三島由紀夫「横光利一と川端康成 一 横光利一」より

382 :名無しさん@また挑戦:2011/04/15(金) 16:37:14.08 ID:???
明治の哲学者は、ドイツの観念論哲学の用語をそれぞれ飜訳して、該当する漢語を作りだし、それを組み合はせて、
今までにない抽象的な日本文を作つた。ところがさうして作られた言葉も、何十年かたつと、苔が生えるやうに、
日本語としての複雑なニュアンスを帯びてくるから、ふしぎである。
しかしさういふ意味では、「機械」の文章は、今日も日本の歴史の苔のつかないふしぎな乾燥した抽象的性格を
保持してゐる。それはまた題材乃至主題との幸福な出会ひでもあり、横光はかうして作つた文体でいくつかの
短編を書くが、それが彼の固有の文体にまではならないのである。
(中略)横光の到達しえた最もリアリスティックな文章は、したがつて、「機械」の文章――氏の技法上の冒険が、
人間性探求の冒険と、最も無垢に歩調を合はせたときに生れた文章――であるといへよう。
氏の晩年の作品では、「微笑」が傑作と思はれ、又その文章は、青春時代の叙情をよみがへらせたふしぎな
みづみづしさをもつてゐるが、紙数の関係で割愛する。

三島由紀夫「横光利一と川端康成 一 横光利一」より

383 :名無しさん@また挑戦:2011/04/15(金) 16:42:51.53 ID:???
横光と比べると、川端康成は自己批評の達人であり、どうにもならない自分の資質に対して、これほど聡明に
身を処して来た人はめづらしい。氏の文章も、それをよくあらはしてゐる。(中略)
氏の文章は、感覚だけでしか、外界とつながらうとしないのである。つまり自分の長所、得手によつてしか。
(中略)
氏の文章を、横光利一のやうに、段階的に分けて見ることはむづかしい。又その必要もなささうに思はれる。
芸術家としての氏にはかつて自己革命といふのがなかつたから、文章にもそれのあるわけがないのである。
かうした事情は、最も幸福な、又、最も不幸な芸術家の宿命である。氏の文章を初期から最近までずつと見て
来た者は、実際、真の芸術家には、自己革命なんてある筈がないといふ奇妙な逆説的確信にとらはれてしまふ。
なるほど、例へが突飛だが、スタンダールにはそんなものはなかつた。

三島由紀夫「横光利一と川端康成 二 川端康成」より

384 :名無しさん@また挑戦:2011/04/15(金) 16:46:32.14 ID:???
川端康成の文章の極意は、一行から一行への神秘な転調にあるので、構文そのものにあるのではない。構文
そのものには特色がないことが、私をして、決して独創的な文章ではないと言はしめる所以である。
(中略)
文章といふものには、どんなそつけない散文にも、内的な音楽といふものがある。氏の文章にはそれがない。
これは実におどろくべきことだ。ためしに氏の小説を朗読してみるがいい。たとへば永井荷風の小説などに比べたら、
朗読の快感といふものはほとんどない筈である。
しかし強ひて言へば、この世のものならぬ音楽性といふものはある。それは琴の絃が突然切れたひびきや、精霊を
よび出す梓弓の弾かれた弦の音のやうなものである。氏の小説にたびたび用ひられる頻繁な改行の技巧は、実は
かうした音の突然の断絶の効果ではあるまいか。してみればさういふ改行の配慮は、氏の音楽性に対する配慮と
いへるかもしれない。

三島由紀夫「横光利一と川端康成 二 川端康成」より

385 :名無しさん@また挑戦:2011/04/16(土) 14:18:21.42 ID:???
また夏がやつてきた。このヒリヒリする日光、この目くるめくやうな光りの中を歩いてゆくと、妙に戦後の一時期が、
いきいきとした感銘を以て、よみがへつてくる。あの破壊のあとの頽廃、死ととなり合はせになつたグロテスクな生、
あれはまさに夏であつた。かがやかしい腐敗と新生の季節、夏であつた。昭和二十年から二十二・三年にかけて、
私にはいつも真夏が続いてゐたやうな気がする。あれは兇暴きはまる抒情の一時期だつたのである。
(中略)
私は妹を愛してゐた。ふしぎなくらゐ愛してゐた。(中略)ある日、妹は発熱し、医者は風邪だと言つたが熱は
去らず、最初から高熱がつづき、食欲が失くなつた。(中略)チフスと診断が確定すると、当時隔離病室が
焼けてゐたので、そのまま避病院へ移された。体の弱い母と私が交代で看護したが、妹は腸出血のあげくに死んだ。
死の数時間前、意識が全くないのに、「お兄ちやま、どうもありがたう」とはつきり言つたのをきいて、私は
号泣した。

三島由紀夫「終末感からの出発――昭和二十年の自画像」より

386 :名無しさん@また挑戦:2011/04/16(土) 14:21:44.14 ID:???
戦後にもう一つ、私の個人的事件があつた。
戦争中交際してゐた一女性と、許嫁の間柄になるべきところを、私の逡巡から、彼女は間もなく他家の妻になつた。
妹の死と、この女性の結婚と、二つの事件が、私の以後の文学的情熱を推進する力になつたやうに思はれる。
種々の事情からして、私は私の人生に見切りをつけた。その後の数年の、私の生活の荒涼たる空白感は、今
思ひ出しても、ゾッとせずにはゐられない。年齢的に最も溌剌としてゐる筈の、昭和二十一年から二・三年の
間といふもの、私は最も死の近くにゐた。未来の希望もなく、過去の喚起はすべて醜かつた。私は何とかして、
自分、及び、自分の人生を、まるごと肯定してしまはなければならぬと思つた。しかし敗戦後の否定と破壊の
風潮の中で、こんな自己肯定は、一見、時代に逆行するものとしか思はれなかつた。それが今になつてみると、
私の全く個人的真実だけを追ひかけた生き方にも、時代の影が色濃くさしてゐたのがわかる。

三島由紀夫「終末感からの出発――昭和二十年の自画像」より

387 :名無しさん@また挑戦:2011/04/27(水) 19:30:22.74 ID:???
何だつて私は銀座へ出てくるのであるか! いくばくの金は費ふし、足はくたびれるし、胃はもたれるし、
ロクなことはないのである。大体私は物の味のわからない人間だが、マメに銀座へ出てくるうちに、好物が出来た。
(中略)食後の酒には、吉田健一氏のお仕込みで、シャルトルーズ・グリーンを舐めるやうになつた。それを
呑む前にはいたづらにマッチで火をつけて、青い焔を廿秒ほど燃やしてから。
私は銀座の洋服を着、銀座のネクタイを締め、銀座の猿股をはいてゐる。本当は銀座に住みたいのだが、これは
よしたはうがいい。友達に荒されて、何もできなくなるだらう。しかし何だつて、私はこんなに銀座に義理を
立てる必要があるのであるか! 私は銀座から一銭だつて貰つたことはないのである。
子供のころは、それでも銀座へ連れて行つてもらふことは、うれしいことであつた。家へよく来る人に銀座ッ児が
ゐて、七丁目あたりの表通りにあつた映画館へ連れて行かれた。その小さな映画館もめづらしかつたし、かへりに
連れられて歩いたクネクネした裏通りの小路も面白かつた。

三島由紀夫「わが銀座」より

388 :名無しさん@また挑戦:2011/04/27(水) 19:33:16.35 ID:???
私は数寄屋橋上から、霧の夕方など、今のピカデリー劇場、そのころの邦楽座の壁面に、パラマウントの大きな
山形のイルミネーションがまばゆく光つてゐるのを、うれしく眺めた。そのころマツダ・ビル楼上のニュー・
グランドの部分が、赤、青、緑、黄に変幻して、サーチライトの光芒をひろびろと投げかけてゐた。
私は父母につれられて、そのニュー・グランドや、ローマイヤ・レストランへ行くとき、子供らしい虚栄心を
満足させられた。そのころケストネルの少年小説「点子ちやんとアントン」に夢中になつてゐて、その小説に
出てくる「泡雪クリーム」といふものを、何とかして喰べたいと憧れてゐた。しかし「泡雪クリーム」なるものは、
どこにも売つてゐなかつた。
銀座へ行けは何でも売つてゐると思ふのはまちがひだ、といふことに気がついたのはそれがはじめである。今でも
銀座で決して売つてゐないもので、私がもう一度喰べてみたいと思ふものが一つある。それは戦争中、海軍の工場で、
飯のおかずに喰はされて、こんなに旨いものはないと思つたところの、ポテト・チョップのやうな形をした、
大豆粕をいためた奴である。

三島由紀夫「わが銀座」より

389 :名無しさん@また挑戦:2011/04/28(木) 11:58:57.37 ID:???
少年時代にほとんど性欲的な知性の目覚めといふものを持たない人は、人生の半面しか知らない人ではないかと
思はれる。


私は徐々に文学の上で知的なものと感性的なもの、ニイチェの言つてゐるアポロン的なものとディオニソス的な
もののどちらを欠いても理想的な芸術ではないといふことを考へるやうになつた。


私はやはりニイチェ的な考へでギリシャの芸術を見てゐたと思ふのであるが、どこをつついても翳のないやうな
明るさ、完全な冷静さ、ある場合には陽気さ、快活さ、若々しさ、さういふものが見かけだけのものではなくて、
一番深いフシギなものをひそめてゐることに打たれた。そして一番表面的なものが、一番深いものだとさへ
考へるやうになつた。なぜなら私は心理分析にあきてゐたし、そこから人間の問題が全部出てくるとは思へなかつた。
むしろ人間のちよつとした表面の動きとか、太陽の光にさらされた平面を描いたものの中に、人間の存在の
恐ろしさとか、暗さとかが逆に出てくるやうに感じた。

三島由紀夫「わが魅せられたるもの」より

390 :名無しさん@また挑戦:2011/04/28(木) 12:02:48.82 ID:???
私は建設的な芸術といふものをいつまでたつても信じることができないし、そして芸術の根本にあるものは、
人を普通の市民生活における健全な思考から目覚めさせて、ギョッとさせるといふことにかかつてゐるといふ
考へが失せない。もし芸術家のやることが市民の考へることと全然同じになつてしまつたら、芸術が出てくる動機が
ないのである。そして現在あるところのものを一度破滅させなければよみがへつてこないやうなもの、ちやうど
ギリシャのアドニスの祭のやうに、あらゆる穫入れの儀式がアドニスの死から生れてくるやうに、芸術といふものは
一度死を通つたよみがへりの形でしか生命を把握することができないのではないかといふ感じがする。さういふ
点では文学も古代の秘儀のやうなものである。収穫の祝には必ず死と破滅のにほひがする。しかし死と破滅も
そのままでは置かれず、必ず春のよみがへりを予感してゐる。

三島由紀夫「わが魅せられたるもの」より

391 :名無しさん@また挑戦:2011/04/28(木) 12:06:10.53 ID:???
大体私は死や破滅そのものだけをテーマにした芸術にはあまり興味がない。いはゆる狂気の芸術及び狂気の
天才といふものには大して興味がない。やはり私は死や破滅を通していつもよみがへりを夢見てゐるのであるが、
さういふことを夢見ることと、根本的な破滅の衝動とがうまく符節を合したときに、いい芸術ができるのでは
ないかと思ふ。


立派な芸術は積木に似た構造を持ち、積木を積みあげていくやうなバランスをもつて組立てられてゐるけれども、
それを作るときの作者の気持は、最後のひとつの木片を積み重ねるとたんにその積木細工は壊れてしまふ、
さういふところまで組立てていかなければ満足しない。積木が完全なバランスを保つところで積木をやめるやうな
作者は、私は芸術家ぢやないと思はれる。世の教訓的な作家とかいはゆる健全な作家といはれてゐる連中は積木を
壊すことがイヤなのである。最後の一片を加へることによつてみすみす積木が崩れることがわかつてゐながら、
最後の木片をつけ加へる。そして積木はガラガラと崩れてしまふのであるが、さういふふうな積木細工が芸術の
建築術だと私は思ふ。

三島由紀夫「わが魅せられたるもの」より

392 :名無しさん@また挑戦:2011/04/28(木) 12:58:48.15 ID:???
赤ッ面の敵役があまり石原氏をボロクソに言ふから、江戸ッ子の判官びいきで、ついつい氏の肩を持つやうに
なるのだが、あれほどボロクソに言はれなかつたら、却つて私が赤ッ面の役に回つてゐたかもしれない。その点
私の言ひ草は相対的であり、また、現象論的であることを御承知ねがひたい。
従つて、ひいきとしては、氏の一勝負一勝負が一々気になるが、今まででは「処刑の部屋」が一等いい作品で、
中にはずいぶん香ばしくないものもある。
香ばしくないどころか、呆れ返るものもある。しかし、ひいきのたのしみはいつも不安を与へられることであり、
はじめから安定した、まちがひのない作家といふものに私は興味がない。


今のところ、氏は本当に走つてゐるといふよりは、半ばすべつてゐるのである。すべることは走るより楽だし、
疲労も軽い。しかし自分がどこへ飛んで行つてしまふかわからぬ危険もある。やつぱり着実に走つて、自分の脚が
着実に感ずる疲労だけが、信頼するに足るものだといふことを、スポーツマンの氏はいづれ気づくにちがひない。

三島由紀夫「石原慎太郎氏」より

393 :名無しさん@また挑戦:2011/04/28(木) 17:35:20.50 ID:???
作家にとつての文体は、作家のザインを現はすものではなく、常にゾルレンを現はすものだといふ考へが、
終始一貫私の頭を離れない。つまり一つの作品において、作家が採用してゐる文体が、ただ彼のザインの表示で
あるならば、それは彼の感性と肉体を表現するだけであつて、いかに個性的に見えようともそれは文体とはいへない。
文体の特徴は、精神や知性のめざす特徴とひとしく、個性的であるよりも普遍的であらうとすることである。
ある作品で採用されてゐる文体は、彼のゾルレンの表現であり、未到達なものへの知的努力の表現であるが故に、
その作品の主題と関はりを持つことができるのだ。何故なら文学作品の主題とは、常に未到達なものだからだ。
さういふ考へに従つて、私の文体は、現在あるところの私をありのままに表現しようといふ意図とは関係がなく、
文体そのものが、私の意志や憧れや、自己改造の試みから出てゐる。

三島由紀夫「自己改造の試み――重い文体と鴎外への傾倒」より

394 :名無しさん@また挑戦:2011/04/28(木) 20:50:03.59 ID:???
日本ではいまだに啓蒙的なインテリゲンチアが、古い日本は悪であり、アジア的なものは後退的であると思ひ込んで
ゐるのは、実に簡単な理由、日本人に植民地の経験がないからである。又、進歩主義者の民族主義が、目前の
政治的事象への反撥以外に、民衆に深い共感を与へないのも、日本人に植民地の経験がないからである。この
民族主義は東南アジアでは怖るべき力になる。


多くのアジア後進諸国は、未開拓の豊富な天然資源をもち、将来国内市場が拡張されれば、日本のやうな高度に
海外市場に依存した危険な経済に進まずともよい利点がある。或る国は経済の多角化に成功し、或る国は単一生産に
とどまりながらも、相互の経済協力が必須のものとなつて来てゐるのである。


資本主義国、社会主義国いづれを問はず、結局めざましい成功を収めた経済現象の背後には、必ず政策の成功があり、
政策の基礎には民族的エネルギーに富んだ「国民的生産力」が存在する。

三島由紀夫「亀は兎に追ひつくか?――いはゆる後退国の諸問題」より

395 :名無しさん@また挑戦:2011/04/28(木) 21:27:56.99 ID:???
人間は好奇心だけで、人間を見に行くことだつてある。

三島由紀夫「奥野健男著『太宰治論』評」より


小説は芸術のなかでも最もクリチシズムの強いものだ。

三島由紀夫「文芸批評のあり方――志賀直哉氏の一文への反響」より


神を信じる、あるひは信じないことと、神を持たないといふことは、おのおの別の次元、別の範疇に於ける
出来事なのである。従つてそこには同一次元上の対立といふものはありえない。


神を持つ人種と、神を持たぬ人種との間に横たはる深淵は、芸術を以てしては越えられぬ。それを越えうるものは
信仰だけである。(日本古昔の耶蘇教殉教者を見よ)。


信仰にとつては、黄いろい人白い人といふ色彩論が何の値打があるか。神があるだけである。芸術にとつては
黄いろい人白い人といふ色彩論が何の値打があるか。人間があるだけである。アメリカの黒人問題を扱つた小説は、
すべて具象的で、人間的である。

三島由紀夫「小説的色彩論――遠藤周作『白い人・黄色い人』」より

396 :名無しさん@また挑戦:2011/04/28(木) 21:33:33.25 ID:???
芝居の世界に住む人の、合言葉的生活感情は、あるときは卑屈な役者根性になり、あるときは観客に対する
思ひ上つた指導者意識になる。正反対のやうに見えるこの二つのものは、実は同じ根から生れたものである。
本当の玄人といふものは、世間一般の言葉を使つて、世間の人間と同じ顔をして、それでゐて玄人なのである。
三島由紀夫「無題『新劇』扉のことば」より


大体私はオペラをばからしい芸術だと考へてゐる。オペラの舞台といふものは、外国で見たつて、多少、正気の
沙汰ではない。しかし何んともいへない魅力のあるもので、正宗白鳥氏流にいふと、一種の痴呆芸術の絶大な
魅力を持つてゐる。

三島由紀夫「『卒塔婆小町』について」より


今日、伝統といふ言葉は、ほとんど一種のスキャンダルに化した。


どんな時代が来ようと、己れを高く持するといふことは、気持のよいことである。

三島由紀夫「藤島泰輔『孤独の人』序」より

397 :名無しさん@また挑戦:2011/04/30(土) 11:50:54.13 ID:???
川端さん、新年おめでたうございます。
毎年一月二日には、御年賀に上つて、賑やかな賀宴の末席に連なるのが例ですが、はじめて伺つてから、今年で
もう十年になります。(中略)
それは寒い日で、大塔宮裏のお宅までは、まだバスも通じてゐなかつたころと思ひます。廿一歳の私は、いろいろ
生意気なことを口走つたとおぼえてゐますが、内心はびくびくして、無言に堪へることができなかつたのでした。
失礼なことを申しますが、川端さんが黙つたまま、私をじろじろ見られるので、身のすくむ思ひでありました。
(中略)
いつのお正月でしたか、あまり御酒を嗜(たしな)まれぬ川端さんが、子供のお客たちにまじつて、テレヴィジョン
ばかり見てゐられたのを思ひ出します。テレヴィジョンの画面には、踊り子たちが、寒中、裸の脚をそろへて
上げて、右に左に顔を向けては踊つてゐました。

三島由紀夫「正月の平常心――川端康成氏へ」より

398 :名無しさん@また挑戦:2011/04/30(土) 13:49:05.76 ID:???
川端さんが名文家であることは正に世評のとほりだが、川端さんがつひに文体を持たぬ小説家であるといふのは、
私の意見である。なぜなら小説家における文体とは、世界解釈の意志であり、鍵なのである。混沌と不安に対処して、
世界を整理し、区劃し、せまい造型の枠内へ持ち込んで来るためには、作家の道具とては文体しかない。
フロオベルの文体、スタンダールの文体、プルウストの文体、森鴎外の文体、小林秀雄の文体、……いくらでも
挙げられるが、文体とはさういふものである。
ところで、川端さんの傑作のやうに、完璧であつて、しかも世界解釈の意志を完全に放棄した芸術作品とは、
どういふものなのであるか? それは実に混沌をおそれない。不安をおそれない。しかしそのおそれげのなさは、
虚無の前に張られた一条の絹糸のおそれげのなさなのである。ギリシアの彫刻家が、不安と混沌をおそれて
大理石に託した造型意志とまさに対蹠的なもの、あの端正な大理石彫刻が全身で抗してゐる恐怖とまさに反対の
ものである。

三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より

399 :名無しさん@また挑戦:2011/04/30(土) 13:52:27.40 ID:???
(中略)
川端さんのかういふおそれげのなさ、自分を無力にすることによつて恐怖と不安を排除するといふ無手勝流の
生き方は、いつはじまつたのか?
思ふに、これはおそらく、孤児にひとしい生ひ立ちと、孤独な少年期と青年期の培つたものであらう。氏のやうに
極端に鋭敏な感受性を持つた少年が、その感受性のためにつまづかず傷つかずに成長するとは、ほとんど
信じられない奇蹟である。しかし文名の上りだした青年期には、氏が感受性の溌剌たる動きに自ら酔ひ、自ら
それを享楽した時代もあつたことはたしかである。氏がきらひだと言つてをられる「化粧と口笛」のやうな作品では、
氏の鮮鋭な感受性はほとんど舞踊を踊り、稀な例であるが、感性がそのまま小説中の行為のごとき作用をしてゐる。
氏の感受性はそこで一つの力になつたのだが、この力は、そのまま大きな無力感でもあるやうな力だつた。何故なら
強大な知力は世界を再構成するが、感受性は強大になればなるほど、世界の混沌を自分の裡に受容しなければ
ならなくなるからだ。これが氏の受難の形式だつた。

三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より

400 :名無しさん@また挑戦:2011/04/30(土) 13:57:56.94 ID:???
しかしそのときもし、感受性が救ひを求めて、知力にすがらうとしたらどうだらう。知力は感受性に論理と
知的法則とを与へ、感受性が論理的に追ひつめられる極限まで連れて行き、つまり作者を地獄へ連れて行くのである。
やはり川端さんがきらひだと言はれてゐる小説「禽獣」で、作者がのぞいた地獄は正にこれである。「禽獣」は氏が、
もつとも知的なものに接近した極限の作品であり、それはあたかも同じやうな契機によつて書かれた横光利一の
「機械」と近似してをり、川端さんが爾後、決然と知的なものに身を背けて身を全うしたのと反対に、横光氏は、
地獄へ、知的迷妄へと沈んでゆくのである。
このとき、川端さんのうちに、人生における確信が生れたものと思はれる。(中略)情念が情念それ自体の、
感性が感性それ自体の、官能が官能それ自体の法則を保持し、それに止まるかぎり、破滅は決して訪れないといふ
確信である。虚無の前に張られた一条の絹糸は、地獄の嵐に吹きさらされても、決して切れないといふ確信である。
これがもし大理石彫刻なら倒壊するだらうが。

三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より

401 :名無しさん@また挑戦:2011/04/30(土) 14:01:30.17 ID:???
かうして川端さんは、他人を放任する前に、自分を放任することが、人生の極意だと気づかれた。その代り
他人の世界の論理的法則が自分の中へしみ込んで来ないやうに警戒すること。しかしその外側では、他人の
世界の法則に楽々と附合つてゆくこと。……実際、快楽主義といふものは時には陰惨な外見を呈するものだが、
ワットオと共に、氏の芸術を快楽的な芸術だと云つても、それほど遠くはなからう。
(中略)
ここまで言へば、冗く言ふ必要もないことだが、川端さんが文体をもたない小説家であるといふことは氏の
宿命であり、世界解釈の意志の欠如は、おそらくただの欠如ではなくて、氏自身が積極的に放棄したものなのである。
(中略)
さういふ川端さんが、完全に孤独で、完全に懐疑的で、完全に人間を信じてゐないかといふことになると、それは
一個の暗黒伝説にすぎないことは、前にも述べたとほりである。氏の作品には実にたびたび、生命(いのち)に
対する讃仰があらはれ、巨母的小説家であつた岡本かの子に対する氏の傾倒は有名である。

三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より

402 :名無しさん@また挑戦:2011/04/30(土) 14:07:38.15 ID:???
しかし川端さんにとつての生命とは、生命イコール官能なのである。この一見人工的な作家の放つエロティシズムは、
氏の永い人気の一因でもあつたが、これについて中村真一郎氏が、私に面白い感想を語つたことがある。
「この間、川端さんの少女小説を沢山、まとめて一どきに読んだが、すごいね。すごくエロティックなんだ。
川端さんの純文学の小説より、もつと生なエロティシズムなんだ。ああいふものを子供によませていいのかね。…」
(中略)
氏のエロティシズムは、氏自身の官能の発露といふよりは、官能の本体つまり生命に対する、永遠に論理的帰結を
辿らぬ、不断の接触、あるひは接触の試みと云つたはうが近い。それが真の意味のエロティシズムなのは、対象
すなはち生命が、永遠に触れられないといふメカニズムにあり、氏が好んで処女を描くのは、処女にとどまる限り
永遠に不可触であるが、犯されたときはすでに処女ではない、といふ処女独特のメカニズムに対する興味だと
思はれる。

三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より

403 :名無しさん@また挑戦:2011/04/30(土) 14:10:59.17 ID:???
ここで私は、作家と、その描く対象との間の、――書く主体と書かれる物との間の、――永遠の関係について
論じたい誘惑にかられるが、もう紙数が尽きた。
しかし乱暴な要約を試みるなら、氏が生命を官能的なものとして讃仰する仕方には、それと反対の極の知的な
ものに対する身の背け方と、一対をなすものがあるやうに思はれる。生命は讃仰されるが、接触したが最後、
破壊的に働らくのである。そして一本の絹糸、一羽の蝶のやうな芸術作品は、知性と官能との、いづれにも
破壊されることなしに、太陽をうける月のやうに、ただその幸福な光りを浴びつつ、成立してゐるのである。
戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。「私はこれからもう、日本の悲しみ、日本の
美しさしか歌ふまい」――これは一管の笛のなげきのやうに聴かれて、私の胸を搏つた。

三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より

404 :名無しさん@また挑戦:2011/04/30(土) 16:57:15.30 ID:???
私は西部劇の映画を殊に好んで見るといふのではない。このごろのやうな二流西部劇の氾濫では、どれもこれも
同じやうな題がついてゐて、うつかり入ると、前見たものと同じものを見かねない。しかし、少年時代からの
憧れはなかなか消えないもので、私は西部劇といふと、あのサボテンの生ひ茂つた土地と、強烈な日光と、馬と、
馬具の新らしい革の匂ひと、拳銃のきらめき、とをすぐに思ひうかべる。それは厳密に風土的な一つの世界の
イメージなのであつて、日本の股旅物と同じものだといふ考へは当らない。日本のチャンバラには、あのやうな
砂漠も強烈な日光も欠けてゐる。
谷川俊太郎氏の詩で、私の最も愛するものに、「ビリイ・ザ・キッド」といふ一篇がある。この自分の年の数と
同じ人数だけ殺して、廿一歳かそこらで殺された美少年に、氏は夭折の詩人の運命を託したものだらう。だから
西部劇の一少年悪漢は、ランボオや、サン・ジュストや、シェリイや、キーツや、あらゆる反逆的少年詩人の
イメージをその身に負ふのである。

三島由紀夫「西部劇礼讃」より

405 :名無しさん@また挑戦:2011/04/30(土) 17:00:38.09 ID:???
ジェーン・ラッセルの大きな乳房を仄見せる映画「ならず者」に登場するビリイ・ザ・キッドはまだそれらしかつたが、
めつきり老け込んだロバート・テイラーの扮したビリイの映画は、大そうグロテスクで、この少年英雄の夢を
裏切ること甚だしいものがあつた。大体西部劇に分別くさい役者が出るのはまづい。「シェーン」のアラン・
ラッドのやうに、精悍だが、全然知的な味はひのない役者が適当である。もつとも多分その脳ミソの少ないところが
禍ひして、「シェーン」以外のアラン・ラッドは、見るもむざんな大根である。
私が馬が好きなのも、西部劇が原因であるかもしれない。ホース・オペラとは、西部劇の別称ださうである。
馬の匂ひ、厩の匂ひ、長靴の匂ひ、新らしい鞍のギシギシいふ音、光つた拍車、……かういふものは、皆
現実離れのした別の燦然たる行為の世界に属してゐた。馬はたしかに西部劇にディグニティーを与へてゐる。

三島由紀夫「西部劇礼讃」より

406 :名無しさん@また挑戦:2011/04/30(土) 17:04:57.57 ID:???
(中略)
西部劇は純然たる男だけの世界であつてこそ意味がある。へんな恋愛をからませた西部劇ほど、おかつたるいものはない。
さて、西部劇に欠くべからざるインディアンのことだが、アメリカ人はインディアンに対しては、ニグロに
対するやうな人種的偏見を持つてゐないらしい。ユンクによると、アメリカ人の英雄類型は結局インディアンの
伝統的英雄に帰着するさうである。アメリカ人の集合的無意識は、自分の祖先を衰弱した白皙のヨーロッパ人と
してよりも、精力にみちあふれた赤い肌のインディアンとして見てゐるらしい。開拓時代にインディアンと
戦ひながら、アメリカ人は敵の精力をしらずしらず崇拝し、模倣しようとしたかもしれない。いつかバート・
ランカスターがインディアンの血を引いた駿足の運動選手に扮した映画を見たことがあるが、そこではバート・
ランカスターが象徴するアメリカの精力と、インディアンに対する夢とが、はつきり一つものになつてゐた。

三島由紀夫「西部劇礼讃」より

407 :名無しさん@また挑戦:2011/04/30(土) 17:09:13.03 ID:???
最近の「理由なき反抗」といふ映画における、チキン・ランといふ無意味な胆だめしなども、私にはアメリカ人の
インディアン・コムプレックスと関係のあるものに思はれた。日米戦争の相互的影響によつて、いつか日本人が
インディアン類型にあこがれ、アメリカ人がサムラヒ類型にあこがれるやうになるかもしれない。すでに映画の
「宮本武蔵」が、アメリカで上映されてゐる。
「一難去つて又一難」といふ事態に対する人間のどうしやうもない興味は、(これは西部劇に限つたことでは
ないが)、どんなに平和な時代が続かうと癒やしがたいものであるらしい。平和な市民生活に直接の身体的危険が
乏しいことから、この刺戟飢餓は、危険なスポーツや、自動車の制限速度の超過や、犯罪などに向ひ、あるひは
内攻してノイローゼに向ふことになる。西部劇はかういふ不満に対するいかにも安全な薬品である。

三島由紀夫「西部劇礼讃」より

408 :名無しさん@また挑戦:2011/04/30(土) 20:27:17.16 ID:???
(神輿の)懸声は、単純な拍子木や、原始的な金棒のひびきに導かれて、終始同じリズムでやりとりされてゐる。
もし神輿に懸声が伴はなかつたら、それは神輿の屍体にすぎぬ。なぜなら、(おそらくここに、神輿の懸声が、
他の肉体労働の懸声とちがつてゐる点があるのだが)、このリズムある懸声は、神輿の脈搏なのである。それは
理性の統制を決して意味することなく、われわれの動きを秩序づけようと作用することもない。正しい懸声の
あひだにも、肩にかかる力は目まぐるしく増減してをり、足元は人に踏まれたり踏み返されたりしながら、調子を
とらうとするそばから小刻みに乱される。われわれの気儘な動きのあひだにも、心臓が鼓動を早めながら、なほ
正確な脈搏を忘れぬやうに、そのとき懸声は担ぎ手たちの感じてゐる自由な力を保証するために挙げられてゐる。
あの力の自在な感じは、懸声がなかつたら、忽ち失はれるにちがひない。

三島由紀夫「陶酔について」より

409 :名無しさん@また挑戦:2011/04/30(土) 20:32:14.29 ID:???
そしてリズムある懸声と力の行使と、どちらが意識の近くにゐるかと云へば、ふしぎなことに、それはむしろ
後者のはうである。懸声をあげるわれわれは、力を行使してゐるわれわれより一そう無意識的であり、一そう
盲目である。神輿の逆説はそこにひそんでゐる。担ぎ手たちの声や動きやあらゆる身体的表現のうち、秩序に
近いものほど意識からは遠いのである。
神輿の担ぎ手たちの陶酔はそこにはじまる。彼らは一人一人、変幻する力の行使と懸声のリズムとの間の違和感を
感じてゐる。しかしこの違和感が克服され、結合が成就されなければ、生命は出現しないのである。そして結合は
必ず到来する。われわれは生命の中に溺れる。懸声はわれわれの力の自由を保証し、力の行使はたえずわれわれの
陶酔を保証するのだ。肩の重みこそ、われわれの今味はつてゐるものが陶酔だと、不断に教へてくれるのであるから。

三島由紀夫「陶酔について」より

410 :名無しさん@また挑戦:2011/05/01(日) 11:59:46.44 ID:???
風俗といふやつは、仮名遣ひなどと同様、むやみに改めぬがよろしい。新仮名論者の進歩派たちも、羽田の
見送りさわぎでは日本的風俗を守つてゐるのが奥床しい。

三島由紀夫「きのふけふ 羽田広場」より


母親に母の日を忘れさすこと、これ親孝行の最たるものといへようか。

三島由紀夫「きのふけふ 母の日」より


国の裁判権の問題は、その国の威信にかかはる重大な問題である。
三島由紀夫「きのふけふ マリア・ルーズ号事件」より


現実はいつも矛盾してゐるのだし、となりのラジオがやかましいと非難しながら、やはり家にだつてラジオの
一台は必要だといふことはありうる。

三島由紀夫「きのふける 両岸主義」より


辺幅を飾らないのは結構だが、どこまでも威厳といふものは必要だ。ことに西洋人は、東洋人独特の神秘的な
威厳といふものに弱いのである。


日本はここでアジア後進国にならつて、もう少し威厳とものわかりのわるさを発揮できないものであらうか。
ものわかりのよすぎる日本人はもう沢山。

三島由紀夫「きのふけふ 威厳」より

411 :名無しさん@また挑戦:2011/05/01(日) 12:04:42.84 ID:???
キリスト像があんなにアバラが出て痩せこけてゐるのは、人間が精神を視覚化するときに、なるたけ肉体的要素を
払拭した肉体を想像する傾きがあるからであらう。その反対でバッカス像は必ず肥つてゐる。それは快楽と肉と
衝動の象徴だからである。かうした象徴は世間の常識に深く入つてゐる。
肉体的な逞ましさと精神美とは絶対に牴触するといふ信念は広く流布してゐる。インドの苦行者のやうな
骨だらけの体を、日本人は一種のアジア的感受性から、尊崇する傾きがある。
象徴や、世間の通念はそれでいい。しかし御当人に何が起るかといふ問題である。人間の肉体と精神は、
象徴のやうに止つてゐないで、生々流転してゐる。肉体と精神のバランスが崩れると、バランスの勝つたはうが
負けたはうをだんだん喰ひつぶして行くのである。痩せた人間は知的になりすぎ、肥つた人間は衝動的になりすぎる。
現代文明の不幸は、悉くこのバランスから起つてゐる。

三島由紀夫「ボディ・ビル哲学」より

412 :名無しさん@また挑戦:2011/05/01(日) 12:07:25.69 ID:???
文士の例でいへば、面白いことに、戦後の破滅型の小説家、坂口安吾や田中英光の人並外れた巨躯はもとより、
太宰治もかなり頑丈な長身であつた。三人とも体にはかなり自信があつたので、肉体蔑視の思想にとらはれ、
自分たちのかなり頑丈な肉体に敵意を燃やし、この肉体を喰ひつぶすほどの思想を発明するために、生活を
めちやくちやにしてしまつた。彼らはわざわざ、むりやりにアンバランスを作り出したのである。
もつともこの三人とても、頑丈な体を持ちながら脳ミソの空つぽな作家に比べれば、どれだけ文学者らしいか
わからない。
一方では、知的でありすぎ、あるひは感覚的でありすぎる作家たちがゐる。文学作品を通した感覚といふものは、
元来知的なものであるから、知的な作家にこの二つを引つくるめてもよい。
彼らの作品には、確乎たる肉の印象がどこかに欠けてゐる。肉の耀やきが、本当の官能性といふものが欠けてゐる。
これは前記の例の逆のアンバランスである。

三島由紀夫「ボディ・ビル哲学」より

413 :名無しさん@また挑戦:2011/05/01(日) 12:10:04.10 ID:???
このアンバランスのはうが重大かと思はれるのは、ジイドもいふやうに「官能性こそは芸術家の最上の美徳」
だからである(因みにいふと、ジイドその人にも官能性が欠けてゐる)。これらの作家たちは、たとへ細緻な
性的感覚をゑがいても、肉の力と形態を欠いてゐるのである。
近代芸術の短所は、まさにその点にある。知性だけが異常発達を遂げて、肉がそれに伴はないのだ。
肉といふものは、私には知性のはぢらひあるひは謙抑の表現のやうに思はれる。鋭い知性は、鋭ければ鋭いほど、
肉でその身を包まなければならないのだ。ゲーテの芸術はその模範的なものである。精神の羞恥心が肉を身に
まとはせる、それこそ完全な美しい芸術の定義である。羞恥心のない知性は、羞恥心のない肉体よりも一そう醜い。
ロダンの彫刻「考へる人」では、肉体の力と、精神の謙抑が、見事に一致してゐる。
だまされたと思つてボディ・ビルをやつてごらんなさい。

三島由紀夫「ボディ・ビル哲学」より

414 :名無しさん@また挑戦:2011/05/01(日) 18:03:39.24 ID:???
人生では、一番誠実ぶつてゐる人が一番ずるいといふ状況によくぶつかります。一番ずるさうにしてゐる人が、
実は仕事の上で一番誠実である場合もたくさんあります。


私は、人間といふものは子どものときから老人に至るまで、その年齢々々のずるさを頑固に持つてゐるものだと
考へてゐます。子どもには恐るべき子どものずるさがあります。気ちがひにすら気ちがひのずるさがあります。


ほんたうの誠実さといふものは自分のずるさをも容認しません。自分がはたして誠実であるかどうかについても
たえず疑つてをります。


人間の肉体はそれが酷使されるときに実にさはやかな喜びをもたらすといふフシギな感じを持つてゐます。
それと同時に精神が生き生きしてまゐります。深刻にものを考へがちな人はとにかく戸外に出て駈けずり
まはらなければいけません。しかし、駈けずりまはつて、スポーツばかりやつて、まつたく精神を使はなくなつて
しまふのもまた奇形であります。

三島由紀夫「青春の倦怠」より

415 :名無しさん@また挑戦:2011/05/01(日) 19:52:55.75 ID:???
感覚に訴へないものは古びることがない。

三島由紀夫「鴎外の短編小説」より


私は次のやうに考へてゐる。肉体的健康の透明な意識こそ、制作に必要なものであつて、それがなければ、
小説家は人間性の暗い深淵に下りてゆく勇気を持てないだらうと。
小説家は人間の心の井戸掘り人足のやうなものである。井戸から上つて来たときには、日光を浴びなければならぬ。
体を動かし、思ひきり新鮮な空気を呼吸しなければならぬ。

三島由紀夫「文学とスポーツ」より


われわれはいかに精神世界に生きても、肉体は一種の物質である以上、そのサビをとらなければ、精神活動も
サビつきがちになることを忘れてゐる。

三島由紀夫「体操と文明――浜田靖一著『図説徒手体操』」より


知的なものは、たえず対極的なものに身をさらしてゐないと衰弱する。自己を具体化し肉化する力を失ふのである。
私がスポーツに求めてゐるのは、さまざまな精神の鮮明な形象であるらしい。

三島由紀夫「ボクシングと小説」より

416 :名無しさん@また挑戦:2011/05/01(日) 20:53:10.35 ID:???
神島は忘れがたい島である。のちに映画のロケーションに行つた人も、この島を大そう懐しんでゐる。人情は素朴で
強情で、なかなかプライドが強くて、都会を軽蔑してゐるところが気に入つた。地方へ行つて、地方的劣等感に
会ふほどイヤなものはない。

三島由紀夫「『潮騒』のこと」より


オペラといふものには懐しい故郷のやうな感じがするのである。さうして、大体、オペラの筋の荒唐無稽さとか
不自然さとかといふものは、我々は歌舞伎に慣れてゐるからさほど驚きもしない。


この間のわけのわからない京劇などよりも、私はよほど感動した。さうして隣国でありながら京劇がわからないで
オペラはわかるといふことは、不幸なことのやうでもあるが、京劇のやうなわからないものをわかる振りを
するインテリの一部の傾向は、私には無邪気さを欠いてゐるやうに思はれる。

三島由紀夫「盛りあがりのすばらしさ」より

417 :名無しさん@また挑戦:2011/05/02(月) 12:36:50.61 ID:???
詩人の魂だけが歴史を創造するのである。

三島由紀夫「日本的湿潤性へのアンチ・テーゼ――山本健吉氏『古典と現代文学』」より


オルフェは誰であつてもよい。ただ彼は詩に恋すればいいのだ。日本語では妙なことに詩と死は同じ仮名である。
オルフェは詩に恋し、死神は神の詩であり、オルフェの女房は詩に嫉妬する。それでいいのだ。

三島由紀夫「元禄版『オルフェ』について」より


われわれが美しいと思ふものには、みんな危険な性質がある。温和な、やさしい、典雅な美しさに満足して
ゐられればそれに越したことはないのだが、それで満足してゐるやうな人は、どこか落伍者的素質をもつて
ゐるといつていい。

三島由紀夫「美しきもの」より


地震なるものに厳密な周期律も発展性もないやうに、文壇崩壊論にも、さういふものはない。


近代小説なるものは、日本的私小説であつてはならない。


近代小説には思想が、少なくとも主体的なライトモティーフがなければならぬ。


小説は面白くなくてはならないのである。

三島由紀夫「文壇崩壊論の是非」より

418 :名無しさん@また挑戦:2011/05/02(月) 12:43:22.71 ID:???
美人が八十何歳まで生きてしまつたり、醜男が二十二歳で死んだりする。まことに人生はままならないもので、
生きてゐる人間は多かれ少なかれ喜劇的である。

三島由紀夫「夭折の資格に生きた男――ジェームス・ディーン現象」より


小説でも、絵でも、ピアノでも芸事はすべてさうだがボクシングもさうだと思はれるのは、練習は必ず毎日
やらなければならぬといふことである。

三島由紀夫「ボクシング・ベビー」より


画家と同様、作家にも純然たる模写時代模倣時代、があつてよいので、どうせ模倣するなら外国の一流の作家の
模倣と一ト目でわかるやうな、無邪気な、エネルギッシュな失敗作がズラリと並んでゐてほしい。


運動の基本や練習の要領については、先輩の忠告が何より実になる筈だが、文学だつて、少なくとも初歩的な
段階では、スポーツと同じ激しい日々の訓練を経なければものにならないのである。

三島由紀夫「学習院大学の文学」より

419 :名無しさん@また挑戦:2011/05/02(月) 12:50:03.45 ID:???
歴史の欠点は、起つたことは書いてあるが、起らなかつたことは書いてないことである。そこにもろもろの小説家、
劇作家、詩人など、インチキな手合のつけ込むスキがあるのだ。

三島由紀夫「『鹿鳴館』について」より


恋が障碍によつてますます募るものなら、老年こそ最大の障碍である筈だが、そもそも恋は青春の感情と
考へられてゐるのであるから、老人の恋とは、恋の逆説である。

三島由紀夫「作者の言葉(『綾の鼓』)」より


かういふ箇所(自然描写)で長所を見せる堀(辰雄)氏は、氏自身の志向してゐたフランス近代の心理作家よりも、
北欧の、たとへばヤコブセンのやうな作家に近づいてゐる。人は自ら似せようと思ふものには、なかなか似ない
ものである。

三島由紀夫「現代小説は古典たり得るか 『菜穂子』修正意見」より


あまりに強度の愛が、実在の恋人を超えてしまふといふことはありうる。

三島由紀夫「班女について」より

420 :名無しさん@また挑戦:2011/05/02(月) 12:56:14.33 ID:???
はじめからをはりまで主人公が喜び通しの長編小説などといふものは、気違ひでなければ書けない。

三島由紀夫「文字通り“欣快”」より


花柳界ではいまだに奇妙な迷信がある。不景気のときは黄色の着物がはやり、また矢羽根の着物がはやりだすと
戦争が近づいてゐるといふことがいはれてゐる。(中略)
かうした慣習や迷信は、女性が無意識に流行に従ひ、無意識に美しい着物を着るときに、無意識のうちに同時に
時代の隠れた動向を体現しようとしてゐることを示すものである。女の人の髪形や、洋服の形の変遷も馬鹿には
できない。そこには時代精神の、ある隠された要求が動いてゐるかもしれないのである。

三島由紀夫「私の見た日本の小社会 小社会の根底にひそむもの」より


男性の突出物は、実に滑稽な存在であるが、それをかうまで滑稽にしたのはあまりに隠蔽する習慣がつきすぎた
ためであらう。

三島由紀夫「私の見た日本の小社会 全裸の世界」より

421 :名無しさん@また挑戦:2011/05/02(月) 13:03:40.94 ID:???
大衆に迎合して、大衆のコムプレックスに触れぬやうにビクビクして作られた喜劇などは、喜劇の部類に
入らぬことを銘記すべきである。

三島由紀夫「八月十五夜の茶屋」より


怖くて固苦しい先生ほど、後年になつて懐かしく、いやに甘くて学生におもねるやうな先生ほど、早く印象が
薄れるのは、教育といふものの奇妙な逆説であらう。

三島由紀夫「ドイツ語の思ひ出」より


詩人とは、自分の青春に殉ずるものである。青春の形骸を一生引きずつてゆくものである。詩人的な生き方とは、
短命にあれ、長寿にあれ、結局、青春と共に滅びることである。


小説家の人生は、自分の青春に殉ぜず、それを克服し、脱却したところからはじまる。ゲーテがウェルテルを
書いて、自殺を免かれたところからはじまる。

三島由紀夫「佐藤春夫氏についてのメモ」より

422 :名無しさん@また挑戦:2011/05/02(月) 13:06:18.04 ID:???
「いづれ春永に」といふ中世以来のあいさつには、あの春日のさし入つた空白のなかでまた顔を合はせませう、
といふ気分があるのだらう。愛情も、好悪も、あらゆる人間的感情が一応ご破算になる。さういふ空間を、
早春の一日に設定した人間のたくらみは、私にも少しはわかる。

三島由紀夫「いづれ春永に」より


ゲエテがかつて「東洋に憧れるとはいかに西欧的なことであらう」と申しましたが、これを逆に申しますと
「西欧に憧れるとはいかに東洋的なことであらう」ともいへるのです。


他への関心、他の文化、他の芸術への関心を含めて、他者への関心ほど人間を永久に若々しくさせるものはありません。

三島由紀夫「日本文壇の現状と西洋文学との関係――ミシガン大学における講演」より


芸術家が芸術と生活をキチンと仕分けることは、想像以上の難事である。芸術家は、その生活までも芸術に
引つぱりこまれる危険にいつも直面してゐる。

三島由紀夫「谷桃子さんのこと」より

423 :名無しさん@また挑戦:2011/05/02(月) 19:31:10.08 ID:???
少年の最初の時期は、異性愛的なものと同性愛的なものが、非常に混在してをります。


私にもごたぶんに漏れず赤紙が来ましたが、即日帰郷になつて帰つて以来、ぱつたり忘れたやうに、もう二度と
来ませんでした。(中略)それはいつまで待つても来ない恋文のやうなもので、しかしいつ訪れるかわからないの
でした。来るのをおそれながら、みな何となくその赤紙を待つような気持ちにもなつてゐました。


窓外の雨にぬれた田園の景色をながめながら、何もかも見をさめだといふ気がしてゐました。あんな不思議な感情は、
今の若い人は知るまいと思ひます。もう負けるにきまつてゐるこの戦争は、おそらく日本国民の全滅をもつて
終るだらうし、目の前にあるものは惨たんたる破局だけ、要するに死だけでありました。ですから何を見るにも
見をさめといふ気がしたし、ある楽しみを味はつても、それは最後の味だと思ふのでした。ですから感覚は
生き生きとし、つまらない事物にも、それを見ることに喜びを感じ、ちやうど雨季に入りかけた木々の緑の
したたりも、実に新鮮に目に映るのでした。

三島由紀夫「わが思春期」より

424 :名無しさん@また挑戦:2011/05/02(月) 19:35:55.80 ID:???
童心を失つた人とは、自分の思春期までの人生を、ただ子供のばかばかしい無経験なことと考へて、それを
すつかり捨て去り、おとなの散文的な、世俗的な、実は一段とつまらない人生の方にばかり目を向けてゐる人の
ことを言ふのです。


ある年齢の表現は、一見どんな自堕落な行動と見えるものの中でも、その年齢の特有の羞恥心、純情、かはいらしい
無垢な態度、さういふものをひそめてゐるものです。十八歳で六十歳の老人になることはどんなことをしても
できないのです。


その年齢の真実といふものが、人生の最も美しいみのりなのです。みのりは七十歳、八十歳になつてだけできて
くるものではありません。十七歳には十七歳のみのりがあり、十八歳にも十八歳のみのりがあります。


性や愛に関する事柄は、結局百万巻の書物によるよりも、一人の人間から学ぶことが多いのです。われわれの
異性に関する知識は異性のことを書いたたくさんの書物や映画よりも、たつた一人の異性から学ぶことが多いのです。

三島由紀夫32歳「わが思春期」より

425 :名無しさん@また挑戦:2011/05/02(月) 21:14:25.74 ID:???
この地上で自分の意欲を実現する方式に二つはないのではないか? 芸術も政治も、その方式に於ては一つなのでは
ないか? だからこそ、芸術と政治はあんなにも仲が悪いのではないか? ただ、いつも必ず失敗し、いつも
必ず怒つてゐるのは、理想主義者だけなのである。
ワグナーは、加藤道夫氏とちがつて、どうやら、理想の劇場は死んだといふことを、誰よりも鮮明に、腹の中で
知つてゐた男のやうに思はれる。だから彼の「理想の劇場」が建つてしまつたのである。しかしこの壮大な規模の
古代祭典劇の再現を自分で見ながら、やはりワグナーは、その友にして仇敵ニイチェが荘厳な面持で、
「神は死んだ」と言つたやうに、ニヤリと笑ひながら、「理想の劇場は死んだ」と呟いてゐたかもしれない。
私はワグナーといふ男のことを考へると、彼の作品のあのやうな悲愴さにもかかはらず、ワグナー自身は、毫も
悲愴さを持たぬ人間だつたやうな気がしてならない。それは多分彼が「芸術家だから理想主義者ではない」といふ
風土に、育ち且つ生きたからであらう。

三島由紀夫「楽屋で書かれた演劇論 理想の劇場は死んだ」より

426 :名無しさん@また挑戦:2011/05/02(月) 21:21:18.30 ID:???
ラヂウムを扱ふ学者が、多かれ少なかれ、ラヂウムに犯されるやうに、身自ら人間でありながら、人生を扱ふ
芸術家は、多かれ少なかれ、その報いとして、人生に犯される。
ラヂウムは本来、人間には扱ひかねるものである。その扱ひには常に危険が伴ふ。その結果、人間の肉体が犯される。
人間の心とは、本来人間自身の扱ふべからざるものである。従つてその扱ひには常に危険が伴ひ、その結果、
彼自身の心が、自分の扱ふ人間の心によつて犯される。犯された末には、生きながら亡霊になるのである。そして、
医療や有効な目的のために扱はれるラヂウムが、それを扱ふ人間には有毒に働くやうに、それ自体美しい人生や
人間の心も、それを扱ふ人間には、いつのまにか怖ろしい毒になつてゐる。多少ともかういふ毒素に犯されて
ゐない人間は、芸術家と呼ぶに値ひしない。

三島由紀夫「楽屋で書かれた演劇論 俳優と生の人生」より

427 :名無しさん@また挑戦:2011/05/03(火) 12:13:10.68 ID:???
川端康成はごく日本的な作家だと思はれてゐる。しかし本当の意味で日本的な作家などが現在ゐるわけではない
ことは、本当の意味で西洋的な作家が日本にゐないと同様である。どんなに日本的に見える作家も、明治以来の
西欧思潮の大洗礼から、完全に免れて得てゐないので、ただそのあらはれが、日本的に見えるか見えないか
といふ色合の差にすぎない。
(中略)
作家の芸術的潔癖が、直ちに文明批評につながることは、現代日本の作家の宿命でさへあるやうに思ふはれ、
(永井)荷風はもつとも忠実にこれを実行した人である。なぜなら芸術家肌の作家ほど、作品世界の調和と統一に
敏感であり、又これを裏目から支える風土の問題に敏感である。ところで現実の投影の作品世界を清掃してゆくには、
雑然たる東西混淆の日本の現実、日本の不可思議な雑種文明そのものを批評して行かなければならない。

三島由紀夫「川端康成の東洋と西洋」より

428 :名無しさん@また挑戦:2011/05/03(火) 12:16:49.02 ID:???
(中略)
今の東京は、よかれあしかれ、明治以来の継木文化そのままの都市的表現であつて、東京のグロテスクは、
そのまま、われわれ知識人と称するものの内面のグロテスクの反映である。これに対立するものとして、荷風の
江戸のイメーヂがあり、久保田(万太郎)氏の古い東京のイメーヂがある。共に作家の批評の果てに結実した
イメーヂであつて、現実とは断絶してゐる。たゞ荷風が「冷笑」その他の、あらはなエッセイの形でこの批評を
行つたのに対し、久保田氏は、作品だけで批評を行つたにすぎぬ。だから一見、久保田氏の作品は、批評的に
見えない。しかし舞台の上のわびしい朝顔の花一輪にも、批評が、すなはち西洋が結実してゐるのである。
悲しいことに、われわれは、西欧を批評するといふその批評の道具をさへ、西欧から教はつたのである。
西洋イコール批評と云つても差支へない。

三島由紀夫「川端康成の東洋と西洋」より

429 :名無しさん@また挑戦:2011/05/04(水) 13:09:46.36 ID:???
さて、日本の現実の、かかる文化的混乱状態の結果として、日本における芸術家の特異な運命がはじまる。
日本では、芸術家肌の作家ほど、極度に批評的にならねばならないのである。これは本当に困つたことで、
芸術創造の機能と批評の機能とは、本来、相反するものなのである。モオツァルトの音楽がどうして批評であらうか。
日本で何故かくも小説といふジャンルが隆盛を極めてゐるかを考へて、私は、その一つの理由に、小説がもつとも
批評的な芸術であるといふ理由を数へずにはゐられない。(中略)
かくて、日本に生れた芸術家は、不断に日本の文明批評を強ひられ、この東西の混淆のうちから、自分の真の
風土と本能にふさはしいイメーヂをみつけ出し、それを的確に結実させた人のみが成功する。(中略)
さて、私はやうやく、川端康成の問題に戻つて来られたやうである。
川端氏は俊敏な批評家であつて、一見知的大問題を扱つた横光(利一)氏よりも、批評家として上であつた。
氏の最も西欧的な、批評的な作品は「禽獣」であつて、これは横光氏の「機械」と同じ位置をもつといふのが
私の意見である。

三島由紀夫「川端康成の東洋と西洋」より

430 :名無しさん@また挑戦:2011/05/04(水) 13:15:46.56 ID:???
二十代の新感覚派時代の氏の作品は、当時のモダニズムの社会的風潮のスケッチであり、それを独自な感覚で
裁断したものであつて、最もハイカラな文学だつたと云へよう。ただ氏の場合の特色は、自分の鋭敏な感覚を発見し、
それに依拠して、それ以外のものにたよらぬ潔癖のおかげで、作品世界の調和を成就したことである。(中略)
私がことさら、昭和八年、氏が三十五歳の年の「禽獣」を重要視するのは、それまで感覚だけにたよつて縦横に
裁断して来た日本的現実、いや現実そのものの、どう変へやうもない怖ろしい形を、この作品で、はじめて氏が
直視してゐる、と感じるからである。氏は自分の作品世界を整理し、崩壊から救ふべく準備しはじめるが、
いふまでもなくこれは氏の批評的衝動である。
そのとき氏は、はじめて日本の風土の奥深くのがれて、そこで作品世界の調和を成就しよう、西欧的なものは
作品形成の技術乃至方法だけにとどめよう、と決意したらしく思はれる。そして昭和十年に、あの「雪国」が
書きはじめられる。

三島由紀夫「川端康成の東洋と西洋」より

431 :名無しさん@また挑戦:2011/05/04(水) 13:20:11.53 ID:???
昭和二十五年満二十五歳の写真と、昭和三十一年満三十一歳の写真を比べてみると、この七年の経過は、私を
ずいぶん変へたと思ふ。二十五歳の私は一種の観念的な病気にかかつてゐる。その症状は写真からもありありと
うかがはれる。世間一般の通念でいふと、当時の私は今よりもずつと「純粋」だつたのである。
しかし私は或る種の天才的な詩人のやうに、純粋性そのものの、世界に身の置き処のない孤独をかこつて
ゐたわけではない。純粋な火の玉になつて、人々のあひだをころがりまはつて、火傷を負はせたりして、人に
迷惑をかけてゐたわけではない。(中略)
私は文学だけに生きるのだと思ひ込み、人生における自分の不器用を誇張して考へた。大そう蒼ざめて痩せて
ゐたから、肉体が私の固定観念になつた。私自身における肉体は、いやな、唾棄すべき、目をそむけずには
ゐられぬものであつた。それでゐて、芸術は肉体的劣等感と離れがたいものだと思つてゐた。その結果、人から
耽美主義者と云はれながら、芸術そのものをも私は憎んでゐた。

三島由紀夫「或る寓話」より

432 :名無しさん@また挑戦:2011/05/04(水) 13:23:49.05 ID:???
私はどうにかして自分の一生の仕事である芸術を憎みたくないと思つて、私の範疇とちがつた文学を求めて、
ギリシアの健康な天才をあがめるにいたつた。
ソポクレースが、前四四〇年、「アンティゴネー」を以て大勝利を収めたあとで、ペリクレースと共にサモスの
叛乱を鎮定すべき十人の将軍の一人に任ぜられたことを知ると、それだけでソポクレースを尊敬した。また
ワイマールの宰相ゲエテを尊敬した。
そのうちに生来の夢想癖から、自分もそんなことができないでもないやうな気がしてきた。自分は思つたほど、
人から思ひ込まされてゐたほど弱くない。もしかしたら私は強者かもしれないのに、それを知らずにゐたら
一生の損ではないか。だんだんに私は自分のことを、しやにむに強者だと思ひ込むやうにした。進んでイヤな
ことをやり、気の進まぬことをもやつた。
牛のまねをして、蛙がお腹をふくらまして、たうとう破裂してしまふ話があるが、私はもしかしたらその破裂の
途上にあるのかもしれない。

三島由紀夫31歳「或る寓話」より

433 :名無しさん@また挑戦:2011/05/04(水) 15:35:31.61 ID:???
マヤの死の神はたえず飢ゑてゐて、がつがつと餌を求めてゐる。ここでは人が死ぬといふことは、自然が自然に
喰はれ、生命が生命に喰はれることであり、たとへ自然死であつても、それは何か蝶が蜘蛛に喰はれるのと似てゐる。
かうして半ば文明生活に護られてゐながら、どこかに自分を打ち倒すいやらしい生々しい生命の存在を予感して
ゐるのは、私だけだらうか。
いや、私だけではない。コミュニストたちは革命の名の下に、砂塵をあげて攻め寄せてくるより強大な生命を
描いてみせながら、思ふ存分、今なほ衰へぬかうした伝来的恐怖を利用する。メキシコの左翼画家リヴェラが
描く威嚇するやうな労働者群は、人間的規模を越えて、熱帯のあくどい圧倒的自然に近づいてゐる。
(中略)
熱帯の人々の生き方には、その外圧的なより強力な生の模倣がひそんでゐる。われわれは巨大なてらてらと
光つた植物や、鸚鵡や豹の生命を模倣しようとする。それに参画しようとする。……これが生きるといふことであり、
これが不可能になつたときそれは死であり、模倣の代りに喰べられ同化されてしまふことなのである。

三島由紀夫「旅の絵本 1 禿鷹の影」より

434 :名無しさん@また挑戦:2011/05/04(水) 15:38:35.59 ID:???
チチェン・イッツァのマヤランド・ロッヂ・ホテルの二階の柱廊から、私は鬱蒼と茂つた熱帯樹の葉むらのかげに、
うす紫の寄生蘭が花咲いてゐるのを見た。と、突然、その蘭の花弁をかすめて、数羽のたけだけしい羽音が起り、
黒い影が目の前をかきみだして翔つた。それは禿鷹だつた。
死はこんな白昼に、こんなにも人々の食卓や寝椅子に近く、力強く羽撃いてゐた。その影は午後の酒を置いた
テーブル・クロースの上をも翳らした。それは不吉な黒い姿をしてはゐるが、やはり強大な生命の一種に
他ならないのだ。
他者としての生命、自我にかかはらない生命……、かういふものの考へ方は西欧人をぞつとさせる。それは容易に
生命と死の同一視にみちびくからである。そしてかういふ考へ方は、必ずどこかで太陽崇拝に結びついてゐる。
身を突き刺す嚠喨たる喇叭の音のやうに、たえず鳴りひびいてゐる熱帯の日光。空気は幾条もの亀裂を生じて澱み、
椰子や火焔樹は目くるめく海の背景に象嵌されて身じろぎもしない。

三島由紀夫「旅の絵本 1 禿鷹の影」より

435 :名無しさん@また挑戦:2011/05/04(水) 15:45:31.72 ID:???
廃墟といふものは、ふしぎにそこに住んでゐた人々の肌色に似てゐる。ギリシアの廃墟はあれほど蒼白であつたが、
ここウシュマルでは、湧き立つてゐる密林の緑の只中から、赤銅色の肌をした El Adivino のピラミッドが
そそり立つのだ。その百十八の石階には古い鉄鎖がつたはつてをり、むかしマキシミリアン皇妃がろくろ仕掛の
この鎖のおかげで、大袈裟にひろがつたスカートのまま、ピラミッドの頂きまで登つたのであつた。
そこらの草むらには、はうばうに石に刻んだ雨神の顔が落ちてゐた。この豊饒の神の顔は怒れる眉と爛々たる目と
牙の生えた口とをもち、鼻は長く伸びてその先が巻いて象の鼻に似、しばしば双の耳の傍から男根を突き出してゐる。
(中略)
巨大な中庭をかこむ四つの尼僧院の壮麗さは私をおどろかせたが、そこを出て、(中略)ウシュマルのアポロ神殿
ともいふべき「支配者の宮殿」の前に立つたとき、いくつかのゴシック風のアーチの余白をのぞいて、残る隈なく
神秘的な浮彫に飾られた横長の壮大な建築は、私の心をいきいきとさせ、ついで感動で充たした。

三島由紀夫「旅の絵本 4 壮麗と幸福」より

436 :名無しさん@また挑戦:2011/05/04(水) 15:51:20.56 ID:???
大宮殿はおそらくその下に石階を隠してゐる平たい広大な台地の上にあつた。この正面に相対して、二頭の
ジャグワの像を据ゑた小さい台地があり、さらに宮殿の入口の前には、巨大な男根が斜めにそびえてゐた。
壮麗な建築がわれわれに与へる感動が、廃墟を見る場合に殊に純粋なのは、一つにはそれがすでに実用の目的を離れ、
われわれの美学的鑑賞に素直に委ねられてゐるためでもあるが、一つには廃墟だけが建築の真の目的、そのために
それが建てられた真の熱烈な野心と意図を、純粋に呈示するからでもある。この一見相反する二つの理由の、
どちらが感動を決定するかは一口に云へない。しかし廃墟は、建築と自然とのあひだの人間の介在をすでに
喪つてゐるだけに、それだけに純粋に、人間意志と自然との鮮明な相剋をゑがいてみせるのである。廃墟は現実の
人間の住家や巨大な商業用ビルディングよりもはるかに反自然的であり、先鋭な刃のやうに、自然に対立して
自然に接してゐる。それはつひに自然に帰属することから免れた。それは古代マヤの兵士や神官や女たちの
やうには、灰に帰することから免れた。

三島由紀夫「旅の絵本 4 壮麗と幸福」より

437 :名無しさん@また挑戦:2011/05/04(水) 15:54:58.54 ID:???
と同時に、当時の住民たちが果してゐた自然との媒介の役割も喪はれて、廃墟は素肌で自然に接してゐるのである。
殊に神殿が廃墟のなかで最も美しいのは、通例それが壮麗であるからばかりではなく、祈りや犠牲を通して神に
近づかうとしてゐた人間意志が、結局無効にをはつて挫折して、のび上つた人間意志の形態だけが、そこに
残されてゐるからであらう。かつては祈りや犠牲によつて神に近づき、天に近づいたやうに見えた大神殿は、
廃墟となつた今では、天から拒まれて、自然――ここではすさまじいジャングルの無限の緑――との間に、対等の
緊張をかもし出してゐる。神殿の廃墟にこもる「不在」の感じは、裸の建築そのものの重い石の存在感と対比されて
深まり、存在の証しである筈の大建築は、それだけますます「不在」の記念碑になつたのである。われわれが
神殿の廃墟からうける感動は、おそらくこの厖大か石に呈示された人間意志のあざやかさと、そこに漂ふ厖大な
「不在」の感じとの、云ふに云はれぬ不気味な混淆から来るらしい。

三島由紀夫「旅の絵本 4 壮麗と幸福」より

438 :名無しさん@また挑戦:2011/05/04(水) 16:45:52.50 ID:???
大体アメリカの貧乏は日本の貧乏よりすご味があります。たとへば年金制度が発達して、隠退後の老人は
働かないでいい、といへば結構なやうだが、さういふ老人はどうやつて余生を送るだらう。ある寒い午後、
友人とセントラル・パークへ散歩に行き、小高い丘の上にある六角堂みたいな建物に入つてみると、その中は
暖房がしてあつて、たゞで西洋将棋ができるやうになつてゐる。むうつとするたばこの煙のなかで、行き場のない
老人ばかりが、じつとチェスの卓を囲んでゐる。長考の顔の深い皺。……スチームのそばのベンチは、ただ
放心したやうに腰かけてゐる老人で一ぱいだ。日本の縁台将棋のやうなにぎやかさはなくて、私は一種凄愴の
気を感じて、いそいで立去りました。

三島由紀夫「旅の絵本 ニューヨークの炎」より

439 :名無しさん@また挑戦:2011/05/05(木) 11:09:07.82 ID:???
アメリカ人がハイチをよろこぶのは、ニューヨークから数時間の飛行でアフリカのにほひをかげるためだといふ。
事実ここにはアフリカ的なものが根強く残つてをり、ほんの少数の富裕なインテリの黒人は、さういふ民衆から
隔絶して、ラシイヌやモリエールを論じてゐる。
山の中腹に市がたつてゐて、そこで売つてゐるもののきたならしさにはびつくりした。牛だか、羊だかの腸を
乾燥させたものや、干魚など、それにぎつしりハヘがたかつてゐる。ハヘはまるでなくてはならない薬味のやうに、
金カンに似たカシュウ・ナットにも、小さい青いレモンにも、パンにも、砂糖菓子にもたかつてゐる。黒い豚や
山羊がつながれ、ロバに乗つてくる女もある。
市中でタクシーに乗つてゐたとき、道の途中で手をあげた男が車を止めて勝手に私のとなりへすはり込み、勝手に
行先を命じて、金も払はずに下りてゆくのに私はあきれて、おこる気もしなかつたが、運転手にいはすと、
あれは移民官だから仕方がないといふのであつた。

三島由紀夫「旅の絵本 ポートオ・プランス(ハイチの首都)」より

440 :名無しさん@また挑戦:2011/05/08(日) 15:38:15.78 ID:???
Q――ちやうど三島さんが行つてゐる間、アメリカの人工衛星の失敗とか、それから例のリトルロックの
黒人学生の排斥問題があるんですが……

三島:あの問題は全然国内問題でね、僕は人種的偏見といふ問題については、外から言ふべきぢやないと思ふんだね。
そりやアメリカ人のみんなに会つてみなければわかりませんよ。そして自分の心の中から完全に人種的偏見が
とり去られなければ、どんな政治的な手や法律的な手を打つたつてだめなんで、時間の問題ですね。
日本人の中には黒人がゐないんだから、この問題を感覚的に理解することができない。人種的偏見つていふのは
心理的な問題であつて、外から、民主主義国にそぐはなくてけしからんといふべき問題ぢやない。つまり歴史と
伝統の問題だからね。

三島由紀夫「三島由紀夫渡米みやげ話――『朝の訪問』から」より

441 :名無しさん@また挑戦:2011/05/08(日) 17:20:41.83 ID:???
歌右衛門丈については、すでにたびたび書いた。そのたびに同じやうなことを書くことになるのは、丈に
進歩発展がないといふことを意味しない。たとへば一輪のみごとな大輪の菊や、夕闇にうかぶ夕顔の花や、
さういふものについて何度も書いて、そのたびにちがつたことが書けるわけはない。昼夜二部制興行で一日五役や
六役に変貌しても、俳優といふものは役の背後に全く隠れ切つてしまへるわけではない。あらゆる芸術家の中で、
舞台芸術家は、おのれの肉体的条件、おのれの肉体の檻の中にもつとも決定的にとぢこめられてゐる。顔や声や
体つきが個性を暗示するのにもつとも力があるとすれば、顔や声や体つきにもつとも縛られてゐる俳優なるものは、
いちばん個性的芸術家なのである。たとへば個性といふ見地からは、団十郎や菊五郎のはうが、森鴎外や夏目漱石より
個性的なのである。この私の意見はもつと詳述を要するけれど、今はこのくらゐに止めておかう。

三島由紀夫「豪奢な哀愁」より

442 :名無しさん@また挑戦:2011/05/08(日) 17:25:53.59 ID:???
舞台の芸が時間の経過と共に一瞬一瞬に観客の記憶の中へ組み入れられつつ消え失せてゆくことを思ふと、
われわれは俳優といふ存在に一そう熱狂し、それを失ひたくない思ひにかられる。舞台の上に今歌右衛門丈が
踊つてをり、袖がひらめき、美しい流し目が見え裾の金糸がかがよひ、黒い髪が乱れ……さういふとき、われわれ
観客は自分の全存在を歌右衛門に賭けてしまつてゐるのだが、それといふのも丈が世界中にかけがへのない花だと
いふ意識がわれわれにあるからである。
それは一種の幻覚にすぎないかもしれない。丈がかけがへのない存在なら、お客の一人一人だつてかけがへの
ない存在なのであり、地位やお金や才能の高下があつたところで、だれだつて人間は一人一人かけがへのない存在で、
誰しもそれを知つてゐるから、自分の命が何よりも惜しい。それにもかかはらず、舞台の上の俳優の芸の美しい
一瞬一瞬のためにこちらの存在が空つぽになつてしまつたやうに思へること、これはいかなる魔術であらうか。

三島由紀夫「豪奢な哀愁」より

443 :名無しさん@また挑戦:2011/05/08(日) 17:30:52.72 ID:???
丈の舞台はとにかくそれだけのものをもつて来たのである。芸の些末なふしぶしがどうあらうと、とにかく見て
ゐるわれわれには、今舞台の上に、途方もない贅沢千万な生命の浪費が行はれてゐるといふ感じが来る。生命の
大盤振舞、金に糸目をつけぬ豪奢な饗宴がくりひろげられてゐるといふ感じがまづ先に来る。そしてこの途方も
ない浪費は、まさにわれわれのために行はれてゐることに気づくと、たぐひない満足と喜びが感じられるのである。
咲き誇つた花や、庭に突然舞ひ込んでくる大きなきらびやかな蝶を見るとき「今見ておかねばならぬ。そして今
見てゐるものこそ、幻ではなくて、本当の美の瞬間の姿だ」と思ふやうに、丈の舞台を見てゐるとき、私は
ときどき、自分が一生に何度とない善尽し美尽しの饗宴の只中にあるやうな気がし、又、あの歓楽尽きて哀傷生ずと
歌つた詩そのままの、いふにいはれない哀愁を感じることがある。宴のさかりにほのかに吹いてくる冷たい
夕風のやうなものを感じることがある。さういふ感じを与へるところが、丈の身上なのかもしれない。

三島由紀夫「豪奢な哀愁」より

444 :名無しさん@また挑戦:2011/05/09(月) 15:11:57.09 ID:???
世の中には完全に誤解されてゐながら、絶対に誤解されてゐないといふふうに世間に思はれてゐる人もたくさんゐる。
社会の大半の人はさうだといふこともできるだらう。あの人は磊落で面白い人だ、気分のいい人だ、と言はれて
一生を過した人が、実はとんでもない反対の性格の持主であつたといふこともありうる。僕といふ人間は磊落かと
思ふと神経質、神経質なのかと思ふと磊落に思はれたりする。正反対の両方が世間にまるだしになつてゐる点で、
一番あけつぴろげなのだといへるかも知れない。
普通の社会だつたら人間だけがあつて、それによつて、太つた人は楽天的、痩せた人は神経質といふふうに
思はれたりするが、小説家といふものは、人間があつてその上作品があるのだから二重の誤解の上に立ち、読者は
いろいろな像を描く。その像にすつぽりはまる作家もゐるだらう。(中略)
僕は自分が不機嫌な時、僕の肖像が、僕をきらひな人の描いた肖像にまるで生き写しだと思つて感心することがある。

三島由紀夫「作家と結婚」より

445 :名無しさん@また挑戦:2011/05/09(月) 15:14:44.67 ID:???
(中略)
僕は結婚したら、大変いい御亭主に見えるだらうとすでに云はれてゐる。しかしシャイネンする(ふりをする)
だけでいいのではないか。人間は精神だけがあるのではなくて、肉体がなぜあるのかといふと、神様が人間は
なかばシャイネンの存在だとしてゐるといふことを暗示してゐると思ふ。ザイン(存在)だけのものになつたら、
シャイネンがほんたうに要らない人間になる。それならもう社会生活も放棄し、人間生活も放棄したはうがいい。
どんなに誠実さうな人間でも、シャイネンの世界に生きてゐる。だから僕が一番嫌ひなのは、芸術家らしく
見えるといふことだ。芸術家といふものは、本来シャイネンの世界の人間ぢやないのだから。芸術家らしい
シャイネンといふものは意味がない。それは贋物の芸術家にきまつてゐる。芸術家らしいシャイネンといへば、
頭髪を肩まで伸ばして、コール天の背広を着て歩いてゐるといふのだらうが、そんなのは贋物の絵描きにきまつてゐる。

三島由紀夫「作家と結婚」より

446 :名無しさん@また挑戦:2011/05/09(月) 15:36:07.99 ID:???
よく見てごらんなさい。「薔」といふ字は薔薇の複雑な花びらの形そのままだし、「薇」といふ字はその葉つぱ
みたいに見えるではないか。

三島由紀夫「薔薇と海賊について」より


表題の「薔薇」はどうしても「バラ」ではいけない。薔薇といふ字をじつと見つめてゐてごらん。薔の字は、
幾重にも内側へ包み畳んだ複雑なその花びらを、薇の字はその幹と葉を、ありありと想起させるやうに出来てゐる。
この字を見てゐるうちに、その馥郁たる薫さへ立ち昇つてくる。

三島由紀夫「あとがき(『薔薇と海賊』)」より


世界が虚妄だ、といふのは一つの観点であつて、世界は薔薇だ、と言ひ直すことだつてできる。しかしこんな
言ひ直しはなかなか通じない。目に見える薔薇といふ花があり、それがどこの庭にも咲き、誰もよく見てゐるのに、
それでも「世界は薔薇だ」といへば、キチガヒだと思はれ、「世界は虚妄だ」といへば、すらすら受け入れられて、
あまつさへ哲学者としての尊敬すら受ける。こいつは全く不合理だ。虚妄なんて花はどこにも咲いてやしない。

三島由紀夫「『薔薇と海賊』について」より

447 :名無しさん@また挑戦:2011/05/09(月) 16:09:50.59 ID:???
このごろは、デモ見物に歩くことが多くなつた。デモの当事者からすれば、弥次馬は唾棄すべき存在だらうが、
かういふときには、一人ぐらゐ「見る人間」も必要である。鴨長明が洛中の屍体の数まで、自分手で数へあげて
ゐる態度は、学ぶべきだと思ふ。新聞を見てもテレビを見ても、どうしても報道そのものに主観的態度が入つて
ゐるやうに思はれる。写真や映画は正に実物そのものの筈だが、必ず主観的なアナウンスが入つてゐて、印象を
混濁させる。かうなつてくると、いはゆるマス・コミは却つて不便で、どうせ主観なら自分の主観、どうせ
目なら自分の目を信ずる他はなくなるのだ。私の目だつて大したことはないが、カメラのレンズよりは少しばかり
精巧であらう。

三島由紀夫「同人雑記(『声』)」より

448 :名無しさん@また挑戦:2011/05/09(月) 19:33:51.10 ID:???
日本人には、無意識のうちに、俳句的な感情類型といふものは潜んでゐる。五七五でものを考へ、事物を把握し、
ふとした嘱目の風景を、いつのまにか五七五の形に要約して見てゐるといふことはありうる。小さなもの、
たとへば蝶、蚊、こでまりの花、水引草、……そんなものを見た時ほど、さうである。われわれの目には昔ながらに、
美的な、顕微鏡がついてゐる。
(中略)
私はもう俳句を作ることもできず、その才能もないくせに、日本の季節々々が、かういふ小さな美的理論で、
モザイクのやうにぎつしり詰まつてゐることを感じると、いつのまにか、その理論にきつちりとはまつてゐる自分を
痛感することがある。長い冗々しい長編小説なんか書いて、自分が巨人国の仲間入りをしたやうな気になつてゐて、
ふと気がつくと、それは夢で、もともと親指サムぐらゐな背丈しかなかつたことに気のつくやうなものである。
実際北米ニュー・メキシコ州の、西部劇によく出てくる峨々たる岩山ばかりの、乾燥した空々漠々たる風景などに
触れたとき、私は自分の目のレンズがどうしても合はないのを感じた。

三島由紀夫「蝶の理論」より

449 :名無しさん@また挑戦:2011/05/09(月) 19:44:10.79 ID:???
米国中西部の人は、昔の京都の人のやうに、魚は中毒ると決めてゐて子供のときから食べない習性がついて
ゐるらしく、ニューヨークに住んでも魚(海老さへも)を頑として食はない人がずいぶんゐる。生れてから
肉しか食べたことがないといふのは、人生の半分を知らないやうなものだ。

三島由紀夫「紐育レストラン案内」より


女が自然を敵にまはす瞬間には、どんな流血も許される。彼女の全存在が罪と化したのであるから。

三島由紀夫「『イエルマ』礼讃」より


自信といふものは妙なもので、本当に自信のない人間は、器用なことしかできないのである。

三島由紀夫「武田泰淳氏の『媒酌人は帰らない』について」より


大体、作家的才能は母親固着から生まれるといふのが私の説である。


人生が最悪の事態から最善の事態にひつくり返つたときのおそろしい歓喜といふものは、人の人生観を一変させる
ものを持つてゐる。

三島由紀夫「母を語る――私の最上の読者」より


450 :名無しさん@また挑戦:2011/05/09(月) 19:46:41.63 ID:???
退屈な人間は狂人に似てゐる。

三島由紀夫「大岡昇平著『作家の日記』」より


もし空想科学映画狂を子供らしい悪趣味と仮定するなら、私は大体において、実生活においても完全に「良い
趣味」を持してゐる芸術家といふやつは、眉唾物だと思つてゐます。


どう考へても、空飛ぶ円盤が存在するといふことは、東山さんの絵や小生の小説が存在するのと同じ程度には、
確実なことではないでせうか。又もし空飛ぶ円盤の存在があやしげだといふのなら、この世における絵や小説の
存在もあやしげになるのではありますまいか。

三島由紀夫「『子供つぽい悪趣味』讃――知友交歓」より


悪の定義は、無限軌道をゆく知性の無道徳性から生れてをり、知性の本来的宿命的特質が、極限の形をとると、
おのづから悪の相貌を帯びるのである。

三島由紀夫「人間理性と悪――マルキ・ド・サド著 澁澤龍彦訳『悲惨物語』」より


人が愛され尽した果てに求めることは、恐れられることだ。

三島由紀夫「芥川比呂志の『マクベス』」より

451 :名無しさん@また挑戦:2011/05/10(火) 10:42:47.34 ID:???
やつぱり僕は日本の女の人、好きだよ。だつて、いざとなりや、親切だもの。ほんと、親切ですよ。ずいぶん
意地悪なこと言つても、結局、親切だもの。
外国の女性はね、友達になつても、日本人みたいに人情が通じないしね、第一、ソバカスが出てて気味が悪いもの。
それにみんな巨きい女つて嫌ひなんだ。(中略)
僕の女の友達、いつぱいゐるけどね、みんな口が達者で、お互に悪口ばつかり言つてて、僕なんかボロクソに
やられてゐる。三文文士扱ひでね、まづ着てるものを全部ケナすんですよ。「趣味の悪いセーターを着てる」とか、
「その頭の格好は何さ」とか「クツシタがなつちやゐない」とかね。さうして「一緒に歩くの恥づかしい」なんて、
サンザン言ふんだ。だけど、その口の悪い友達がね、この間、僕のおふくろが病気で入院したら、三島さんが
さぞ困つてゐるだらう、ショックを受けただらうと思つて泣いたつていふんだな。あとでその話を聞いてね、
僕はちよつとホロリとするんですよ。
僕はヘンな性質があつてね、けんくわ相手みたいなのが好きなんだ。けんくわ相手で時どき親切つていふのが
好きなんです。

三島由紀夫「僕の理想の女性」より

452 :名無しさん@また挑戦:2011/05/10(火) 10:46:16.91 ID:???
(中略)
僕に文学的な興味を持つて僕のお嫁さんになりたいといふ人とは、僕は結婚したくない。さうして非常に
むつかしいことだけど、僕に一人の亭主、一人の夫だけを感じてくれる人と結婚したい。僕は文学的な意見といふ
ものを、身近な人から言はれるのがこはいんです。たとへばヘンな話ですがね、新聞小説を書いてて、家の者に
“つまんない”つて言はれることが、一番いやなんだ。世間の人が“つまんない”つて言ふのはいいけれども、
自分の近所から言はれるの、とつてもいやですね。まして自分の奥さんがさういふことを言ひ出したら、
たまらないだらうと思ふ。
(中略)
それからね、タイプとしては、僕は自分の顔が長いんで、まるいはうがいい。うちの両親みたいに、両方とも
顔が長くつちや、優生学上よくない。僕みたいな子供ができちやふんだ。その僕の所へまた長い顔の奥さんが
来たら、馬がシルクハットかぶつたやうになつちやふ。
僕は可愛いタイプが好きだから、しつかり者で可愛いといふのは、無理なやうだけど、そんな人、ゐないわけぢや
ないと思ひます。
(談)

三島由紀夫「僕の理想の女性」より

453 :名無しさん@また挑戦:2011/05/16(月) 15:06:57.52 ID:???
人間の肉体の可視的な美は、せいぜい二十代で終つてしまつて、あとは凋落の一途を辿るだけであるから、
それからの人間は仕事や知恵や精神に携はらなければならぬ。精神の営みの未成熟な若い人の上に起る死は、
病死であれ自殺であれ、結局肉体が滅びるだけのことである。精神や知性の声がそこで途絶えるといふのではなく、
若い美しい肉体が急に音を立てなくなつて、動かなくなつて、腐朽するといふだけのことである。青年の死は
かくて、どんなに哲学的な遺書を残さうとも、要するに一箇の肉体的事件なのである。青年が精神的と考へる
あらゆる問題が、より深い意味では、純粋に肉体的な問題にすぎぬといふ考へは、私が自分の青年時代を経て
到達した頑固な確信であつて、昨今の心中事件を見ても、この確信を変へることはできない。
しかし、私は若い人を蔑するのではない。年を重ねるとともに、人は純粋な肉体上の死が不可能になる。
さうなつてからの自殺や心中を醜い、と私は言ふのである。

三島由紀夫「心中論」より

454 :名無しさん@また挑戦:2011/05/16(月) 15:10:38.88 ID:???
私は若い人の心中を美しいとする日本人特有の偏奇な美意識から出発して、いつのまにか、若い人の心中に一種の
精神の勝利を見ようとする日本人に共通な感覚と背馳してしまつてゐる。事実、私はかれらの心中に、精神の
勝利などといふものをみぢんも感じることができない。精神といふものは頑固に生き永らへ、頑固に老い、頑固に
形成しようと志向するものであつて、それだからこそ精神は、人間の永い歴史に亘つて、頑固に「生命の代理」を
つとめて来たのである。青春時代をすぎて、生命がその真の活力と魅力を失つた時になつて、あたかも別の生命が
動き出したやうに、精神が生命の働きを模倣しつつ働き出し、生命を凌駕するまでに至るのである。これを
知つてゐたギリシャ人は、人間精神のあらゆる形態を、青年の肉体の彫像で象徴し永遠化しうると考へて、
それに成功した。
(中略)
精神といふものは、多分、起源的には男性の専有物であり、男性の武器であつたが、その武器によつてまた自ら
傷つけられて、精神が孤立して、女性の領分である大地から絶縁される憂目にも会つたのであつた。

三島由紀夫「心中論」より

455 :名無しさん@また挑戦:2011/05/16(月) 15:14:43.39 ID:???
……さて、私が心中を単に肉体的事件だと云つたのは、低い官能的な意味で云つたのではない。私は、それが
精神上の事件ではなく、女性的な情感的な世界の出来事だといふことも、籠めて云つたつもりである。ところで、
日本では男ですら、大部分がかうした女性的情感的な世界に好んで住んでゐるのである。浪花節やヤクザの
勇ましさは、実は極度に女性的情感的なものである。一方、芸術といふものは、半ば男性的半ば女性的なもので
あつて、といふよりは、一般の平均水準から云ふと、百パーセント男性的なものに、百パーセント女性的なものを
混淆して出来上つてゐるので、純粋に精神と知性だけの制作にかかはるものではない。芸術は、日本では、殊に、
女性的、情感的、肉体的、官能的なものへの嗜好を充たすやうに要請されてゐる。それが心中といふやうな
ティピカルなその表現を見のがすわけがない。かくて近松の有名な心中物の傑作が生れ、もてはやされて来たので
あるが、そこでは常に、男性の理念が、女性の情念に屈服し敗北する、同じ主題が語られてゐる。

三島由紀夫「心中論」より

456 :名無しさん@また挑戦:2011/05/16(月) 15:17:21.92 ID:???
(中略)
肉体といふものが本質的に滅亡の論理をもち、精神がその対蹠物として据ゑられて、永遠への志向をもつといふのは、
キリスト教や仏教を問はず、あらゆる宗教の前提であつた。
日本人にはかういふ宗教的情操に加ふるに、一種の美的な思考があつて、肉体の持つてゐる滅亡の論理そのものを
美化して、崇敬の対象にしようとする傾きがある。日本人の自殺讃美には、かくて、人間意志の悲劇といふものが
欠けてゐて、自殺や心中といふ人間意志の行為そのものさへ、実にあいまいな形態を帯びるのである。
たとへ自殺や心中をしなくつても、自己破壊が青春の本質的衝動なのであるが、それは青春なるものが「肉体的
状態」であるといふことをしか意味しない。かうした肉体的状態に突如として「永遠」を継木して、自分たちの
清純な恋愛の永遠性を保証しようといふのは、思へば無謀な論理であるが、こんな無謀な論理からしか、心中の
美しさが生れないことも事実なのである。

三島由紀夫「心中論」より

457 :名無しさん@また挑戦:2011/05/16(月) 15:25:12.75 ID:???
若い人の清純な心中が、忽ち伝説として流布され、「恋愛の永遠性」や「精神の勝利」の証左にされるのは、
少なくともこのやうな架空の幻影のために彼らが身命を賭したといふ誠実さの証拠にはなる。といふのは、
「恋愛の永遠性」や「精神の勝利」なるものは、生きてゐようが、自殺してみようが、心中してみようが、
青春といふ肉体的状態にとつては不可能な文字なのであつて、青春のあらゆる特質と矛盾する性質のものであるから、
それゆゑに、さういふものは美しいのである。精神や永遠に身自ら近づきかけてゐる年齢の人たちの心中が醜くて
不潔に思はれるのは、正にかれらの内部にこそ、生きながら、精神や永遠性への志向が、期待されてゐるから
なのである。かういふ点では、私は、世間の成人たちが若い人たちに対して抱いてゐる甘つたるい幻影に全く
与しない。
ところで心中の美しさといふものも、全く幻影的なものである。文楽の人形で見たつて「知死期」の苦悶は
いいかげんグロテスクな見物であるが、人間の死にざまがそんなに美しからうはずがない。

三島由紀夫「心中論」より

458 :名無しさん@また挑戦:2011/05/16(月) 16:12:50.78 ID:???
(中略)
大体心中や自殺が人里離れた場所を選ぶのは、死をできる限り「主観的な」事件にしたいといふ欲望からであらう。
他人の目はその死を客体に化してしまふ。恋人の目だつて、他人の目にはちがひないのであるが、心中が自殺と
ちがふ点は、やはりお互ひがお互ひの死を眺め、主観的な死と客観的な死を同時に味はひ得るといふ点にあらう。
いや、一人きりの自殺ですら、ある人々はビルの屋上から人通りの多い路上に身を投げて、自分にとつては全く
主観的な死を、すぐさま客体化したいといふ熱烈な野望に燃えてゐる。
(中略)死を決行しようとするとき、孤独の本源的な意味に触れて、死のみならず生そのものも完全に孤独で
あるといふ結論に到達するには、ある弱さがその妨げをなし、心中といふ形に落着くこともあらう。(中略)
純粋自殺といふものが机上の空想であるなら、自殺の中でもどうやら一等純粋性のあいまいな心中だつて、
悪いことはあるまい。そこではあくまでも物事が相対的であつて(中略)死の客体化の欲求をも充たし、欲張りで、
贅沢で、消費的で、……要するに人智の編み出した一つの技術である。

三島由紀夫「心中論」より

459 :名無しさん@また挑戦:2011/05/23(月) 11:37:09.06 ID:???
風俗は滑稽に見えたときおしまひであり、美は珍奇からはじまつて滑稽で終る。つまり新鮮な美学の発展期には、
人々はグロテスクな不快な印象を与へられますが、それが次第に一般化するにしたがつて、平均美の標準と見られ、
古くなるにしたがつて古ぼけた滑稽なものと見られて行きます。


形容詞は文章のうちで最も古びやすいものと言はれてゐます。なぜなら、形容詞は作家の感覚や個性と最も
密着してゐるからであります。(中略)しかし形容詞は文学の華でもあり、青春でもありまして、豪華な
はなやかな文体は形容詞を抜きにしては考へられません。


文章の不思議は、大急ぎで書かれた文章がかならずしもスピードを感じさせず、非常にスピーディな文章と
見えるものが、実は苦心惨憺の末に長い時間をかけて作られたものであることであります。


ユーモアと冷静さと、男性的勇気とは、いつも車の両輪のやうに相伴ふもので、ユーモアとは理知のもつとも
なごやかな形式なのであります。

三島由紀夫「文章読本」より

460 :名無しさん@また挑戦:2011/07/21(木) 12:10:16.54 ID:???
>>236の前
(中略)
鬼子母神は、子をとらへて喰ふ罪業を拭はれて、大慈母となるのであるが、氏のエロスの本質を探つてゆくと、
この鬼子母神的なものにめぐり当る。(中略)女性とは、氏にとつて、このやうなダブル・イメーヂを持ち、
慈母としての女性の崇高な一面は、亡き母に投影され、一方、鬼子母的な一面は、ナオミズムの名で有名な
「痴人の愛」の女主人公に代表されるのであるが、後者ですら、その放埒なエゴイズムと肉体美が、何か崇高な
ものとして崇拝の対象になつてゐる。そして、女性のこの二つの像が、最晩年の「瘋癲老人日記」の主人公の
極楽往生の幻想のうちに、見事に統一されてゐると考へられる。
前者の女性像を中心とした「刺青」「春琴抄」「鍵」と、後者、すなはち母のイメーヂを中心とした「母を恋ふる記」
「少将滋幹の母」の、二系列のうち、谷崎文学を語るときに、後者の系列も決して無視することはできない。

三島由紀夫「谷崎潤一郎について」より

461 :名無しさん@また挑戦:2011/07/21(木) 12:15:37.88 ID:???
なぜならそこでは、女性に対するもつとも浄化された愛が唱ひ上げられ、通例の意味の恋愛小説といふ点では、
却つてこの系列のはうが恋愛小説らしいからである。しかし、それでは慈母の像に全くエロスの影が認められぬかと
いふと、さうとは云へないところが谷崎的である。ただ、母のエロス的顕現は、意識的な欲望の対象としてではなく、
無意識の、未文化の、未知へのあこがれといふ形でとらへられるので、そのとき主体は子供でなくてはならない。
(中略)
かういふ母性への醇化された憧れに、たまたま肉慾がまじつて来ると、忽ち相手の女性は転身して、「刺青」や
「春琴抄」の女主人公のやうな、美しい肉体のうちに一種の暗い意地悪な魔性を宿した、谷崎文学独特の女に
なつて来るところが面白い。しかし、仔細に見ると、これらの女性の悪は、女性が本来持つてゐる悪といふよりは、
男によつて要請され賦与された悪であり、ともすると、その悪とは、「男性の肉慾の投影」にすぎないのでは
ないかと思はれるのである。

三島由紀夫「谷崎潤一郎」より

462 :名無しさん@また挑戦:2011/12/10(土) 17:34:04.02 ID:???


463 : 【31.2m】 電脳プリオン ◆3YKmpu7JR7Ic :2012/06/24(日) 13:20:15.08 ID:??? ?PLT(12079)
2は使い切らないのか

464 :名無しさん@また挑戦:2012/10/19(金) 06:46:30.15 ID:B9lAJFUV
ttp://photozou.jp/photo/show/2819159/153010030

( ´∀`)ノ


465 : 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:8) :2013/06/17(月) 00:45:41.40 ID:???
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466 : :2013/06/17(月) 01:50:20.56 ID:???
 

467 : 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(5+0:8) :2013/06/28(金) 00:58:15.37 ID:???
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468 : :2013/06/29(土) 00:25:51.41 ID:???
 

469 : 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(6+0:8) :2013/07/03(水) NY:AN:NY.AN ID:???
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470 : 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(7+0:8) :2013/07/04(木) NY:AN:NY.AN ID:???
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471 : 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(8+0:8) :2013/07/05(金) NY:AN:NY.AN ID:???
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472 : 忍法帖【Lv=16,xxxPT】(8+0:8) :2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN ID:???
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473 :名無しさん@また挑戦:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN ID:???
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474 : 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(8+0:8) :2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN ID:???
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475 : 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(8+0:8) :2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN ID:???
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476 : 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(5+0:8) :2013/07/21(日) NY:AN:NY.AN ID:???
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477 : 忍法帖【Lv=17,xxxPT】(4+0:8) :2013/07/21(日) NY:AN:NY.AN ID:???
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478 : 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(7+0:8) :2013/07/22(月) NY:AN:NY.AN ID:???
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479 : 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(8+0:8) :2013/07/23(火) NY:AN:NY.AN ID:???
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480 : 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(8+0:8) :2013/07/24(水) NY:AN:NY.AN ID:???
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481 : :2013/07/24(水) NY:AN:NY.AN ID:???
 

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